かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

配所の富士

2013年12月31日 | 日記



 いつになく富士がくっきり見えると思ったら、大規模修繕の為に張ってあったメッシュシートが取り払われていた。
 しかし足場は残っているので、実際は鉄骨越しに富士が見えている状態だ。




 「配所の月」というのをこの鉄骨のかなたに写してみたかったが、角度の加減でたぶんこの位置に来ることはないのだろう。ただ足場が組まれて以降、十五夜は常に雨か曇りだったような気がする。




 今日は夕焼けがきれいだった。
 もっとも工事の人のお正月休みが終わると、またメッシュシートが張られるそうだ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

馬場あき子の外国詠 94(韓国)

2013年12月27日 | 短歌の鑑賞
【発光 武寧王陵にて】『南島』(1991年刊)P95
               参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:崎尾廣子
               司会と記録:鹿取 未放


433 公州に百済の宝みてあれば倭の土器のうたげさびしも

(レポート)(13年12月)
 公州地方には熊津時代を中心に膨大な古墳が分布する。(韓国の古代遺跡 中央公論社)出土品の数々を見た後の感慨深さが下の句から伝わってくる。「さびしも」からは土器への愛着も感じ取れる。上の句が下の句を、下の句が上の句をそれぞれに生かしあい歌に奥行きが生まれている。


(記録)(13年12月)
 ★ぴかぴかだけがいいわけじゃない。土器はしっとり、どっしりとして。(曽我)
 ★倭の土器の話ですけど、縄文式土器のようなものは日本で初めて造られたって言われているの
  ね。火山国だから土が噴火で焼かれるのを見て造り始めたって。(慧子)
 ★日本の土器は、それでも大陸や朝鮮半島の影響を受けているようですけど、ここではそういう
  歴史ではなくて、目の前の宝を見ながら、往事の日本では素朴な土器で宴をしていたんだろう
  な、とその後進性に感慨を覚えている。貴族達でさえ素朴な土器で宴会をしていたんだろうと、
  日本の国そのものが貧しかった時代に思いを馳せている。まして半島に派遣された役人達はき
  らびやかな金属器などを見てしまって彼我の違いにわびしさを感じただろう、そんな往事の
   日本人を思いやっているのかもしれない。(鹿取)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

馬場あき子の外国詠 93(韓国)

2013年12月26日 | 短歌一首鑑賞
【発光 武寧王陵にて】『南島』(1991年刊)P95
               参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
              レポーター:崎尾廣子
               司会と記録:鹿取 未放


432 物部連(もののべのむらじ)ら海を越えゆきて百済の黄金いかにか見けむ

(レポート)(13年12月)
 日本古代史年表(吉川弘文館編集)によると西暦515年乙未(きのとひつじ)物部連らが率いる倭国軍、帯沙江で伴跛國軍に敗れ汶慕羅に逃れる、とある。この年代は武寧王が在位している。この史実を踏まえての歌なのであろうか。結句からそんな感じを受ける。「物部連ら」が百済の黄金を見たときの心の動きは歴史には記されていない。この裏側を思い、惜しんでいるようである。自身が見た韓国の古墳のきらびやかな出土品を身につけていた王、王妃らを見た物部連らの驚きを尋ねているようである。


(記録)(13年12月)
 ★日本はこの当時金は出なかったんじゃない。だから驚いた。(曽我)    

    (追記)
 「日本書紀」の継体天皇の条などによると、物部連らは百済に派遣され、百済のの使者に労をねぎらわれたり、贈答品を交換したりした記事が出ているが、在位中であった武寧王や王妃に会った記事は無い。謁見していれば当然「日本書紀」にその記述があるはずだ。黄金の一端をかいま見た物部連らは百済の力にやはり圧倒されたのではないだろうか。自国の後進性を自覚したことであろう。「いかにか見けむ」と係り結びにして、どのように見たんだろうか?きっとびっくりしたに違いない、と彼らの心中を推察している。それは当然、武寧王の遺品を目の当たりにした自分の驚嘆の反映でもあろう。(鹿取)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

【きもの】大きなつづら

2013年12月25日 | 着物
 退職してから、出かけるときは着物を着ることが多くなった。

 大学時代、日本料理店で半年ほどアルバイトをして、それで着物の着方を覚えた。正式に習ったことがないのでそれ以来自己流で着ているが、着物を着るのは楽しい。その自己流で、一応大学の卒業式も友人の結婚式も自分で着て出かけた。成人式はアルバイトより前だったので、行きつけのパン屋のおばあさまに着せてもらったが。その代わり、娘の七五三、卒業式、成人式は私が着せた。
娘の卒業式の袴は、教員仲間に特訓を受けて何とか形にしたが、娘が袴好きになって、シーズンになると時々袴をはかせて出かけさせている。

