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サーチコスト(追記あり)

2006年11月27日 18時56分18秒 | 社会全般
前の記事にいくつかコメントを頂いたので、お答えしようと思います。
経済学的な考え方について、私のような無学者にも大変分かり易い例を挙げてご説明を頂きました。どうも有難うございます。

例として、コンビニとスーパーマーケットを説明下さいました。以下に、その一部をご紹介したいと思います。


まさくにさんのおっしゃっていることは、合理的な人間はコンビニの商品は高いから、安売りをしているスーパーで節約をするはずということなのです。ただ、コンビにはそれなりに便利だから(場所がよく、品揃えがタイムリーで、コンパクトな売り場でなどなど)高くても利用されているのです。そして金利規制というのは、例えれば、「スーパーの安売り品を利用せずにコンビニの高い商品ばかり買ってよい生活ができずに困っている人がいるから、コンビニもスーパーと同様安売りをするように価格規制をすべきだ」ということと同じです。そんなことしたらコンビニのビジネスモデルはうまくまわらず、コンビニはたくさんつぶれるでしょうし、いつもコンビニを使っている人間としては非常に迷惑な話なわけです。




ご説明頂いたように、確かに、コンビニがスーパーとは異なるサービスを提供することで、「同一商品の価格」を高く設定してあっても売れる、ということだろうと思います。これは以前に、缶ビールの例で考えた事があり、それに似ていると思いました。「サーチコスト」と呼ぶのですね。私は「審査コスト・捜索コスト」などと変な名称で呼んでしまいました。失礼しました。

論点は大体以下の記事中で考えてみたことと同じ範囲かな、と思います。


貸金業の上限金利問題~その13

理解に苦しむね

貸金業の上限金利問題14(かなり追記後)



何故コンビニで買う人がたくさんいるか、ということの考え方そのものは十分同意できます。また、政府の価格規制には害があることも多々ある、ということも理解できうるものです。私としては、是が非でも上限金利を規制し、利用制限を即刻設けろ、ということを願っているわけではありません。以前から書いていますが、「上限金利規制」でどの程度の改善が見込めるのかはよく判らないし、経済学的理論で「理にかなっている」ということを絶対に信じているわけでもありません。そうであっても、暫定的な措置としてでも、上限引下げには一定の効果が期待できるものであると感じています。時間的にも、実行可能性としても、今のところ上限引下げの方が有利ではないかな、と思います。


消費者金融市場で、特に貸金業界において、コンビニとスーパーの例で言えるような「差別化」、提供されているサービスの違いということはどのようなものがあるのか、具体的にはちょっと思い浮かびません。仮に、大手・準大手以外の貸金業者をいくつか思い浮かべようと思っても、私はまるで出てこないです。スーパーの存在を知る必要はないとしても、コンビニの存在は「ハッキリと」判るのが普通でして、それ故スーパーに行くよりもアクセスされるのですから。ところが、中小貸金というのが、普段その存在に気付くことは少ない訳で、宣伝広告効果は大手や準大手に軍配が上がると思います。中小貸金を「探すコスト」は、逆に高いのではないかと思えます。商品性に違いがあるというのも、その商品性には殆ど違いはないように思われ(借りた現金を受け取ることに変わりはなさそうなので)、付加的なサービス(例えば支払方法等、自分が何処かに返済に出向かなくても業者側から出向いて取りに来てくれる、とか)が異なっているかもしれません。特定の地域内では割と知られている、ということはあるかもしれませんが。扱っている商品が異なり、希少価値の高いものとか、量販店にはないようなものとか、そういった違いがあるのであれば、誰も存在に気付かないような小規模専門店で、高い価格で売られていても、関心の高い少数の誰かが買うこともあるでしょう。しかし、大手と中小貸金での提供されているものとは、どれほどの違いがあるでしょうか?「審査の違い」というのも、大手よりも厳しい、と池田氏などは解説していたわけで、逆に借りにくいのであれば、借り手はコストがかかってしまうように思えます。


