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10代後半に読んだ本

2013年12月30日 | 人間学
 高校時代は、正直学校で課題図書になったり宿題になったりするもの以外、本らしい本を読まなかった。しかし、受験勉強最終盤ころに、無性に受験に関係のない本が読みたくなってしょうがなかった。
  そして、最初に自発的に読んで感動した本は、「カーネギー名言集」だった。父親の本棚にあったのが目について手に取ったのだった。箴言集のように短い文章がテーマ別に並んでいて、カーネギーが感動した様々な偉人の言葉の抜粋だから、若い私には、たくさん本を読まずして、重要なエッセンスのみを読むことができたということもできる。カーネギーの抜粋もさすがに素晴らしいものだったと思う。箴言集のようなものでいえば、三木清とかも読んだ記憶がある。パスカルのパンセも最初から読む、というスタイルではなく、目次を見て興味があるところを拾い読みするようなスタイルで結構読んだ記憶がある。
 
 大学に入学すると、堰を切ったように授業にまったく関係のない本を読むようになったのだった。カーネギー名言集の次は、亀井勝一郎という人の本を読んだと思う。実は、亀井勝一郎や小林秀雄といったひとは、当時の受験国語によく出題されると言われていたが、出題されるから読む、というほど余裕もなかったので、受験準備としては読まなかったのだが、受験が終わって大学に入学してから、受験とは全く関係なく読んだのだった。
今で言えば、少し古かったかもしれないが、青春期の読書としては、タイムリーだったと思う。私より結構上の世代の人たちは、「三太郎の日記」という本を読んでいた、という話を聞いたが、私は、その本を手にとったのだが、結局ほとんど読まなかったと思う。
 そして、そうこうするうちに、ヒルティに出会ったのだ。
 W・ダイアーの「自分の時代」という本も、三笠書房から新刊で出ていたので、少しおしゃれっぽい新しくできた喫茶店に入って、2時間くらい粘って読んだ記憶が忘れられない。高校時代には決して入らないような喫茶店の記憶とあいまって、忘れられないのではないかと思う。
 
 ヒルティの幸福論の中に「エピクテトス」という項目があるが、ダイアーは、現代のエピクテトスのようだと渡部昇一さんが述べられていたのを思い出す。
ただし、ダイアーは、現在もバリバリの現役だが、「自分の時代」は初期の1冊であり、著者の年輪、成長とともにどんどん内容が深く変わっていっている。現在は、スピリチュアル的な内容も自然に入っているようだ。
  
 なお、余談ではあるが、亀井勝一郎さんの生誕の地に偶然通りがかったことがある。函館観光をしていて、それほど大勢の人が行くわけではない、海を見渡せる景色の良い場所を目指して歩いている時だった。そのときは、突然だったので、正直言って、こんなところで生まれたのか、というような感覚を持ってしまったが、自分も良い海景色を求めてそこに行ったので、そういう景色が最高のところで生まれた、生まれ故郷が景勝地だった、という見方もできるだろう。幼少時代~子供のころの周辺の環境というのは、その人の人物形成の上でも影響があると思うわけでもあるし。写真が残っているので、掲示する。



25歳から30歳ころによく読んだ本 2

2013年12月20日 | 人間学
25歳から30歳ころによく読んだ本

 安岡正篤さんの本はよく読んだ。結構難しい本もあったが、何十冊も出版されている本を購入して読み続けていた。安岡正篤さんは、前述したところもあるが、東京帝国大学在学中に王陽明研究を出版して、すでに40歳以上の人が書いたものと間違われるほどだったという。当時の軍関係者からも大量に注文が入っていたそうだ。王陽明は、文武両道の偉人であって、教室で講義しながら、戦いの現場からの使者に戦況を聞いて、指示してその通りの作戦で勝利を得るという離れ業を行っていたとも言われている。

 安岡さんは、戦前の文部省に入省したが、1ヶ月で辞めて、その後金鶏学院という学校を開いている。
その学識を買われて、昭和20年の終戦の詔勅を起草するメンバーの一人にもなっていたようだ。
天皇陛下から出た言葉は、すでに自分の言葉ではない、と多くを語られなかったようだが、戦後しばらく経って、世間で、様々な憶測が飛び交った時期があったようで、誤解を防ぐ意味で、一度だけ語るということで、文章に残っているものを読んだことがある。

 「時運のおもむくところ」、は「義命の存するところ」としたが、通らなかったことや
中国北宋(時代)の張横渠(ちょうおうきょ)という人の「天地の為に心を立つ、生民の為に命を立つ、往聖の為に絶学を継ぐ、万世の為に太平を開く」という言葉の結語である、「万世の為に太平を開く」という言葉を採用したことなどが、さらりと語られていたのは、印象深かった。
 
