泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
無断で記事を転載される方がありますが,必ずご一報下さい.

ニュルンベルク紀行(6)~国立ゲルマン民族博物館(viii)~おわりに

2011-02-19 20:51:07 | 海外の美術館
 本館の最後に,駆け足で写真に収めたものをご覧ください.国立ゲルマン民族博物館のサイトは今日現在未だ殆どドイツ語ですが,英語版はcoming soonとのこと,ご期待ください.


左:左の器はニュルンベルクのメルキオール・バイエルが1534/6年に製作した器でMelchior Pfinzing(1481-1535)の肖像のメダイヨンが蓋に描かれている.右のMilon von Kroton貝型深皿はやはりニュルンベルクのクリストフ・ヤムニッツァーが1616年に製作したもので,オリンピック競技者が子牛のような動物を背負った上に貝皿が乗るが,このモチーフで忍耐と力を表しているらしい.
中:ネプチューン ベネディクト・ウルツェルバウアー ニュルンベルク・1600年頃 海神は井戸の装飾としてよく製作された.このブロンズ像も筋肉質で体をひねり,海豚に乗っている.ウィーンには,ポモナ・セレス・ヴィーナス像があるらしいが,四体で地水火風を表すという(私見では四季かも知れないとも思うが).
右:「救済の真理のアレゴリー」楓板 ヴュルツブルク・1534年 キリスト教徒の人生を永遠の神の土地を目指す危険な航海として描いたレリーフ


左:「ソロモンとシバの女王」のタペストリー(部分) 新教徒の織物業者は宗教的理由から1550年頃にはネーデルラントを離れ,その一部は北ドイツとくにWismarに移住している.この作品も同市で1555/60年頃製作されたと考えられている.
中:1517年の年期があるステンドグラス.斬首された聖人のモティーフは生々しい.
右:唯一展示を見かけることができた楽器はHurdy-gurdyハーディガーディ これはギター型で18世紀半ば,多分フランス製.中世には尊ばれたが,のちには盲人の乞食が田舎で良く演奏していたらしい.バグパイプとともにフランス宮廷でバレエやオペラの伴奏にも用いられたそうだ.


左:18世紀初期のHirsch Apothecary(薬局) 中・右:薬草などなど


左:金器・銀器のコレクション たぶん17世紀が中心で,ニュルンベルクやアウグスブルクはその製作拠点であった
中:16~18世紀の鍵のコレクション これもいかにもドイツらしい.
右:展示ケースの照明以外は暗闇.人もいないので下階の遺構がやや不気味.


左:階段を下りて武具の展示ホール(0FのE)        中:中世の回廊の再現か,長い長い!                    右:Cafe Arteにて,やっと一息


左:結局あとでフロアマップを見直すと,1FのE→A→B→Cと回って,0Fに降りそのEを見たあと,まっすぐ狭い通路を入り口に戻ったようだ.1FのDには18~20世紀の装束の展示が,0FのAには紀元前から6世紀頃までの遺物,Bは15世紀までの工芸品など,Cは本館の中核となる中世遺物,Dは中世後期の絵画・彫刻など,Fには楽器の歴史の展示,19世紀後半の美術工芸品の展示があったのだが,見ることが出来なかった.さらに2F・3Fでは20世紀と19世紀の文化・美術の展示,Sの別館には16世紀以降の玩具と遊戯品の展示もあったらしい.
 聞くところによるとリーメンシュナイダーの彫刻や美しの泉の原型彫刻なども展示されているそうで,また次の機会,今度は緑の季節に訪問したいものである.
右:掲載を忘れていたのだが,ピーテル・ブリューゲルの息子達(ピーテルII世かヤンI世)のいずれかに帰属される1590年頃の「農民の結婚の宴」の板絵があった.

ニュルンベルク紀行(6)~国立ゲルマン民族博物館(vii)~17世紀オランダ絵画

2011-02-13 17:21:49 | 海外の美術館
 ゲルマン民族は大移動の前から現在のオランダ地域にも定住しており(ゲルマニアの一部としてバタヴィアと呼ばれた),ライン川以南のガリアから低地ゲルマニアはローマ帝国に征服されたが,その後,ゲルマン系のフランク王国の支配に遷る.800年のカール大帝の戴冠,さらにその分裂後の東フランク王オットーI世(ザクセン朝)の962年の戴冠が神聖ローマ帝国の成立とされるが,13世紀にはホラント・ゼーラント・エノー・ヘルダーラントの各伯領とユトレヒト司教領は神聖ローマ帝国に属し,14世紀には一部がバイエルン候の領土になったこともあった.その後,ネーデルラント(オランダとベルギー北部の総称)はブルゴーニュ公国領となるが,15世紀後半にシャルル豪胆公の娘が後の神聖ローマ皇帝にしてデューラーを庇護したマクシミリアン1世に嫁いだことからハプスブルク家の神聖ローマ帝国領となり,16世紀の圧政と旧教政策に対して新教共和国の独立気運が高まる中で17世紀を迎えた.この様な背景で,本館にも17世紀オランダ絵画は少なからず展示されており,この中にはレンブラントの作品2点が含まれている.


