標題の通り、コミットメントがどのような効果をもたらしたのかを調べた論文である。日銀金融研が出す論文集に収載されたペーパーで、言ってみれば日銀研のエース級と目される(?らしい)白塚氏が筆頭著者のようである。
以前にブログでも触れたテーマで、自分の稚拙な記述が恥ずかしい(笑)けれども、一応振り返っておく。
2/23 >”学界”という病~「日本の経済学界」は信頼できるか?
3/1 >日本経済復興の処方箋~その2
4/1 >続・岩本東大教授の論を信じると、こう騙される
前置きはこれくらいにして、本題に入ろう。
>金融研究第29巻第3号要約
原文をお読み下さればと思いますけれども、特に目を引いた記述について、ピックアップしておきたいと思います。
『これまでの議論をまとめると、3 つの時間軸効果指標は、日本銀行の政策コミットメントが短期金利の将来経路に関する市場期待を制御することには成功したが、金融市場のデフレ懸念を完全に払拭することはできなかったことを示している。ゼロ金利のもとでの政策コミットメントによって、中央銀行は外的ショックの影響を、時間を通じて平準化させたが、ショックの影響そのものを取り除くことはできなかった。また、金融政策コミットメントは経済の構造やトレンド的な動きを変えることができなかったといえる。』
(p.247~248)
時間軸効果についての評価を改めて提示している。短期金利の将来経路に関する市場期待制御は可能、しかしデフレ懸念払拭までには至らなかった、と。これまでの(日銀サイドが説明に度々用いてきた)「万能薬ではない」に対する裏付けを取った、ということでもあるかな。ま、言いたいことは判るよ。現実の病気と薬剤との関係を考えれば、それは当然だから。
『これら2 つのアプローチからは、異なる分析手法を使ったにもかかわらず、次の2 つの頑健な結果を得た。第1 は、金融政策コミットメントは、民間部門におけるわが国経済の将来期待を、金利、一般物価、産出量といった広範な分野で変えることに成功した。これは、政策コミットメントが有効であった側面といえる。第2 は、金融政策コミットメントは、一方で、産出量、物価をそれ以前のトレンド経路にまで押し戻すことができなかった。このことは、金融政策コミットメントは、円滑な経済資源の再配分を構造的に阻害してきた要因を取り除く万能薬とはならないことを示している。』
(p.254)
さて、拙ブログでも頑健性については批判してきたが、脆弱な論拠しか持たないということを言われたのが癪に障ったということなのか(冗談です)、頑健な結論を得ましたよ、と。有効性の確認と、逆に効果がなかった部分とを区別しました、と。こうした検討こそが学術的に必要なことであり、政策の妥当性を見る上でも重要であろう。よい検討であると思う。
『日本銀行のゼロ金利政策期、量的緩和政策期における金融政策は、足許の政策金利水準の変更よりも、将来の金融政策への期待を制御することに大きく依存している点によって特徴付けられる。しかしながら、日本銀行は、こうした政策措置を、外部からの政策提言に直接的な形で従って採用したわけではなく、その当時の政策対応過程の延長線上で自然な拡張として行われたものである。この過程では、日本銀行の外部において、学者なども含めて、日本銀行の政策措置に関する誤った理解が広がった18。この結果、日本銀行がゼロ金利政策や量的緩和政策のもとで遂行した政策措置が、名目金利の非負制約のもとでの経済理論上の望ましい政策運営と共通した要素を有していたにもかかわらず、こうした誤解によって、デフレ経済状況を克服するために、さらに極端な政策手段をとるべきという議論につながってしまったように思われる。』
(p.254)
外部から言われてやったんじゃなく、日銀が独自に研究してやったんだ、と。そうですか。
何より強調したかったのは、「誤った理解が広がった」ということでしょう。んー、まあ、分からないではないですが、及第点とはいきませんな。
本気の本気で、日銀が主治医である時には、訴えられるでしょうな。こんなダメ医者ならば、医者を名乗る資格もない、というのが、私の見方です。かなり厳しいと思うかもしれませんが、生温い考えで一国の経済・金融を預かるなどもってのほかです。できる限り、全力を尽くす、残ってるありとあらゆる可能性や手段を迅速に検討し、取捨選択し、なにより重要なのは実行する能力、遂行・完結する能力です。能書き垂れてる前に、素早く実行せよ、人の何倍も速く行動せよ、頭と手を動かせ、ということです。日銀には、そういうのが決定的に欠けている。究極の官僚主義的組織、機構である、という非難をするのは、そういうことです。