経済学的には「取引に規制をするのは間違っている」という主張を度々目にする訳ですが、では、現実にそうした取引規制のあるものについての存在をどのように考えておられるのか、例外的なマーケットというものが存在していないのか、個別のマーケットの性質についてどれほど理解した(事実を知った)上で「規制するのは間違っている」ということを言っているのか、そういうことが大変気になる訳です。スーパーで買わずにコンビニで買うからといって、多くの人々の生活が破壊される訳でも、夜逃げしたりする訳でもないのです。それが人々の社会生活に重大な影響を及ぼしたり、阻害するといったことではないのです。しかし、消費者金融に関しては、その取引が数多く行われることによって、現実に様々な問題を招いており、そうした部分に関しては「規制も止むを得ないのではないか」と考えることが不当であるとは思いません。


例えば、株式市場にしても、価格制限はあります。値幅制限があるのは何故でしょうか?「ストップ高」「ストップ安」を設ける必要性などないでしょう。「買いたい人がいる」ということで、完全自由にするべき、と主張するべきですね。以前みたいに、よく判っていない素人投資家にワラントだの、EBだの、変額保険だのを掴ませるのも、「買いたい自由」に過ぎない、との理屈になってしまうように思えます。こういうのを「自由な取引」として、何の規制も法律もいらない、ということにするのが、社会的に望ましい政策であるとは思えません。経済学がそのようなことを教えているとも思っていません。一見すると自由な経済活動といえども、ルールの存在下で、或いは社会規範で制限を受けているのではないか、と思います。選択する側の個人というのは、それほど情報を十分知って理解している訳でもなく、全員同じレベルを期待できるものではないのが現実です。供給側に一定の規制するのは、取引参加者の参入障壁を下げると思うし(完全な知識がなくても参加できるようになるからだろうな、と)、マーケットが比較的安全(という表現は変なのだが、思いつかないので)な場であるならば、割と安心して参加できることになる。それが今の貸金でどうなのか?というのが問題なのではないか、と。


所謂ノイズ・トレーダーが中々いなくならないし、その存在が必ずしも悪ではないのかもしれませんが(経済学的な意味が存在しているのかもしれない、という意味で)、同じように「プレディター的業者」や「貸し込み業者」を排除できにくいのは確かではなかろうか、と思っています。病原性のある細菌だけを個別に撃破・退治せよ、というのは望ましいのはその通りなのですが、時にはある「抗生物質」で一気に叩く、ということも必要な場合があるのです(勿論、これにも副作用を伴うことが有ります)。善玉の腸内細菌が死んでしまうかもしれませんし、菌交代現象が起こってしまうかもしれませんが、それでもやる方がメリットが大きいと判断されることはあるのです。中小業者がやっていけない、ということになるならば、もっと別な業態に転換していってもらうしかないだろうな、というのが私の考えです。こうした中から、優良なタイプの貸し手だけが多く生き延びるのであれば、その方がメリットは大きいと思えます。そういうマーケットになってから規制を緩和していっても、問題は起こりにくいのではないかと思います。


上限引下げの論点については、反対の意見の側から「引下げ(上限規制)は~だからダメだ」というタイプの意見が多く、「○○の方が~でメリットがある、引下げ案よりも上回っている」という意見をまず見ないですね。現状の規制下ですら「症状」が存分に出てきている訳で、「引下げor規制」を止めて「こうしたらもっと良くなる(ハズ)」という具体的な意見を反対派が出さないのがとても不思議です(47thさんがいくつか出しておられましたが)。それとも、「放置がベスト」という選択をするのであれば、それはそれでいいと思いますが、多くの国民がそれを望んでなどいない、というのが今の状況ではないかと思います。これを衆愚とか大衆の感情論と批判するのであれば、当然のことながら、これを上回る「放置がベスト」の「論拠」を提示するべきでしょう。


私のこうした考え方が、「パターナリズムだ」「近視眼的だ」という範疇であることは承知しております。経済学的センスもない素人のクセに、ということも、何度かご指摘を受けましたので、そうだろうな、とも思っています。それでも、毎年生み出される数十万人の破産者たちや、数千人規模で自殺者が出るのを、黙って見てろ、ということに同意するつもりはありません。これを「僅かの犠牲なのだ」と考えることなど、到底受け入れられるものではないからです。目の前にある現実を見て、問題を解決するのに直結しているものが必要だと考えているからです。