左:オランダ絵画は歴史画と風俗画のコーナーから.
中:レンブラント「自画像」1629年(Corpus I A21) マウリッツハイスの作品と同構図であるが,それは修正なく描かれているのに対し,本館の作品には製作中の変更があることなどから,10年ほど前にこちらがレンブラントの真筆と判明した筈である.
右:同「書き物机の前の聖パウロ」1628/9年 同時代の「アトリエの画家」(ボストン美術館)や「エマオのキリスト」(ジャックマール・アンドレ美術館)同様,隠された光源に主題や隠蔽物が浮かび上がる構図である.


左:レンブラント作品のある展示室の風景 オランダの黒縁額で統一されている
右:ベンジャミン・ヘリッツ・カイプ アルベルト・カイプの叔父で,レンブラントから影響を受け,強いキアロスクーロの効果と褐色に限定された色調を用い,荒い筆遣いというのは下層階級の風俗を描くときの常套手段であるが,カイプはカード遊びやさいころ投げに興じる兵士を描くことによって放埒さを警告している.


左:エサイアス・ファン・デ・フェルデ「荷馬車の待ち伏せ」1626年 彼は17世紀オランダ風景画の創始者の一人であり,母国オランダの低地を空間的にとらえて写実的に表現しようとした.ここに描かれているのは商人の交易路の危険性を強調するような画面である.
中:ヤーコプ・サロモンスゾーン・ライスダール「家畜の群れのいる風景」(1650年代?) 「小ヤコブ」と呼ばれたりするが,偉大なヤーコプ・イザクスゾーン・ライスダールとは従兄弟である.父のサロモンの初期写実派の流れを汲んで,画面はよりコントラストが強く彩度もやや強めの硬い作風が特徴的である.
右:アラート・ファン・エーフェルディンゲン「滝のある風景」 オーク板・1640年代後半 オランダは低地地方なので山の景色は望み得ないが,彼は北欧を旅してスケッチを残し,それをもとにアトリエで山岳風景を好んで描いた.偉大なライスダールとともに,このタイプの風景画の発展に寄与した.


左:ヤン・ボト(?) 「イタリア風風景」 ボトは親イタリア派風景画の大家であるが,この作品はBurkeによるボトの作品集(1976)には掲載されておらず,編纂者が後に見たところ「ボトの可能性が高い」と語ったらしいが,Trnekによると「構図・木の(葉の?)描き方・草の茂った前景などはWillem de Heusch,人物はDirck Stoopの可能性を考える」とのことらしい.
右:ピーテル・デ・ホーホ 「語らい」 画布・1663/5年頃 デ・ホーホの描く日の差し込んだ室内風景には何らかの道徳的意味が表現されている.鑑賞者は若い男女の下品な恋の戯れの証人となろう.これに対し,奥の部屋で裁縫をしている女性は美徳を表している.


左:ピーテル・クラエツゾーン「自画像のある静物(ヴァニタス)」1628年頃 ここに描かれている事物は,ガラス球(凸面鏡・世界/視覚)・オイルランプ(消える)・バイオリン(ひとときの音楽/聴覚)・時計(時間)・レーマー杯(中身は無くなりガラスは割れる/嗅覚ないし味覚)・割れたくるみ(味覚ないし触覚)・羽ペンと書物(文字や言葉/触覚)・髑髏(死)といったヴァニタス,すなわちはかなさのシンボルであるが,解説には無かったものの五感の象徴でもあるようだ.左のガラス球に反射した自画像が描かれている.

 続いて,オランダはハーレムのマニエリストの作品である.時代が戻ってしまうが,展示順に掲載するとこのようになってしまった.
右:コルネリス・ファン・ハーレム 「スザンナの水浴」1590年頃 画布 二人の長老が水浴中のスザンナを盗み見て手篭めにしようとする旧約聖書の場面である.ハーレム独特の肌の白さが際立った作品であるが,マニエリストとして,誇張されねじれた肢体にスザンナのつよい嫌悪感をあらわにして仕上げている.


