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2相性のデフレ

2006年02月17日 17時44分55秒 | 経済関連
今までデフレのこととか、物価のことについて記事に書いてみて、何となく感じたのがこの「2相性のデフレ」というものです。大まかに言って、前半部分はITバブル崩壊頃あたりまで、それ以降現在までが後半部分です。後半部分は勿論小泉政権による担当ですね。


まず前半部分を見ていきましょう。
デフレのキッカケは94年頃までに遡ります。これは前に書いたように中国の兌換元が廃止される、ということが起こる時期ですね。しかも円高傾向の時期でした。輸入品価格の下落が目に見えて感じられるようになっていきました。価格破壊商法の浸透期ですね。東南アジアへの投資も企業は積極的に行っていきました。中国からの輸入品も急速に増加していきました。企業は東南アジアへの投資を活発化することで、国内投資にはややマイナスに作用したのかもしれませんね。低価格輸入品の影響を受けて、競合国産品は同じような価格競争に晒されていきます。消費者の中には「低価格期待」というものが浸透していくこととなっていったでしょう。その後に海外の中国投資が活発になってきてからは、中国自体にもデフレが見られており(98年~)、主に「供給能力の過剰」という側面もあったのではないか、とも考えられます。


日本では輸入品の価格低下による物価下落圧力があって、95年にはCPIがマイナス(ドル円では円高値をつけた)となりますが、その後には円安方向に為替が戻していったことや、医療・年金等の社会保障分野、携帯電話・インターネットの普及等による通信費増大、というような下支え部分もあって、CPI は微増ながらも回復していったのですね。また、消費税導入に伴う駆け込み需要は97年前半の強い消費に表れたのではないでしょうか。これによってもCPI の急速な回復ということも見られた訳ですが、例の「97年ショック」が起こってしまいます。これ以降、日本経済はデフレの道を歩んで行くことになります。


バブル崩壊後に財政規律はどうであったのか、というと、前に書いたように(経済政策担当の登竜門?)財政出動を求める論調は強かったであったろうし、「景気対策は重要だ」ということを国会議員も世論も「強く」求めていたでしょう。GDP押し上げの為には「真水で10兆円」(乗数効果があるので1兆円の公共投資を増やすと約6~7兆円のGDP押し上げ効果が出る)というような論調があったと思います。また、問題の郵貯ですけれども(郵政と財投と周辺組織の問題)、例の91年頃爆発的に増加した6%の半年複利という定額貯金があった為に、6%の金利負担をまかなう為の「投資先」をどうしても作らざるを得なかった。バブル崩壊後であるのに、この条件に合う安定運用先を探すことは中々難しいと思われ、しかも運用しなければならない資金総額は毎年毎年猛烈な勢いで増加していく訳です。何たって6%半年複利ですから。130兆円程度しかなかった郵貯残高は、新たな預入が全くなかったとしても5年で30兆円以上増加しているのです(満期を迎える00~01年頃には郵貯残高は2倍の約260兆円まで増加してしまいました)。この運用先を探さねばならなかったのです。年金資金についても同じような傾向が出てしまい、「規律」ということで見れば確かに緩んでいたかもしれないが、その一方では運用せざるを得なかったという側面もあったでしょう。


要するに、社会背景には重点的に「景気対策をやれ」という圧力があり、運用資金の膨張ということもあって財政出動は避けがたかった、ということです。ですので、物価下落要因としての財政規律の問題というのは、前半部分では「大きな影響力を持っていた」とも言えないと思いますね。90年代での財政赤字の問題がデフレの根本的な要因ではない、ということです。しかし、金融政策としては、94年あたりからの物価下落環境で金融緩和が遅れてしまい、不十分であったということは言えるかと思います。この時期に政府と日銀が共通課題を強く認識して協調的な政策運営を行っていれば、「97年ショック」を迎えるような事態は避けられたかもしれません。


心理的には98~99年頃というのは猛烈に悪化していった訳ですが(『金融腐食列島』などの映画までありましたね)、それでも一般庶民は意外に打たれ強くて(笑)、99年初め頃からの所謂ITバブルへと進んで行きます。10年前のバブル景気に懲りたはずなのに、それでも「夢よもう一度」的な感じでみんな強気に転じました。この時がデフレ脱却への手がかりであったはずなのですね。政策金利というのは、元々長期的な意味では「景気中立性」を保ちながら決定されるべきものであり、資産価格の―特に株式の―急上昇が「物価高」や期待インフレ率を大幅に押し上げたりすることに直結する訳ではないはずなのです。短期的な変動はあるにせよ、雇用や賃金に波及してくるくらい十分な明るさを取り戻せていたら(当時には全産業で見ても労働生産性の低下が見られた。これは新たな労働力が投入されたからではないかと思う)、デフレの終息を迎えていたかもしれない。


<ちょっと寄り道:失礼な言い方で申し訳ないんですけれど、かつてはパソコンオタクみたいな人々であったのが、特別なスキルとして認知され、しかもコンピューターの「2000年問題」ということが恐れられていて、労働力(何人×時間みたいな指標?だったかな)を遮二無二投入して、いってみれば「人海戦術」でこなすしかない、というような状況はあったように思う。なので、そういったコンピュータ能力に関する労働市場では売り手市場であったろうし、SEの数不足なども盛んに言われたり賃金の高止まり、といったこともあったように思う。>


