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ミツバチの養蜂から生態系について思ったこと

2023年09月23日 | 随筆
自分の興味が向かっているからか、扱う番組が増えたからなのか定かではないのだが、おそらく両方なのだろう。最近テレビでミツバチの番組、養蜂の番組を見ることが多くなったように思う。フランスの博物館の屋上で養蜂をしている人、自宅のベランダで蜂の巣箱を置いて、はちみつを取っている人などを興味深く見た。
透明の巣箱に移し替えて、秘密のベールに包まれていた、ミツバチの巣の内部を観察するプロジェクトのような番組もあった。中学校の教科書だったかで習ったミツバチのダンスを直接映像で観察することができた。蜜のとれる花の群生地を見つけた蜂が巣に戻ってきて、仲間たちにその方向と距離を伝えているダンスだった。ミツバチはダンスで人間で言う言葉の代わりにコミュニケーションをとることができるのだ。
 専門家の人は、この蜂は、北西の方向の約1キロ先に花が群生している、と仲間に伝えている、と解説していて、人間にも通じる法則性のあるダンスだったので、大いに驚くとともに感動してしまった。ミツバチの群れの社会性や分業は見事なものだが、仲間とのコミュニケーションもこれほどしっかり取れているのだった。なお、ミツバチは太陽の位置から方角を見極めることが出来るそうで、曇の日でも、紫外線?だったかで太陽の位置がわかる能力があるそうだ。
 つい先日、日本の養蜂家で、花の咲く季節や場所に合わせて、日本中を蜂の巣箱とともに移動している人を扱った番組を見た。この人は、親の代からの養蜂家で、この道60年ということだった。
 親の代から引き継いだ頃は、菜の花が咲く季節と場所に合わせて巣箱とともに移動していたらしい。しかし、引き継いでから数年経つと、菜種油が海外産の安い食用油等にとって代わられて、菜の花畑がどんどん減ってきてしまったという。れんげの花もミツバチが好み、はちみつもおいしいので、れんげ畑に移行しようとしたが、こちらもどんどん減っていってしまったそうだ。
田んぼの収穫後に肥料になるので、当時はれんげを植える農家が多かったというが、化学肥料の登場で、れんげを植える農家も減ってきてしまったのだ。
 廃業の危機に立たされて、地図でりんご畑があるのを見つけ、飛び込みでお願いしに行ったところ、巣箱をおかせてもらえることになって、救われたそうだ。ただ、菜の花やれんげよりも、蜜をとる効率はずいぶん悪くなるらしい。しかし、りんご畑農家の人にも受粉を助けるという大切なメリットがあり、もちつもたれつ、いわばWINWINの関係なのだった。
 最近では、多数のりんご農家から、対応できないほどの引き合いがくるそうだ。
 りんごの花の受粉を促すのは、みつばちだけでなく、蝶や蛾、アブその他の昆虫も行うが、昆虫の数が大幅に減ってきてしまって、花が咲いてもりんごの実がならない率が大幅に増えてきてしまっているそうだ。りんご農家にしてみれば死活問題だ。
 これは、農薬によって昆虫が減っているのが原因らしいということだった。有機農法は、効率の面でなかなか実施できないのだろうが、大きな生態系という視点では、ぜひ検討されるべき農法なのだろう。
 以前、ミツバチが絶滅すると、人類も絶滅する、というような内容の本が発売されたことがあって、衝撃を受けたことがあったが、あながち間違っていないのかもしれない。
 産業革命以後、特に最近では、生物の種の絶滅が指数関数的に増えているそうだ。
 私の身近な実例では、都内で、私が子供のころから、クワガタやカブトムシは、野生ではほとんど見ることはできなかったが、あの黒くて大きなオニグモは、結構軒先などに多くいたと記憶している。しかし最近では、全く目にすることはなくなってしまった。どういうわけか、黄色いジョロウグモは、今でも結構目にすることがあるのだが。
 大自然は大きな生態系の中でバランスを保ってきた。難しい問題だが、人間の効率だけで、農薬やむやみに生態系を破壊する行為は、大きな目では、自らの首を絞めることにもつながってしまう。個人ができる小さなことから生態系を守る自然との共生を心がけたいと思った次第だ。
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日本は、なぜ太平洋戦争に突入してしまったのか --- 国家としての自己決定能力の欠如

