纏向遺跡と箸墓古墳、三輪山近辺散策記
昨年、吉野ヶ里遺跡に行ったことは、このブログにも記載させていただいたが、今月、奈良県桜井市の纏向遺跡一帯から三輪山近辺を散策してみた。
JR巻向駅から三輪駅を、遺跡を巡りながら4時間くらいかけて徒歩で散策したのだった。
その中で最も大きな遺跡と言えるのが、箸墓古墳だった。倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)のお墓ということだ。
一部には卑弥呼の墓という説があるようだが、私は、全く専門家ではないのであるが、臺與(台与:トヨ)の墓ではないかと思って散策をしていた。
今回の纏向一帯に行く理由は、この臺與(台与:トヨ)のお墓、巨大な前方後円墳を実際に自分の目で見てみたかった、というのが大きな理由だ。
NHKの特集や専門書の読みかじりなどから、自分の中では、邪馬台国(本来は、ヤマト国と言うらしい)は、卑弥呼(本来は日向(ヒムカ)と言うらしい)の時代には、九州にあったが、臺與(台与:トヨ)の時代に、どうも纏向あたりに移ってきたらしい、というのが、真実なのではないかと思って、今回はここに行くことにしたのだった。
邪馬台国(ヤマト国)は、魏志倭人伝や中国のその他の文献などから、巫女の能力があった卑弥呼(日向)の死後、男王が立ったが、男王が立ったとたんに各地から反乱ののろしが上がって、国がまとまらなくなったという。そこで、卑弥呼(日向)のそばで巫女の修行をしていた、卑弥呼(日向)から一番信頼の厚かった縁戚関係の臺與(台与:トヨ)に白羽の矢が立って、後継者となると国が収まったという話が残っているのだ。
邪馬台国(ヤマト国)には、所在地として九州説と畿内説があって、どちらの学説もゆずれないようだ。でも、2世紀から3世紀のことだから、日本国内の文献的にも非常に乏しく、中国の魏や晋の時代の記録を主に頼っているのが現状のようだ。
古事記や日本書紀は、あとから書かれた本だ。邪馬台国(ヤマト国)は、最初は九州にあったが、卑弥呼の死後、臺與(台与)の時代に畿内に遷移したとすれば、2つの説が両者とも間違ってはいないということになる。
散策しながら、3世紀には、当時としては栄えていたであろう、巻向駅から三輪駅一帯は、現在は、大変のどかな田園地帯であったのが、少し意外というのか感慨深かった。まあ、当時もこんな感じだったのだろうな、とは思ったが、現代にしてみると、当時の日本の首都のような地だったはずの、このあたりが、昔のまま、のどかな原っぱと田園地帯であるということに少し、おもしろいものだな、という感想を持ちながら・・。
思えば、ギリシャのパルテノン神殿やゼウス神殿、アポロン神殿なども、当時は文明の中心地であったであろうが、今は、観光客は多いが、完全に遺跡になってしまっているのを、なんとなく連想しながら歩いていたのだった。
たんぼには、多数のカエルや、都会では見られない大きな黒い貝がたくさんいた。
田んぼのあぜ道のようなところや、草原のようなところを歩いていくと、バッタも結構飛んでいた。詳しい種類はわからなかったが、昔は良く見ることのできた、トノサマバッタなども結構いたようだ。いわば散策には、もってこいの、のどかな田園地帯なのだった。
巻向駅は、無人駅だった。でも、スイカ、パスモなども使える機械は設置されていた。大阪からパスモで入場したので、機械がなかったら、どうしようかと、少し不安だったのだが、ホッとした。
巻向駅から、しばらく歩くと、4つくらい古墳があった。見学して写真を撮ったりして散策していった。巻向駅近くには、柿本人麻呂の住居跡もあって、やはり、3世紀以降少なくとも8世紀くらいまでは、日本の中心地と言ってもいいほどの場所だったのだな、と実感した。
景行天皇陵や額田王の碑などの、近くまで行って巻向駅に戻る形で、箸墓古墳に向かった。木が生い茂った大きな前方後円墳なので、遠くからでも、あれが、箸墓古墳なのだな、ということがすぐにわかった。
近くに行くと、池があって、一部で金魚の養殖もされているようだった。
古墳の正面になると思われるところに、鳥居があって、倭迹迹日百襲姫命という石碑が立っていた。箸墓古墳自体が神社のようになっていたのだ。
