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「邪馬台国」「卑弥呼」「臺與(台与)」を巡る旅 ――― 纏向遺跡と箸墓古墳、三輪山近辺散策記

2014年08月29日 | 旅行
   纏向遺跡と箸墓古墳、三輪山近辺散策記

 昨年、吉野ヶ里遺跡に行ったことは、このブログにも記載させていただいたが、今月、奈良県桜井市の纏向遺跡一帯から三輪山近辺を散策してみた。
JR巻向駅から三輪駅を、遺跡を巡りながら4時間くらいかけて徒歩で散策したのだった。

 
 その中で最も大きな遺跡と言えるのが、箸墓古墳だった。倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)のお墓ということだ。
一部には卑弥呼の墓という説があるようだが、私は、全く専門家ではないのであるが、臺與(台与:トヨ)の墓ではないかと思って散策をしていた。
 
 今回の纏向一帯に行く理由は、この臺與(台与:トヨ)のお墓、巨大な前方後円墳を実際に自分の目で見てみたかった、というのが大きな理由だ。
NHKの特集や専門書の読みかじりなどから、自分の中では、邪馬台国(本来は、ヤマト国と言うらしい)は、卑弥呼(本来は日向(ヒムカ)と言うらしい)の時代には、九州にあったが、臺與(台与:トヨ)の時代に、どうも纏向あたりに移ってきたらしい、というのが、真実なのではないかと思って、今回はここに行くことにしたのだった。

 邪馬台国(ヤマト国)は、魏志倭人伝や中国のその他の文献などから、巫女の能力があった卑弥呼(日向)の死後、男王が立ったが、男王が立ったとたんに各地から反乱ののろしが上がって、国がまとまらなくなったという。そこで、卑弥呼(日向)のそばで巫女の修行をしていた、卑弥呼(日向)から一番信頼の厚かった縁戚関係の臺與(台与:トヨ)に白羽の矢が立って、後継者となると国が収まったという話が残っているのだ。

 邪馬台国(ヤマト国)には、所在地として九州説と畿内説があって、どちらの学説もゆずれないようだ。でも、2世紀から3世紀のことだから、日本国内の文献的にも非常に乏しく、中国の魏や晋の時代の記録を主に頼っているのが現状のようだ。
 古事記や日本書紀は、あとから書かれた本だ。邪馬台国(ヤマト国)は、最初は九州にあったが、卑弥呼の死後、臺與(台与)の時代に畿内に遷移したとすれば、2つの説が両者とも間違ってはいないということになる。
 
 散策しながら、3世紀には、当時としては栄えていたであろう、巻向駅から三輪駅一帯は、現在は、大変のどかな田園地帯であったのが、少し意外というのか感慨深かった。まあ、当時もこんな感じだったのだろうな、とは思ったが、現代にしてみると、当時の日本の首都のような地だったはずの、このあたりが、昔のまま、のどかな原っぱと田園地帯であるということに少し、おもしろいものだな、という感想を持ちながら・・。
 
 思えば、ギリシャのパルテノン神殿やゼウス神殿、アポロン神殿なども、当時は文明の中心地であったであろうが、今は、観光客は多いが、完全に遺跡になってしまっているのを、なんとなく連想しながら歩いていたのだった。
たんぼには、多数のカエルや、都会では見られない大きな黒い貝がたくさんいた。
 
 田んぼのあぜ道のようなところや、草原のようなところを歩いていくと、バッタも結構飛んでいた。詳しい種類はわからなかったが、昔は良く見ることのできた、トノサマバッタなども結構いたようだ。いわば散策には、もってこいの、のどかな田園地帯なのだった。

 巻向駅は、無人駅だった。でも、スイカ、パスモなども使える機械は設置されていた。大阪からパスモで入場したので、機械がなかったら、どうしようかと、少し不安だったのだが、ホッとした。


 巻向駅から、しばらく歩くと、4つくらい古墳があった。見学して写真を撮ったりして散策していった。巻向駅近くには、柿本人麻呂の住居跡もあって、やはり、3世紀以降少なくとも8世紀くらいまでは、日本の中心地と言ってもいいほどの場所だったのだな、と実感した。



