かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞  38

2013年09月30日 | 短歌1首鑑賞
   
                 【からーん】『寒気氾濫』(1997年)32頁
         参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、高村典子、渡部慧子、鹿取未放
         司会と記録:鹿取 未放


72 閉じられし屈葬の甕のなかに覚め叫ぶときエゴン・シーレなるなり


(記録)2013年9月
 ★私けっこうエゴン・シーレが好きです。かなり強烈な絵ですけど。(曽我)
 ★では、曽我さん、この歌についてはどう思われますか?(鹿取)
 ★叫びをあげるような感じの絵ですよね。渡辺さんの歌は、自分も甕の中で目覚めたらシーレの
  ように叫ぶんじゃないかという歌なのでは?(曽我)
 ★私はこの歌は渡辺さん自身の心象と思って読みました。そういうふうに読むとすごく納得する。
    (高村)
 ★誰でもこういう状況に置かれて覚めたらびっくりしてってことだと思うけど。(鈴木)

 
(レポート)2013年9月
 手足を折り曲げて埋葬されている「甕のなか」で「覚め」た自身を想像し「叫ぶとき」なのであろう。エゴン・シーレはインフルエンザに罹り28歳で没している。やはりインフルエンザに罹り死亡した妻の3日後のことである。このような状態のなかでも自身の叫びでエゴン・シーレの無念の叫びを代弁しているように思う。エゴン・シーレの画集を開けたい思いにかられる歌である。

  エゴン・シーレ(Egon Schiele、1890年~ 1918年)
 オーストリアの画家。当時盛んであったグスタフ・クリムトらのウィーン分離派を初めとして象徴派、表現主義に影響を受けつつも、独自の絵画を追求した。強烈な個性を持つ画風に加え、意図的に捻じ曲げられたポーズの人物画を多数製作し、見る者に直感的な衝撃を与えるという作風から表現主義の分野に置いて論じられる場合が多い。
インターネット ウィキペディア
(崎尾)


(追記)2013年9月
 エゴン・シーレは、ごつごつしていて斑点があるような、普通には美しいと言えない人体を描いています。レポーターの引用にあるように「意図的に捻じ曲げられたポーズの人物画を多数製作」しています。また、ウィキペディアの引用外の部分には「死や性行為など倫理的に避けられるテーマをむしろ強調するような作品」を描いたとも記述されています。
 画集を繰っても「屈葬の甕のなかに覚め叫ぶ」絵は見あたりませんでした。作者は、シーレの「意図的に捻じ曲げられたポーズの人物画」から「屈葬の甕」の中の〈われ〉を着想したのかもしれません。甕の中で目覚めた〈われ〉は恐怖のあまり叫ぶ訳ですが、(レポーターも書いているように)それは28歳という若さで病死したシーレ自身の口惜しさでもあるのでしょう。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞  37

2013年09月29日 | 短歌1首鑑賞
   
                 【からーん】『寒気氾濫』(1997年)32頁
         参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、高村典子、渡部慧子、鹿取未放
         司会と記録:鹿取 未放


71 白光にめつむりている白き猫ほあほあと死はふくらみてくる


(記録)2013年9月
 ★この猫は既に死んでいるんじゃないですか?柔らかく死んでいる感じ。(曽我)
 ★でも死んでいると面白くない。死にかけてるって事ですかね。(鈴木)
 ★これは死に対する思いじゃないですか。(崎尾)
 ★死んでいたら「めつむりている」とは言わないんじゃないかなあ。死んでいるのでも死にそう
  でもないんじゃないかなあ。白光にめをつむっている猫を見て死の想念が膨らんでいったと読
  んでいたけど。(鹿取)
 ★崎尾さんが書いているけど、「め」のひらがな表記が生きている。これ「眼」って漢字で書く
  と違うんで、猫がめをつむっているときの感じって、「眼」ではなく「め」。(笑)意味だけじ
  ゃなく表記も考えている。イメージとして白い猫がこういう状態でいると分かりますよね、「死
  はふくらみてくる」って感じも。確かにこれ死んでいくわけじゃない。(鈴木)
 ★白光があり、白き猫で、白を用いています。白が生と死を包みこんでいるというような、白と
  いうのはそういう色なんじゃないでしょうか。(慧子)
 ★白だからふくらんでくる。黒じゃやっぱり縮んでいっちゃうもんね。(鈴木)


