かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 2の113

2018年09月30日 | 短歌一首鑑賞
  渡辺松男研究2の15(2018年9月実施)
    【〈ぼく〉】『泡宇宙の蛙』(1999年)P75~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放


113 休日はピアスして木の上にいる気体のようなぼくのときめき

     (レポート)
 休日にピアスして木の上にいることは、気体のようなぼくのときめきなんだよ、という。気体のようなぼくとは実体のないと言えば的確かもしれない。そういうぼくがピアスをするときめきとはなんなのかとレポーターは訝しく立ち止まった。ここまできて思うことだが、レポーターは見える存在、見えない存在という対象への分別をしてしまっている。111番歌(ぼくはもう居ないんでしょうおかあさん試験管立てに試験管がない)の非在者の声には胸を打たれて、存在、非在ということに囚われず鑑賞できたが、113番歌は少し困ってしまった。(慧子)


               (当日意見)
★高校生くらいの男の子、平日はピアスしちゃいけないけど休日なら出来る。それで木の上にいる
 ととってもきもちがいい。歌を台無しにする解釈ですけど。(真帆)
★「気体のような」は「ぼく」に掛かるんですか?「ときめき」に掛かるんですか?(鹿取)
★「ぼく」です。(慧子)
★でも気体のようなぼくだとピアスはしにくそう(笑)ここはサラリーマンになったぼくかと思っ
 たけど、それだとすごい屈折があるのですが。なるほどね、高校生くらいかも。(鹿取)
★ほとんどつかみ所のないぼく、自然と繋がっていないぼく。ある時は休日にピアスをするような
 現代的な生活をしている、明確な私というものは無い人。だから気体のようなぼく。(A・K)
★そう読めば「気体のような」が「ぼく」に掛かっても読める。よい解釈だと思います。(鹿取)
★渡辺さんって人は、世の中を批判的に見ている人ですか?(A・K)
★あまりダイレクトにはうたっていませんけど、そうだと思いますよ。『寒気氾濫』のみなとみら
 いの一連の歌なんか強くそれを感じました。(鹿取)




渡辺松男の一首鑑賞 2の112

2018年09月29日 | 短歌一首鑑賞
  渡辺松男研究2の15(2018年9月実施)
    【〈ぼく〉】『泡宇宙の蛙』(1999年)P75~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放


112 ミリにはミリのしあわせがあるとパパは泣くヤマトクモスケダニの結婚

 (レポート)
 ヤマトクモスケダニが結婚をしていてそのパパと子の会話であろう。「ミリにはミリのしあわせがあるとパパは泣く」とはミリ単位でとらえるほどの自分たち(ヤマトクモスケダニ)だが、身のほどの幸せがあるのだと子に告げながら泣くという場面。この「泣く」を仮に「言う」と変えるなら一首に味わいがなくなる。では、逆説表現なのか。そうとも言ってしまえないなにか、生命の摂理のようなものを含んでいるのではないか。「泣く」が微妙で一首を支えていよう。(慧子)


            (当日意見)
★ヤマトクモスケダニは辞書に無かったのでヤマトマダニで説明をします。「吸血性のダニ。メス
 は吸血しないとき3ミリほど、吸血すると8ミリくらいになる。オスは3ミリ以下で吸血しない。
 日本全国に分布する普通のダニ」(日本大百科全書より要約)(鹿取)
★人間のパパと子どもがいて、お父さんがダニを見てミリにはミリの幸せがあるんだよと言ってい
 るのかと思いましたが、ダニのお父さんがダニの子どもに言っているんですね。結婚って生殖の
 ことでしょうか?(真帆)
★生殖とは違うような。吸血するお母さんは吸血しないお父さんより強いんじゃないですか。だか
 らパパが泣く。(鹿取)
★お父さんが息子に向かってよよと泣いているんですね。これを人間に置き換えてどうこう言うと
 臭くなるので、あんまり深く考えないでいいんじゃないかな。ミリの小さな虫がこんな事を言っ
 て泣いている楽しさ。(A・K)
★以前にも何度か紹介しましたが、松男さんの評論で「ダニが堪えていたら人は笑うだろう」って
 あって、あれの実践版。でも、とっても愉快な歌。(鹿取)