 
 景行天皇陵や額田王の碑などの、近くまで行って巻向駅に戻る形で、箸墓古墳に向かった。木が生い茂った大きな前方後円墳なので、遠くからでも、あれが、箸墓古墳なのだな、ということがすぐにわかった。
 
 近くに行くと、池があって、一部で金魚の養殖もされているようだった。


 古墳の正面になると思われるところに、鳥居があって、倭迹迹日百襲姫命という石碑が立っていた。箸墓古墳自体が神社のようになっていたのだ。

  
 
 箸墓古墳を後にすると、三輪駅方面に向かった。直行するのではなく、遺跡のありそうなところを少し遠回りするように散策していった。
 
 村社国津神社という神社があった。


あまり詳しくはないのだが、そういえば、天津神系と国津神系の2つの系統があって、古代には、多少いさかいのようなものもあったように聞いたことがある。

 さらに歩いていくと、三輪山のふもとを歩いていた。古来から山自体が信仰されていて、立入禁止だった時代が長かったと聞く。大物主という神が祭られているとも・・。確か、美内すずえさんの「アマテラス」という漫画だったかで、この辺が取り上げられていたのを思い出した。古代の神話や遺跡に事欠かない地なのだ。
 
 三輪明神「大神神社」の大きな看板があったが、社はない。広告塔でもあるのだろうが、三輪山自体が御神体なので、三輪山をバックにした一番いいロケーションに、この看板があっても不思議ではない。


遠くには、見るからに巨大な鳥居が見える。毎年、千鳥が淵の花見の際に見ることになる、近くの靖国神社の鳥居と同じか大きいくらいの巨大なものだろう。

 さらに進んで、わざと小さな道を歩いていくと、富士神社、厳島神社(弁天社)の2つの小さめの社があった。
  

さらにいくと、三輪山をバックにした、非常に景色と場所がいいところに、倭迹迹日百襲姫命を祭った社があった。大神神社摂社、神御前神社とある。

  
 今でこそ、電線や家が写ってしまっているが、古代以降、三輪山を後ろに最高の景色であったであろう。崇仁天皇ゆかりの地で、江戸時代には、栄えた神社であったような記述もある。

こういう、見落としてしまうような小さな場所でも、古代から重要な役目をはたしていた場所に出会えることは、徒歩での散策の醍醐味を味わえるというものだ。
 
 そして、さらに歩いていくと、三輪駅の近くに来たようだ。巨大な鳥居が近くなっている。三輪明神「大神大社(おおみわ大社)」の神社が近くにある。鳥居は、駅をはさんで、神社と反対側にある、4分ほど歩くところだ。高さが32メートルもあるとのことだった。昭和59年に昭和天皇が行幸され、在位60年を記念して、建てられたとのことだ。


 最後は、「大神大社(おおみわ大社)」の神社にも参りした。由緒ありそうな立派な神社だった。
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「我が世代」そして「新入社員の頃」

2014年08月10日 | 随筆

 会社の新入社員の頃には、「石の上にも3年」とはよく言ったもので、大変忙しかった。人は、石垣、人は城という歌を初めて先輩が歌っているのを聞いたり、会社では、軍隊制度の名残りのようなこともまだ多少残っていた。入社時の職場のトップは、陸軍の士官経験者だった。

 それほどひどいこともなかったが、パワハラなんていう言葉は、これっぽっちもなかったし、現在と比較すると、多少荒削りのような時代だったように思う。私が入社した頃から、「顰蹙を買う」などということばが、浸透してきたように思えるほどだった。
そういえば、私たちは「新人類」などと呼ばれていた世代だった。

  確かに、生まれて物心がついたころから「テレビ」というものがあり、文字や言葉だけでなく、テレビという文明の利器による「映像」を見て育ってきたのだ。
少年サンデーやマガジン、キング、ジャンプなども1960年ころから本格的に出版され始めたし、テレビアニメも、たくさん放映されていた。ウルトラQやキャプテンウルトラ、ウルトラマン、ウルトラセブン、マグマ大使、ジャイアント・ロボなどの特撮モノも多かった。