2023年08月28日 | 歴史探訪
 40代はじめくらいの頃だったと思うが、中西輝政さんの「なぜ国家は衰亡するのか」という本を読んだことがある。ずいぶん前の話なので、内容の詳細までは記憶していないが、この本の題名の答えを一言でいえば、「自己決定能力の欠如」ということだけは、はっきり記憶している。国家としての意思決定ができなくなると、国家は衰亡するのだ。会社でもガバナンスなどと言われ、内部統制などという言葉もよく使われるようになったが、国家としての意思決定をはっきりさせることが重要だということだろう。
 ただ、現代でも内閣総理大臣がいても、同じ党内の異なる意見を持つ勢力や野党、マスコミの論調、国民世論などの影響は、民主国家である以上、大いに存在する。戦前であっても似たようなものだった。意思決定ができたら、説明責任を果たすなどをして、納得してもらいながら、実行していくことが政治家の仕事でもあるだろう。
 最近、近代史の本を結構読むようになったが、日本が太平洋戦争、第2次世界大戦に参戦することになった原因を考えることがある。1931年の満州事変から15年間は、もう、戦争の15年になってしまい、真珠湾攻撃に突入する。
 
 元勲がいなくなり、世帯交代したことも一因はあろう。伊藤博文は、1909年暗殺されている。日露戦争の際のように伊藤は最後まで、大国ロシアとの外交交渉にかけていたし、いざ戦争が始まると、金子堅太郎をアメリカに派遣して、アメリカに終戦の仲介を画策させているし、娘婿の末松謙澄も海外派遣して、日本の立場のスポークスマンのようなことをさせている。功山寺の挙兵など、自ら刃の下をくぐって維新を、西欧の見聞、憲法制定、議会開設などを成し遂げて近代国家を作り上げてきた元勲は、あくまで、国を滅ぼさないように大局的視点からも慎重に事を進めていたのだ。
 そして日露戦争時の首相の桂太郎は、1913年に、前線で大活躍した児玉源太郎は、1906年に若くして亡くなってしまう。長生きした山県有朋が1922年に死去。その数か月前には原敬が暗殺されてしまう。
 創業の世代から次の世代に移っていくと、官僚制や陸軍士官学校や陸軍大学、海軍兵学校などの学校の成績で席次を決め、出世を決めてしまうようなシステムに徐々に変化していった。
 第1次世界大戦では、ヨーロッパが主戦場であったため、それほど苦労なしに戦勝国となり、好景気になっていった。大正デモクラシーという批判もされたが、短い期間ではあったが、いわゆるいい時代もあった。
 昭和に入ると内閣、陸軍、海軍、参謀本部などを統合する意思決定ができていない。国益ではなく、現代の省益のように、海軍なども自らの組織のメンツや自己拡大を目指しがちになってしまう。いきあたりばったりのようなこともあり、長期的な戦略のような国家意思の統一ができていないのだ。
 昭和天皇も即位後しばらくしての田中義一内閣への強烈な叱責により、田中首相は意気消沈して辞任し、しばらくすると急死する。このことから立憲君主制の天皇であるということをわきまえて、反省した結果、226事件の時と、終戦の決断の時以外は、差戻しや再考を促すことはあっても、御前会議でも、重臣たちの意見を尊重していたのだった。
 国家としての意思を総合的の長期的スケールで、決定する国家体制になっていなかったのが、戦争に突入し、国を亡ぼす原因であった。