          (後日意見)
 ダニは全世界で約二万種とも言われているそうだ。研究会当日説明した「ヤマトマダニ」と「ヤマトクモスケダニ」は相当違うものらしい。「ヤマト」はつかないのだがダニの分類の中にササラダニ亜目クモスケダニ科というのがあった。Wikipediaの説明によると、ササラダニ亜目は吸血はしない。森林などの土壌中に多くいて腐植を餌にしているが、菌類食のものもいる。どちらかといえば人間に益がありそうだが、松男さんの歌はそこで差別はしないのだろう。ただ、吸血するダニのメスとその夫という図と、夫婦とも吸血はしないで腐った草などを食べているダニの図では「パパは泣く」の鑑賞が微妙に違ってきそうだ。「菌類食のものもある」ところから4首後の「冬虫夏草」の歌に繋がっていくのかもしれない。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 2の111

2018年09月28日 | 短歌一首鑑賞
  渡辺松男研究2の15(2018年9月実施)
    【〈ぼく〉】『泡宇宙の蛙』(1999年)P75~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放


111 ぼくはもう居ないんでしょうおかあさん試験管立てに試験管がない

(レポート)
 不妊治療のための試みが失敗したらしい。もう居ないものの声によって非在を確認している。その時の「ぼくはもう居ないんでしょうおかあさん」というこの世への執着をまだ持たないであろうものの幼いけれど実に涼しい物言いが不思議で哀切で宇宙的な感じさえする。歌に限らず文学の中に非在者のような胸を打つ物言いをほかにしらない。生命倫理など報道に使われる言葉でこの歌について語れない。(慧子)


            (当日意見)
★試験管ベイビーのことかなあ?この一連読んで思ったんだけど、子どもの視線で歌うのがこうい
 う一連を歌いやすかったんだろうなって。これはわれの不在なのか非在なのか?非在なんだと思
 ったの。不在は社会的だけど非在はもっと根源的なもの。詠みたい非在というものが子どもの視
 点でスーと出たのかなあと。試験管立てに試験管がないというのは〈われ〉の非在を詠っている
 ので、それはものすごいこと。最初から存在しないものだということを言っているのかしら。
   (A・K)
★少し飛躍しますが、芥川龍之介の小説の題名はよく覚えていないのですが、もしかしたら「河童」
 だったかな、生まれるかどうか選択できる話なんです。お父さんがお腹の中の子どもに「おーい、
 生まれたいか?」って聞くんです、確か。胎児が自分で生まれる、生まれないを選択出来るんで
 すよ。小学生の時読んで、ものすごく怖かった。もし、生まれないって選択したら、その時お父
 さんに「生まれたくない」って応えた胎児の一瞬というのは命なんだろうか、その命の記憶はど
 こにいくんだろうって。もちろん、その時は子どもだから言語化できなかったんだけど、永遠に
 非在のものの一瞬の記憶ってどうなるんだろうって。松男さんのこの歌読んで、何か共通性を感
 じました。(鹿取)
★この歌の「ぼく」は試験管の中にかつてあった受精卵だと思うんだけど、不妊治療に失敗したら
 その「ぼく」でさえ存在できないので、他の子が生まれたんでもう不要になった受精卵かもしれ
 ない。もともとぼくはまだ生まれていないわけで、命ではなかったし、もちろん科学的には意識
 もありえないんだけど、ぼくが居なくなったことを意識だけが残って意識している、という設定。
    (鹿取)
★はい、かつてものすごく小さなものとして試験管立てにあったものは捨てられてしまった。命と
 もいえないあったものが記憶力をもって言っている感じですよね。渡辺松男という人は必ず何か
 メッセージを込めているんでしょうか?(A・K)
★誰でもそうだけど、一首作るときに何かは言いたいんでしょうね、ただ、こうこうこういうメッ
 セージと作者にも明確には意識できないこともあるのでしょうね。これも誰でもそうだけど。こ
 れこれこういう言葉の繋がりで一首作って「できた」って思う、でも説明しろって言われたら作
 者にだってできない場合はけっこうあると思います。(鹿取)
★体は無いんだけど魂としてのぼくは存在している。私は最初、ぼくって精子のことかと思って、
 受精せずに捨てられてゆくぼくたちの事かと。でも、後から受精はしたけど生まれなかったもの
 の悲哀かなあと。「試験管立てに試験管がない」って言っただけで命が生まれずに捨てられるっ
 て分かるし、巧みだなあと思います。ダイアルを回して丁度のところに年齢を設定している。あ
 ざといのではないけど巧み。(真帆)
★メッセージについてですけど、あまり明確ではつまらないですよね。例えばこの歌だと生まれる
 前の受精卵にも魂はあるんだよって言いたいというと社会的な狭い主張になっててつまらないで
 すよね。もっともやもやがある。亡くなった人の魂を身近に感じることはあるけど、生まれる前
 の魂というか言葉をこんなにリアルな手触りでなまなまと伝えた歌って松男さん以外にはないん
 じゃないかなって思います。(鹿取)
★ぼくはもう少しで生まれそうだったけど捨てられて、でもずーとお母さんの子どもとしてあると
 いうことですかね。(真帆)
★わざわざお母さんと呼びかけているからには、そこに何らかの情を生まれさせているのでしょう
 ね。一方にはこの作者の追求癖があるんじゃないですか、この歌も生まれる前の命を遡っている。
 お母さんの歌でもどこまでがお母さんか、命かって執拗に追求した歌群がありましたよね。耳と 
 して木に生えたり、浮遊細菌として空気中を漂っていたり。あまり事実関係で歌を読みたくない 
 のですが、松男さんは若いときにお母さんを亡くされているので、リアルタイムでの挽歌はあり 
 ません。だからお母さんを諦めきれない思いももちろんあるんでしょうけど、とても観念的な追 
 求癖を感じます。宮沢賢治の妹が亡くなったときの挽歌群にも似たような追求癖を感じました。
    (鹿取)
★命って数学の答えのように明確なものではなくて、もっとあいまいなものだよって。いくら追求
 しても混沌としているって。上句は茫漠とした宇宙みたいで、下句は「試験管立てに試験管がな
 い」って理科の実験室のようだけど、その落差が凄い。突き詰めていく作家姿勢でいっても明確
 な答えは無いって事ですか。(A・K)
★答えをみつけようとも思っていないんじゃないかなあ。(鹿取)
★最初はレポーターの哀切というのに共感していたのですが、今皆さんのおっしゃっているのを聞
 いていて、もっと複雑な思いなんだなあと分かりました。(岡東)


