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「ギリシャ人の物語」とアレキサンダー大王の命日

2021年06月09日 | 人間学
 塩野七生の「ギリシャ人の物語」全3巻を読了した。
ソロン、クレイステネス、テミストクレス、ペリクレス等、錚々たるメンバーがアテネを中心スパルタ、コリントなどと共にペルシアとの戦争等を経ながら、ギリシャの都市国家を最高潮に盛り上げて、その後、没落していく様子までを描いていて、大変面白かった。第3巻は、マケドニアのアレキサンダー大王の類まれなる大いなる活躍と32歳での死が描かれていた。
 アレキサンダー大王は、紀元前323年6月10日に32歳の若さで亡くなっている。一身同体のような幼き頃からの親友のヘーファイスティオンを病で亡くしてから、しばらくしてからの病死だった。
 奇しくも、明日6月10日がアレキサンダー大王の命日なのだ。2344年前の6月10日が死亡したその日なのだ。
 歴史に燦然と輝く人物であったことは間違いない。近世ではナポレオンを想起するような、あるいはそれよりももっとスケールの大きな大王なのだった。


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スリーハンドレッド(300)——— スパルタのレオニダス率いるペルシャ戦争での戦いの凄まじさ

2021年05月19日 | 魂の人間学
2006年に「300(スリーハンドレッド)」という映画を観た。
最近、塩野七生さんの「ギリシャ人の物語」を読んだ。レオニダス率いるたった300人の屈強な戦士たちが、20万人とも言われるクセルクセル王率いるペルシア軍にいかに果敢に戦ったかが描かれていた。たった300人で約2万人を斃したことになっているのだ。
 300人で2万人を斃すとは。一騎当千の強者と言うしかない。
スパルタでは、敵に後ろを見せることは許されず、必ず勝つ、という教育だった。撤退という概念は無く、勝つか、死ぬかだったのだ。レオニダスは、王家に生まれたが、4男だったため、王位を継ぐ可能性は低いと見られて、王家に免除されていた、若い時からの全寮制での軍事訓練を例外的に受けていたのだった。王家ではたった一人の、平民と同じ軍事訓練の経験を持つ人で、この人が、後に兄たちの早世によって王になったのだった。
 300人は、跡取り息子がいる屈強の精鋭たちで、思う存分戦えたのだった。
 最後は、雨あられと降り注ぐ、物量作戦の矢の嵐に全員戦死してしまうが、その生きざまと、その強さと言ったら、歴史に残り、さらにこの通り、2500年後の映画にもなるほどのインパクトだったのだ。すごいことだ。
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白石正一郎について

2021年01月13日 | 魂の人間学
 幕末維新期の長州の国学の徒で商人だった白石正一郎について書いてみたい。
幕末維新史に関する本を読むと、必ずと言っていいほど、白石正一郎の名前が出てくる。
現在の山口県下関市の国学の徒で商人だった志士の一人と言っていいだろう。
あの奇兵隊を高杉晋作とともに金銭面での大きなバックアップとともに、地元での影響力を持って立ち上げた功労者である。高杉と二人で奇兵隊を立ち上げたと言ってもいいだろう。
自ら奇兵隊に入隊もしている。主に会計方での役割でもあったが、鉄砲の撃ち方の訓練もしている。馬関(下関)という要害の地で400人以上の幕末維新の志士たちと会いまみえている。
白石正一郎日記という日記を書いていたが、晩年になって、「日記中摘要」として、改めてまとめており、日記の原本は残っていない。多分白石が焼却したのではないかと言われている。
 島津成彬の御庭番であった頃の西郷隆盛が上京の途中で、白石と会っている。薩摩御用商人になって、長州薩摩の交易をしようと目論んでいた白石にとっては、有力な薩摩の窓口でもあった。しかし、道をつけたところで、邪魔される形となり、最終的には長州藩にその商売を取られてしまう形になった。
 白石は、志士にお金を貸したり(実際は返ってくることはほとんど無かったので、あげていたのだった)、志士たちの会合場所となり、芸者を挙げて飲んで騒いでの場所ともなった。飲み代は、すべて白石がスポンサーとなっていたのだ。
 毎晩のように客人が来て、酒席でもてなしている。
最終的には、1500両もの借金を作ってしまう。
 高杉晋作の功山寺挙兵の際には、暴挙だとして反対しているが、これは白石の方が普通で、高杉の歴史に残る奇跡のような偉業だったから、やむを得なかっただろう。
 山縣有朋でさえ、最初は及び腰だった挙兵だが、自らを「狂」と名乗った高杉には、遊撃隊の石川小五郎、力士隊を率いる伊藤博文、そして前原一誠ら約80人が参加しての挙兵となった。功山寺で、8.18クーデターで七卿落ちとなった、三条実美らに、「長州男児の肝っ玉をお見せいたす」と挨拶して進撃し、俗論党を破って藩論を武備恭順から木戸孝允の帰藩そして薩長同盟、討幕へと路線を変更させている。
 白石は、晩年は、現在の赤間神宮の宮司となっている。写真の1枚も残さず、新政府への出仕の話も断って、維新の志士たちの弔いと日記中摘要を残して69歳で天寿を全うした。
 士農工商の商人だったから(その後功績が認められて士分に取りたてられている)、歴史の上ではそれほど全面に取り上げられないが、現代のように民主の世の中であれば、経済界の第一人者のような人だったことだろう。
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渋沢栄一について