(レポート)2013年9月
 冬の昼の光をうけながら微動だにしない「白き猫」をじっとみつめているのであろう。やがてその「白き猫」の姿が死を暗示しているように思えたのかもしれない。死もまた自然の賜物でありあたたかいものであると受け止めはじめているように思う。「ほあほあ」と「ふくらみてくる」の言葉から作者に生と死の境はおぼろげなのであろう。「め」のひらがなが印象に残る。
  (崎尾)

   次にレポーターによって「曹洞宗受戒聖典」修証義 第一章が引用されているが、省略 

                                 
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渡辺松男の一首鑑賞  36

2013年09月28日 | 短歌1首鑑賞
   
                 【からーん】『寒気氾濫』(1997年)32頁
         参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、高村典子、渡部慧子、鹿取未放
         司会と記録:鹿取 未放


70 電車から黒く見られているならんかがやく雪の野を行くわれは


(記録)2013年9月
 ★例えば作者が出勤途中で雪が降った朝なんか、駅へ向かって歩いている姿を客観的にこう電車
  から見られているのを詠んだのかな。こういったものって映像で見たことがあるような気がす
  る。映画かなんかで犯人が逃げていくとき。(笑)実にありふれた分かる歌だし、だからそん
  なに深く詠んだのではないのかなと。この白と黒のコントラストが鮮やかですよね。それが面
  白さなのかな。でも物語的という感じもするし。(鈴木)
 ★真っ白な雪の原に人間がいたら、当然黒く見える。だから写実の歌かというと、やっぱりそれ
  だけじゃない何かここから始まっていきそうな物語性も感じるところが面白い。写実のようで
  いて、異次元空間みたいな気もするし、死後の世界のような気もする。他の歌集だったかもし
  れないけど、人が死んで野の向こうの樹にひかりが集まって来るという意味の歌もあったし。
     (鹿取)※
 ★かがやく雪の野を遠く行く時のわれは、恍惚たる気分があったと思う。しかしそれを電車から
  見る人は作者に関係がない人で、だから恍惚としている自分でも関係のない人から見ると黒い
  シミののように見えるんだろうなという歌なんじゃない。(慧子)
 ★何かがあってではなく、純粋に雪の野を行くことに恍惚を感じているのですか?(鹿取)
 ★はい、雪の白に対して恍惚感があるんじゃないでしょうか。(慧子)
 ★渡辺さんは自然というものをとても好きだった。黒く見られているのは悲しいとかそういうこ
  とではなくて、雪の野を行くこと自体が楽しい。(高村)
 ★では慧子さんの意見と似た感じですね。(鹿取)
 ★主観と客観の違いかな。(鈴木)
★むしろいつも追いつめられる心みたいなものが現実には多いけど、そこからほどかれる方向に
  行っているように思えて、そうすると安心できる、すごく大切な世界の感じがする。(高村)
 ★面白いですね、今の意見は。(鹿取)


(追記)2013年9月
 記録の※の鹿取の発言にあった歌は、同じ『寒気氾濫』78頁、「非常口」一連にある。正確には「ひとつ死のあるたび遠き一本の雪原の樹にあつまるひかり」である。(鹿取)


  (レポート)2013年9月
 言葉が描写する美しい「雪の野」の映像がまぶたに焼き付く。「かがやく」言葉に負う所があるのであろう。また「ならん」からは秘められていると思われる物語が静かなひびきとなって伝わってくる。「行くわれ」は遠くを「行く」雲水のようだ。すがすがしい余韻が結句に生まれている。(崎尾)
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渡辺松男の一首鑑賞  35

2013年09月27日 | 短歌1首鑑賞
   
                 【からーん】『寒気氾濫』(1997年)31頁
         参加者:鹿取未放、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、高村典子、渡部慧子
         司会と記録:鹿取 未放


