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「虎に翼」最終回を観終えて

2024年09月27日 | 随筆
NHKの朝の連続テレビ小説「虎に翼」が最終回を迎え終了した。
欠かさず観ていたが面白かった。戦前から戦後にかけて激動の時代に初の女性弁護士そして裁判官として活躍した人の物語で、明治憲法から戦後の日本国憲法に変わった時代とともに女性として法曹界に新たな歴史を作り上げてきた苦難困難を克服していくような史実に基づくストーリーだった。男の自分が見ても、新たな時代を作り上げる、最初の道を作っていき、一握りの人間の努力や不撓不屈の精神が新たな未来を創り上げていくことができるという意味で、大変教訓に満ちたストーリーだったと思っている。
 最後のラストから3回目の回は、尊属殺人の判決の回で、尊属を別格に扱う法律が、違憲と見直されるシーンが出た。
 私が中学生のころだったが、この報道は、何故か記憶に残っている。子供心にも、尊属が法律的に別格なのは、「はて?」どうなのだろう思っていたこともあったからだ。
 もちろん儒教的な伝統的価値観や家制度などが主流だった時代から見れば、そういう意見が大勢をしめるのも不思議ではない。だから戦後間もない段階では、少数の反対意見はありながらも合憲と判断されたのだろうと思う。しかし戦後の民主主義や個人主義的価値観が浸透するにつれて、判断が変わってきたのだろうと思う。
 もちろん当時の自分として、父母への感謝や尊敬する気持ち、家族のありがたさは当時も今も変わらず持っているのだが、法律としては、新たな解釈が自然であろうと思える。
 寅子たちががんばって、その死後に新たに男女雇用機会均等法などの法律が次々と施行されていく事実が一人の人間の努力や不撓不屈の精神の未来への無限の可能性が描かれているようで、最終回を観終えてひと段落して感慨にふけることができたのだった。
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ヒルティの「眠られぬ夜のために」について ーーー 仏教とキリスト教の「反省」

2024年08月26日 | カール・ヒルティ
仏教の教えの中に「反省」がある。仏教の中でも重要な教義というか実践法のひとつだろう。
 日々の仕事などで忙しく動き回っていると、様々な日常の雑事に追われ、心が落ち着く暇が無いことが多い。脳波で言えば、ベータ波の状態と言えようか。
 でも出家した僧侶でもなく、在家の者であれば、そういう状態は日常的なものである。
 だからこそ、お釈迦様は、1日の終わりには、多少の時間をとって、落ち着いて1日を振り返り、反省する時間をとることを勧めたのだろうと思う。今の時代の言葉を添えれば脳波をアルファ波の状態にして。もちろん1日の終わりだけでなく、よこしまな思いや悪しき思いが心の中に浮かんでしまった時は、即座に反省の思いを入れることは必要なことだ。
 お釈迦様が座禅を組むような結跏趺坐のような姿勢をしているのは、奈良や鎌倉の大仏の姿を見ても分かる。大悟した時の菩提樹の木の下での瞑想の時の姿でもあるだろう。
お釈迦様の存命中には、反省の仕方なども、弟子には教えていたのではないだろうか。

 キリスト教でも、「悔い改めよ」という言葉はよく聞く言葉だ。
 ヒルティは、岩波文庫でも出版されている「幸福論」全3巻で有名だが、同じ岩波文庫から「眠られぬ夜のために」全2巻も出版されている。
 ヒルティは、眠られない夜はつらい面もあるが、精神の向上のための絶好の機会として活用する側面を強調されていた。ヒルティの死後、365日の日付をつけて出版したのは、娘さんだったようだが、眠らぬ夜に後世の財産となるような名言、箴言を残しているのは、ヒルティの思想家的資質や通常の仕事としての文筆量の多さとしての産物だとも言えると思う。
「眠られぬ夜」を活用した実際の実践としての証明でもあろう。
悔い改めとは少し違うが、キリスト教徒でもあったヒルティは、反省という言葉は使っていないが、眠られない夜を逆手にとってというか活用して、仏教で言うところの「反省」と同様のことをしていたのではないかと思う。それもその思索の結果としての考察を書いて結果として書物として後世に残してくれているのだ。


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継続は力 --- 好きな道を選んでもそれをハイレベルにするためには・・

2024年08月01日 | 随筆
NHKのBSで、「街角ピアノ」という番組を見ることがある。
海外や国内で、駅舎や公園など公共の場所にピアノが置いてある所にカメラを設置してピアノが弾ける通りすがりの人などの演奏する姿を放映し、簡単な人となりを紹介したり、演奏した本人のコメントなどを放送している。
演奏曲は、その曲名や曲の作者、作成年などが字幕で表示されることになっている。
演奏者は実に様々で、プロもいれば、独学でピアノを学んだ人などもいるのだ。
 本日は4歳の時にピアノを習い始めた7歳の子が、ショパンの曲を上手に弾いていて、コメントは、「将来ショパンコンクールで1位をとりたい」というものだった。
 私は幼稚園の時に数か月ほどオルガン教室のようなところに通った記憶があるが、右手と左手が同じ動きになってしまい、なかなか右手と左手を違った動きにするのに苦労した記憶がある。私は引っ越しを機に半年でやめてしまったが、兄は左利きで、小学校6年生まで、ピアノを習っていて、結構上手く弾けていた記憶が残っている。
 