2021年01月09日 | 人間学
2024年の新1万円札の肖像画に渋沢栄一が決まった。今春の大河ドラマも渋沢栄一のお話である。
 渋沢栄一は、その著書である「論語と算盤」でも名高いが、現在の埼玉県深谷市の生まれで、庄屋の息子として家業の藍玉の商売を継ぐ形で、精を出し、のちに武士になっている。尾高惇忠という人物の塾で7歳のころから勉学にも励み、儒教や大日本史まで学んだという。その後、長州藩と組んで、倒幕に参加しようとしたが、断念。逆に、徳川慶喜に仕えることになる。慶喜の腹違いの弟のパリ行きに随行する形で、留学することができた。
 しかし、幕府が倒れ、慶喜は謹慎、江戸城の無血開城から、彰義隊の上野での戦い、さらに同志が中枢にいた振武隊の飯能での戦いも終了し、帰国する。
 慶喜のもとで、働いたが、慶喜からこれからはお前の自由にして良いという言葉をもらうも、大隈重信からの新政府への出仕の要請は断り続けた。
 しかし、慶喜が人材を出し惜しみしていると誤解される、との説得に、出仕を決意。大隈重信、井上馨、伊藤博文らと、大いに働いた。旧幕臣ということで、反感を持つものもいたが、その目覚ましい活躍ぶりに次第に納得していったという。
 目覚ましい活躍をしたのち、井上とともに退官し、民間で活躍。第一銀行や証券取引所など500社もの会社の設立にかかわった。
 群馬の富岡製紙場の設立にも関わり、初代工場長は、7歳の時からの師である、尾高惇忠が就いている。多難なことがたくさんあったようだが尾高は、明治5年に無事開業にこごつけ、一大産業に育っていく。の
尾高は、陽明学者でもあり、工場に「至誠神の如し」という言葉を貼っていたそうだ。
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「綺羅星のごとき英雄たち」 桂太郎と児玉源太郎 乃木希典  ―――  その魂の絆と友情 そして使命感 

2020年12月28日 | 魂の人間学
 維新の3傑といえば西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通であるが、西南戦争で西郷は自刃し、木戸も西南戦争の最中に病死してしまう。その後、大久保利通がリーダーとして日本を引っ張る形になったが、西南戦争の翌年、大久保は暗殺されてしまう。
 その後は、伊藤博文や山縣有朋、あるいは、黒田清隆、大山巌らが、リーダーとなっていくが、桂太郎や児玉源太郎は、ある程度、憲政の屋台骨、近代日本の道ができかかった次のリーダーたちだった。
 伊藤や山縣は元勲の役割であったが、日露戦争時の首相は桂太郎になっていたのだ。