 元号の「平成」も安岡正篤さんの案ではないか、といううわさもあるが、それは、不明だ。安岡さんは、確か昭和58年ころに逝去されていたが、請われて新元号の案を提出していたのではないかということのようだ。ただ、誰の案かどうかなどは、どうでもいいことだよ、なんて言われているような気がするが・・。
「平成」の意味のとおり、「内平らかに、外成る。」ことになっているかどうかを気にしていられるのではないだろうか。

今思い返すと、最初に読んだ「運命を創る」などの一連の本とか、「陰しつ録を読む」という本がなぜか、結構印象に残っている。

 中村天風さんの本も結構読んだものだ。中村天風さんの本は、安岡正篤さんほどは多くなかったが、内容は多少風変わりだったが、大変有益だった。

船井幸雄さんについて

2013年12月17日 | 人間学
船井幸雄さんについて

 船井幸雄さんは、船井総研の社長から会長になった方だ。コンサルタント会社を初めて一部上場企業にしたという。
新幹線で隣に座った人と、意気投合して話して、別れ際に名刺交換すると、経営コンサルタントという職業を見て、「経営コンサルタントなんて、人間のクズがすることじゃないですか。」と言われたのが、上場する引き金になったという。

 船井さんは、若い頃はケンカの船井と言われていたという。
ところが、奥様が小さい子供を残して急逝し、ご尊父もその後、すぐに亡くなってしまう、という出来事にあって、生きる意味や人間とは何なのかを相当考えたという。
エドガー・ケイシーの本や、「ヒマラヤ聖者の生活探求(全5巻)」「あるヨギの自叙伝」などに、随分影響を受けたという。エドガー・ケイシーは、リーディングで有名で、予言や病気を治す方法を、自分が眠ったようになり、意識がない中で、質問者の質問に答えて、それが、ほとんど的確だったという通常の常識からすれば非常に不思議な人である。ただ、天は、ごくまれに、こういう人を地上に遣わすのだ。
 船井さんは、高橋信次さんや安岡正篤さん、中村天風さんの本などもよく読んでいらっしゃったようだ。、非常に多読な方なので、とてもすべてを挙げきることはできないだろうと思う。
 経営コンサルタントが本業なのだが、経営の本だけでなくて、人間学やスピリチュアル系統も含めて、人生の真理を極めるような本をたくさん読んでいらっしゃるし、そういう、菩提心を探求するような本を含めて、さまざまな本をすでに400冊以上出版されているとのことだから、桁外れのスケールと器量を持ったひとなのだろう。
 最近は、社長業から会長業、そして2社くらいを残して、息子さんに引き継ぎ、現役時代は、かからなかったという病気に苦しんでいらっしゃるようだ。
 船井さんの本も1990年頃から出版される本を買って、よく読んだものだ。「エゴからエヴァへ」とか、人間学を含めて良い本がたくさんあった。
 2000年を超えてからは、アセンションとか、共著の方々も特徴的で、通常の人が誤解をしてしまって、経営コンサルタント業に差し障りがあるほど、通常の常識からすれば合わないことも、ご自分が、ほぼ正しいだろうとおもうことは、紹介したり、書いたりしていらっしゃった。一線を退いてからのほうが、知っていても、書けなかったことが、自由に書けるようになって、良かったというようなことを述べられていた。それでも、最後の3%くらいは、なかなか話せない内容があるそうだ。
 ベンズアルデヒドという物質がガンの特効薬だ。という本は、経営コンサルトの一線にいたら、なかなか発表、推薦できなかった、と言われていたのには、少し驚いたものだ。
 船井幸雄さんは、広報能力が大変高く、推薦したものや、言及したものは、影響力がとても大きいのだ。

オードリー・ヘップバーンについて

2013年12月10日 | 魂の人間学
オードリー・ヘップバーンについて

 オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」は、多分10回近く観ている。テレビでやっていると見てしまうのだ。「銀幕の妖精」というが、オードリー・ヘップバーンのためにある言葉のようにも思えるほどだ。

 ベルギー生まれのようだが、戦争中のオランダで苦しい日々を過ごしたようだ。親戚や兄弟が連れていかれたりしたらしい。晩年にユニセフの国際親善大使を務めたことは、この時の影響が、多少なりともあったのではないだろうか。
 
原節子のように、映画を引退したら、一切公に姿を見せないという選択肢もあったかと思うが、彼女はそうはしなかった。自分を無私にして、でも自分の過去の知名度は生かして、貧困や飢餓に苦しむ子供たちに救いの手をさしのべたかったのだと思う。

 人生の後半からは、スイスのローザンヌ近くのジュネーブ湖畔にある、小さな町に亡くなるまで住み続けたそうだ。お墓の周りには、訪れた人の花束も含めて、いつも赤っぽい美しい花が咲いている。