渡辺松男の一首鑑賞 2の110

2018年09月27日 | 短歌一首鑑賞
  渡辺松男研究2の15(2018年9月実施)
    【〈ぼく〉】『泡宇宙の蛙』(1999年)P75~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放


110 おかあさんが開けては閉じるコンパクトに一万個の目がしまわれている

      (レポート)
 コンパクトにお母さんの目が一万個しまわれているという。お母さん自身の自己愛、社会人・家庭人としての意識、そばの子どもの目を感じているときなど、お母さんの様々な内面を写す目がしまわれているのだろう。てのひらにつつめるほどのコンパクト、それを開けて閉じるお母さんの行為に、お母さんの世界を感じているのだろう。(慧子)


            (当日意見)
★お母さんがお化粧しているのを子どもは見ている。お母さんは楽しそうな時もあるし、不機嫌
  そうな時もある。そういう表情がコンパクトの中に一万個の目として仕舞われている。(T・S)



渡辺松男の一首鑑賞 2の109

2018年09月26日 | 短歌一首鑑賞
  渡辺松男研究2の15(2018年9月実施)
    【〈ぼく〉】『泡宇宙の蛙』(1999年)P75~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
 

109 おいしそうに野のあちこちに蛇苺ママの乳首がちらちらとある

     (レポート)
 食用にならず毒のある蛇苺のきれいな赤い実が野のあちこちにある。蛇苺は赤くてかわいい、それなのに毒がある。成長期の羞恥心にとって垣間見える景のように禁忌めく乳首のように「ちらちらとある」という苺。幼児の気分がいつとはしれずエロスにすりかわろうとしていよう。(慧子)


