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21世紀は日本の世紀 世界史800年周期説 村山節さんの本に思う

2014年11月15日 | 魂の人間学

 20歳代前半に、村山節さんという人の「文明の研究」という本を読んだことがある。この本に出会ったのは、出張中の地方の駅前にある本屋で、電車の来る時間が少しあったので、立ち寄った時のことだった。
 
 世界史が800年周期で、西洋文明、東洋文明の順に興亡を繰り返しているという説の本で、分子生物学でワトソン・クリックが発見した遺伝子DNAの2重らせん構造のように、と言う表現に大変興味を持って出張中で荷物になるが、購入した本だった。
 私は、当時、本屋には頻繁に通っていたのだが、不思議なことに、その本は、都会の本屋では、見たことがない本だった。

 西洋と、東洋が800年ごとに隆盛を繰り返して入るさまが、DNAの2重螺旋のようだというのだ。村山節さんは、若いときに、世界史の年表を、数千年分、等間隔に年表に記載していったそうだ。通常世界史年表は、紀元前などは、等間隔には記載されていないことが多い。しかし、村山さんは、あえて長い絵巻物のように紙をつなげて、100年を○センチというように等間隔に記載していったのだ。本の年表を鵜呑みにせずに、自分で年表を作成したのだ。
 
 そういう中から、この800年周期説を提唱していらっしゃった。800年周期説とは、往復で1600年、西暦では0年から関が原の合戦までで、文献上の日本史はすっぽり入ってしまいそうだ。
 中国4000年の歴史でも、800×5である。ずいぶん壮大なスケールの本だな、と思ったものだ。

 1999年頃に、浅井隆氏とともに、「文明と経済の衝突」という共著を出版されたときには、共著者に少し驚いたこともあった。

 話は変わるが、学生の頃に原っぱで見慣れない可憐な花を見つけて、図鑑で調べたことがある。ネジバナという名前だった。薄ピンクの可憐な花で、ネジのように螺旋状に花がついているので、この名がついたそうだ。
 自分としては、見たことがなかったのだが、調べると、図鑑には、しめった草むらには結構生えていると書いてあって、びっくりしたものだ。これもらせん状で、右巻き、左巻き、両方あるとのことだった。そういえば、人間のつむじも同様だ。
 目に見えないDNAから、巻貝などの例もあり、自然界にはらせん状というのが存在しているのだなと思う。
 
 村山節さんの東西両文明の800年周期説から、自然界の螺旋の話になってしまった。

 800年周期説で思い出すのは、トインビーだ。シュペングラーの「西欧の没落」と言う本も思い出す。それらの本によると、2000年頃から本格的に東洋の時代になっているのだ。
 
 日本も東洋の日の昇る国として、光る国として世界平和への貢献や、唯一の被爆国として、核兵器廃絶へのコンセンサスを創る国、あるいは、四季折々、神社が森と共生してきたように、田園風景広がる風景、山川草木豊かな、青い海のある、美しき国として、地球環境保護などの面からも世界に、地球に貢献できる日本でありたいものだ。
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参謀や軍師のような人物について

2014年11月07日 | 魂の人間学
 
 現在の本心としては、正直、世界が愛と平和に満ち溢れてくれればいいなあと思っているのだが、かつて若いころに、参謀というか、軍師のような人に興味を持ったことがある。
20代の頃だったと思うが、中公新書からで出版されていた、「ドイツ軍参謀本部」という渡部昇一さんの本を読んだのがきっかけだったのかもしれない。
 ずいぶん以前のことなので、時系列は少し曖昧になってしまっているが、前項の安岡正篤さんの曽国藩や諸葛亮孔明、司馬光、耶律楚材などの人物にも、そのことも、相まって興味をもったのだと思う。
 日本では、日露戦争で、軍隊の中では降格扱いの赴任でも意に介さず、参謀次長として乃木大将の203高地の苦戦状況を見て、大砲の砲撃を決断して、勝利に導いた児玉源太郎や、秋山兄弟、特にバルチック艦隊を撃破した秋山真之がなども近代日本の歴史に名を残す名参謀と言えるだろう。
 項羽と劉邦の時代でも、軍師ではないかもしれないが、「蕭何」と言う人物に大変興味を持って、関係する単行本を読んだこともあった。この人は、兵站というか、補給を途絶えさなかったことが、特筆に値すると思った。
 第2次大戦では、日本は特に南方戦線などで、兵線を拡大しすぎて、食料などの補給が途絶え、戦うどころか、餓死してしまう兵士が多かったということだったが、当時、蕭何のような人物がいれば、そんなことにはならなかっただろう、などと考えてみたり・・。
 徳川家康の陰の立役者のひとりである、本多正信の本も読んだ記憶もある。彼は、一度だけ、多分自分の信仰上の理由もあったのだと思うが、一向一揆に加わり、徳川軍に対して、弓を引いたことがある人物だった。だが、徳川家康も、そのことを了解したうえで、心を許す臣下として迎え入れていたという。
 三国史に出てくる、劉備玄徳に三顧の礼で迎えられた、諸葛亮孔明もすばらしい軍師だったし、清の曽国藩も元の耶律楚材もそうだった。司馬光は、資冶通鑑を編纂した歴史家としての側面で素晴らしい業績を残したと思う。
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