  レコードのペラペラのプラスチィック盤のような、ソノシートというのが、売られていて、今でも1960年代のアニメや特撮モノの主題歌なら、ほとんど記憶を頼りに歌えると思う。
もはや戦後ではないなどと言われ、高度経済成長のタイミングで生まれて、波乗りように生きて来ることが出来た、ある意味で幸せな世代でもあった。

 ただ、新人類とか、しらけの世代などと言われた。学生運動をするわけでもなし、友人が一緒に集まっても、それほど、喧々諤々と人生論を戦わせるようなことは、あまり無い世代だったように思う。

 そんな感じだから、自分の頭で考え、本を読んだりして、自分の人生は、自分で真剣に模索していたとしても、それを友人間では、議論するようなことまでは、あまりしなかったように思う。
  個人的には、自分に心の中と、周りに同調させる自分をいかに模索して、現実社会に合わせていくかは、多少苦労した若者時代でもあったかもしれない。

 就職して、「石の上にも3年」の新人生活では、多少、奴隷っぽいように忙しくて、家に帰ると、岩崎宏美さんの「聖母たちのララバイ」という歌に癒されていた記憶もある。
最初に主題歌として使われた、火曜サスペンス劇場などの昼ドラには、全く縁が無かった会社員新人生活を送っていたのだった。布施明さんの「君は薔薇より美しい」なんていう曲もお気に入りだった。

  映画では、「ゴッドファーザー」「ある愛の詩」「愛と青春の旅立ち」「トップガン」「フラッシュダンス」などという映画がはやり、休みの日に観に行った記憶も残っている。
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足ることを知る

2014年08月08日 | 魂の人間学
足ることを知る

 人生は絵に描いた餅ではない。

 理想的な人生を思い描くことは、素晴らしいことだし、それが実現すれば、もっと素晴らしいことだと思う。

 だが、正直、なかなかそうはいかないことも多いし、それが現実でもある。
 ただ、思い描いた通りではなくても、あとから振り返ってみると、これでよかったのだな、と思うことは、多いように思う。

 白馬に乗った素敵な王子様が現れて、幸せな結婚をしたい、と思っていても、多分、なかなかそうはいかないものだ。文字通りの「白馬に乗った」ということではなくても、家柄が良い家庭の二男で、本人の収入も良く、優しくてかっこいいイケメンで背も高くて、最高のパートナーというようなことも、多分95%以上の確率で、そうはならないのではないだろうか。

 でも、そうではなくても、新婚生活は、大変楽しく幸せだったりすることが多い。
絵に描いた餅のようにはならなくても、まあまあまんざらでもないような生活を送れたりもする。

 そういう面では、高望みの最高状態にはならなかったかもしれないけど、まあまあ幸せに満足して生きていくことができたら、それでよしとする心や必要だろう。それを「足ることを知る」というのではないだろうか。

 そういうまあまあの幸せに感謝できる「足ることを知る」人生態度で生きていく心がけも必要なのではないだろうか。
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陽明学について

2014年08月07日 | 魂の人間学
陽明学について

陽明学について書かれた本を読んだ時期があった。最初はやはり、安岡正篤さんの本から陽明学を学んだが、守屋洋さんの、新釈「伝習録」という本が、若き日に、決定的に陽明学を自分の身近なものにしてくれたのだった。
あとは、言志四録の佐藤一斎さん、この人は、幕府の儒者で、朱子学をバックボーンにしているが、陽明学の学問の流れも受けていると言っていいのだと思える。西郷隆盛が、この言志四録から101条ほどを書き写しているも懐に入れていた、という話は、有名だろう。

私も、この言志四録は、若き日の、そして今でもだが、大切な座右の書である。ヒルティ、新渡戸稲造、王陽明、呻吟語、菜根譚、そしてこの言志四録は、若き日に自分の基礎を創ってくれた本と言っても過言ではない。そして本多静六さん、安岡正篤さん、守屋洋さん、中村天風さん、森信三さん、ニューサイエンスの本などもそうだろうか。

