かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

ブログ版 馬場あき子の外国詠394(中欧)

2018年01月19日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠54(2012年7月実施)
   【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)109頁~
   参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:藤本満須子
   司会と記録:鹿取未放


394 予言のごとく情念の深き底ひよりエレクトラ立ちて闇に激(たぎ)れる

      (レポート)
 エレクトラが父の仇を討とうとするところからこの歌劇は始まる。強烈な音楽の後に幕があがるが、迫力あるソプラノでうたうエレクトラの姿を「闇に滾れる」と表現したところは実に巧みな作者だと感銘。(藤本)

   
      (まとめ)
 「エレクトラ」は当時としてはもっとも進歩的で、不協和音などをとりこんだ大胆な音楽技法が使われた傑作だという。劇の冒頭は毎日夕闇が迫るとエレクトラは狂ったようになって、父が殺害された状況を歌い、改めて復讐を誓う場面だそうだ。そうすると「予言のごとく」は、父に復讐を果たす予言という具体的な意味になる。(鹿取)

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ブログ版 馬場あき子の外国詠393(中欧)

2018年01月19日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠54(2012年7月実施)
   【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)109頁~
   参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:藤本満須子
   司会と記録:鹿取未放


393 心の翳り幾重に深き日に開くホフマンスタールの訳詩集あり

     (レポート)
 作者の心に陰鬱なかげりがおおいかぶさるとき、ホフマンスタールの訳詩集を読む。読むことによって少しかげりがうすれていく。ホフマンスタールの若き日の詩集であろうと想像する。(藤本)


      (当日意見)
★あり、と現在形で詠われているが、日本にいて心の翳りが深い日に折々繙いた、そういう訳詩
  集があるよ、持っているよということだろう。(鹿取)
★エレクトラは復讐の劇だが、詩集の中には翳りを薄れさせるような明るい詩もあるのだろうか。
     (慧子)
★いや、私もホフマンスタールを読んだことはないが、明るいから心の翳りが薄まるとは限らな
 い。395番歌(エレクトラ熱唱する大き影ゆれてかく呪ふことわれを励ます)では呪いによっ
 て励まされているわけで、暗い詩に共感することで、心が軽くなる場合だってある。(鹿取)
★ユダヤ系の芸術家に対する思い寄せがここにも表れているのだろう。(藤本)

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ブログ版 馬場あき子の外国詠392(中欧)

2018年01月17日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠54(2012年7月実施)
   【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)109頁~
   参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:藤本満須子
   司会と記録:鹿取未放

392 ホフマンスタール、リヒャルトシュトラウスに出会ひたる三十五歳のウィーンを思ふ

     (レポート)
 ホフマンスタールが三十五歳でリヒャルトシュトラウスに出会った年のウィーンを偲ぶ、という歌だが散文のような歌で、ホフマンスタールの三十五歳といえば1909年である。1909年のウィーンについて調べては見たが作者の意図やおもいには至らなかった。まずふたりの関係から考えると1909年1月にウィーンではなくドレスデンで「エレクトラ」は初演されている。ホフマンスタールは1909年2月には次の「ばらの騎士」をまとめあげている。またふたりが出逢ったのは1900年だ、パリで。リヒャルトシュトラウスは43歳でウィーン・フィルの常任客員指揮者となっている。1907年のことだ。1907年、イギリス、フランス、ロシアの三国協商が完成、1914年第一次世界大戦勃発。この頃のウィーンは日常生活にいたるまで反ユダヤの雰囲気が色濃く漂っていた時代と言われている。後にリヒャルトシュトラウスにもその生涯において音楽活動において負の影響を及ぼすことになる。かのヒトラーはこの頃ウィーンにおいて反ユダヤの思想を確実に養っていたといわれる。ヒトラー、1907年にウィーンに入り1913年まで過ごした。芸術大学を二回失敗、行方不明、浮浪者収容所でも収容されていたという。ヒトラーは十二歳の時「ローエングリーン」に魅せられたという。ウィーンに放浪、滞在していた二十歳前後の感性豊かな時期、水だけを飲み、リンツの歌劇場でワーグナーの歌劇を観ている。1回につき7,8時間観ていたとも。ヒトラーのワーグナー崇拝は生涯変わらなかった。     (藤本)