 ところで、よく着物を着るようになると、どこからともなく着物や帯が集まってくる。自分はもう着なくなったけれど、棄てるのはもったいないので着てくれる人がいれば嬉しいからと、くださる方が多い。昨日も、ごく最近知り合った方から、もう着ないからと帯やショールをいただいた。帯もショールもご自分で染められたすばらしい品である。外は寒かったが、宝物の入った大きな葛籠を背負っている気分で、とても嬉しかった。大切に使わせていただきたい。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

馬場あき子の外国詠 92(韓国)

2013年12月25日 | 短歌一首鑑賞
【発光 武寧王陵にて】『南島』(1991年刊)P94
               参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:崎尾廣子
               司会と記録:鹿取 未放


431 武寧王の黄金(こがね)の宝みる朝ぞ六世紀大陸の力は迫る

(レポート)(13年12月)
 武寧王陵の副葬品の表(韓国の古代遺跡 中央公論社)に目を通すとその数のあまりにも多さに圧倒される。金製の品々の多さにも驚かされる。この金製耳飾り等々見たのであろう。「朝ぞ」に「黄金の宝」を見る意気込みが表されている。「朝」と詠ったことが下の句に切迫感をもたらしている。中国では581年に隋が中国全土を統一し朝鮮三国の角逐はいっそう激しさを増してくる。図説韓国の歴史・河出書房新社によると、武寧王陵の出土品から当時の国勢と高い文化水準が伺えるとある。今は歴史にのみ存在する武寧王と王国百済を惜しんでいるようである。「迫る」から王国の危うさが伝わってくる。


(記録)(13年12月)
 ★「大陸の力は迫る」は、副葬品の圧倒的なきらびやかさによって王の力の大きさが自分に迫っ
  てくる、といっているのではないか。百済は半島だから、大陸というのがちょっと不思議だけ
  ど、島国の日本から見れば百済も大陸の一部ということか。
または、大陸を中国ととると「六世紀大陸の力は迫る」は、中興の武寧王が今目の前にある
  金銀財宝を愛でていた頃、百済を滅ぼそうとして大陸の力が迫っていたということかもしれな
  い。百済滅亡は武寧王の時代から一世紀以上先の660年だが、百済が常に大陸の脅威にさら
  されていたのは確かである。(鹿取)

    
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

馬場あき子の外国詠 91(韓国)

2013年12月24日 | 短歌一首鑑賞
【発光 武寧王陵にて】『南島』(1991年刊)P94
               参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
              レポーター:崎尾廣子
               司会と記録:鹿取 未放


430 蓆一杯柿広げたり韓くにに陽の色きよきもののかがやき

(レポート)(13年12月)
 「柿」の実が「蓆一杯」広げられている光景は日本ではあまり見かけないように思う。「韓くに」に訪れている季は初冬である。目にしたこの光景の陽の光に発見があったのであろうか。下の句に「陽の色きよき」にそれが表れているように感じる。「韓くに」のひらがなに改めて湧いてきている韓国への親しさが詠われていると思う。光景そのものが詩となっていると思える様子が目の前に広がる。自身もこの陽の光を受け温かさに浸っているのであろう。


(記録)(13年12月)
 ★柿は吊すねえ、日本じゃ。蓆に一杯広がっているところに陽が照ったらきれいでしょうねえ。
    (曽我)
 ★干してから干し柿にするんでしょうか?(慧子)
 ★それだとしなしなで皮が剥きにくいでしょう。(鹿取)
 ★キムチとか何かお料理に使うんでしょうかねえ。(崎尾)
 ★でも、いかにも初冬らしいし、柿の色も鮮やかに浮かびますね。(鹿取)
 ★懐かしい感じがしますよね。(慧子)

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

馬場あき子の外国詠 90(韓国)

2013年12月23日 | 短歌一首鑑賞
【発光 武寧王陵にて】『南島』(1991年刊)P93
               参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:崎尾廣子
               司会と記録:鹿取 未放


429 「倭人伝」がやまとに無しと記したる鵲ぞ飛ぶ純白の胸

(レポート)(13年12月)
 「倭人伝」は三世紀前半における日本の地理・風俗・社会・外交などについてまとまって記した最古のものである。(言泉 小学館)訪れている韓国の地でこのような歴史を踏まえて見た鵲はさぞ新鮮に映ったであろう。「ぞ」から感動が伝わる。結句に余韻が生まれており、鵲の胸の白さが静かに響いてくる。
 ■かささぎ
  カラス科の鳥。全長約45センチメートルでカラスより小さい。腹面および肩羽は白色でほか
  は金属光沢を帯びた色。尾羽は長い。生息地は中国。朝鮮に多く分布、日本では佐賀平野に限
  られる。天然記念物に指定。鳴き声がカチカチと聞こえるのでカチガラスともいう。古来、文
  学上では、七夕説話の星の仲立ちをする鳥として知られる。ちょうせんがらす。
        (言泉 小学館)