追加です。

上限金利規制を完全固定にすべし、ということを絶対視している訳ではありません。

以前に書いた記事では、公的融資制度を拡充した方がよいと考えましたが、そこでの基準金利は年度毎の変動制でよいとしています。これは厚生労働省の元々の融資制度の適用金利が年度毎で見直されるという性格のものでしたので、それをそのまま用いても何ら不都合などないだろうな、と考えていたからです。公的融資制度の多くは、制度融資なども含めて、固定の制度はあまり見かけないのではなかろうかと思います。その年度の金利水準に応じて(通常は長期金利などを参考に決めているのではないかと思いますが)変化するのは普通ですよ。住宅金融公庫の金利でさえ、それなりに変動している訳ですから。

生活困窮者の対策と破綻処理(追加あり)


それから、銀行融資の例で大まかに考えてみた時にも、例えば「短期プライムレート+上乗せ部分」というような金利決定方法が不当であるとか、認められないなどとは考えていません。ただ、それを検討している人たちはあまり見かけませんね。

消費者金融市場の貸出金利は「リスクを正確に反映する」とは言えない


参考までに、深尾先生の記事を載せておきます(理事長に就任されたのですね、大学はお辞めになられたのでしょうか)。

ゼロ金利解除後の個人向け貸出市場


もしもこうした変動型の方が優れている、という評価があるのであれば、見直しを年度毎か、半期毎くらいに決めて、変動制の上限にするのも一法ではありましょう。基準日を2月と8月に決めるとか、3月のある一日にするとか、それは実務上支障のない時期を選択すれば済むことですから。時既に遅し、ではありますが(笑)。


経済学理論に基づいて、「上限金利規制は間違っている」と謳っていた人たちというのは、少なくともこうした規制にも反対でしょうから、検討したりはしてないでしょう。彼らの信奉している経済学理論によれば、規制自体が間違いだそうですので。これよりも良いプランをお持ちのはずで、深尾先生のご意見であっても、「経済学的に間違っている」と非難するのも当然でしょうけどね。経済学者の言うことが全く当てにならないのか、経済学信奉者たちが全くいい加減なことをばら撒いているのか、どちらなのか判りませんが、少なくともみんな「経済学」で繋がっているという訳で、どっちの主張を信頼するにしろ、経済学を掲げていてもかなり怪しいことは確かだ(議論も何も)。で、週刊東洋経済の記者氏は坂野先生に訊きに行ってきた、と。そうですか、たまたまの偶然ですね。


元々貸金業者たちが自分たちでよい市場を作っていこうとすれば、厳しい制限を受けることなどなかったはずです。校則を破ったり、酷い違反者が大量に出てくるので、学校側が規則をもっと厳しくしたようなものではないでしょうか。自らが蒔いた種なのですよ。自分たちが自分たちの首を絞めたようなものです。中小業者の8割が廃業する、という主張もありますが、その債権が全部消えたところで、1割程度に過ぎないのですよ。反対派が唱える「多重債務者はたった1割に過ぎない」というセリフと何も変わりないでしょうね。


<脱線しますが、貸金利用者数は週刊東洋経済の新しい号では700~800万人程度という試算が出ていましたが、エラク減少しているじゃないですか。口座数からの推計だから、定かではないようですが、1人平均3社ってのもアレだし、多重債務者比率が随分と増えちゃうんじゃないか?「たったの1割」どころではないかもしれんよ、下手すりゃ(笑)。まあ、もしも利用者に「何社も貸し込んでいれば」、そりゃ慌てるわな。実態が明らかになっていけば、やってきたことが少し周りにも見えてくるかもしれんね。貸金業界全部で800万人程度の利用者で、規制で800万人?に貸せなくなるかも、って、それは全員ではないか?(笑)ものは言いようだな。ナルホド。


それに、80年代に7割以上の業者が消えていったのは同じですね(恐らく6万社以上廃業となった)。それだけ大量に消滅したにも関わらず、現在でも貸金業界は残っているようです。本当に中小業者が特別な能力で貸出しているのであれば、全員で会社を一つ作って業務をやったらいいですよ>貸金業協会の方々。
資金調達コストも大幅に下げられるし、1兆円規模の貸出残高を持つ「大手」に比肩するよ、直ぐに。何故それをやらないのでしょう?