 226事件も大恐慌後の不景気で東北の娘たちが、生きるために身売りされたりする惨状があり、昭和維新と称して重臣を一掃して天皇親政にすればという、一部で北一輝などの思想にも影響を受けた、青年将校たちが決起して、斎藤実、高橋是清、渡辺錠太郎教育総監や重臣たちが殺害されたり、重傷を負ったりして、以後の軍部の政治家や重要人物たちへの無言のプレッシャーになってしまった。それでも斎藤隆夫などは、反軍演説を堂々と議会で発言している事実もあったのだが。
 松岡洋右などという外務大臣を近衛文麿は任命してしまったのも不幸だった。さすがにまずかったと気づいて、当時は、首相に大臣の罷免権がなかったので、内閣を総辞職して、新たに組閣の大命を受けて、松岡を除いて新たに組閣をし直したりしている。でもヒトラーの独と同盟し、日独伊3国同盟となってしまったのだった。
 元勲では西園寺公望だけは生きていたが、公家出身で当時は相当高齢でもあった。また、五摂家筆頭の近衛文麿が総理大臣になったことも西園寺一人で大きな流れを左右できない状況に手を貸したのかもしれない。
 日本は、南進を決定し、米英と敵対することが決定的になってしまった。
 陸軍も満州への権益、満州事変、中国との確執、日中戦争、ノモンハン事件など、戦争へと突き進んでしまう。近衛も最後まで、ルーズベルトとのトップ会談によって、戦争回避を画策していたが、実現しないことがわかると、政権を投げ出してしまう。
 天皇は、明治天皇の御製の歌「四方の海 皆同胞(はらから)と思う世に など波風の立ち騒ぐらん」を披露し、あくまで平和を求め、米との外交交渉にこだわった。東条も努力はしたが、ハル・ノートで開戦を決意した。陸軍軍人として、明治以来何万人もの英霊の犠牲のもとに積み上げてきた満州を捨てることはできなかったのだろう。
 満州事変の頃から米の重鎮スチムソンなどは、日本を警戒していた。スチムソンは3選したルーズベルトに唯一叱責直言できる人物だったという。この人が、原爆投下を事実上決定したと言われている。ただ、京都に落とすことだけは反対したという。
 アメリカは、真珠湾攻撃を受けて、それまで、アメリカには日本に造詣があり、日本語を話せる人が数えるほどしかいなかったが、日本のことや日本語を勉強する人が急増したらしい。「己を知り敵を知れば、百戦危うからず」である。
 反対に日本は、敵の言葉ということで、英語を禁止する方向になってしまう。野球などでも、ストライクが「よし1本」だったという
 1942年の時点で、アメリカは、敗戦後の日本への占領政策を国家として検討し始め政策を具体的に詰めていっている。1942年といえば、まだミッドウェー海戦の頃だ。アメリカは、勝利することしか頭に無かったのだ。国力の違いは明白であったから、当然なのかもしれないが、日本からすれば驚くべきことだろう。
 アメリカ通で米国の実力を肌でわかっていた山本五十六も日米戦争には終始絶対反対していたが、開戦が決定的になると、「1年間は、大暴れしてみせますが、(その後は・・・)」 と長期スケールでの勝機は見いだせないまま、真珠湾への奇襲攻撃を実行する。ただ、在米日本大使館の不手際で、アメリカへの開戦通告が命令の時刻から遅れたため、日本の意思に反して「スニークアタック」となってしまい、それまで、反戦だった国民が「リメンバー、パールハーバー」とアメリカは一挙に日本への戦争賛成一色になってしまう。
 最初からアメリカと戦争をしても勝ち目はなく、東条は、「清水の舞台から飛び降りる気もち」とまで、言及している。そして飛び降りて本当に死んでしまうようなことになってしまったのだった・・。ただし、戦後、インドやアジアの植民地になっていた国々が次々に独立を勝ち取ると、「本当に良かった」と牢屋でつぶやいていたという。植民地になっていた国が、有色人種と言われた日本人が白人と戦って勝っている姿を見て、独立を勝ち取る勇気を与えられた面はあったのだろう。後付けのようではあったが、「八紘一宇」を掲げて、アジア諸国との会議を昭和18年に日本で開催した東条にとっては、大きな喜びと慰めでもあっただろう。

 昭和天皇も重臣もアメリカとの戦争は、勝つ見込みが少ないことはわかっていたのに、戦争に突入してしまったのは、様々な要因はあろうが、長期的スケールで、内閣、陸軍、海軍、参謀本部が統一して、国家意思として戦争はしないという自己決定をしなかったところにあり、ずるずると流されて、最終的には、後手後手になってしまい、そうせざるを得ないところまで、追い込まれてしまったところにあるのではないだろうか。

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「十八史略」の呉起と田文の逸話 --- 才にまさる徳の力

2023年08月18日 | 魂の人間学
「十八史略」には、4517人の人物が出てくるという。
人が一生で出会う人数には限りがあるし、少しでも歴史に名を遺す人物とこれだけの人数と知り合うことは、並大抵のことではないし、通常の人間であれば、無理と言ってもいいだろう。しかし、十八史略を丹念に読んでいけば、これらの人間のことを学ぶことができるということだ。人間学の教科書と言ってもいいだろう。
昔の学問は、四書五経の素読に始まり資治通鑑、そしてこの十八史略などの歴史書を読んで学問を学ぶことが多かった。教養人は、自然と深い人間学を学んでいたことになる。
 現代では、グローバルスタンダードMBAなどの学問もあるが、リベラル・アーツが見直されているとも良く聞くところだ。
 西洋的な学問に加えて、こういう人間学の造詣を学んでおくことも重要で、東洋流の「徳」を養う基盤のようなものにも繋がるのではないかと思う。
 若いころ、伊藤肇という人の「十八史略の人物学(プレジデント社)」という本を読んだことがある。
その中で、今でも記憶に残っている逸話があるので、ひとつだけ紹介したい。