            (当日意見)
★美味しそうだけど毒がある、ママの乳首はママの怖い部分と繋がっている。(T・S)
★野いちごでもよかったのに蛇苺といったらやっぱりエロスかなあと。前の108番の歌(どうし
 てママ歯をみがくときさみしいの昼寝に覚めた三時の気分)を読んだとき幼稚園児くらいを想定
 して詠んだのかなあと思ったのですが、これはもう少し大きい子で10代の性の芽生えという 
 のを思ったんですね。松男さんがこういうふうに幼い抒情性を展開するのは詩の現場として理屈
 ではなくて感情の細かな部分で何かを感じてみたいという欲求とか、大人になっても残っている
 原初的なものがポエムとして表れているのかなと。それで見ちゃいけないものを見たくて、感じ
 ちゃいけないけどもやもやと何か感じそうな、そういうのを蛇苺の赤いポチポチに見ている。結
 句の「ちらちらとある」もそういう感じを出していて面白い歌だと思いました。(真帆)    
★蛇苺の形が乳首と繋がる。やっぱりエロスを感じる歌だと思いました。(岡東)
★でも、最初読んだ時は、お母さんのおっぱいに吸い付きたいという子どもの欲求かなと思いまし
 た。ですが、蛇苺に拘ると禁忌めく何かかなと鑑賞が落ち着きました。(真帆)
★「おいしそうに」は「ある」に繋がるんですよね。(A・K)
★そうすると主語が蛇苺と乳首と2つになりますね。(鹿取)
★同格になりますね。見えているのは蛇苺だけど、それはママの乳首なんだよって。蛇苺の蛇はア
 ダムとイブに繋がるようで、禁忌って感じはすごく伝わります。こういう感じを子どもは持つん
 だろうなと。「ちらちら」とか「あちこち」とか何でもないように言っているけど、蛇苺と乳首
 を結びつける練られた言葉だと思う。ところで、蛇苺って毒なんですか?(A・K)
★毒はないって辞書には出ていますね。私はこの発話主体は十代の男の子とは思わなくて、108
 番歌「どうしてママ歯をみがくときさみしいの昼寝に覚めた三時の気分」と同じような小学校入
 学前の男の子だと思うんですけど、だからといって禁忌がないとは思いませんが。それで歌は二
 重構造になっていて、蛇苺をママの乳首のように感じているのは幼児で、それを描写しているの
 は大人。(そんなこと言ったら、全ての歌が、例えば木になりきっている歌も記述しているのは
 作者以外にないので、みな同じ構造ということになりますけど。)幼児はエロスとかたとえ感じ
 たとしても意識化はしないし言語化も出来ないんだけど、記述する隙間のところにエロスとか禁
 忌とかが入り込んでくるような気がします。そこが面白いのですが、入り込むように歌が仕掛け
 られているんでしょうね。(鹿取)


      (後日意見)
 当日意見で、私は「どうしてママ歯をみがくときさみしいの」と発言しているのは男の子と信じて疑わなかったし、他の参加者もみなそう思っていたようだ。しかし、気が付いたらどこにもそうは書いてないのだった。おそらく作者が男性だからそれに引き摺られた考えなのだろうか。しかし女の子とはどうしても思えない。男の子と信じて疑わない理屈を言えば一連の題が〈ぼく〉だし、何首か後には歌の中に「ぼく」が出てくるからではあるけれど。(鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 2の108

2018年09月25日 | 短歌一首鑑賞
  渡辺松男研究2の15(2018年9月実施)
    【〈ぼく〉】『泡宇宙の蛙』(1999年)P75~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放


108 どうしてママ歯をみがくときさみしいの昼寝に覚めた三時の気分

            (レポート)
 暮らしの中に生の根源的なさみしさを感じるのは唐突だったり、またそのきっかけは各々異なっているのかもしれない。歯みがきのときに感じた寂しさを上句「どうしてママ歯をみがくときさみしいの」と問うているのは幼い者のようである。幼い者がそう感じ、また言葉にしている。小さな者に澄んだ感受性が与えられている。一首の構成として比較的経験されやすい昼寝のあとの茫漠としたむなしさを下句に置き、上句の内容をより深くしていよう。(慧子)