左:ヨアヒム・ウテワール「大洪水」1590/1600年頃 オヴィディウスの変身物語に基いているが,ノアの箱舟を描くというよりも,決壊した濁流に飲み込まれようとする人々の恐怖を描いている.ハーレムの作品と同様,これらをみると北方のマニエリストの肉体表現がよく理解できよう.
右:「紅海渡渉」フレデリック・ファン・ファルケンボルフ 画布・1597年 この作品は同館の1995年版図録"Die Gemaelde des 17Jahrhunderts im Germanischen Nationalmuseum"には掲載されていない.ファルケンボルフはアムステルダムからフランクフルトに移住しているので,オランダとドイツのどちらに含めるか困難もあるが,その後の作品としては前頁を参照されたい.ここでは歴史画に求められる高い表現力に応えて,イタリア絵画の人物表現とフランドル・オランダ絵画の細密な風景表現の融合を見ることが出来る.このような様式の作品は1600年前後にフランドル出身でハーレムに居を構えたカレル・ファン・マンデルや,同主題は後年フランツ・フランケンII世なども描いている.画面左には海に巻かれるエジプトの兵隊達,その右に描かれているのが多分モーゼであろう.画面右に向かって,しかし,なんとおびただしいイスラエルの民の数であろうか.

ニュルンベルク紀行(6)~国立ゲルマン民族博物館(vi)~17世紀ドイツ絵画

2011-02-10 20:21:18 | 海外の美術館
 神聖ローマ帝国は1254年のホーエンシュタウフェン朝断絶の後20年の大空位時代を経て,160年間は選挙で皇帝の家門が変わったが,1438年からハプスプルグ朝を迎える.1576年から35年間帝位に着いたルドルフII世は政治は棚上げの感があったが,ウィーンからプラハに宮廷を移し芸術を庇護して,絵画などの蒐集家としても名を馳せた.


左:ハンス・フォン・アーヘン 「ルドルフII世の肖像」 1600年頃 16x12cm 1cm厚の下地塗無しのアラバスター(雪花石膏)上に描かれた細密肖像画である.裏面にはトルコ戦争のアレゴリーが描かれている.
右:バルトロメウス・スプランヘル 「アポロとパンの競演」(またはミダス王の審判) プラハ・1587年頃・板40x133cm 中央の王冠をつけたミダス王がアポロのヴィオールではなくてパンの葦笛に勝利を宣言する場面.このあとミダス王はアポロに罰を受けて耳がロバになるというオヴィディウスの変身物語によっている.この横長の特異な板絵は,ヴァージナルの飾り蓋として使用されていたという.


左:ルーラント・サーフェリー 「バベルの塔」 1602年・銅版 径23cm このように円形の支持材に描かれたものをtondoトンドと呼ぶ.バベルの塔はピーテル・ブリューゲル父の大小作品が有名であるが,主に16世紀末~17世紀初頭のフランドル出身の画家によって描かれており,このような小品で細密画的作品も少なからず存在する.サーフェリー家はフランドルの出だったが,宗教的理由でオランダに移住している.初期の写実的な静物画のほか,ハンス・ボルの流れを汲む装飾的で細密な作風で動物達のいる風景を描いたが,その異国の動物は1603年からの10年間所属したルドルフの宮廷において描写することが出来た.
 アーヘン,スプランヘル,サーフェリー,さらにアルチンボルトらの画家はルドルフII世の宮廷に集まった画家である.

中:フレデリク・ファン・ファルケンボルフ 「嵐」 ニュルンベルク・1621年・菩提樹の板 ファルケンボルフはアムステルダム生まれで20歳でフランクフルトに出,1602年にニュルンベルクに移り住んだ.劇的な光の効果の中に自然の驚異から教会に逃げ込む民衆を描いている.フレデリクの伯父のルーカスも画家で,バベルの塔を反復して描いている.
右:ヨハン・ケーニヒ 「森の池の風景」 アウグスブルク・1620年頃・銅版 アダム・エルスハイマーが描いた細部にこだわった風景に触発された風景画であるが,ケーニヒは人物を排して自然のみを理想化して描こうとした.


