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正義は勝つとは限らないが、神は勝つ

2022年10月26日 | カール・ヒルティ
若い頃盛んに読んだヒルティの「幸福論」の中に、「正義は勝つとは限らないが、神は勝つ。このことは、大いなる慰めである。」というような主旨の印象に残る一節があった。
ヒルティは、キリスト者でもあった から、こういう表現をしているが、一般的な言い方をすれば、「正義と信じて行動し闘ったとしても、必ずしも勝つとは限らない。しかし大きな目で見た、全体最適のような視点からすれば、良い結果になる。」というような言い方になろうか。後者の表現が、最適なものかどうかは、多少の疑問が残るとしても・・・。
少し狭い解釈かもしれないが、戦前の日本も、慢心があったり、軍部が独走した面など様々な不幸が重なったことも否めないが、大筋では、自衛の戦いで正義の戦い、という風に思っていた節はある。しかし、日本は戦争に負けて、焦土になってしまった。
日本側の論点から見れば、「正義は勝つとは限らない」という面は、あっただろう。
しかし、戦後77年が過ぎて、現在の視点から見たら、どうであろうか。
 問題点を指摘すれば、多々あるかもしれないが、全体最適からすれば、国際協調の中で、結果的になるべくしてなったとも言えるのではないだろうか。
 300万人以上が亡くなった、未曽有の不幸な戦争であったことは間違いなく、2度とあのような戦争を起こさないように国民一人ひとりが、愛と平和の心を持ち続けていくことが必要だろう。そして国民から選ばれた政治家も、世界情勢を見極め、あるいは、新たな道を創り上げていくような壮大な理想を胸に、現実を見極めながら国のかじ取りをし、世界をよりよくするような意見を発信する必要がある。
 日本は、国連に加盟し、常任理事国にはなってはいないながら、世界の協調の中で、重要な役割を果たす一国となった。GDPもアメリカ、中国に次いで、世界第3位である。これからも、世界の中で、重要な役割を担い続けていく必要がある。もっと言えば、日本から世界へ日本の伝統や国民性、独自の経験を踏まえた意見を発信したりして、世界に役立つ名誉ある役割を担っていく必要があると思う。

幕末から明治維新への活性化エネルギーとしての尊王攘夷

2022年10月19日 | 歴史探訪
幕末の長州の歴史は、薩摩の歴史と並んで、面白い。毛利氏が、鎌倉時代の大江広元を先祖に持つ、由緒ある家系 ということが、尊王思想のバックボーンになっているという説もあるようだ。
 私は、19歳の時に萩を訪れ、松下村塾や功山寺を見学して長州の幕末明治の歴史に興味を持って今に至っている。
今は、長州だけでなく、幕末明治の歴史全般にも興味を持っている。  
 当時は学生だったが、初めて大阪より西の山陽新幹線に乗って山口県まで行った思い出とともに、当時は東京から、6時間近くかかった新幹線の車窓から、景色を眺めながら、古川薫という人の「長州歴史散歩」という本を読みつつ旅した思い出が甦る。
「日本は、こんなに田んぼ多かったのか」という印象と、「大阪より西の山陽新幹線は、トンネルがやけに多いな」という感想を持ったことを覚えている。
景色を観つつ本を読むことが、至福の時間と感じるようになったのは、あの時の旅行以来ではないかな、と今となっては思う。  
 幕末長州の歴史については、この古川薫さんという人の著書が大変多く、学者的な著作ではなく、小説の形態を含めた本が多かったが、地元山口(長州)の幕末の歴史には、定評があったと言っていいだろう。
古川薫さんは、1925年生まれ、2018年にお亡くなりになった。
そして、古川さんを継ぐというか、次世代の幕末長州に詳しい人物で著作も多いのが、1966年生まれの一坂太郎さんだ。  
東行記念館の学芸員や副館長を歴任されており、文献を良く読んで、多数の著作を出版されている。古い文献などにも当たられて、細部にわたる歴史的事実が新たに記載されていたりして、大変勉強になる。  
山口県周南市にあるマツノ書店という本屋さんも、長州幕末についての古い本を復刻したり、新たに出版したりしているようだ。
やはり長州藩の幕末と言えば、吉田松陰。あるいは、維新の3傑に数えられる木戸孝允。そして吉田松陰の松下村塾の塾生の四天王とも呼ばれた、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一をはじめ、維新後に大活躍した、伊藤博文、山縣有朋、井上馨などがすぐに思い浮かぶ。
 しかし維新の活性化エネルギーとして、その原動力とも言うべき、久坂玄瑞を中心とした、横議横行の段階から尊王攘夷運動の高みは、1862‐3年頃に最高潮を迎え、1863年の8・18の政変から、1864年には、禁門の変を経て、土佐勤王党の弾圧から武市半平太の切腹(1865年7月)、水戸天狗党の壊滅を経て、攘夷の機運は弱まっていく。
もちろん、伊藤博文や井上馨、高杉晋作などの洋行を持って、目が開けた面も多分にある。尊王攘夷の解釈は、個人によってもちょっとした時期のの違いでも、角度の違いや考え方に温度差があり、周布政之助などの解釈は、大いなる変化球のような単純にはいかない解釈だった。それを証拠に、伊藤博文、井上馨らの長州ファイブを秘密裏に海外に送りだしている。表では攘夷を唱えながら・・。
 攘夷路線が最高潮から下降線になっていくと、それに呼応するように、島津斉彬の開国路線を継承する西郷隆盛ら薩摩藩が本格的に力を持っていく。開明派で、開国を見越していた島津成彬の御庭番だった西郷隆盛は、久坂玄瑞や桂小五郎、寺島忠三郎など長州、あるいは、土佐の武市半平太、水戸の天狗党などの攘夷のエネルギーを大いに利用して、大きな目で見れば、最終的に討幕への化学反応の活性化エネルギーとして利用したようなものだった。