(記録)(13年12月)
 ★これも428の歌と同じで日本には鵲はいないだろうと言われていても、日本にもいるよって
  こと。(曽我)
 ★これは現地で見ているんだから、日本にはいない鳥だというからどうれ、よく見てやろうって
  感じじゃないの。(鹿取)
 ★でも、日本にもいるんでしょう?(曽我)
 ★さっきの辞典によればそうだけど、ここは日本にはいないって信じているのかもね。作者はこ
  の辞典を見ている訳じゃないから。「倭人伝」には日本にいないと書いてあるけど、佐賀には
  いるよって作者が知っていたかどうかは別にして、珍しい鳥ではあるので、その純白の胸なん
  かをロマンチックに興味深く見てるんじゃないの。恋の橋渡しをする鳥だから。(鹿取)
 ★鵲が飛ぶって何かいいことがあるっていうわね。瑞兆です。(曽我)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

馬場あき子の外国詠 89(韓国)

2013年12月22日 | 短歌一首鑑賞
【発光 武寧王陵にて】『南島』(1991年刊)P93
               参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:崎尾廣子
               司会と記録:鹿取 未放


428 武寧王筑紫各羅(かから)に生(あ)れしとふ伝承は問はでひとり温む

(レポート)(13年12月)
 「日本書紀」の雄略天皇5年の条(角川日本地名大辞典 角川書店)に筑紫の各羅島に生まれた児が後に武寧王となったとある。武寧王陵を訪れ、この伝承を事実として受け止めたのであろう。結句からそのような感じを受ける。寒い立冬のこの一日を胸深くにおさめているのであろう思いが伝わってくる。


(記録)(13年12月)
 ★「伝承は問はで」というのがこの作者の距離の取り方ですね。事実かどうかなんって詮索しな
  い。(鹿取)
 ★韓国の王様がこんな島で生まれる訳はないのですが、嘘だとかは言わずに心の中にしまってい
  るのね。批評しないで。(曽我)
 ★余談ですが、日本の桓武天皇の生母が武寧王の子孫だという説もありますね。(鹿取)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

佐々木実之歌集『日想』の已然形

2013年12月21日 | エッセー
     
        
        
【1990年】京大短歌
揚子江川海豚こそ賢けれいくさ見物しに来るもをり 

斃れたるまま天空を渡りゆくオリオンよもはや人を恋はざれ

【1993年】
大きなるものの常とて頓死せる鮟鱇いよよ静かなりけれ

【1994年】
家の名のなき墓石の並びゐる石材店に昼しづかなれ 

【1997年】短歌研究応募
マキャベリを心底愛すといくたびも言ひつのりたる頬豊かなれ
  
  【2000年】
水底は異形のものを容るるなれアメフラシ雨を降らして逃げよ

【2001年】
賢きは懼れやすけれ一頭がなかなかゲートに入らうとせず

【2002年】
船と船すれちがはせて内水はうとましきまで静まりゐたれ

【2003年】
翻る星条旗こそうれしけれ民主主義とは戦争が好き 


【2004年】
文庫本薄きままなれ大正の侏儒は言葉を言ひさして死ぬ

    かりん賞
アヲコ浮く運河の上にかかりたる歩道橋こそわんわん揺るれ
   かりん賞
また一羽飛び来たりては去りてゆく奈良とはつばめの多き町なれ
 

           
【2005年】
漆黒に水のかをりをただよはせ螢は人におぢぬものなれ

旬といふ語のうれしけれぎんいろに包丁入れて秋刀魚の鮨

駅弁のゆかしきかなや安積山花かつみ弁当といふを食ひたれ

【2006年】
守るべきものありてこそおにばすの蕾は太き棘を育め 

朝々を高利貸しこそ優しけれわれにティッシュをひとつづつ給ぶ

はなびらの薄き牡丹を思はしめ寝息をたつる乳房白けれ

信号に盲人用の曲鳴れば少し明るき都市の朝なれ 
 

【2007年】
渡海文殊の獅子の足音ゆつくりと夏真夜中を聞くここちすれ

まひるまの胴をゆつくり回しつつミキサー車道に働きゐたれ


【2010年】
いちはやき八十物部の滅ぶなれ躬づから君の率きたまふを
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

馬場あき子の外国詠 88(韓国)

