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鈴木貫太郎内閣の終戦判断

2023年06月08日 | 魂の人間学
 幕末から1945年くらいまでの近現代史の本を盛んに読んでいる。
太平洋戦争の終戦のいきさつについて触れてみたい。
 日本の終戦は、あと半年くらい早く決断していれば、死傷者の数も激減していたはずだったといわれている。
 鈴木貫太郎が体を張って、抵抗する軍部を抑えて、天皇陛下の直接裁可のような形で終戦に持っていった。硫黄島や沖縄での驚異的な日本軍と日本人の抵抗は、本土決戦になれば、どれだけの犠牲が米国民に出るか、という推定をさせるに十分だった。
それが、広島・長崎への2発の原爆と、亡くなる前のルーズベルト大統領が、スターリンと極秘に約束していたソ連の参戦となり、終戦の判断が遅ければ、さらに死傷者の山となり、日本は複数の国に分断され、まともに国家が残ったかどうかもわからなかった。
日本のことが分かっている人が少ないアメリカで、数人ほどの知日派の努力によって、ポツダム宣言が発せられ、天皇と鈴木貫太郎が主導して、自らが犠牲になっても国民を守る意思の元、ポツダム宣言を受諾して、鈴木内閣は終戦を決断した。
 米国の首脳は、ポツダム宣言を発しても、あと半年くらいは、終戦にかかると予想していたようだ。
 陸軍大臣の阿南は、軍の意向が痛いほどわかっていたが、天皇から直接涙ながらに「こらえてくれ」という趣旨のお言葉を賜り、断れなかったという。阿南がもし、終戦に反対し、辞任してしまえば、閣内不一致となって、鈴木貫太郎内閣は瓦解し、終戦の判断もできなかったのである。阿南は玉音放送の夜、当時の言葉でいえば、見事自決を果たす。
 鈴木貫太郎は、226事件で青年将校らから3発の銃撃を受けたが、とどめを刺される寸前に生前、会話したことがあった栗原大尉に静止されて、奇跡的に助かった命だったのである。
 このことが、老齢などを理由に何回も辞退する鈴木に、天皇からそれでも懇願されるように、大命降下を受け、1度失った命と、命をかけて最後のご奉公と首相就任を決意をさせたのだった。
当時は、この判断をすれば、命を絶たれる可能性は十分にあったのだった。天皇の玉音放送も、軍の阻止行動で、3枚録音して、2枚が奪われ、やっとの1枚で放送できたらしい。
 この間のいきさつは、半藤一利さんの「日本の一番長い日」などに詳しい。
半藤一利さんによると終戦後、当時の高級軍人にインタビューすると、もっとあきらめずに本土決戦まで、持ち込めばよかったのだ、という人が何人もいたというから驚きだし、当時の状況が察せられるというものだ。
 鈴木貫太郎は、玉音放送の次の日、総辞職し、終戦の使命を果たして、皇族の東久邇内閣へとバトンタッチする。