     (当日意見)
★ホフマンスタールはウィーン生まれだからこの年に来たわけではない。また「エレクト
 ラ」の初演は一九〇九年ではあるが、ウィーンではなくドレスデンで行われている。だ
 から分からない。(藤本)
★ルエガーというウィーン市長(在一八九七~一九一〇)が反ユダヤ主義者として有名だ
 った。一九一〇年に病死したが、葬儀行進には若きヒトラーが参加していたという。世
 紀末の気分が尾を曳いた退廃的で不穏な空気の中のウィーンということだろうか。
     (鹿取)


(まとめ)
 レポートにも書かれているように、ホフマンスタールは一八七四年生まれで、三五歳になるのは一九〇九年。ちなみにリヒャルトシュトラウスは一〇歳年上の一八六四年生まれ。
ホフマンスタールの詩とリヒャルトシュトラウスの曲が出逢ったという解釈も考えてみたが、三十五歳とあるところから難しいかも知れない。また一九〇九年もポイントになりそうだが、初演場所はドレスデンなのでウィーンの部分がやはり食い違う。出逢ったのは初めてとはいっていないのでそこはクリアーできるが、どこかに作者の勘違いがあるのかもしれない。(鹿取)

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ブログ版 馬場あき子の外国詠391(中欧)

2018年01月16日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠54(2012年7月実施)
   【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)109頁~
   参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:藤本満須子
   司会と記録:鹿取未放

391 ウィーンの秋オペラ座に「エレクトラ」観んとして正装す日本の帯を締めたり

      (レポート)
 秋のウィーン、古都ウィーンの秋ときただけで十分に旅愁を誘われる。音楽の都ウィーンのオペラ座に正装して「エレクトラ」を観た。ウィーンに限らず海外の音楽祭はよく放映されるようになったが、日本人が着物で席に着いている様子も見かけるようになった。結句の「日本の帯を締めたり」に作者の意気込みが感じられる。演目がギリシャ神話に材を採った「エレクトラ」であることも、作者の昂揚した気分を十分に表現している。(藤本)
  エレクトラ:ホフマンスタールの戯曲、リヒャルトシュトラウス作曲の楽劇。ギリシャ神話中
        の女性エレクトラが父の仇を討つというストーリーだ。エレクトラの母であるク
        リュタイムネストラがその情人アイギストを使って父アガメムノンを殺す。弟オ
        レストスが母とアイギストを殺し父の仇を討つ。すでにギリシャの三詩人により
        劇化、二時間一幕。


      (当日意見)
★別のところでこの折の事を先生が話された。一級のものを鑑賞する時にはこちらも正装しなけ
  ればならないと。(藤本)
★「エレクトラ」を観ることがこの旅の目的の一つだったようだから、心意気が伺える。(鹿取)
★ロビーに正装して一団が集結した(藤本談)というところに、先生の勝ち気なところが表れて
  いる。(慧子)
★「正装す」と切れているのはなぜか?(T・H)
★このようにおしまいの方にある切れは力強い切れで、この後に新たに言い起こし、歌全体がうね
 るような形になる。力強い歌なので、迫力で読ませてしまうが、実はものすごい字余り。切れ目
 も難しい。とりあえず斜線を入れたところで切ったが、6・10・5・9・7音。二句め十音の
 部分に句割れが、四句めも句割れになっている。(鹿取)
   ウィーンの秋/オペラ座に「エレクトラ」/観んとして/正装す日本の/帯を締めたり

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ブログ版 馬場あき子の外国詠390(中欧)

2018年01月15日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠54(2012年7月実施)
   【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)109頁~
   参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:藤本満須子
   司会と記録:鹿取未放


