かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 100

2014年06月13日 | 短歌一首鑑賞

【Ⅱ ろっ骨状雲】『寒気氾濫』(1997年)59頁
                         参加者:四宮康平、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
                          レポーター:渡部 慧子
                         司会と記録:鹿取 未放


133 ジェット気流に透かされている天つ空 恐竜はかくさみしかりしか

(レポート)(2014年5月)
 ジェット気流:北緯30度~40度付近の対流圏の最上部を吹く偏西風。日本では冬に北緯25
        度付近、夏は42度付近に移り、風速100m/秒になることもある。地上の
        天気の変化と関係が深い。

 今に続いており、地球生成とともに起こったであろう気象現象「ジェット気流」と白亜紀に栄えたが気象変動によって滅びてしまった「恐竜」をとりあわせる面白さを詠っていよう。だが恐竜は上の句の空を見てさびしかったのか、また、滅びの予感をもって淋しかったのか、このような想像や疑問をすべてひきうけたところの「かくさみしかりしか」という作者の心情表出に味わいがあり、この巧みさが一首を支えている。(慧子)


     (発言)(2014年5月)      
★あんな大きな恐竜が淋しかったように、父親もきっとさみしかったんだろうなと詠っている。
  (曽我)
★恐竜がなんでさみしかったかというと、曽我さんが言ったように体がでっかいからなんだろうね。
 あれだけでっかい体をもっているけど、ジェット気流には届きそうで届かない。お父さんを前提
 に読むとさらによくなりますね。(鈴木)
★体が大きくて生臭くて、先行する何首かの父と恐竜は重なる点が多いですね。(四宮)
★お父さんの連想で恐竜が出てきて、お父さんと恐竜は重なってはいるんでしょうが、「かく」は
 「このように」だからジェット気流を通して空を見てさびしいのはまず〈われ〉。それで恐竜も
 こんなふうにさびしかったんだろうなって思っている。この結句は、疑問ですか?(鹿取)
★「さみし」って形容詞に疑問が付いている。(四宮)
★形容詞の連用形「さみしかり」に過去の助動詞「き」の連体形「し」に疑問の係助詞「か」?そ
 れとも過去の助動詞「き」の已然形「しか」が付いている? (鹿取)
★疑問の「か」でしょう。(四宮)
★すみません、品詞分解をようしませんでした。(慧子)
★実之さんが恐竜は引きずっている太いしっぽが痛かったので滅びたんだというように歌ってい
  て、それも痛ましい思いがしたんですけど。ついでにいうと、気象変動で恐竜が滅びたというの
 は通説ですけど、断定はされてないようですよね。それと、慧子さんは「ジェット気流」と「恐
 竜」をとりあわせる面白さを詠っていようと書いているけど、それは結果であって取り合わせの
 面白さを狙って歌を作ったのではないと思うけど。(鹿取)
★恐竜がジェット気流を見上げているような絵がよくあるじゃないですか。(鈴木)
★「透かされている天つ空」ってどうも気持ちわるいんですが。「いる」、「あまつそら」と
 いう音の並びが気持ち悪いんです。ウの音とツの音が続いているのが辛くて気持ち悪い。
 どうして天つ空を最初にもってこないかなあと。(四宮)
★「天つ空ジェット気流に透かされている」だとだらだらした感じになるなあ。あと、恐竜
 の直前に「天つ空」の語が来るのは大事なことだと思う。(鈴木)
★透かされて「おり」だったら音の続き具合はまだ納得ができる。すみません、勝手なこ
 と言って。(四宮)
★いや、四宮さんの言っている感覚はちょっと分かる気がします。音韻に敏感になること
 は詩人にとってとても大事なことで、歌作るときに役立つと思いますよ。(鹿取)


       (まとめ)(2014年5月)
 「さみしかりしか」の部分の品詞分解は、次の通り。
   さみしかり……形容詞「さみし」の連用形
   し    ……過去の助動詞「き」の連体形
   か    ……疑問の係助詞「か」の「文末用法」
 係助詞「か」と取ると下に省略された結びの語が必要だが、この場合結びの語はなさそうだからどう考えたらいいのか迷って、山口惠子さんに質問した。「係助詞の文末用法」じゃないかと山口さんから示唆を受けた。確かに文法書には「係助詞の文末用法」のコラムがあって、省略された結びの語が無い場合は、「係り結びに関係なく文末に用いられる文末用法」であると説明がある。その場合も「か」は連体形接続。山口さん、ありがとうございました。
 鹿取発言中の実之さんの歌は〈恐龍は引きずりて行く太き尾の痛きゆゑ滅びたるにあらずや〉(佐々木実之『日想』)、歌集巻頭の「日想」の章にある。ある意味荒唐無稽だが、恐龍の太き尾に仮託された自意識が何とも痛ましい歌である。
 恐竜も父も大きいからよけいにさびしい、という意見が出たが、渡辺松男の「日常宇宙」という評論に次のような興味深い記述があるのを思い出した。(「かりん」1997年2月号)
 丁田隆の〈ざっぷりとプランクトンを食みながら淋しさをを言うことばを持たず〉に触れて「……鯨のことを詠んでいる歌である。鯨がプランクトンだけで生きているとは思えないが、小魚やその他のものと一緒に無数のプランクトンも口に入るのだろう。ざっぷりと食う、生きていることそのことに関わるような淋しさ、しかし言葉を持たぬとなれば、これは読者の痛いところを突いてくる歌だ。……(中略)……しゃべらない鯨はしゃべらない分、生きなければならないだろう。/しかしと思う。鯨のようにスケールの大きいものが、言葉なくその存在に耐えながら泳ぐからその淋しさもいいのであって、百姓の祖父の場合はかっこよくもなんともなかった。淋しいなどとは言えないし、言おうものならぶったおされた。もっと小さければどうだろう。そもそも感情移入などしきれない。ダニが耐えていたら人は笑うだろう。」(鹿取)




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