箸墓古墳を後にすると、三輪駅方面に向かった。直行するのではなく、遺跡のありそうなところを少し遠回りするように散策していった。
村社国津神社という神社があった。
あまり詳しくはないのだが、そういえば、天津神系と国津神系の2つの系統があって、古代には、多少いさかいのようなものもあったように聞いたことがある。
さらに歩いていくと、三輪山のふもとを歩いていた。古来から山自体が信仰されていて、立入禁止だった時代が長かったと聞く。大物主という神が祭られているとも・・。確か、美内すずえさんの「アマテラス」という漫画だったかで、この辺が取り上げられていたのを思い出した。古代の神話や遺跡に事欠かない地なのだ。
三輪明神「大神神社」の大きな看板があったが、社はない。広告塔でもあるのだろうが、三輪山自体が御神体なので、三輪山をバックにした一番いいロケーションに、この看板があっても不思議ではない。
遠くには、見るからに巨大な鳥居が見える。毎年、千鳥が淵の花見の際に見ることになる、近くの靖国神社の鳥居と同じか大きいくらいの巨大なものだろう。
さらに進んで、わざと小さな道を歩いていくと、富士神社、厳島神社(弁天社)の2つの小さめの社があった。
さらにいくと、三輪山をバックにした、非常に景色と場所がいいところに、倭迹迹日百襲姫命を祭った社があった。大神神社摂社、神御前神社とある。
今でこそ、電線や家が写ってしまっているが、古代以降、三輪山を後ろに最高の景色であったであろう。崇仁天皇ゆかりの地で、江戸時代には、栄えた神社であったような記述もある。
こういう、見落としてしまうような小さな場所でも、古代から重要な役目をはたしていた場所に出会えることは、徒歩での散策の醍醐味を味わえるというものだ。
そして、さらに歩いていくと、三輪駅の近くに来たようだ。巨大な鳥居が近くなっている。三輪明神「大神大社(おおみわ大社)」の神社が近くにある。鳥居は、駅をはさんで、神社と反対側にある、4分ほど歩くところだ。高さが32メートルもあるとのことだった。昭和59年に昭和天皇が行幸され、在位60年を記念して、建てられたとのことだ。
最後は、「大神大社(おおみわ大社)」の神社にも参りした。由緒ありそうな立派な神社だった。
昨年、吉野ヶ里遺跡に行ったことは、このブログにも記載させていただいたが、今月、奈良県桜井市の纏向遺跡一帯から三輪山近辺を散策してみた。
JR巻向駅から三輪駅を、遺跡を巡りながら4時間くらいかけて徒歩で散策したのだった。
その中で最も大きな遺跡と言えるのが、箸墓古墳だった。倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)のお墓ということだ。
一部には卑弥呼の墓という説があるようだが、私は、全く専門家ではないのであるが、臺與(台与:トヨ)の墓ではないかと思って散策をしていた。
今回の纏向一帯に行く理由は、この臺與(台与:トヨ)のお墓、巨大な前方後円墳を実際に自分の目で見てみたかった、というのが大きな理由だ。
NHKの特集や専門書の読みかじりなどから、自分の中では、邪馬台国(本来は、ヤマト国と言うらしい)は、卑弥呼(本来は日向(ヒムカ)と言うらしい)の時代には、九州にあったが、臺與(台与:トヨ)の時代に、どうも纏向あたりに移ってきたらしい、というのが、真実なのではないかと思って、今回はここに行くことにしたのだった。
邪馬台国(ヤマト国)は、魏志倭人伝や中国のその他の文献などから、巫女の能力があった卑弥呼(日向)の死後、男王が立ったが、男王が立ったとたんに各地から反乱ののろしが上がって、国がまとまらなくなったという。そこで、卑弥呼(日向)のそばで巫女の修行をしていた、卑弥呼(日向)から一番信頼の厚かった縁戚関係の臺與(台与:トヨ)に白羽の矢が立って、後継者となると国が収まったという話が残っているのだ。
邪馬台国(ヤマト国)には、所在地として九州説と畿内説があって、どちらの学説もゆずれないようだ。でも、2世紀から3世紀のことだから、日本国内の文献的にも非常に乏しく、中国の魏や晋の時代の記録を主に頼っているのが現状のようだ。
古事記や日本書紀は、あとから書かれた本だ。邪馬台国(ヤマト国)は、最初は九州にあったが、卑弥呼の死後、臺與(台与)の時代に畿内に遷移したとすれば、2つの説が両者とも間違ってはいないということになる。