390 観光としてわが見るマリアわれを見ず初秋のやうにさびしきその瞳(め)

      (レポート)
 作者は旅行者としてマリア像を見るのだが、マリアはわたしを見てくれない。まるで初秋のようなさびしさをたたえている瞳だ。
 教会にあるマリア像なのだろう。時代により場所によりマリアの表情は少々変化するだろうが、ややうつむき加減のマリアを「さびしきその瞳」と作者は感じたのだろう。(藤本)


      (当日意見)
★観光として見るんだからマリアも冷たいと思う。信仰をもって見たらマリアはもっと優しい目
  をしたのではないか。(慧子)
★マリアは信仰で自分を見て欲しいと思っていて、観光で見る人は見ないという事ではないか。
  だから寂しそうな目をしているのだ。(曽我)
★「観光としてわが見る」にポイントがある。信仰をもって仰ぎ見るのではない作者をマリアは見
 ようとしない。そして信仰を持たない作者をマリアは哀れんで寂しげな瞳をしているのかもしれ
 ない。この作者には、対象の方が我を見るという歌が非常に多く、魚を釣り上げられた沼が恨め
 しそうに私を見たり、私が食べようとした蛸がわれを見たりする歌などたくさんある。(鹿取)


      (まとめ)
 もしかしたら、マリアは信仰のありなしでは人間を区別しないのかもしれない。信仰を持っていようが持っていまいが、人間はやはり不完全。だから、マリアは誰にたいしてもさびしい瞳をしているのかもしれない。
     (鹿取)

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ブログ版 馬場あき子の外国詠389(中欧)

2018年01月14日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
   【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)105頁~
   参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
   司会とまとめ:鹿取未放

389 放牧のかほ白き牛観光のわれをあやしみ長く鳴きたり

     (レポート)
 放牧されている牛が観光客のわたしを見てまるであやしい人間だというように、鳴き声を長くのばし鳴いていることだ。
 雨のプラハ、雨のヴルタヴァ、カレル橋、スメタナのプラハ、虹の立つプラハとうたい、その終わりに放牧の牛をうたい、ゆっくりと時間がながれ、のどかでユーモアさえ感じさせる歌がきている。緊張感から解きほぐされ少し明るい気分にさせてくれる。(藤本)

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ブログ版 馬場あき子の外国詠388(中欧)

2018年01月13日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
  【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)105頁~
   参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
   司会とまとめ:鹿取未放

388 はるか見るチェコ原子力発電所稼働拒まれしままに立ちゐつ

     (レポート)
 列車かバスか移動しているのだろう。窓から見えるはるか遠くには原子力発電所が建っているが、その発電所は稼働を拒否されている。建ってはいるがずっと立っているだけだ。「立ちゐつ」の「つ」の強調に注意したい。1999年頃の旅行の時、作者はこのような視点で原子力発電所に目をやった。尚、2002年にはついに稼働を開始したと聞く。(藤本)


     (当日発言)(2012年6月)
★高野公彦さんも原子力発電所を詠んでいた。何を孕んでいるか分からない原発に文殊とか普賢
 とか最高の智恵の名前を付けているという歌。何年頃の歌かは知らないが。(慧子)
★ドイツなどは自分のところでは作らないで、よその国から原子力の電気を買っている。(曽我)
★チェルノブイリが問題を起こしていたころだろうか。(曽我)
★チェルノブイリ原発事故は1986年。作者が原発に注目して詠ったのも、チェルノブイリ事故
 あってのことだろう。ところで、ここに詠まれているのはテメリン原子力発電所で、チェルノブ
 イリ事故の翌年に建設を開始したそうです。チェコ原発については調べてきたので概略を説明し
 ます。
【建設開始後も抗議活動が続き、幾度も建設は中断した。1999年建設支持は47パーセントま
で落ちていたが、同年5月、政府による建設継続の最終決定に基づき建設続行、2002年に1 
号炉の営業運転を開始。2003年には2号炉の運転開始。現在はテメリン2基に加えドコバニ 
に4基の原発が稼働しており、原発によりロシアへの依存が減り、電力輸出国としての地位を築 
き上げた。2011年の日本の原発事故後も原発促進を固持する国の一つとなっている。隣国オ 
ーストリアやドイツなどの反対は根強いが、国内での反対はあまり表面化していないようだ。】
   (Wikipediaなど数種のネット情報より)(鹿取)