69 敗走の途中のわれは濡れてゆくヤンバルクイナの脚をおもいぬ


(記録)2013年9月
 ★ヤンバルクイナは今、絶滅危惧種に指定されていますね。(鹿取)
 ★敗走の途中というのは作者の人生のことを言っているのだと思う。人生の負の面を重ねている
  のかなと思いました。(慧子)
 ★ヤンバルクイナの脚に注目していて、その脚が強力だということで何か分かりやすい気がする。
  渡辺さんの知識がすばらしいと思いました。(高村)
 ★クイナの脚というのはやっぱり強烈ですよね。鮮紅色の脚というのが適切に使われている。あ
  と敗走の途中については現実の生活で作者自身がそういう場に置かれたということもあるし、
  この場において白き兵とダブらせているところもあるのかなという感じがする。現実に自分自
  身の問題としてまず捉えて敗走と思っている部分もあるし、前の歌と絡めて自分を重ねてもい
  る。実際、戦争は終わったと言っているけど、沖縄はほんとうはまだ終わっていないし。
(鈴木)
 ★これはやっぱり白き兵からの続きで敗走が出てきているんだろうけど、〈われ〉が出てきてい
  るから人生途上で挫折を経験して、そのときすがるようにヤンバルクイナの力強い脚を思って
  いる。ヤンバルクイナは降る雨にぐっしょり濡れながら歩を進めているんだけど、〈われ〉は
  それに望みをつないで進んでいく、そんな感じ。もちろん〈われ〉はイコール渡辺松男ではな
  いので、作中主体が挫折して、っていうことだけど、圧倒的なヤンバルクイナの映像を読み手
  に見せる力がすばらしいと思う。ヤンバルクイナの歌のきっかけは沖縄に旅行された事かもし
  れないけど、そしてそこで聞いた鳥の生態だったかもしれないけど、知識そのままを提示する
  んじゃなくて、こんなふうに本質をつかんで物語つくちゃうというのがすごい。(鹿取)
 ★人生に敗れてみじめなかっこうで歩いていてヤンバルクイナの強靱な脚をみて自分の人生をも
  う少し考えてみようと思ったんだろう。(曽我)
 ★励まされますよね。(鹿取)
 

(レポート)2013年9月
 作者は何事かにのみこまれそこから逃れる道を模索中なのであろうか。そこに「濡れてゆくヤンバルクイナの脚」を重ねているのであろうか。「敗走の兵」も飛べない鳥「ヤンバルクイナ」も足が頼りである。雨が止み水が引くのを待つ「ヤンバルクイナ」に寄り添っているのであろうと思う。優しさが伝わってくる。

 ヤンバルクイナ
  クイナ科の鳥。沖縄の本島北部与那覇岳で発見された。昭和56(1981)年に新種として報告された。全長約三十センチ、背の高さ約二十二センチ、脚が赤くて強力。くちばしは太く、赤色で先端部はアイボリー色。飛ぶことはできない。生息数は少なく沖縄県の天然記念物。
言泉  小学館
                                   (崎尾)
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渡辺松男の一首鑑賞  34

2013年09月26日 | 短歌1首鑑賞
   
                     【からーん】『寒気氾濫』(1997年)31頁
参加者:鹿取未放、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、高村典子、渡部慧子
           司会と記録:鹿取 未放


68 白き兵さえぎるもののなき視野のひかりの向こうがわへ行くなり

(記録)2013年9月
 ★全体として沖縄に行ったときの歌なのでしょうかね。次の歌との関係で、おそらくこの連作は
  沖縄へ行った時のことを詠っているようだ。そうするとこの歌の背景が分かって、実際読み方
  としては崎尾さんがまとめたようなことなのでしょうけれど、白き兵というと私などは傷痍軍
  人の姿を思い浮かべてしまう。敗残兵という感じなのでしょうか。あるいは白兵というのも考
  えられるが、おそらく白兵的なものではなくて、やっぱり後の歌につながるような敗走の兵な
  のではないかと思うけど。ひかりと絡み合わせているのも、沖縄の風景と併せてでてきている
  んだろうなと思います。(鈴木)
 ★「ひかりの向こうがわ」というのは、どんなふうに捉えられますか?渡辺さん、向こう側とい
  うのをよく使うんだけど。この歌では浜辺だか背の低い草原の中だかを、ずーと白い兵が歩い
  ていって、そのうち地平線の向こうに隠れて視野から見えなくなる、そんな状態を詠っている
  のでしょうか。もうちょっと哲学的な光の向こう側なんでしょうか。(鹿取)
 ★私は哲学的な光の向こう側だと思います。(高村)
 ★そのことを分かりやすく説明すると、どういうことなんでしょうか。(鹿取)
 ★光の向こう側なんてなかなか思いつかないと思うんですね。光の当たっているところは分かる
  けど、その向こうはなかなか想像できない。(高村)
 ★すると計測できるような普通の距離ではないんですね。(鹿取)
 ★渡辺さんの歌い方には、こういうのよくありますよね。少し先の頁にある〈空間へ踏みいりて
  出られなくなりし一世(ひとよ)にてあらん 紙を切る音〉などもそうです。空間を一つの箱
  みたいに考えていて、そんなかに閉じこめられて出られなくなっていて、紙を切る音がします
  よと言っているのと、光の向こう側へ行くというのと、同じような感じ。(鈴木)
 ★前にもありましたよね、葱の匂いと共に空間が閉じられるというような意味の歌。(鹿取)
 ★敗残兵と自分との距離というか、距離は適切ではないかもしれないけど……(崎尾)
 ★うーん、やっぱり見えないんだろうなあ。光の中だったら見えるけど確かに向こう側へ行っち
  ゃうと見えないんだけど。(鈴木)