散策しながら、3世紀には、当時としては栄えていたであろう、巻向駅から三輪駅一帯は、現在は、大変のどかな田園地帯であったのが、少し意外というのか感慨深かった。まあ、当時もこんな感じだったのだろうな、とは思ったが、現代にしてみると、当時の日本の首都のような地だったはずの、このあたりが、昔のまま、のどかな原っぱと田園地帯であるということに少し、おもしろいものだな、という感想を持ちながら・・。
思えば、ギリシャのパルテノン神殿やゼウス神殿、アポロン神殿なども、当時は文明の中心地であったであろうが、今は、観光客は多いが、完全に遺跡になってしまっているのを、なんとなく連想しながら歩いていたのだった。
たんぼには、多数のカエルや、都会では見られない大きな黒い貝がたくさんいた。
田んぼのあぜ道のようなところや、草原のようなところを歩いていくと、バッタも結構飛んでいた。詳しい種類はわからなかったが、昔は良く見ることのできた、トノサマバッタなども結構いたようだ。いわば散策には、もってこいの、のどかな田園地帯なのだった。
巻向駅は、無人駅だった。でも、スイカ、パスモなども使える機械は設置されていた。大阪からパスモで入場したので、機械がなかったら、どうしようかと、少し不安だったのだが、ホッとした。
巻向駅から、しばらく歩くと、4つくらい古墳があった。見学して写真を撮ったりして散策していった。巻向駅近くには、柿本人麻呂の住居跡もあって、やはり、3世紀以降少なくとも8世紀くらいまでは、日本の中心地と言ってもいいほどの場所だったのだな、と実感した。
景行天皇陵や額田王の碑などの、近くまで行って巻向駅に戻る形で、箸墓古墳に向かった。木が生い茂った大きな前方後円墳なので、遠くからでも、あれが、箸墓古墳なのだな、ということがすぐにわかった。
近くに行くと、池があって、一部で金魚の養殖もされているようだった。
古墳の正面になると思われるところに、鳥居があって、倭迹迹日百襲姫命という石碑が立っていた。箸墓古墳自体が神社のようになっていたのだ。
箸墓古墳を後にすると、三輪駅方面に向かった。直行するのではなく、遺跡のありそうなところを少し遠回りするように散策していった。
村社国津神社という神社があった。
あまり詳しくはないのだが、そういえば、天津神系と国津神系の2つの系統があって、古代には、多少いさかいのようなものもあったように聞いたことがある。
さらに歩いていくと、三輪山のふもとを歩いていた。古来から山自体が信仰されていて、立入禁止だった時代が長かったと聞く。大物主という神が祭られているとも・・。確か、美内すずえさんの「アマテラス」という漫画だったかで、この辺が取り上げられていたのを思い出した。古代の神話や遺跡に事欠かない地なのだ。
三輪明神「大神神社」の大きな看板があったが、社はない。広告塔でもあるのだろうが、三輪山自体が御神体なので、三輪山をバックにした一番いいロケーションに、この看板があっても不思議ではない。
遠くには、見るからに巨大な鳥居が見える。毎年、千鳥が淵の花見の際に見ることになる、近くの靖国神社の鳥居と同じか大きいくらいの巨大なものだろう。
さらに進んで、わざと小さな道を歩いていくと、富士神社、厳島神社(弁天社)の2つの小さめの社があった。
さらにいくと、三輪山をバックにした、非常に景色と場所がいいところに、倭迹迹日百襲姫命を祭った社があった。大神神社摂社、神御前神社とある。
今でこそ、電線や家が写ってしまっているが、古代以降、三輪山を後ろに最高の景色であったであろう。崇仁天皇ゆかりの地で、江戸時代には、栄えた神社であったような記述もある。
こういう、見落としてしまうような小さな場所でも、古代から重要な役目をはたしていた場所に出会えることは、徒歩での散策の醍醐味を味わえるというものだ。
そして、さらに歩いていくと、三輪駅の近くに来たようだ。巨大な鳥居が近くなっている。三輪明神「大神大社(おおみわ大社)」の神社が近くにある。鳥居は、駅をはさんで、神社と反対側にある、4分ほど歩くところだ。高さが32メートルもあるとのことだった。昭和59年に昭和天皇が行幸され、在位60年を記念して、建てられたとのことだ。
最後は、「大神大社(おおみわ大社)」の神社にも参りした。由緒ありそうな立派な神社だった。