陽明学については、林田明大さん、吉田和男さん、越川春樹さん、矢吹邦彦さんなどの本も読んだものだ。山田方谷について書かれた、矢吹邦彦さんの本も圧巻だったし、童門冬二さんの本も良かった。
源了園という人の、徳川思想小史という本を結構はまって読んだこともあった。
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ニューサイエンスについて

2014年08月07日 | 科学と人間
ニューサイエンスについて

1980年代前半だったが、大学を卒業し、就職してからニューサイエンス関係の本をよく読んだ時期があった。最初に読んだ、とっかかりの本はライアル・ワトソンの「生命潮流」だった。
この本は、冒頭から、誠に不思議なことが書いてある本だったので、分厚い本だったが、引き込まれて、短期間で読んでしまったと記憶する。

そして「還元主義を超えて」という本だったと思うが、部分の総和は、必ず全体より小さい。【部分の総和 < 全体】という、通常の数学とは違う結論を学んだものだ。
頭の中の直観、感覚や概念では、そのようなことを思っていたところに、「そうそれ!」というような言葉を与えてくれたような内容だったので共感したのを覚えている。
 
 あとは、ピーター・ラッセルの「グローバル・ブレイン」などは、大変印象に残っている。やはり、若いなりに物事を考えてはいたが、学問なども細分化されすぎてきて、グローバルな視点から行動を起こさないと、アマゾンやアフリカなどの森林資源伐採などによる、地球の酸素ボンベの危機とか、地球規模の環境破壊や生態系の問題、あるいは核兵器による人類存続の危機といったことに対応できずに、まるでレミングの集団自決のようなことのなりかねないと危機感を持っていたころに出会ったので共感したのだった。
 
 現在でも中央省庁の縦割りの弊害などは、30年前と本質的には変わっていないと言えるだろう。
 まあ、当時から、産学官共同などと言われて、多少は改善されたのかもしれないが・・、。

  要素還元主義は、マクロにとらえる目的を、要素や部分に分けて、解明していくことを目的としてきたと思うが、細部を深めることのみに固執して、それが、いわば目的のようになってしまい、最初の目的であった、巨視的に物事の本質をとらえ直すということを、忘れてしまっているように感じていたのだ。一国の総理大臣とか、シンクタンクとかの、集団指導でもいいから、トータルな視点を、立派な「人物」に委ねた判断が必要になっていると思っていた。
 国連などでは、そういう地球規模の視点からの議論があって、重要なことだと思ったものだ。

  巨視的な視点から、地球規模から問題をとらえるということの必要性を感じていたので、こういう読書傾向になっていったのかと思う。

 「ホロン革命」という本があり、日本でも、この「ホロン」という言葉を題名にした本が出回っていたように思う。医学の分野でも、ホーリスティックなどと言って、統合医療の重要性が指摘され始めた頃でもあったかと思う。
大学病院などで、何科、何科と分かれているが、2つや3つの科にまたがるような合併した病気もたくさんある。自分の専門と違うから何科に行ってくれと、また検査のやり直しをしたりすることもあり辟易することもある。病院が変われば、やり直しはつきまとうのが通常だ。

 確かに高度な医療には専門性が重視されることもわかるが、患者を診て、触診して、どこが悪いかをある程度はわかるような医者が本物で、次に検査があるのではないか。人の顔もロクに見ないで、検査の値のみしか見ない医者を、どうも心底信用できない気がしてならないのだが・・。

 まあ、個人のカルテの共用システムのような、ITに依存する部分や厚生行政の決断によるところもあろうが・・。
西洋医学は、要素還元主義、東洋医学は、どちらかというと統合医療のようなものに近いのかもしれない。両刀づかいで、長所をとれば、鬼に金棒になるのかもしれないが・・・。

ホロンという言葉から、密教の曼荼羅を連想したり、雪の結晶のような、切片曲線論を結びつけたりしたのも、その頃だったかと思う。
 スタニスラフ・グロフという人の「スフィンクスと虹」という本も印象に残っている。
単なる、実験物理や化学、のみでなく、人の心理や、念いのようなものも考慮した、科学のようなものの必要性を感じていた頃に、いわば同通、同期したように、ニューサイエンスの本を読み漁った日々だった。
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