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日本は、なぜ太平洋戦争に突入してしまったのか --- 国家としての自己決定能力の欠如

2023年08月28日 | 歴史探訪
 40代はじめくらいの頃だったと思うが、中西輝政さんの「なぜ国家は衰亡するのか」という本を読んだことがある。ずいぶん前の話なので、内容の詳細までは記憶していないが、この本の題名の答えを一言でいえば、「自己決定能力の欠如」ということだけは、はっきり記憶している。国家としての意思決定ができなくなると、国家は衰亡するのだ。会社でもガバナンスなどと言われ、内部統制などという言葉もよく使われるようになったが、国家としての意思決定をはっきりさせることが重要だということだろう。
 ただ、現代でも内閣総理大臣がいても、同じ党内の異なる意見を持つ勢力や野党、マスコミの論調、国民世論などの影響は、民主国家である以上、大いに存在する。戦前であっても似たようなものだった。意思決定ができたら、説明責任を果たすなどをして、納得してもらいながら、実行していくことが政治家の仕事でもあるだろう。
 最近、近代史の本を結構読むようになったが、日本が太平洋戦争、第2次世界大戦に参戦することになった原因を考えることがある。1931年の満州事変から15年間は、もう、戦争の15年になってしまい、真珠湾攻撃に突入する。
 
 元勲がいなくなり、世帯交代したことも一因はあろう。伊藤博文は、1909年暗殺されている。日露戦争の際のように伊藤は最後まで、大国ロシアとの外交交渉にかけていたし、いざ戦争が始まると、金子堅太郎をアメリカに派遣して、アメリカに終戦の仲介を画策させているし、娘婿の末松謙澄も海外派遣して、日本の立場のスポークスマンのようなことをさせている。功山寺の挙兵など、自ら刃の下をくぐって維新を、西欧の見聞、憲法制定、議会開設などを成し遂げて近代国家を作り上げてきた元勲は、あくまで、国を滅ぼさないように大局的視点からも慎重に事を進めていたのだ。
 そして日露戦争時の首相の桂太郎は、1913年に、前線で大活躍した児玉源太郎は、1906年に若くして亡くなってしまう。長生きした山県有朋が1922年に死去。その数か月前には原敬が暗殺されてしまう。
 創業の世代から次の世代に移っていくと、官僚制や陸軍士官学校や陸軍大学、海軍兵学校などの学校の成績で席次を決め、出世を決めてしまうようなシステムに徐々に変化していった。
 第1次世界大戦では、ヨーロッパが主戦場であったため、それほど苦労なしに戦勝国となり、好景気になっていった。大正デモクラシーという批判もされたが、短い期間ではあったが、いわゆるいい時代もあった。
 昭和に入ると内閣、陸軍、海軍、参謀本部などを統合する意思決定ができていない。国益ではなく、現代の省益のように、海軍なども自らの組織のメンツや自己拡大を目指しがちになってしまう。いきあたりばったりのようなこともあり、長期的な戦略のような国家意思の統一ができていないのだ。
 昭和天皇も即位後しばらくしての田中義一内閣への強烈な叱責により、田中首相は意気消沈して辞任し、しばらくすると急死する。このことから立憲君主制の天皇であるということをわきまえて、反省した結果、226事件の時と、終戦の決断の時以外は、差戻しや再考を促すことはあっても、御前会議でも、重臣たちの意見を尊重していたのだった。
 国家としての意思を総合的の長期的スケールで、決定する国家体制になっていなかったのが、戦争に突入し、国を亡ぼす原因であった。

