かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

少年ジャンプと亀

2014年06月11日 | 日記


 火曜日、久方の梅雨の晴れ間ならぬうすぐもりのなか、近所の川のほとりを散歩していると亀が甲羅干しをしていた。川の中に八の字に張り出したコンクリの上に、六匹ずつかたまっている。甲羅は灰色っぽく、大きさは30センチ弱くらいだろうか。気持ちよさそうである。真似をして私も甲羅を干したくなったが、目指すはコンビニ、甲羅干しをする暇はない。

 外国に出張中の息子に頼まれた少年ジャンプを買いに行くのである。(息子は三〇代半ば、親ばか、過保護という非難が耳に振ってくるが、とりあえず約束なので行く。)月曜日、メール便を出しにコンビニに寄ったがジャンプは荷物になるので買い物を終わった夕方にと思ったのが間違いだった。夕方、コンビニに寄ったら売り切れていた。
 で、火曜日の午前中、別のコンビニを目指して、亀の甲羅干しを横目に見ながら歩いているのだ。結果は、近所のコンビニ5軒まわって、どこも売り切れだった。

 ところで、表題とは何の関係もないが、冒頭の写真の鳥、何という名前でしょうか?
4月下旬、京都駅伊勢丹の屋上で見かけた。ベンチで友人とおしゃべりしていたら一羽でやってきた。ちょこちょこと動き回って一刻もじっとしていないのを、やっと撮った一枚。


渡辺松男の一首鑑賞 98

2014年06月11日 | 短歌一首鑑賞

【Ⅱ ろっ骨状雲】『寒気氾濫』(1997年)58頁
                       参加者:四宮康平、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
                        レポーター:渡部 慧子
                       司会と記録:鹿取 未放


131 平原にぽつんぽつんとあることの泣きたいような男の乳首

     (レポート)(2014年5月)
 おだやかな心にふっと目にうつったり、思いうかんだりするものは、はかないことであったりする。例えば、私達の体の器官や、それらのうち何の用があるのか分からない「男の乳首」等。思えば命と性を与えられ、生きよとこの世に投げ出されたような私達。それが「平原にぽつんぽつんとある」に重ねられる。「ぽつんぽつん」とはここでは2つを表しながら、なつかしくあたたかくいとしいひびきもある。そしてこれらは自分の存在のさびしさ、なつかしさに繋がっていて、「泣きたいような」とは掲出歌の結句のみをさしておらず、性を超えて無理なく読者の胸に落ちてくる。(慧子)


        (発言)(2014年5月)      
★お父さんの広い胸に小さな乳首があるということに人間的な悲しみを感じている。(曽我)
★ここにお父さんと作者の平等感がある。男としての共感。これがあるので、さっきの歌が悪口で
 はないことが分かる。(鈴木)
★平らな胸に役に立たない乳首をもっている男一般のこっけい故に存在のさびしさとかいとしさを
 感じている歌と読んでいましたが、お父さんの一連に置かれているということは、当然、鈴木さ
 んのように読まないといけなかったですね。(鹿取)
★でも、渡辺さんの歌は「われ」といっても自分自身だけをさしている訳じゃないし、常に人間一
 般のことでもあるから、ここもお父さんと言っても渡辺さん個人のお父さんにかぎらないわけで
 す。(鈴木)
★お父さんという存在が見上げるだけの人なら、そもそも乳首は見ないだろうし。今まで僕は乳首
 なんて意識しなかったけど、男の体には確かに嬉しくないものがあるんですね。(四宮)
★今の四宮さんの発言、面白いですね。お父さんを常に恐れているとか見上げているばかりではな
 いからこそ、乳首なんってものを見たのですね。(鹿取)