 桂太郎と児玉源太郎は、日露戦争の時代には首相と内務大臣、参謀次長・満州軍参謀総長という立場だったが、二人には厚い友情と絆のようなものがあった。まるで、維新後の日本を独立した近代国家の仲間入りをさせるために全身全霊で当たることをお互いに約束してきたかの如くに。
 日露戦争では乃木希典の203高地が正攻法の正面突破作戦を貫き、自らの息子2人を含む約2万人を戦死させていたが、児玉が内務大臣から自ら降格になる形で参謀次長、そして満州軍参謀長になることによって、203高地に赴き、乃木のメンツやプライドを傷つけないように指揮を代わり(実は参謀総長の命令書を懐に携えていったが、それは見せなかったという)、予め移動させておいた大砲を使って、203高地を半日で陥落させている。
 203高地の作戦参謀は味方撃ちなることを避けるために、かえって2万人もの兵を結果的に失ってしまったのだった。乃木も参謀の言うことに異を唱えず律義に守り続けたのだった。
 なお、陸軍の歴史で、自ら降格を了承したのは、児玉だけであったという。日本国の勝利に貢献することを主眼に置き、自らの名誉には無頓着であったのだ。口では言えても現実には、なかなか実行できることではないのだ。
 日本に教官として赴いたメッケルも、児玉の並外れた才能を見抜いており、「日本に児玉将軍がいる限り、日本がロシアに負けることはないだろう」と話していたという。
しかし、児玉は、戦功を誇ることなく、乃木将軍がいなかったら203高地は落ちなかったと、終生、乃木を擁護した。
 陸軍の演習の時も、乃木軍を児玉軍が破っており、戦争については自分の方がうまいことはわかっていたが、乃木の高潔な人格には、児玉は一目おいて尊敬していたようだ。
 最前線で、補給の状況や、財政のことまで頭が回った児玉は、国内の戦勝ムードと勢いに乗って戦争を続けようという中央に対し、「桂の馬鹿が、まだ戦争を続けようとしている」と、絆があるこその、口の悪い発言をして、いったん日本に帰還して状況を説明し、明治天皇にも状況説明をして、戦争を終わりに導いている。
 ただ、元勲の伊藤博文があらかじめ、ルーズベルトと同窓であった金子堅太郎を米国に派遣し、終戦への仲介の労を取ってもらえるようにあらかじめ仕向けた功は非常に大きかったのだが。
 戦争は始めるより、終わらせる方が難しく、指導者は、戦争の終わらせ方まで、ある程度、頭において、戦争を始めなければならない。伊藤にはそれがわかっていたのだ。
 しかし、第2次世界大戦のときは、やむを得なかった面もあったのだろうが、終わらせ方など、全く頭になかったのだ。山本五十六でさえ、開戦に反対していたとはいえ、開戦が決定すると、最初の1年は大いに暴れて見せますが・・と発言していたが、そのあとについては、想像できていなかった。

 話を児玉源太郎と桂太郎のことに戻す。
 桂太郎が、病気で入院していた時には、桂の奥さんが病気で看病できないことがわかっていたので、児玉自ら桂の病室の隣の部屋に寝泊まりして献身的に看病している。こんなこともなかなか点数稼ぎでできることではなく、桂のことを心底心配してこそできることだったのだろうと思う。
 また桂が総理大臣として活躍しながらも桂の正妻が病気がちで、桂の身の回りの世話ができず、桂は総理大臣の激務に加えて身の回りのことまでひとりやらなければならず、精神的な支えも傍にいないこともあって、桂の衰弱が激しいのを見て取ると、当時の花柳界でナンバーワンであったお鯉さんを口説いて桂の愛妾にしている(当時は今の価値観とは違って、愛妾がいることは、社会通念上、問題にはならなかった時代だった)。そして桂は、元気を回復していく。
 このときも、山縣有朋が紹介したことになっているが、児玉が水面下で動いていたのだ。
 児玉は台湾総督も経験し、後藤新平の才能を見い出して後釜にしていた。検疫に力を入れて児玉の助力もあって、皇族の大将に最初に検疫を受けてもらうことで、困難な全員検疫実施という難事業を成し遂げている。コロナ禍の現代にも参考事例になるかもしれない。
  
 しかし、児玉は、日露戦争に勝利し、なんとか条約が締結された翌年の1906年7月23日に急逝してしまう。前日には、後藤が児玉宅を訪れていた。
 脳溢血と言われているが、日露戦争の際に、全集中で頭を使い、全身全霊で事に当たった疲労のためであったようだ。まだ54歳であった。児玉がもっと長生きしていたら、日本の針路は多分大きく変わっただろうが、歴史にイフはないし、児玉には、維新後に日本が先進国の仲間入りを果たす最大の出来事だった日露戦争勝利に大きく貢献する使命と役割りがあったのだろう。
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