 226事件も大恐慌後の不景気で東北の娘たちが、生きるために身売りされたりする惨状があり、昭和維新と称して重臣を一掃して天皇親政にすればという、一部で北一輝などの思想にも影響を受けた、青年将校たちが決起して、斎藤実、高橋是清、渡辺錠太郎教育総監や重臣たちが殺害されたり、重傷を負ったりして、以後の軍部の政治家や重要人物たちへの無言のプレッシャーになってしまった。それでも斎藤隆夫などは、反軍演説を堂々と議会で発言している事実もあったのだが。
 松岡洋右などという外務大臣を近衛文麿は任命してしまったのも不幸だった。さすがにまずかったと気づいて、当時は、首相に大臣の罷免権がなかったので、内閣を総辞職して、新たに組閣の大命を受けて、松岡を除いて新たに組閣をし直したりしている。でもヒトラーの独と同盟し、日独伊3国同盟となってしまったのだった。
 元勲では西園寺公望だけは生きていたが、公家出身で当時は相当高齢でもあった。また、五摂家筆頭の近衛文麿が総理大臣になったことも西園寺一人で大きな流れを左右できない状況に手を貸したのかもしれない。
 日本は、南進を決定し、米英と敵対することが決定的になってしまった。
 陸軍も満州への権益、満州事変、中国との確執、日中戦争、ノモンハン事件など、戦争へと突き進んでしまう。近衛も最後まで、ルーズベルトとのトップ会談によって、戦争回避を画策していたが、実現しないことがわかると、政権を投げ出してしまう。
 天皇は、明治天皇の御製の歌「四方の海 皆同胞(はらから)と思う世に など波風の立ち騒ぐらん」を披露し、あくまで平和を求め、米との外交交渉にこだわった。東条も努力はしたが、ハル・ノートで開戦を決意した。陸軍軍人として、明治以来何万人もの英霊の犠牲のもとに積み上げてきた満州を捨てることはできなかったのだろう。
 満州事変の頃から米の重鎮スチムソンなどは、日本を警戒していた。スチムソンは3選したルーズベルトに唯一叱責直言できる人物だったという。この人が、原爆投下を事実上決定したと言われている。ただ、京都に落とすことだけは反対したという。
 アメリカは、真珠湾攻撃を受けて、それまで、アメリカには日本に造詣があり、日本語を話せる人が数えるほどしかいなかったが、日本のことや日本語を勉強する人が急増したらしい。「己を知り敵を知れば、百戦危うからず」である。
 反対に日本は、敵の言葉ということで、英語を禁止する方向になってしまう。野球などでも、ストライクが「よし1本」だったという
 1942年の時点で、アメリカは、敗戦後の日本への占領政策を国家として検討し始め政策を具体的に詰めていっている。1942年といえば、まだミッドウェー海戦の頃だ。アメリカは、勝利することしか頭に無かったのだ。国力の違いは明白であったから、当然なのかもしれないが、日本からすれば驚くべきことだろう。
 アメリカ通で米国の実力を肌でわかっていた山本五十六も日米戦争には終始絶対反対していたが、開戦が決定的になると、「1年間は、大暴れしてみせますが、(その後は・・・)」 と長期スケールでの勝機は見いだせないまま、真珠湾への奇襲攻撃を実行する。ただ、在米日本大使館の不手際で、アメリカへの開戦通告が命令の時刻から遅れたため、日本の意思に反して「スニークアタック」となってしまい、それまで、反戦だった国民が「リメンバー、パールハーバー」とアメリカは一挙に日本への戦争賛成一色になってしまう。
 最初からアメリカと戦争をしても勝ち目はなく、東条は、「清水の舞台から飛び降りる気もち」とまで、言及している。そして飛び降りて本当に死んでしまうようなことになってしまったのだった・・。ただし、戦後、インドやアジアの植民地になっていた国々が次々に独立を勝ち取ると、「本当に良かった」と牢屋でつぶやいていたという。植民地になっていた国が、有色人種と言われた日本人が白人と戦って勝っている姿を見て、独立を勝ち取る勇気を与えられた面はあったのだろう。後付けのようではあったが、「八紘一宇」を掲げて、アジア諸国との会議を昭和18年に日本で開催した東条にとっては、大きな喜びと慰めでもあっただろう。