 今でもそうだが、大人になってから、ピアノが弾けたら人生楽しいだろうなと思うことしきりであった。結構古いが、西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」の歌詞に共感した記憶もある。独学で結構上手く弾ける人を見ると、自分も始めてみようかな、などとちょっとだけ思うこともある。しかし残された人生の時間を考えると、なかなか継続して取り組めずにいるままだ。
 
私が高校生の時のある後輩は、小学校1年生からピアノを習い始めたが、小学校高学年くらいの時には、練習に行くのが嫌で嫌でたまらない時期があったと言っていた。それでも、親の意向に従うような形で高校生までピアノを習い続けていたのだった。
 さすがに高校生になると難しい曲も上手に演奏できるようになっていて、高校の音楽の先生がたまに開催していた、音楽室での昼休みのピアノコンサートに推薦されて、弾いていたのを聴きに行った記憶がある。大変上手でびっくりした記憶が思い出として残っている。
 本人は、「今になって思えば。あのやめたいと思った時にやめずに続けてきて、本当に良かった」と言っていたのを思い出す。「自分の特技のようなものは、ピアノくらいしかないから・・」などと言っていたのだった。しかし、本人は、吹奏楽部でクラリネットも上手に演奏していたのだが・・・。
 世間ではよく、自分の好きなことを探してしてみよう、というようなことを聞くが、冒頭の7歳のショパンを弾ける子も、もしも夢をかなえようとして、ショパンコンクールに出場を目指すとなると、1日に何時間も練習する日々を何年も続けるような努力が必要になるのだろうと思う。
目標を達成するために、それらの努力を忍耐強く続けていくことは、並大抵のエネルギーではないと思う。もしかしたら、それでも嫌にならずに続けられる人もいるとは思うが、通常であれば、気晴らしのようなこととのバランスをうまくとったりしなければ、嫌気がさしてしまうこともあると思う。
例えば、ショパンコンクールで優勝するなどという偉業は、才能に加えてひと一倍の努力、いや人2倍 人3倍以上の努力が必要になってくるものだと推測する。才能に加えて、そういう努力ができ、それを実践し継続し続けることができた人の中からえりすぐられて優勝したり入賞するわけだから、偉大なのであろう。ショパンコンクールで入賞すれば、ピアノの世界では1流と認められる所以でもあろう。

ピアノを例にとってしまったが、何事も目標を決める、言い換えれば、志を決めることが最初で、それに向かっていかに継続して努力をし続けられるか、場合によっては、忍耐し続けられるか、ということが、重要なのだろうであろう。継続は力である。
 当たり前のことだが、好きな道を選んでもそれをハイレベルにするためには多大な努力とエネルギー、忍耐や努力し続ける能力が必要だ。


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「虎に翼」を見て思い出したこと 

2024年07月22日 | 随筆
NHKの朝の連続テレビ小説「虎に翼」を見ている。
今朝の回では、寅子の法律専攻の同級生に戦前の華族のお嬢様がいて、戦後に再会するシーンがあった。
その人は、戦後の憲法が施行されたのち、いろいろ大変なこともあったのだろうが、寅子が赴任した新潟の喫茶店のような店を切り盛りし、その場所で英語の塾にようなこともやっていた。それをみて過去の記憶がふと思い出されたのだった。

 私が20代の頃に会社の上司に連れられて銀座のバーというのかスナックのようなところにに連れて行ってもらったことがあった。
 8人位座れば満席になってしまうような小さな店だったが、場所は銀座である。
 普通の若い会社員のお給料では、余裕が無ければ、はなかなか行けない場所ではあったし、私の世代はあまりそういう店には行かない世代ではあったのだ。結構年配の上品な感じの「ママ」が一人で切り盛りしていた。カラオケセットなどもあった記憶もある。
 チラッと耳にしただけだったが、その「ママ」は旧華族の家に生まれた人だったらしい。
あまり気に留めはしなかったが、あの「ママ」の上品さはそういう育ちの良さが出ているのかなとふと思った記憶が甦った。
 もし華族の制度が残っていたら、多分「ママ」は、この仕事はしていないのだろうな、と勝手に思ったりもしたものだった。
 戦後80年近くなって、時代が変わり、最早、華族に生まれた人達は、鬼籍に入られたり引退されている年齢になっている方がほとんどだろう。だからここ数十年はそういう人に出会うこともなかった。
 今朝の「虎に翼」の場面を見て記憶が甦ったのだが、私が若い頃には、かつて華族に生まれたが、華族制度の廃止に伴って、新たに仕事を探して働いている人を実際に見ることがあった時代だったのだ。 私の会社の随分上の上司でも旧華族出身だった人がいた記憶も残っている。
 