2013年12月21日 | 短歌一首鑑賞
【発光 武寧王陵にて】『南島』(1991年刊)P92
               参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:崎尾廣子
               司会と記録:鹿取 未放

427 宋山里(そうさんり)の神に購ひし買地券武寧王残せり墳墓の闇に

(レポート)(13年12月)
  世界大百科事典によると、買地券は天地から土地を購入し、とある。死してなおその王陵の土地の所有を証明する買地券。実際に見たのであろう。新鮮な驚きがあったであろうと想像する。「宋山里の神」と天地の神を限定している。この表現がこの歌の魅力となっている。結句で限りない人間の欲望を寂しむ思いを詠っているようである。
 ■買地券
 土地の売買証明書をいうが、中国考古学では墓地を購入したことを証明する文書に限っていい、
  しばしば墓の副葬品として発見される。後漢以降、近世まで長く行われた。石、塼、鉛、玉、
  鉄などの板に記したもので、内容は年月日、被葬者の住所・氏名・性別・年齢、墓の所在地、
  土地の値段、土地の範囲などからなる。漢代のものは実際の状況を記したらしいものもあるが、
  後には冥界での架空の状況を記すようになる。つまり天地から土地を購入し、もし土地争いが
  起これば地下の神である〈土伯〉や天上の神である〈天帝〉のところへ訴えよという道教的な
  内容である。中国以外の例としては韓国の百済武寧王陵から出土した買地券が著名である。日
  本では1979年に福岡県太宰府市の宮ノ本遺跡で、平安時代と見られる火葬墓から、長さ3
  5.21㎝、幅9.5㎝、厚さ2㎜の鉛板に刻んだ買地券が発見され、この買地券は赤外線テレ
  ビカメラにより、方一丈の土地を〈銭25文、くわ1口1口絹5夫、調布5口、白綿1目
    (斤)〉で買ったことが解読された。(世界大百科事典 平凡社)
   ※レポートは手書きであり、終わりから2行目の「くわ」は漢字で、「秋」の下に「金」と
    書く一文字。ネットから「世界大百科事典」の引用部分をコピーしてみたが、「くわ」の
    文字は反映できなかった。


     (記録)(13年12月)
 ★「宋山里の神」というのは何なんですか?(鹿取)
 ★買地券の説明に書いてあるように、天地の神から買うんだけど、ここでは宋山里という土地の
  神に作者が限定しているところが面白い。(崎尾)
 ★天地の神から買うってお金は誰に払うの?(鹿取)
 ★神様だからお金は払わない。(崎尾)


(追記)(13年12月)
 レポーターの引用と重なる部分もありますが、以下の説明の方が分かりやすいので「邪馬台国大研究H・P」より引用させていただきます。

【羨道にあった誌石(墓碑)。墓地を神から買い取るための「買地券」として残っていた。(買地券は、同じものが太宰府などでも発掘されている。)その誌石に、「斯麻王」(しまおう)と文字が刻まれていたため、この墓は百済第二十五代武寧王(在位502~523)の陵墓と確定した。誌石からみて、武寧王は523年5月に死亡して525年8月に王陵に安置され、王妃は526年11月に死亡して529年2月に安置された。そして閉塞用の塼のうち「士壬辰年作」の銘文磚は、王のなくなる11年前である512年に、既に築造準備がなされていたことを示している。誌石は2枚の長方形の石版である。横41.5cm、縦35cm、厚さ5cmの青灰色閃緑岩に、楷書体で文字を刻んだ。武寧王が523年に亡くなると、3年葬を行うために2年3ケ月の間、仮埋葬をして、王陵に安置する時に王の墓誌と千支図、買地券をつくったものと理解される。その後、526年に王妃が亡くなると、3年葬を行って529年に葬るときに、買地券を上下逆にして、裏側に王妃の墓誌を刻んだ。墓室は塼(せん)を積み上げて作ってあり、アーチ型の天井である。ここに、槙の木でできた王と王妃の柩が安置されていた。】

 上記引用文から分かるように、武寧王の「買地券」は石版に彫られている。レポーターの「死してなおその王陵の土地の所有を証明する」ものというより、誰の墓か明記するための形式的なものではなかろうか。名を遺したいとか、広大な墳墓のや貴金属を用いた副葬品とか、王の「限りない人間の欲望」の現れかもしれないが、「買地券」は少し性質が違って、土地の所有権をひけらかすようなものではないようだ。道教にのっとているということだから、たぶんに儀礼的なもであるようだ。上記H・Pにあるように「買地券」とは要するに「墓碑」「墓石」である。
 ところで、王と王妃の棺は槙の木とあるが、同H・Pによると、後年、これは日本にしかない高野槙という種類で、当時の半島と日本の密接な交流が伺えるそうだ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加