       (後日意見)
 作者の旅行は1999年秋なので、まだ原発は完成していない。ただ反対運動は続いていたのかもしれない。それが完成はしていないが「稼働拒まれしままに立ちゐつ」と詠った所以だろう。3・11後の今読むとどきりとする。作者がこの歌を詠んだ折、日本の原発についても漠然とした不安を感じていたのだろう。当日意見にある高野公彦の歌とは「近江なる観音を見て若狭なる<もんじゅ><ふげん>を見ず帰る旅」(『地中銀河』1994年刊)のことだろうか。発言とはややニュアンスが異なるが、別の歌のことかもしれない。 (鹿取)


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ブログ版 馬場あき子の外国詠387(中欧)

2018年01月12日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
   【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)105頁~
   参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
   司会とまとめ:鹿取未放


387 スメタナの記念館の椅子翳ふかくヴルタヴァに雨そそぐ昼なり

      (レポート)
 382番歌(ヴルタヴァの朝雨に立つ虹見ればかなしきかなやスメタナの祖国)ではここスメタナの祖国であるよとうたっている。雨のプラハ、雨のヴルタヴァ、時間は昼であるが、スメタナ博物館の椅子はかげを深くおとしている。スメタナ博物館はカレル橋の旧市街側のたもとにあり、ヴルタヴァ川がすぐ脇を流れている。スメタナは1863年から1869年までここに住んでいた。〈売られた花嫁〉〈ダリボル〉をここで作曲した。作者のスメタナへの思いが深く表れている歌。(藤本)

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ブログ版 馬場あき子の外国詠386(中欧)

2018年01月09日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
   【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)105頁~
   参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
   司会とまとめ:鹿取未放

  ◆以降、ブログ版として必要事項のみの抜粋です。

386 雨けむるカレル橋の彼方プラハ城大統領執務中の旗ありき窓

     (レポート)
 384(旅人に見えざる歴史の時間あれどカレル橋雨のヴルタヴァを見す)ではカレル橋から下を流れるヴルタヴァを見下ろしてうたったが、ここではカレル橋から上を見上げてプラハ城の姿を見ている。雨にけむるカレル橋の向こうには大統領の執務中という旗がある窓がもやっとしている中に見えている。執務中の大統領の姿まで何と生き生きと浮かび上がってくるようだ。(藤本)
  カレル橋:ヴルタヴァ川にかかる最古の橋。1357年カレル4世着工、60年かけて完成。
       ゴシック様式、520メートル、幅10メートル、聖像が両側に並ぶが、彫刻はバ
       ロック様式。


     (当日意見)
★プラハ城はかなり遠くなんだけれど。(曽我)
★これが執務中の旗です。ですけれど、この旗は今この部屋で執務しているよという意味ではなく、
 大統領は国内にいるよという意味で立ててあるそうです。(鹿取)【ブログでは、著作権の関係
 で写真は省略】


     (追記)(2013年11月)
 プラハ城は雨に煙っているくらいだから、大統領執務中の旗などカレル橋の手前から見えるわけがない。この一連の一首目は雨のプラハの街を去ってゆく歌だから、昨日だか一昨日だか、少なくともこの旅の間に作者は城を見学してこの旗を見たのだろう。鮮やかに懐かしげに翻っていた旗を思い出しているのだ。今は雨降りであるし、遠いのでその旗は見えない。だから「旗ありき」と過去の助動詞「き」を使って思い出している。間近に見た昨日は(あるいは一昨日は)大統領勤務中の旗が鮮やかに靡いていたなあ、という気分。(鹿取)