日銀的には、精一杯やっている、というのかもしれませんが、自分が一生懸命やったからといって、それで評価されるなんてことはない、というのがごく当たり前です。どんな仕事だって、同じですよ。目の前で人が死んでゆくのに、今はできない・分からないとか言って、死亡が確認された後から「こうこう、こんなことだった」みたいに正しい意見とか診断とかを出されても、手遅れなんですよ。それでは遅い、ということです。落第です。
『翁・白塚[2003]が指摘するように、量的緩和政策では、金融部門と非金融部門をつなぐ波及経路が分断されていたため、経済全体へと緩和効果が広がることはなかった。量的緩和政策は、短期金融市場や国債市場におけるリスクプレミアムを低下させることには成功したが、こうしたリスクプレミアムの低下は、その他の金融市場を含む経済全体におけるリスクテイク行動を誘発するには至らなかった。また、白塚[2010]は、今回の金融経済危機で各国中央銀行が大規模かつ広範な金融資産購入を行っていることを指摘したうえで、中央銀行は、バランスシートの規模と構成という2 つの要素を積極的に変化させる非正統的政策手段を実施していることに言及している。こうした中央銀行の行動は、標準的なニューケインジアン・マクロモデルでは説明されていない経済構造が現実経済で重要な役割を担っていることを示唆している。』
(p.257)
『Woodford [2005] は、最も明確なコミュニケーション政策として、金融政策ルールを宣言することで、中央銀行は流動性の罠のもとでも経済主体の将来期待のみならず実体経済変数を制御できると主張している。しかしながら、本稿での分析結果を踏まえると、経済理論的な視点からの考察だけでは政策コミットメントを巡る分析は十全なものとはなりえず、データに基づいた政策効果の検証を注意深く行っていく必要があると考えられる。
今次金融危機に直面して、各国中央銀行は、迅速かつ果敢に行動し、大規模な負のショックに対処してきた。この過程で、Fed、イングランド銀行、欧州中央銀行、日本銀行といった主要国の中央銀行は、通常の金利政策を通じた金融緩和の余地をほぼ使い尽くしている。このため、各国中央銀行は、政策コミットメント、流動性供給なども含めた非正統的政策手段を導入するに至っている。こうした政策の組合せは、決して目新しいものではなく、日本銀行が過去に経験した状況と極めて似通ったものである。前述のとおり、これらの非正統的政策手段は、純粋な金融政策をゼロ金利のもとで自然に拡張したものとしてではなく、金融システムを救済するための緊急処置として理解されるべきである。この点、こうした非正統的政策手段の性格は、不良債権の償却や自己資本の再構築によって金融機関のバランスシート調整が進展するまでの、時間稼ぎである点に留意する必要がある。』
(p.258)
このへんについては、読んだ通りです。同意できない、といったことはありません。割と素直な記述でしょう。
・標準的なモデルで記述されていない部分が含まれるかもよ
・経済理論的視点からだけでは不十分で、データに基づく実証等が必要だよ
こうした点に触れたのも、評価できるものです。研究者ならば、こうでなくちゃ、と思いますね。というか、実務を基盤とする日銀という立場だからこそ、ということでもあります。実践なき、ただの理論家とは異なる、という発想は共感できます。
まあ、症例として「日本の経験」というものは、大いに役立ったと思います。世界経済の緊急対応としては、意味があったものと思います。それは、ひとえに「日銀の大いなる失敗」がなければ、こうはならなかったんじゃないか、とは思いますね(笑)。日本は苦しんだし、日銀も苦労したのは事実です。ただ、もっと名医がやっていれば、本当にここまで塗炭の苦しみを味わうことになっていたのか、というと、かなり疑問です。失われた20年を現出させるほどの失敗なんて、そうそうあるもんじゃない。
ある処置をやる勇気、責任感、そういうのが、日銀には「なかった」ということなんですよ。
そして、これは、今でも変わっていない、ということなのです。
だからこそ、日銀には根本的な問題を抱えたままであり、何にも改善されてなんかいない、ということなんです。過去の失敗は、生かされないということであり、だからこそ大問題なんだ、ってことなのです。
論文自体は大変良いものだと思いますので、多くの方々に読んでもらえるといいと思います。
以前にブログでも触れたテーマで、自分の稚拙な記述が恥ずかしい(笑)けれども、一応振り返っておく。
2/23 >”学界”という病~「日本の経済学界」は信頼できるか?