            (当日意見)
★上句を聞いたとき、夜寝る前の歯磨きのことと思いました。歯を磨き終わると眠りに入っていく
 ので、子どもとしても寂しい気分になるのだろうと(この歌は子どものことだと思ったので)下
 句での説明を読んで少し分からなくなりました。お昼寝から覚めて3時頃さみしい気分になるっ
 て、とても特殊な気がして。字面では伝わるけどどういうことなんだろう。レポーターの澄んだ
 感受性というところを読んでそうかなあとは思ったのですが、特に分からない歌でした。(真帆)
★私は下句が時間としてものすごくよく分かったのです。存在していることの根源的なさびしさ、
 虚無感かもしれませんが、下句はこれ大人の感覚ですよね。上句は子どもの感覚で下句は大人の
 感覚、一首の中でこれがどう結びつくのか?上の句は母親に聞いているとも取れるが自分自身に
 聞いているとも取れる。幼児期の記憶と大人の今が作者の中に同居しているのか。(A・K)
★そうなんですか、私は下句を子どもの気持ちだと思って読みました。子ども時代、夏の座敷で 
 みんなでお昼寝しましたが、目覚めの空しい感じとか、何かあてどない不安感とかものすごく感
 じたので。昼寝の後は家族でスイカや真桑なんかを食べるので、しばらくするとそのさみしさは
 忘れるんだけど。それを言葉にすればA・Kさんが言われたように「存在していることの根源的
 なさびしさ」なんでしょうね。歯を磨いているのは朝か夜か分からないですが、歯を磨いている
 と昼寝から覚めたときと同じようなさびしい気分になる。それをお母さんに呼びかける形で言っ
 ているところに、お母さんと男の子の関係のあまやかさとかエロスも覗く気がする。(鹿取)
★話は少しそれますが、ここ2か月ほど岩田正の歌集や評論を集中して読んでいたのですが、ちょ
 っとこの歌に似通った歌が何首もありました。眠っている時の孤独感ですけど、朝目が覚めても
 しばらくは茫漠として虚無感のようなところを漂っているんだけど、はっと妻が横に寝ているこ
 とに気づいて安堵するみたいな歌もありました。(※後日意見で歌を引用)でも大部分は寂しさ
 で歌が終わっているんです。眠りとうつつの間みたいなところでひとりぼっちの怖さとか寂しさ
 とか感じるのは割と共通しているのかなあと。(鹿取)
★それから幼児ことばの話ですけど、穂村弘さんの歌集『空中翼船炎上中』を読みましたけど、穂
 村さんの使う幼児語とか女性言葉というものがいかに戦略的に使われているかということがよく
 分かりました。松男さんの幼児語とか女性言葉とは全然質の違うものだって思います。(鹿取)
★渡辺松男の言う〈わたくし〉と短歌の私というものは全く違うものなので、男とか女とか子ども
 とかいうのとは全く違いますね。この前鹿取さんがくれたプリントで、坂井修一氏が鎧わずに松
 男さんの歌を読みたいと書いていらして全くその通りだと思いました。こちらが世間的な通俗的
 な尺度で読んでいたのでは渡辺さんの歌は全く理解できない。高度に知的な人だけど、高度に純
 粋なところがありますよね。ジェンダーも権利と結びつくのは嫌で単なる差違だと思うんです。
  (A・K)
★ところで、さっき鹿取さんが下句も幼子の気分っておっしゃったけど、幼子だったら三時って時
 間の感覚を持つかなあ。それで私はここは大人の感覚で、子ども時代の歯を磨くときの寂しさと
 共通するなあと思ったのかと。(A・K)
★三時というのはお八つの時間として小さい頃からインプットされていたので、幼児でも三時とい
 うのはわりと自然かなあと思います。(岡東)


           (後日意見)
 ※引用は、鹿取。
    朝さめてひとりと思ひしばしして妻に気づけりかかる朝いい
          岩田正『視野よぎる』


ブログ版  馬場あき子の外国詠 91(スペイン)

2018年09月24日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠10(2008年7月9月実施)
  【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・H    司会とまとめ:鹿取 未放


91 母たちは巨鯨 娘はガレの蝶 あした西班牙の陽にひかりあふ

      (レポート)
 ガレ:(1846~1942)フランスのガラス工芸家。アール・ヌーボー様式の代表者の一人。
 スペインの母親達は食べ物のせいか巨鯨のようだ。それに比し娘達は何と華奢で繊細な曲線を持ちスマートなことだろう。ガレの蝶細工のように美しくスペインの陽光の下、光り輝いている、と馬場は街を行き交う人々を眺めながら感慨にふけっている。(T・H)

     (まとめ)
 娘を「ガレの蝶」ととらえたのが的確である。若い女性はきゃしゃで美しく華麗なのである。豊かな体躯の母ときゃしゃな娘がお互いに陽光のもと輝いているのもよい。蝶のような美だけを肯定せず、あくまで母と子が等価であるところが面白い。 
 なお、この一連、構成が見事である。ジパングとしてマドリッドに花を浴びている軽い緊張から始まり、西洋の象徴のような尖塔に圧倒され、緊張の極みに日本初の遣欧使節としてスペインへ渡り洗礼を受けた支倉常長のことを深く思索する。さらに緊張は続き美術館へ行ってグレコやゴヤと対峙する。そして最後に緊張から解放され、人々の中に個は埋没し、街を歩く母子を軽やかに描写する。この息の抜き方が読者をほっとさせる。(鹿取)