 昭和天皇も重臣もアメリカとの戦争は、勝つ見込みが少ないことはわかっていたのに、戦争に突入してしまったのは、様々な要因はあろうが、長期的スケールで、内閣、陸軍、海軍、参謀本部が統一して、国家意思として戦争はしないという自己決定をしなかったところにあり、ずるずると流されて、最終的には、後手後手になってしまい、そうせざるを得ないところまで、追い込まれてしまったところにあるのではないだろうか。


「十八史略」の呉起と田文の逸話 --- 才にまさる徳の力

2023年08月18日 | 魂の人間学
「十八史略」には、4517人の人物が出てくるという。
人が一生で出会う人数には限りがあるし、少しでも歴史に名を遺す人物とこれだけの人数と知り合うことは、並大抵のことではないし、通常の人間であれば、無理と言ってもいいだろう。しかし、十八史略を丹念に読んでいけば、これらの人間のことを学ぶことができるということだ。人間学の教科書と言ってもいいだろう。
昔の学問は、四書五経の素読に始まり資治通鑑、そしてこの十八史略などの歴史書を読んで学問を学ぶことが多かった。教養人は、自然と深い人間学を学んでいたことになる。
 現代では、グローバルスタンダードMBAなどの学問もあるが、リベラル・アーツが見直されているとも良く聞くところだ。
 西洋的な学問に加えて、こういう人間学の造詣を学んでおくことも重要で、東洋流の「徳」を養う基盤のようなものにも繋がるのではないかと思う。
 若いころ、伊藤肇という人の「十八史略の人物学(プレジデント社)」という本を読んだことがある。
その中で、今でも記憶に残っている逸話があるので、ひとつだけ紹介したい。

魏の宰相の椅子をめぐってやりあった呉起と田文の逸話である。
 あるとき、宰相に誰が就任するかという問題が起き、当時、魏の国で重きをなしていた兵法家の呉起は、当然、自分に大命が降下すると思い込んでいたところ、ふたを開けてみると、友人の田文が任命されていた。
 面白くない呉起は、田文のところに乗り込んで詰問する。
「田文よ。貴様と俺とどっちがすぐれているか、比べてみようじゃないか。今までにずいぶんと戦ってきたが、君と俺とはどちらが戦略・戦術にたけているか。」
田文は、「それは君にはかなわない」
呉起「では、行政・外交についてはどうか」
田文「それも君の方が上だ」
呉起「それじゃあ、すべておれの方がまさっているじゃないか。しかるに貴様が宰相の印綬を帯びるとは何事か・当然辞退して、俺を推薦すべきではないのか」
これに対して田文は、「今、我が国は、先君没せられ、まだ、お若い後継ぎが即位されたばかりだ。役人も民衆も、この先、いったいどうなることやらと心を痛めている。おまけに他国は、隙あらば襲いかかろうと、虎視眈々と、この魏を狙っている。このように内外ともに不安動揺しているときに、宰相としてわしが適任か、それとも君が適任か」と呉起に問う。
呉起は、しばらく腕を組んで考え込んでいたが、やがてきっぱりと「わかった。やはり貴様が適任だ。」と言ったという。

 呉起は、現代でも呉子として有名な人物だが、才能や力量は、功利的なもので、田文は、人間の根本、本質を問題にしたのだ。
 「信なくば立たず」とか孔子の「民はこれを由らしむべし。知らしむべからず」という問題なのである。才よりも徳が勝るとも言えよう。現在では、リベラル・アーツが随分見直されていると聞くが、ひところのグローバルスタンダードの学問には、この「徳」というが概念は全く無視されていた面があったのではないだろうか。
こういう面も謙虚に学ぶことで、才に、より深い徳力のようなものが加わり、より深い教養、認識力を得ることになり、人間力もより深く、向上していくのものと思う。