(レポート)2013年9月
 この「白き兵」は幻なのであろう。だが「白き兵」を見つめている作者の目を感じる。「さえぎるもののなき」が「視野」に無限な広がりをもたらしている。「白き兵」は「ひかり」の橋を渡っているのであろうか。「向こうがわ」は彼岸なのであろう。「ひかり」が導く精神世界を目の当たりにしているようだ。「白き兵」が幻と思えるゆえにこの「ひかり」の美しさがふかく胸に沁む。  (崎尾)
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渡辺松男の一首鑑賞  33

2013年09月25日 | 短歌1首鑑賞
   
                 【からーん】『寒気氾濫』(1997年)31頁
          参加者:鹿取未放、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、高村典子、渡部慧子
          司会と記録:鹿取 未放


67 のこぎりもさかなの骨も風のなか捨てられにゆくものはひびけり


(記録)2013年9月
 ★のこぎりもさかなの骨もレポーターが書いているように人の暮らしのことだと思いました。暮
  らしに役立つ物が捨てられて風の中で響いているというのは何という抒情だろう。いいなあと
  思いました。(慧子)
 ★鋸は目立屋さんが来て直す。大切に使われているものだ。(崎尾)
★のこぎりとさかなという取り合わせが、ちょっとダダの詩のようで面白いと思いました。どち
  らも薄いものですよね。それが捨てられにゆく風のなかで響いている。名詞のひらがな表記は
  薄さとはかなさが、結句のひらがなの多用も余韻をもってひびきあっている感じがうまく出て
  いる。よく計算された表記だと思います。
   この歌の下の句に関しては、葛原妙子の〈疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、
  りぁ、りぁ、りぁ〉(『朱霊』)を思い出しました。どちらの歌もひらかな表記が音の響きのリ
  アルさをうまく表現しています。また、この歌から寺山修司の〈売りにゆく柱時計がふいに鳴
  る横抱きにして枯野ゆくとき〉(『田園に死す』)を思い出しましたが、それぞれ質の全く違う
  歌ですね。(鹿取)


(レポート)2013年9月
 この「のこぎり」と「さかなの骨」は「捨てられにゆくもの」の象徴として用いられているのであろうか。「のこぎり」は人の営みを支えてくれている影武者のような存在であり「さかな」は生命をつないでくれる。役目を終えた「のこぎり」も「さかなの骨」も人は生かすすべをあまり知らず「捨てられにゆく」。人の生活の陰の部分に作者の思いはあるのであろう。「ひびけり」に余韻が生まれており「捨てられにゆくもの」の無言の寂しさが伝わってくる。人の営みの悲しさも。
  (崎尾)
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渡辺松男の一首鑑賞  32

2013年09月24日 | 短歌1首鑑賞
   
                      【からーん】『寒気氾濫』(1997年)30頁

         参加者:鹿取未放、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、高村典子、渡部慧子
         司会と記録:鹿取 未放