     (追記)(2018年1月)
 プラハ城は9世紀後半に建てられた。以後この城には明暗さまざまな歴史が刻み込まれた。(昨日の記事、386番歌参照)それは概ね外国に侵略され、支配を受け、また自由が弾圧された暗い歴史である。
 近い所では、第一次世界大戦後の1918年にハプスブルク家が崩壊、400年間の支配から解放されてチェコスロヴァキア共和国が成立した。1920年には、長く外国にあって独立運動を続けていたマサリクが初代チェコスロバキア大統領に選ばれ、民衆に歓迎されながらプラハ城の大統領府に入った。マサリクはそこで演説を行い、「真実は勝つ」という旗をプラハ城に掲げ、偏狭な民族主義を諫めた。
 しかし、1939年にはヒトラーによってまたプラハは占拠され、プラハ城ではヒトラーがマサリクと同じ演壇に立って演説を行った。1945年までナチスの支配が続いた。
 第二次大戦後は、社会主義国チェコスロヴァキアの首都となったが、その後も平坦な道ではなかった。1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こるが、ソビエト軍が侵攻し、プラハの春は潰された。その後は共産主義政権になり、改革派は弾圧された。民衆に自由はなく、全ての映画が検閲された。しかし、1989年、ベルリンの壁が崩壊し、ビロード革命により共産党政権は崩壊、革命の立役者だったハヴェルが最後のチェコスロヴァキア大統領となり民主化を行った。
 1993年にはチェコとスロヴァキアが分離し、ハヴェルがチェコの初代大統領となり、プラハはチェコの首都となった。
 馬場あき子一行がプラハを訪れたのはその6年後の1999年秋である。ちなみに馬場の旅より10年後の2009年、オバマ大統領が核なき世界を唱えた「プラハ演説」がプラハ城外のフラチャニ広場で行われた。
   (鹿取)

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ブログ版 馬場あき子の外国詠385(中欧)

2018年01月08日 | 短歌一首鑑賞
 ブログ版馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
   【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)105頁~
   参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
   司会とまとめ:鹿取未放

 ◆以降、ブログ版として必要事項のみの抜粋です。

385 チャスラフスカいかなる齢(よはひ)重ぬるや雨に虹立ちやすしプラハは

      (レポート)
 1964年東京オリンピックで金メダルを獲得したチャスラフスカはどのような齢を重ねて生きてきたのだろうか、と体操選手だった彼女を思いつつ、しかし雨が降れば、すぐ虹の立つプラハだよ。虹は明るい未来の象徴、プラハ・チェコを希望をもって見ている作者と思う。チャスラフスカという一人の女性を詠いつつその背後のプラハの歴史や長かった民族独立運動に思いを重ねている。激動の時代を生きてきた人々への熱い目差しを感じさせる。(藤本)

      (当日発言)
★私は東京オリンピックの体操で金メダルをとった人としてしか知らなかった。調べてきたので
  読み上げます。【1968年のチェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」の支持を表明し
  ていたので、ソ連軍のプラハ侵攻の折はやむなく身を隠していた。同年のメキシコ五輪には直
  前に出場を許されたが、金メダルはソビエトの選手とダブル受賞となった。その後1989年、
  ビロード革命によって共産党体制が崩壊、ハベル大統領のアドバイザー及び「チェコ・日本協
  会」の名誉総裁に就任した。後にチェコオリンピック委員会の総裁も務めている。2010年
  旭日中綬章を受章。】(Wikipediaより抜粋)
 「いかなる齢重ぬるや」と言ってはいるが、作者はチャスラフスカの金メダル後の生き方を知
 った上でわざとぼかしてこう表現したのだろう。(鹿取)


     (追記)(2017年1月)
 作年(2016年)8月、チャスラフスカは74歳で死去。


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