3/1 >日本経済復興の処方箋~その2
4/1 >続・岩本東大教授の論を信じると、こう騙される
前置きはこれくらいにして、本題に入ろう。
>金融研究第29巻第3号要約
原文をお読み下さればと思いますけれども、特に目を引いた記述について、ピックアップしておきたいと思います。
『これまでの議論をまとめると、3 つの時間軸効果指標は、日本銀行の政策コミットメントが短期金利の将来経路に関する市場期待を制御することには成功したが、金融市場のデフレ懸念を完全に払拭することはできなかったことを示している。ゼロ金利のもとでの政策コミットメントによって、中央銀行は外的ショックの影響を、時間を通じて平準化させたが、ショックの影響そのものを取り除くことはできなかった。また、金融政策コミットメントは経済の構造やトレンド的な動きを変えることができなかったといえる。』
(p.247~248)
時間軸効果についての評価を改めて提示している。短期金利の将来経路に関する市場期待制御は可能、しかしデフレ懸念払拭までには至らなかった、と。これまでの(日銀サイドが説明に度々用いてきた)「万能薬ではない」に対する裏付けを取った、ということでもあるかな。ま、言いたいことは判るよ。現実の病気と薬剤との関係を考えれば、それは当然だから。
『これら2 つのアプローチからは、異なる分析手法を使ったにもかかわらず、次の2 つの頑健な結果を得た。第1 は、金融政策コミットメントは、民間部門におけるわが国経済の将来期待を、金利、一般物価、産出量といった広範な分野で変えることに成功した。これは、政策コミットメントが有効であった側面といえる。第2 は、金融政策コミットメントは、一方で、産出量、物価をそれ以前のトレンド経路にまで押し戻すことができなかった。このことは、金融政策コミットメントは、円滑な経済資源の再配分を構造的に阻害してきた要因を取り除く万能薬とはならないことを示している。』
(p.254)
さて、拙ブログでも頑健性については批判してきたが、脆弱な論拠しか持たないということを言われたのが癪に障ったということなのか(冗談です)、頑健な結論を得ましたよ、と。有効性の確認と、逆に効果がなかった部分とを区別しました、と。こうした検討こそが学術的に必要なことであり、政策の妥当性を見る上でも重要であろう。よい検討であると思う。
『日本銀行のゼロ金利政策期、量的緩和政策期における金融政策は、足許の政策金利水準の変更よりも、将来の金融政策への期待を制御することに大きく依存している点によって特徴付けられる。しかしながら、日本銀行は、こうした政策措置を、外部からの政策提言に直接的な形で従って採用したわけではなく、その当時の政策対応過程の延長線上で自然な拡張として行われたものである。この過程では、日本銀行の外部において、学者なども含めて、日本銀行の政策措置に関する誤った理解が広がった18。この結果、日本銀行がゼロ金利政策や量的緩和政策のもとで遂行した政策措置が、名目金利の非負制約のもとでの経済理論上の望ましい政策運営と共通した要素を有していたにもかかわらず、こうした誤解によって、デフレ経済状況を克服するために、さらに極端な政策手段をとるべきという議論につながってしまったように思われる。』
(p.254)
外部から言われてやったんじゃなく、日銀が独自に研究してやったんだ、と。そうですか。
何より強調したかったのは、「誤った理解が広がった」ということでしょう。んー、まあ、分からないではないですが、及第点とはいきませんな。
本気の本気で、日銀が主治医である時には、訴えられるでしょうな。こんなダメ医者ならば、医者を名乗る資格もない、というのが、私の見方です。かなり厳しいと思うかもしれませんが、生温い考えで一国の経済・金融を預かるなどもってのほかです。できる限り、全力を尽くす、残ってるありとあらゆる可能性や手段を迅速に検討し、取捨選択し、なにより重要なのは実行する能力、遂行・完結する能力です。能書き垂れてる前に、素早く実行せよ、人の何倍も速く行動せよ、頭と手を動かせ、ということです。日銀には、そういうのが決定的に欠けている。究極の官僚主義的組織、機構である、という非難をするのは、そういうことです。