魏の宰相の椅子をめぐってやりあった呉起と田文の逸話である。
 あるとき、宰相に誰が就任するかという問題が起き、当時、魏の国で重きをなしていた兵法家の呉起は、当然、自分に大命が降下すると思い込んでいたところ、ふたを開けてみると、友人の田文が任命されていた。
 面白くない呉起は、田文のところに乗り込んで詰問する。
「田文よ。貴様と俺とどっちがすぐれているか、比べてみようじゃないか。今までにずいぶんと戦ってきたが、君と俺とはどちらが戦略・戦術にたけているか。」
田文は、「それは君にはかなわない」
呉起「では、行政・外交についてはどうか」
田文「それも君の方が上だ」
呉起「それじゃあ、すべておれの方がまさっているじゃないか。しかるに貴様が宰相の印綬を帯びるとは何事か・当然辞退して、俺を推薦すべきではないのか」
これに対して田文は、「今、我が国は、先君没せられ、まだ、お若い後継ぎが即位されたばかりだ。役人も民衆も、この先、いったいどうなることやらと心を痛めている。おまけに他国は、隙あらば襲いかかろうと、虎視眈々と、この魏を狙っている。このように内外ともに不安動揺しているときに、宰相としてわしが適任か、それとも君が適任か」と呉起に問う。
呉起は、しばらく腕を組んで考え込んでいたが、やがてきっぱりと「わかった。やはり貴様が適任だ。」と言ったという。

 呉起は、現代でも呉子として有名な人物だが、才能や力量は、功利的なもので、田文は、人間の根本、本質を問題にしたのだ。
 「信なくば立たず」とか孔子の「民はこれを由らしむべし。知らしむべからず」という問題なのである。才よりも徳が勝るとも言えよう。現在では、リベラル・アーツが随分見直されていると聞くが、ひところのグローバルスタンダードの学問には、この「徳」というが概念は全く無視されていた面があったのではないだろうか。
こういう面も謙虚に学ぶことで、才に、より深い徳力のようなものが加わり、より深い教養、認識力を得ることになり、人間力もより深く、向上していくのものと思う。

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鈴木貫太郎内閣の終戦判断

2023年06月08日 | 魂の人間学
 幕末から1945年くらいまでの近現代史の本を盛んに読んでいる。
太平洋戦争の終戦のいきさつについて触れてみたい。
 日本の終戦は、あと半年くらい早く決断していれば、死傷者の数も激減していたはずだったといわれている。
 鈴木貫太郎が体を張って、抵抗する軍部を抑えて、天皇陛下の直接裁可のような形で終戦に持っていった。硫黄島や沖縄での驚異的な日本軍と日本人の抵抗は、本土決戦になれば、どれだけの犠牲が米国民に出るか、という推定をさせるに十分だった。
それが、広島・長崎への2発の原爆と、亡くなる前のルーズベルト大統領が、スターリンと極秘に約束していたソ連の参戦となり、終戦の判断が遅ければ、さらに死傷者の山となり、日本は複数の国に分断され、まともに国家が残ったかどうかもわからなかった。
日本のことが分かっている人が少ないアメリカで、数人ほどの知日派の努力によって、ポツダム宣言が発せられ、天皇と鈴木貫太郎が主導して、自らが犠牲になっても国民を守る意思の元、ポツダム宣言を受諾して、鈴木内閣は終戦を決断した。
 米国の首脳は、ポツダム宣言を発しても、あと半年くらいは、終戦にかかると予想していたようだ。
 陸軍大臣の阿南は、軍の意向が痛いほどわかっていたが、天皇から直接涙ながらに「こらえてくれ」という趣旨のお言葉を賜り、断れなかったという。阿南がもし、終戦に反対し、辞任してしまえば、閣内不一致となって、鈴木貫太郎内閣は瓦解し、終戦の判断もできなかったのである。阿南は玉音放送の夜、当時の言葉でいえば、見事自決を果たす。
 鈴木貫太郎は、226事件で青年将校らから3発の銃撃を受けたが、とどめを刺される寸前に生前、会話したことがあった栗原大尉に静止されて、奇跡的に助かった命だったのである。
 このことが、老齢などを理由に何回も辞退する鈴木に、天皇からそれでも懇願されるように、大命降下を受け、1度失った命と、命をかけて最後のご奉公と首相就任を決意をさせたのだった。
当時は、この判断をすれば、命を絶たれる可能性は十分にあったのだった。天皇の玉音放送も、軍の阻止行動で、3枚録音して、2枚が奪われ、やっとの1枚で放送できたらしい。
 この間のいきさつは、半藤一利さんの「日本の一番長い日」などに詳しい。
半藤一利さんによると終戦後、当時の高級軍人にインタビューすると、もっとあきらめずに本土決戦まで、持ち込めばよかったのだ、という人が何人もいたというから驚きだし、当時の状況が察せられるというものだ。
 鈴木貫太郎は、玉音放送の次の日、総辞職し、終戦の使命を果たして、皇族の東久邇内閣へとバトンタッチする。


