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山田方谷と佐久間象山 佐藤一斎門下で双璧だった二人について

2020年10月09日 | 魂の人間学
幕末の「言志四録」の著者佐藤一斎は、当時唯一の今でいう国立大学ともいうべき昌平黌を出て林家の塾頭となった偉人だ。
その門下生として、あの山田方谷と佐久間象山が共に学んでいた。
ある日2人が大激論を交わしており、夜中になっても終わらない。塾生たちが音を上げて、師の佐藤一斎に「うるさくて困っています。なんとかやめさせてください」と言いつけにいくと、一斎先生は、襖を開けてしばらくきいていたが、にっこり笑って「まあ、いいからしばらくやらせておけ」と答えたという。塾生では2人が双璧だった。松下村塾で言えば、高杉晋作と久坂玄瑞のように。
 しかし、しばらくして塾頭になったのは、山田方谷の方だった。人格修養も含めて、学問を究め、陽明学も学んでいた方谷と、「理想社会を建設し日本を守るには、無道の国の西洋人のテクノロジーを熟知し、同じ武器で戦う以外に道はない、大和魂だけでは戦えない」という主張を展開していた佐久間象山。
その違いは 個性の違いだし、幕末期には2人は無くてはならない人物だった。
  方谷は、人間修養のほうに重きを置き、象山は、西洋科学や兵器武器の製造などにも関心があった。もちろん方谷も用兵の才にたけてはいたのだが。
  今の感覚で単純に言ってしまえば、方谷は文科系、象山は理科系的な側面も持っていた。まあ、象山は文科系理科系分け隔てなくという感じだっただろうか。
 ただし、人間修養としては方谷の方が上を行っていたような面があろう。塾頭になったのは、方谷であったように。人望もあったのだろう。
 方谷は、人間修養に加え、陽明学を学び、理財論として、実践に役立ち大きな実績を残した今でいう経済学の大家の側面があった。象山は人格円満とは言えず、性格に多少問題があるような面があったことは否めないだろう。しかしそれも個性である。当時の国内で、西洋技術に通じていた第一人者であったのだ。
 しかし、そういう面では、方谷が象山を評して、象山には孔子が持っていた五徳が一つもない、と語った逸話があるほどだ。
 2人とも幕末維新にとって大きな役割を果たした。師として後進の指導をしたりして大きな影響も残した。
  山田方谷は、貧乏板倉とまで言われた自藩の備中松山藩の大赤字を立て直して黒字にするという、当時誰もできなかったような大仕事をして幕末の歴史に大きな足跡を残している。
 二松学舎大学の創始者である三島中州は、方谷の弟子にあたる。河井継之助も方谷を師と仰いでいた。しかし、藩主の板倉勝静は、幕末に老中まで務めた幕府側であった。維新後、その抜きんでた才能・手腕を買われて大蔵卿、今でいう財務大臣に再三請われたが、方谷は受けなかった。
 一方、佐久間象山の弟子は吉田松陰である。2人には兵学者という共通の側面があった。
 象山は、残念ながら1964年7月、禁門の変が起きる1週間ほど前に京都で暗殺されてしまう。一方、方谷は、維新後に新政府に出仕せぬまま、余生を過ごして亡くなっている。

参考文献 「財務の教科書」 財政の巨人 山田方谷の原動力 林田明大著 三五館