日銀的には、精一杯やっている、というのかもしれませんが、自分が一生懸命やったからといって、それで評価されるなんてことはない、というのがごく当たり前です。どんな仕事だって、同じですよ。目の前で人が死んでゆくのに、今はできない・分からないとか言って、死亡が確認された後から「こうこう、こんなことだった」みたいに正しい意見とか診断とかを出されても、手遅れなんですよ。それでは遅い、ということです。落第です。
『翁・白塚[2003]が指摘するように、量的緩和政策では、金融部門と非金融部門をつなぐ波及経路が分断されていたため、経済全体へと緩和効果が広がることはなかった。量的緩和政策は、短期金融市場や国債市場におけるリスクプレミアムを低下させることには成功したが、こうしたリスクプレミアムの低下は、その他の金融市場を含む経済全体におけるリスクテイク行動を誘発するには至らなかった。また、白塚[2010]は、今回の金融経済危機で各国中央銀行が大規模かつ広範な金融資産購入を行っていることを指摘したうえで、中央銀行は、バランスシートの規模と構成という2 つの要素を積極的に変化させる非正統的政策手段を実施していることに言及している。こうした中央銀行の行動は、標準的なニューケインジアン・マクロモデルでは説明されていない経済構造が現実経済で重要な役割を担っていることを示唆している。』
(p.257)
『Woodford [2005] は、最も明確なコミュニケーション政策として、金融政策ルールを宣言することで、中央銀行は流動性の罠のもとでも経済主体の将来期待のみならず実体経済変数を制御できると主張している。しかしながら、本稿での分析結果を踏まえると、経済理論的な視点からの考察だけでは政策コミットメントを巡る分析は十全なものとはなりえず、データに基づいた政策効果の検証を注意深く行っていく必要があると考えられる。
今次金融危機に直面して、各国中央銀行は、迅速かつ果敢に行動し、大規模な負のショックに対処してきた。この過程で、Fed、イングランド銀行、欧州中央銀行、日本銀行といった主要国の中央銀行は、通常の金利政策を通じた金融緩和の余地をほぼ使い尽くしている。このため、各国中央銀行は、政策コミットメント、流動性供給なども含めた非正統的政策手段を導入するに至っている。こうした政策の組合せは、決して目新しいものではなく、日本銀行が過去に経験した状況と極めて似通ったものである。前述のとおり、これらの非正統的政策手段は、純粋な金融政策をゼロ金利のもとで自然に拡張したものとしてではなく、金融システムを救済するための緊急処置として理解されるべきである。この点、こうした非正統的政策手段の性格は、不良債権の償却や自己資本の再構築によって金融機関のバランスシート調整が進展するまでの、時間稼ぎである点に留意する必要がある。』
(p.258)
このへんについては、読んだ通りです。同意できない、といったことはありません。割と素直な記述でしょう。
・標準的なモデルで記述されていない部分が含まれるかもよ
・経済理論的視点からだけでは不十分で、データに基づく実証等が必要だよ
こうした点に触れたのも、評価できるものです。研究者ならば、こうでなくちゃ、と思いますね。というか、実務を基盤とする日銀という立場だからこそ、ということでもあります。実践なき、ただの理論家とは異なる、という発想は共感できます。
まあ、症例として「日本の経験」というものは、大いに役立ったと思います。世界経済の緊急対応としては、意味があったものと思います。それは、ひとえに「日銀の大いなる失敗」がなければ、こうはならなかったんじゃないか、とは思いますね(笑)。日本は苦しんだし、日銀も苦労したのは事実です。ただ、もっと名医がやっていれば、本当にここまで塗炭の苦しみを味わうことになっていたのか、というと、かなり疑問です。失われた20年を現出させるほどの失敗なんて、そうそうあるもんじゃない。
ある処置をやる勇気、責任感、そういうのが、日銀には「なかった」ということなんですよ。
そして、これは、今でも変わっていない、ということなのです。
だからこそ、日銀には根本的な問題を抱えたままであり、何にも改善されてなんかいない、ということなんです。過去の失敗は、生かされないということであり、だからこそ大問題なんだ、ってことなのです。
論文自体は大変良いものだと思いますので、多くの方々に読んでもらえるといいと思います。