 
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塩野七生さんのエッセイから連想して考えたこと 

2022年12月16日 | 随筆
 塩野七生さんのエッセイ集の最新刊「誰が国家を殺すのか 日本人へⅤ(文藝春秋刊)」を読んでいる。
 過去に「月刊 文藝春秋」に掲載したものを再編集して新刊本としたものだ。
 当時のイタリアの選挙情勢などがアップツーデイトに掲載されていて、4~5年ほど前の情報だが、逆に肩肘張らずに読むことができるし、「ローマ人の物語」15冊や「ギリシャ人の物語」3冊、計18冊を、1冊1年をかけて18年にわたって執筆してきた著者としての見識を持って書かれているので、それら18冊を読破した者としては、それなりの愛着や多少の尊敬心を持って読むことができている。
 まだ、読みはじめたところだが、電車の中で読んでいて、面白いなと思った箇所があった。
 「夏のローマの陽光は強烈で、特に女性は、銀座ではとてもできないお洒落ができる」とのことで、つばの広い帽子とサングラスが欠かせないそうだ。帽子もサングラスもイタリア製が良いそうで、そこからの表現が面白い。「中高年になってからのおしゃれは、自分に似合うことよりも風景画の中の点景になってはどうでしょう。」ときた。「そしてローマは、彫刻家のベルニーニが考えたように、何であろうが上演が可能な「舞台」でもあるのです。」と書いている。
 「自分に似合うことよりも風景画の中の点景になる」という考え方は、私にとっては、大変面白く印象的な考え方であった。女性のおしゃれとは、自分も含めて、もちろんTPOは考えるだろうが、自分に似合うことが1番かと、自分勝手には思っていたし、大体の女性もそうなのではないかと思っていたのだ。
 なんとなくは思っていても、言葉ではっきり表現されると新たな視点をもらったような感覚を持ったのだ。
 この文章を読みながら、あることを考えていた。連想したと言った方がいいかもしれない。
 ヒルティが「幸福論」のどこかで、「悪はどこから」という論考を載せていたことだ。
 しかし、若い頃は、この問題は多少難しくて、ましてやキリスト者でもあるヒルティの文章であることもあってか、なかなか自分の中で結論めいたものを見出せないでいたのだ。
 しかし、15年ほど前だっただろうか、ある本で、「これは」という結論のようなものを見出したのだ。それは、悪の起源とは、「部分が全体であると言い張ることかもしれない」というものだ。「・・かもしれない。」と断定的でないところが、ますます奥ゆかしいというか、そうかもしれないなと妙に納得し、腹に落ちた記憶があるのだ。
 会社でも「全体最適」などという言葉がだんだん聞かれるようになった時期でもあった。
 確かに個人の権利が蹂躙されるのは問題だが、個人の権利を主張しすぎるのも問題がある。ようはバランスの問題でもあるが、例えば高速道路の用地や空港建設の際の土地の問題なども、個々の事情はあるとは思うが、主張するべき権利は主張するにしても、最後は公に協力する精神もないと先に進まず、全体の、あるいは公共の大きな利益が、ごく一部の自己主張のために、そがれてしまい、大きな損失になる場合などがあてはまるのではないかと思ったのだ。
 「自分に似合うことよりも風景画の中の点景になる」お洒落なるものをサラッと着こなせたら、自分の個性と全体の調和をうまい具合にバランスがとれたら、とても素敵なことだし、そんな、「ローマの舞台」を見てみたい。そういう街の景観の「キャンバスの絵」や「写真」などを見てみたいものだと思う。
 自己主張と全体最適との調和、全体の風景、景観を損なわない自己の個性の表現ということができるか否か、そういう絶妙のバランスがとれるかどうかが肝要なのではないか、と思ってしまった次第でもある。
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