66 床上に一切衆生(いっさいしゅじょう)を運びてはエスカレーター床下に消ゆ


(まとめ)2013年9月
 ★エスカレーターが人間を床上に運んでは床下に消えてゆくのは日常ありふれた光景である。し
  かし、運ぶ対象を人間に絞らずに「一切衆生」と表現したことによって、歌は全く別の様相を
  帯びる。床上は「浄土」、床下は「地獄」あるいは苦に満ちあふれた「現世」だろうか。しか
  も「一切衆生」を導くのは仏でも菩薩でもなく、心を持つとされる鉄腕アトムなど架空のロボ
  ットでさえもない。心を持たない(と考えられている)人工物であるエスカレーターという点
  が意表を突く。このエスカレーターは鉄腕アトムのような優しさをもって、せっせと「一切衆
  生」を「浄土」に運び上げてゆく。その努力は滑稽で、同時に涙ぐましい。(鹿取)             

(レポート)2013年9月
 衆生は仏語である。迷いの世界にあるあらゆる生類である。人は何の労を惜しむことなく「エスカレーター」で「床上に」と運ばれる。「床上」とはいえそこもやはり迷いの世界であり彼岸ではないと表しているように思う。ふり返ってみても「エスカレーター」は「床下に消ゆ」である。そこに立つ人達をひたすら「床上に」運び「床下に消ゆ」「エスカレーター」が二度用いられている「に」によってむしろ悟りの境地にあるように思えてくる。「一切」から人は皆平等に迷いの世界にあり生死の苦海からは救われていない悲しさが伝わってくる。(崎尾)
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渡辺松男の一首鑑賞  31

2013年09月23日 | 短歌1首鑑賞
   
                      【からーん】『寒気氾濫』(1997年)30頁
          参加者:鹿取未放、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、高村典子、渡部慧子 
          司会と記録:鹿取 未放


65 広辞苑開かれずある幾週を「摩耶(まや)」も「浄飯王(じょうぼんのう)」も生き埋め


(まとめ)2013年9月
 ★幾週間も広辞苑を開いていないので、そこに書かれている項目、例えば「摩耶」も「浄飯王」
  も活用されていない。それを「生き埋め」ととらえたところが独特である。「摩耶」も「浄飯
  王」も単なる例えではなく、目下の関心事であるのだろう。きっかけはおそらく仕事等が忙し
  くて自分の精神生活が圧迫されている苦しさだったのではないだろうか。そんなもがきからの
  飛躍が非凡である。(鹿取)



(レポート)2013年9月
 どのくらい広辞苑を開いていないだろうかとふと思ったのであろう。「摩耶」は釈尊の生母であり釈尊を生んで七日目に没し忉利天(とうりてん)に生まれたと伝えられる。「浄飯王」はその夫である。辞典を引きこの二人が紀元前に実在したと知ると「生き埋め」の言葉がぐっと胸に応える。広辞苑に記載されている言葉も人物も開けられた人の中で息を吹き返すと表現しているように思う。釈尊は仏教の開祖である。開祖とはと興味はつきない。(崎尾)
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馬場あき子の外国詠 36(韓国)

2013年09月22日 | 短歌1首鑑賞
                               
                               【白馬江】『南島』(1991年刊)P83

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
         へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


271 くねりつつテレビにうたふものはゐてわが帰り来し日本文化圏


(レポート)2011年1月
 現在、韓国のアイドルグループである「KARA」や「少女時代」などは日本の歌手よりもくねっているが、この時代に韓国であまりくねっていなかったのであろう。「にがき国」ではテレビでくねりながら歌っているのである。その場所を「日本文化圏」と呼ぶことで、諸々の両国の文化の差を想起させることに成功している。(佐々木実之)


(記録)2011年1月
 ★馬場あき子の韓国の旅は、1987年11月です。ほぼ四半世紀前ですね。(鹿取 未放)
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馬場あき子の外国詠(韓国) 271

2013年09月22日 | 短歌一首鑑賞
                    
                                【白馬江】『南島』(1991年刊)P83

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
         へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


271 くねりつつテレビにうたふものはゐてわが帰り来し日本文化圏


(レポート)2011年1月
 現在、韓国のアイドルグループである「KARA」や「少女時代」などは日本の歌手よりもくねっているが、この時代に韓国であまりくねっていなかったのであろう。「にがき国」ではテレビでくねりながら歌っているのである。その場所を「日本文化圏」と呼ぶことで、諸々の両国の文化の差を想起させることに成功している。(佐々木実之)


(記録)2011年1月
 ★馬場あき子の韓国の旅は、1987年11月です。ほぼ四半世紀前ですね。(鹿取 未放)
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