左:ヨハン・リス 「喧嘩する農民たち」 ヴェネチア・1616/19年頃・画布 彼はドイツ出身の画家でオランダで修行してから,ヴェネチアやローマで活躍した.オランダ風というよりも自由な筆遣いや構図による躍動感が持ち味で,光のコントラストにカラヴァッジョの影響が見て取れる作品も存在する.
中:ミハエル・L・ヴィルマン 「スザンナと老人たち」 1650/53年頃・オーク板 ヴィルマンはケーニヒスベルクで修練した後,アムステルダムでレンブラントやバッケルの表現を学んだ.褐色調の闇の中に浮かび上がる表現にその影響を見ることが出来る.
右:作者不詳 「Johann Georg Volckamerの肖像」 1686年以降 フォルクカーメルは医者だったので,卓上に1543年初版のヴェザリウスの解剖学書「ファブリカ」"De Humani corporis fabrica"(人体の構造)を配し,隣に置かれた天球儀(ペガサス座がはっきりと描かれている)も円筒型日時計も科学者・哲学者であることを示している.

 このようにみてくると17世紀のドイツ絵画はさびしい感をまぬがれない.これは,マニエリズム絵画がルドルフの頃開花をみたものの,1618年に勃発した三十年戦争のためその後のドイツ国内の芸術はさほど発展をみず,バロック期には傑出した画家を輩出できなかったためである.最後に掲げる作品はJohan Michael Bretschneiderによる「1702年の絵画ギャラリー」(195x342cm).ドイツ語を読み間違えていなければ,プラハ城の絵画展示室らしい.中央に天球儀があるのは時代背景か.


ニュルンベルク紀行(6)~国立ゲルマン民族博物館(v)~木版本からインキュナブラへ

2011-02-05 17:03:00 | 海外の美術館
 15世紀のドイツは出版の中心地であった.ライン流域のマインツで活版印刷が産声をあげて以降,1470年までに上流のストラスブール,下流のケルン,あるいは南ドイツはバイエルンのバンベルク・ニュルンベルク・アウグスブルク,イタリアにはヴェネチア・ローマといった都市に印刷職人が定住していったが,インキュナブラ(1500年までの初期活字本,揺籃本とも訳す)の出版において,その後に隆盛を極めたルネサンスの本場イタリアの4割に次いで,ドイツは3割を占めている.


左から順に,「知恵の塔」15世紀後半:木版で,美徳や精神修練の言葉が建物の部分に割り当てられている.最下段の文章は「下から上へアルファベット順に読むべし」.テキストと図像は同一版面に彫られている(xylogrphic).
「福音書記者ヨハネの生涯」1465/70年:木版本(Blockbuch)の一枚で,上段に石が金に変容する場面が左から右に,下段にはダイアナ神殿の崩壊の場面が描かれている.
「祝福のSuso」1479/80年:薔薇を持つ幼子イエスや着物を着た犬などは聖ドミニコの幻視を示すらしい.図版と下のテキストは別の版木に彫られていて,テキスト部分はラテン語やドイツ語など置き換えが可能であったらしい.この方法でより多くの読者に普及して行った.
「聖クリストフォルス」Lienhart Isenhut著 バーゼル 1480/90年:初期の木版本と違い,このテキストはグーテンベルクの発明した金属活字で印刷されており,文頭は装飾された大文字.


インキュナブラの嚆矢として,左:グーテンベルク42行聖書の原葉 マインツ 1450/55年:世界初の活版印刷本1282頁のうちの一枚.180部作られ,本の形では48/49部現存しているらしい. 右:フストとシェーファーによる48行ラテン語聖書の原葉 マインツ 1462年 グーテンベルクよりも小さな活字を利用し,聖書は私的なものになっていった(双方とも二折りのロイヤル・フォリオで紙面は同一サイズの大型.画像の拡大率は異なる).


コベルガーのドイツ語「聖書」より,原罪と楽園追放 Anton Koberger著 ニュルンベルク 1483年
コベルガーはそれ以前にラテン語聖書を出版していた.この聖書には木版による109の図版が使用されているが,それらは数年前にケルンで出版された聖書のために作られたものを流用している.ただし,この本では彩色の美しさが傑出しており,この博物館でも白眉であるらしい.