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I先輩のこと 

2024年06月18日 | 随筆
I先輩は、昭和17年生まれだった。
歳は私よりも18年ほど先輩だった。
この先輩と肩を並べて、2年ほど仕事をした。
会社の飲み会に、どういうわけか1回だけ奥様も来たことがあって、奥様の顔も知っていた先輩の一人だった。
ドイツ人のような顔つきの器量の大きい感じの先輩だった。
 私はこの先輩と自然と仲良くなって、昼休みに昼食を食べによく会社の外に出かけたが、先輩は、すれ違う会社の人の知り合いが多く、1回の食事で、知り合いにすれ違うたびに、挨拶を交わしているのだ。「ヨ!久しぶり!」「オス!」「おい!」しまいは「バキューン!」人それぞれに違った挨拶をする。たまに立ち止まって、話をしている。顔がとても広い人だった。
 物理的にその先輩の顔も大きかったので、私が、顔が「ワイド&ビッグ」ですね。などと冗談を言っても笑って済ましてくれる人だった。
 仕事中も、よく雑談もしたし、仕事仲間の何人かで飲みに行く機会も多かった。
会社の中では、仲の良い人の一人だったが、当時は、60歳で定年を迎えられた。
 私が転勤している期間に、懐かしくなって、その先輩に電話連絡をとったことがある。
 先輩が定年して半年くらいが経過していた。ひさしぶりに声を聴いて、「毎日、何をしているんですか?」と問うと、「毎日午前と午後の2回、犬の散歩をしているよ!」と返ってくる。「1日中、犬の散歩をしているわけじゃないでしょう?犬の散歩が終わったら何してるんですか?」と問うと、「うーん。犬の散歩かなあ。」という返答だった。
でも、お久しぶりに元気な声が聞けてよかったな、と電話を切ったのだった。

 そのひと月後くらいだっただろうか。なんとその先輩の訃報が回ってきたのだ。私は、最初、その先輩のお父さんの訃報だと思った。しかし名前はその先輩の名前だし、なんと年齢欄に60歳と書いてあるではないか。間違いなくI先輩本人の訃報だったのだ。
信じられなかった。1か月ほど前に、以前と変わらぬ、あんなに元気な声を聴いていたのに。
後日ほかの先輩から詳しく話を聞いてみると、私が電話をした1週間くらいあとから激しい咳が止まらなくなり、入院されたとのことで、死因は肺がんだったそうだ。入院してから3週間で亡くなってしまったことになる。
 現役の時からI先輩は、たばこのハイライトをよく吸っていた。私はたばこを吸ったことがないが、ハイライトは、結構強いたばこだと聞いたことがあった。
 現役の時もたまに咳をしていたような気もしたが、引退して急に病魔が広がり、顕在化してしまったのではないか、と想像した。
 どうしても信じられなかったし、遠方だったが、迷わずお葬式に参列した、知り合いの多かった先輩らしく、大勢の人が参列されていた。奥さんは気丈にふるまって、にぎやかなことが好きだったご主人のためにと、葬儀場の2階で、宴席がふるまわれた。にぎやかにI先輩の思い出話、よもやま話をすることで、ご主人も喜ぶし、供養になると思われてのことだった。
 私は、しばらくして宴席をそっと抜け出し、1階に行って、お棺の前で、お坊さんの読経が終わるのを待っていた。
読経が終わると、お棺のところに行って、顔の上の窓からご対面させていただいた。
間違い無く、少し痩せた感じのI先輩が眠っておられた。
 私は、ご対面できお別れができて本当に良かったと思った。亡くなったことが、どうしても心の底からは信じられなかったし、でも直接お会いしてお別れできて、心の区切りとモヤモヤがなくなった。
 I先輩には、I先輩の寿命というものがあったのだろう。
 今現在、私は、I先輩の亡くなった歳を超えている。
 振り返ってみると40年以上も仕事をしてきたのに、いい思い出として思い出す先輩は、それほど多くはいない。仕事で尊敬するような大きな業績をした先輩もいっぱいいるが、心の中の琴線に触れるような人間同士の感覚として思い出す先輩は、それほどはいないものだ。もちろん、その先輩やその人ごとに挙げれば思い出すことは、結構あるのだが。
 でもそれは、出世した人とか、仕事ができる人ということではなくて、そして年齢さえも超えて人間として波長があったり、馬が合ったり、仕事上の付き合いだけでなく、それ以外のつきあいやちょっとした人間的な魅力によるものだったりするものだと思う。
 I先輩は、先輩のままで、心の中で今でも生きているように記憶されている。


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