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3 コメント

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Unknown (エール大学)
2006-11-28 01:45:10
 >元々貸金業者たちが自分たちでよい市場を作っていこうとすれば、厳しい制限を受けることなどなかったはずです

 よい市場とはどんな市場なのかよくわからないんですが、じゃあ金利は低いのに零細や中小企業に対して審査は時間がかかるし簡単に融資を打ち切る銀行はよい市場なんでしょうか?

 貸金業者というのは歴史的にゾラの時代やドフトエフスキー、さらにベニスの商人が描かれた貸金業者たちの時代からあってて、その作品を読んだ事がある人がいたらわかると思うんですけど、ただでさえ人と人との心理的な利害関係の中で交渉し、なおかつお金が絡むのでどうしても人から恨まれる商売なんですよ。これはさけることができない。

 金融に強いユダヤ人が何故ナチスに迫害されたのか、このあたりもからんでくるんじゃないんでしょうか。

 金利を下がりますが、それでも必ず開き直って約束破る人たちが出てきます。

 すべての出発点は約束を破る事から始まるんですが、そういう開き直る人たち理屈でもって交渉しても対抗できない、だから一歩踏み込んで民事訴訟を起こしたりして、お金を返してもらったりするわけです。

 そうなると、ここまでするかという話になって貸し金業者に対してうらみをもつようになりますし、ある話ではそういう親を見てきた子供が弁護士になり、貸金業者に対して徹底した態度で訴訟を起こし裁判で勝利する辣腕女弁護士がいて、その弁護士を後藤田代議士が支援しているとか?
 
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ベニスの弁護士? ()
2006-11-28 10:22:57
債務整理には必ずつきものの弁護士。政府肝いりのカウンセリング団体も、弁護士と連絡を蜜にしてという。しかし、実態は過払い金の発生して、報酬をと立派ぐれない全国の客の紹介ネットだ。
ドフトエフスキー、さらにベニスの商人の世界に、債務者が貸し手からなんとか返還した金銭を優先してむしりとるような弁護士って、いたでしょうか。
我が国状況は、国が与えた独占的法律サービスを営む人たちが、債務整理業を訴訟が伴うからと独占して、過払い金の30%(上限)や減額和解した減額分の半分を持っていこうとする。
結局、債務整理は失敗して、その後での弁護士報酬破産が後を絶たない。
実態を知ると仰天、どうかしています。

いずれにしろ、過払い金引当金が1兆円も積まれた以上、その経済的利益x30%は、大きなビジネスチャンスです。悪徳弁護士と組んで、廃業して今や回収業者となるのものたちが、この不当利得返還業務に虎視眈々という状況をご存知か。それでなくても、クレサラ弁護士事務所は、数人の資格者に、事務所員を100人雇って、大忙しで、儲かって。いそ弁初任給も800万円を超え、平均給与が1000~1800万円とも。
業者と弁護士、どちらが不当利得か。
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Unknown (x2)
2006-11-28 10:36:24
まさくにさんがご指摘の通り、週刊東洋経済は、まさくにさんのとても関心を持たれて、クリティシズムを発揮された対象の、坂野先生に聞きにいった。そして、破産の原因がライフイベントという統計結果を雑誌社として信じたのか(と当然に推定される。読者には)、取り上げた。Rスクエアがたしか、35%。ロジッスティック多重回帰といえ、微妙~な説明力。

だれだって、直感するでしょう。たとえば500万円の多重債務になって、病人の体力が弱るように、半年して、1年して、重さに耐え切れず、倒れていく。どうして、説明因子として、そういうひとがどのくらいいるのかを説明しょうとしなかったのか。

貸金業者が、貸さなかったら、そもそも破産(債務)はない。信用力を超えて貸したから、倒れていった事実の検証をなおざりにして、貸した責任でなく、失職や病気になった因子だけを取り上げる。当然でしょう。そうなったときに、業者借入があれば、やって行けなくなるのは、統計しなくても当然です。
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