今日は、「遊び心」を込めて、詩のようなものを掲載させていただいた。ローマに行った時に、つくったものだ。最後の3行は、蛇足であり、オチであるが・・。

スペイン広場や真実の口など、ローマは、オードリ・ヘップバーンのゆかりの地満載でもある。彼女のカレンダーやポスターが今でも売店で売られている。スクーターのキーホルダーをすすめられたときは、笑顔になってしまった。

「ローマの休日」を観たことがある人なら、すぐわかる。見てない人にはネタバレになってしまうが・・。


「ローマの休日」

大切な国の務めと
知りはせど
あまりの形式 決め事に
飽き飽き 
うんざりすることも

花も恥じらう お年頃
王女は、城を抜け出した

なんて自由なこの世界
見るもの 聞くもの珍しい

髪も短く切ってみた
落書き見るのも面白い

臣下も見張りもいない中
何でも自由にできること
なんて楽しい この世界

お金のことは 知らないわ
町の人たち 苦笑する
だけどあまりのかわいさに
床屋も花屋も サービスし

新聞記者はめぐりあう
なぜか気になるお嬢様

なんと王女が目の前に
世紀のスクープ目の前に

カメラマンの友人を
誘いデートに持ち込んだ

スペイン広場で
ジェラートを

オートバイにも
二人乗り

嘘を見破る 真実の 
口で 
ふざけた 記者の手を
叫びながらも
引っ張って

楽しいひととき過ぎていく
けれど 
追っ手が 追いついた
船上パーティー 大混乱
されど 音楽続くなり

写真はしっかり撮られてた
ギターで頭 たたくとこ

川に飛び込み 脱出し
夢の一日 終焉す

だけど王女は知っていた
自由な時間 終わること

私は王女 大切な 
国の務めに戻らねば

人生一度の大切な
思い出なりと 胸に秘め

記者の車で 送られて
ひとときだけの 恋に落ち
つらい別れに なりにけり

病気あけとの 記者会見
なんと 昨日の記者そこに

病気で伏せていたはずの
決められ台詞(ぜりふ)
振り捨てて
一番良かった土地の名は
きっぱり言って
「ローマ」です

記者との会話も提案し
最後に握手かわすなり

写真もこっそり 渡されて
二人だけしか
わからない
公の会話 続くなり

国の絆と同様に
個人の絆 守られる

これですべては守られた

世紀のスクープ
無くなりた

人の信頼大切に
信義 守りた記者だった

3枚目なのはカメラマン
スクープよりも重要な
友情があり 信義あり

すべての人を
感動の 渦に巻き込む
映画なり


我は本日ローマなり
「ローマの休日」
過ごすなり

ネルソン・マンデラさんについて

2013年12月08日 | 魂の人間学
ネルソン・マンデラさんについて
 
偉大な人物が逝去された。ネルソン・マンデラ氏だ。27年間もの獄中生活を経たが、95歳の天寿を全うできたことは、よかったと思う。マンデラ氏はアパルトヘイト全盛の南アフリカで、国家反逆罪に問われた。
 
反逆罪に問われた裁判で、マンデラ氏は、「全ての人々が調和と平等な機会のもとに暮らせる民主的で自由な社会という理想を抱いてきた」「その理想こそ、私が命をかけて実現させたいものだ。しかし、もし必要とされるなら、その理想のために死ぬ覚悟がある」(1964年4月20日)と言われたそうだ。
 
坂本龍馬や幕末の志士たちを想起する。人々の幸せを願って、新しい時代を切り拓くためなら、自分の命を顧みないで命がけで行動する、そんな「生きざま」に人は感動する。坂本龍馬は、書物をの残した訳でもない。「船中八策」という維新後の、世の中しくみの根幹になるものの箇条書きのようなものは、耳学問した中で、本人の自筆が残っている。新たな時代を拓くために一身を捧げた人物だった。
 
感動するのは、志士などと同様に、やはりその生き様だ。マンデラさんは終身刑となっていたが、27年投獄されたあとに釈放された。不撓不屈の精神。
 
ネルソン・マンデラさんは、過去には自叙伝が出版され、2010年には、「INVICTUS 負けざるものたち」という映画も公開された。
 
27年間の獄中生活を経て、釈放され、当時のデクラーク大統領とともに、ノーベル賞を受賞した。そして南アフリカの大統領になった。
 
大統領就任演説で「人種が融和する虹の国をつくろう」と語られたそうだ。白人に復讐するのではなく、融和の道を選んだ。白人が黒人を支配するのを好まないのと同様に、黒人が白人を支配することも望まない、すべての人が平等で、融和する国家を望んでいた。虹の国という表現がとてもいい。
 
各方面と対話を重ねて新しい憲法制定を2年の歳月をかけて制定した。
 オバマ大統領に「自分が今の立場にあるのは、彼の功績に負うところが大きい」という主旨のことを言わしめた。

 もっと言わせていただければ、彼のバトンを引き継いだ私たちは、人種差別のみならず、戦争や飢餓のない、虹の世界、虹の地球を作り上げていきたいものだ。