Liber Chronicarum 「(ニュルンベルク)年代記」ないし「シェーデルの世界史」 Hartmann Schedel著 ニュルンベルク 1493年
 この本はシェーデルがラテン語でテキストを書き,ヴォルゲムートとプレイデンヴルフが木版で挿絵を製作し,コベルガーが出版した大家の共同プロジェクトである.創世記に始まる世界の歴史を聖書の解説から1492年までの歴史的出来事まで綴っているが,そのために初期の印刷本としては異例の1809の挿図を使用したことが注目に値する.
左:天球5v(5枚目の裏のこと) 天地創造の第7日で,中心に地球があり,元素・月・水星・金星・太陽・火星・木星・土星・十二宮・天の星座を示す球体の上に神が天使に囲まれて鎮座している.四隅には四大風の擬人化.
中:世界地図12v-13r 周囲には十二の風が擬人化され,三隅にノアの子であるヤフェトJafet・ハムCam・セムSemが三大陸の民の祖先として描かれている
右:エルサレム17r 同都市の景観図で,中央のソロモン神殿や岩のドーム,三重城壁に多数の門が描かれている. 


左:死の舞踏261r ヨハネ黙示録に予言された世界の終末で,死者が復活して喜び踊る様を示す.解剖学的には骨盤が変ですね.右の女性の骸骨からは腸がはみ出ているし....
中:教皇ピウスII世(1458)と皇帝フリードリヒIII世268r
右:ニュルンベルクの都市景観図99v-100r

ニュルンベルク紀行(6)~国立ゲルマン民族博物館(iv)~ドイツ・ルネサンス絵画

2011-02-02 20:52:48 | 海外の美術館
 続いて油彩画の部屋へ.始めはやはりドイツ・ルネサンス絵画,アルブレヒト・デューラーから.


左:師である画家Michael Wolgemutの肖像 1516年 29x27cm 板に油彩 右上にはデューラー自身による書込み.右目にはデューラーに特徴的な窓枠の輝点が認められる.こめかみにかけての怒張した静脈などはリアリズムの極致であろう.
右:カール大帝の肖像と皇帝ジギスムントの肖像 1511年 各215x115cm 菩提樹の板に油彩 市議会の発注で中央広場に面するHeiltumskammerの扉絵として制作された.両帝とも左手にはキリスト教世界を表わす帝国宝珠(皇帝のリンゴともいうらしい)を持つが,右手にはカール大帝は剣を持ち,ジギスムントは王錫を持つ.紋章の描込みにも影響されるが大帝の方が大きく描かれている.

左:上記両帝の肖像画の裏面 実際にはこのように空間を挟んで並べられている
右:怪鳥ステュムパリデスを退治するヘラクレス 1500年 画布 この作品は保存の関係から色あせてしまっているが,ヘラクレスを背面から描く構図は古代ギリシアの画家アペレス[当時デューラーはアペレスに准えられていた]の作品に基づき,自身の顔をヘラクレスに重ねているらしい.

 次に重要な画家はルーカス・クラーナハ.父子ともに画家であるが,父(1472-1553)のほうが重要.以下,父の作品.

肖像画を多く残していて,同様の工房作品も多い.右から友人のルター,Gregor Bruck博士,宮廷画家として三人のザクセン選帝侯の連作(1532年)  人相の悪い面々が多いのは・・・


左:一見,ドイツ美人の肖像画であるが,じつは「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」だった作品.あまりに生々しいので首の描かれていた下半分が後世切り落とされた.
中:蜂蜜をとろうとして刺されるキューピッドを嗜めるヴィーナス(1537年頃) このような細身の女性像が特徴的.
右:クラーナハ子による「サウロの改心」


参考
左:ブダペスト国立美術館所蔵の87x58cmのポプラ材に描かれた同題作品(1530年頃)のほうがクウォリティは高い.ゲルマン博物館の所蔵品は工房作かもしれない.
右:「ヴィーナスに不平を言うキューピッド」順に1530年 ロンドン・ナショナルギャラリー81x55cm,1531年 ブリュッセル王立美術館176x80cm,1531年頃 ローマ・ボルゲーゼ美術館 ヴァリエーションとして様式の変化を見ていただきたい.しかし,10頭身である.

 このほかの画家,例えばヴォルゲムートの作品なども展示されているが,面白かったのはドナウ派の代表であるアルブレヒト・アルトドルファーの1518年の戦争画.槍衾や主役の描き方など,後年(1529年)の「アレクサンドロス大王の戦い」の雛形のようである.

「レーゲンスブルク近くでのカール大帝の勝利」 1514年,同市の市議会・司教・皇帝の間の紛争の際に市議会などの依頼で描かれたもの.8世紀末,三日二晩続いた戦いで天使がカール大帝を助けるという伝説に基づいているが,画面には16世紀当時の殺戮を盛り込んでいる.天使に先導されて,カール大帝は中央下に黄金の甲冑に浮かびあがって描かれている.中央奥の城塞都市がレーゲンスブルクであろう.