ブログ版  馬場あき子の外国詠 90(スペイン)

2018年09月24日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠10(2008年7月9月実施)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・H    司会とまとめ:鹿取 未放


90 胸や肩や寛(くつろ)かに着て街をゆく巨鯨のやうな母の貫禄

     (レポート)
 スペインの女性は、若い時はスマートだが年をとると貫禄満点の姿に変貌する。凄いなあと馬場も感心して見ている。(T・H)


     (まとめ)
 「寛かに」がゆたかな体躯にひらひらとうすものをひっかけている西洋の婦人の様を見事に言い得ている。「巨鯨のやうな」も微笑ましい。悪意や揶揄ではなく、優しい視線が感じられる。(鹿取)


ブログ版  馬場あき子の外国詠 89(スペイン)

2018年09月22日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠10(2008年7月9月実施)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・H    司会とまとめ:鹿取 未放


89 集団の猥雑の色の中にゐる安けさ存在のなき存在の色

      (レポート)
 馬場はやっと美術鑑賞の時を終了して館外に出た。グループの中のいろいろな色に囲まれて、そこには埋没する安らぎもあるが何か存在のなき存在の色?もあって落ち着かない。旅行中の東洋人、そのような人々は多く、常に生き生きとしているものなのだが、そのような人々の中にあって、馬場は美術館の中での、そのヨーロッパの人々の強烈な個性から解放されて、やっとほっとしているのではないか。(T・H)


     (まとめ)
 これは一つ一つの絵に緊張して向かい合っていた美術館から解放された場面であろう。色といっているが、服装の様々な色をさしているだけではないだろう。個というものを集団の中に埋没させてみんなでいる気安さ。もちろんそれはある意味で恐ろしいのだが、美術館で一人一人個性の強い画家と緊張して向き合った後では何ともここちよいのである。(鹿取)




ブログ版  馬場あき子の外国詠 88(スペイン)

2018年09月21日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠10(2008年7月9月実施)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・H    司会とまとめ:鹿取 未放


88 リンデン大きみどりの葉を垂れて暗きひかりのゴヤと相見る

      (レポート)
 ゴヤ:(1746~1828)スペインの画家。近現代絵画の先駆者。宮廷社会を個性的な技法
    と鋭い写実で描いた。怪奇幻想の領域をも開拓。銅版画の名手。
 今、馬場は町中で菩提樹の大きな葉に慰められた。その一方、館内では暗いゴヤの絵を見た。ゴヤは別に暗い絵ばかり描いている訳ではなく「カルロス4世とその家族」「裸体のマハ」「着衣のマハ」など楽しい絵もある。なのに馬場はなぜ「暗きひかりの」と詠んだのであろうか。油絵の黒を多用する手法に(それは聖と悪との対決を思わせるが)、もうたくさんと食傷気味だったのだろうか。(T・H)


      (まとめ)
 宮廷画家だったゴヤは、晩年耳が聞こえなくなりマドリード郊外の別荘で「暗い絵」のシリーズを描いたといわれている。(梅毒の治療に水銀を用い、その副作用で聾者になったという説もある。)その「暗い絵」シリーズをゴヤは自分の別荘に掲げていたそうだが、現在は壁から剥がされてプラド美術館に展示されているらしい。代表的なものに「わが子を喰らうサトウルヌス」などがある。 この歌、初句4音という不安定な入り方で、歌全体が不安定でもあり、その分強い歌でもある。「リンデンは」と助詞を入れれば5音にするのは容易だから、わざと外した4音なのだろう。リンデンは釈迦が悟りを開いた菩提樹と同じではないのかもしれないが、リンデンからわれわれ東洋人はやはり悟りを連想してしまう。そして大きな緑の葉を垂れるリンデンの安らかな姿と対照的に暗いひかりを放つゴヤの暗い絵がある。作者はここで渾身の力でゴヤと対峙しているのだろう。その力は人間ゴヤの大きさに跳ね返されそうだ。不安定な歌の姿はその反映だろう。(鹿取)