コンピュータ導入が生産性向上には直ぐに結びついていない、とも言われていた。これは道具に慣れていなかった側面もあるし、それを使いこなすとして、どういった仕事を効率的に行うか、今までにないビジネスはどんなのか、というところには直ぐには辿り着けないのではないか、と思うけど。別にITを導入したからといって、社員の能力が飛躍的にいきなりアップするわけでもないし、労働者の人数を半分に出来るとも限らない訳ですし。でも、求められる労働力というものが出てきて、雇用にもプラスに作用したのであろうな、と思う。新規上場企業も増えたし、雇用創出にも結びついていた可能性はある。しかし、ITバブルはあっさりと崩壊してしまいました。確かにとんでもなく変な株価ということもあったと思いますが、これでデフレが解消されていた訳ではありませんでした。デフレはどこから見ても継続しており、人々の期待形成というのはガンコな「デフレ期待」というものに変わっていた。


そういう状況で、国家財政が好転などしていなかったにも関わらず、大して長期金利の上昇にもならず、(ITバブル期に)円高になることは(それまで同様)確実に起こっても、円安が根付いて通貨安というか購買力平価の大幅な落ち込みともならなかった。けれども、ゼロ金利解除を宣言して、わざわざデフレ悪化を演出してしまいました。


大抵「バブル状態」というのは永続しないと思うよ。何故かと言えば、買い資金が永続的に増大していくハズがないからです。通常、上昇幅に満足した時点では売りに転じることも少なくなく、誰かが「膨大な買い資金」を新たに投入しないと高値を維持したまま売ることは出来ません。一本調子で上げ続けると誰も損することもないでしょうが、いずれは天文学的に大きな資金を必要とするようになるので、永続不可能ですね。よって、放置していても必ず下げに転じます。そして、下げを見た人々が「そろそろ売りなんじゃないか」という弱気優勢になれば、「買い方」よりも「売り方」の方が多くなる為に自動的に値が下がっていくこととなります。なので、特別な手を打つ必要性はなく、中立的な判断で金融政策を行うべきですね。


このようにして前半は終わってしまいました。ゼロ金利解除とITバブル崩壊は同じようにやってきて、結局デフレ脱却チャンスを逃してしまうこととなりました(日経平均が13000円程度まで落ち込んでしまった01年3月に量的緩和政策を決めますが、その後にも下落は続いていき、03年4月には7千円台となってしまいます)。そして、量的緩和決定直後の01年4月に小泉政権が誕生しました。



小泉政権誕生後には言わずと知れた、「痛みに耐える」政治でした。同時にデフレの元凶が不良債権ということであると考えられるようになり、これに対する政策が推進されるようになりました。確かに不良債権問題というのはあったのですが、これだけでデフレが発生するという要因にはなり得ないはずです。当時、僅かな希望が一瞬見えたITブームの崩壊によって、その微かな明るさも潰えてしまい、残されたのは「給与削減」「ボーナスカット」「リストラ」「不景気」・・・という悲惨な将来像だけでした。自信を失った日本人は、将来の期待形成をもっとネガティブなものへと変えていきました。より強固なデフレ期待が形成されていったのでしょう。最悪期はこの後に訪れます。アメリカではITバブル崩壊後でもあり、全世界に衝撃を与えた所謂「9.11」事件の影響もあったし、米国経済の息切れが日本経済にも影を落としました。


そして、財政規律を取り戻す為の政策として、公共投資や社会保障削減、各種保険料値上げや自己負担増、などといった「緊縮財政策」が重視されていきました。これはこれで無意味ではありませんが、一方では経済政策というか現実の経済運営という点においては、問題があった可能性があります。特に雇用問題ということに対しては非常に大きなマイナスを生みました。格差拡大と言われる所以ですね。財政的には中立よりも削減方向に進んだので、物価に対しては下落圧力として作用したでしょう。そして、政府が行った最大の下落要因は内閣府のペーパーなどでも言及されているように、「規制緩和要因」です。これらの施策が物価に対しては相当の下押し要因として作用したのですね。よく例に挙げられるのが、タクシー料金ですね。他にも、それまで勝ち続けてきた通信業界なども規制緩和路線によって料金値下げ圧力が強まりました。また、社会保障関係の削減も同じくデフレ圧力として作用することとなり、医療・介護や年金の下落というものがデフレを助長しました。


これらの政策が全て悪いということではありませんが、財政的な中立を図る努力は必要であったでしょう。それは創業や雇用創出などを強力に行う必要があった、ということです。社会保障政策面でも下支えが必要であったのです(OECDだったか、世銀だったかは、中国のデフレについて社会保障分野の不足を挙げていたように思う)。公的な施策によって、かなりのインパクトを持ってデフレを推進してしまうのであれば、それを緩和する施策も同時に行う必要があった、ということです。何故デフレ期待が中々払拭出来なかったのか、というと、こうした下落要因を政策によって生み出してしまい、その不安を打ち消すような強力な施策というものがなかったからですね。


国債投資への選好というのがどうして起こってしまったか、と言えば、財投からの資金シフトで運用先を失った郵貯や年金資金は国債を買わねばならなかったのと、金融機関の不良債権処理を加速させたことでしょうね。中小企業の恨み節の大合唱となった「貸し剥がし」「貸し渋り」というのも、同じような背景を有していたと言えるでしょう。つまり、諸悪の根源として「デフレの原因は不良債権だ」ということになり、本来的には(資金の)循環不全であったものが、健康部位(=安全資産への逃避、つまりは国債投資)にばかり資金流入を呼び込むという、まさにスティール現象(金融調節の雑感)と同じようなことが起こったのです。循環不全を解消して需要の強い、或いは成長分野に資金流入を図るべきところを、全身的に一気に血管収縮させてしまった(=血管が拡張して血液が滞ってるので、血管を収縮させるとうっ血は減るが、流れる速度が同じ程度なら血流全体も大幅に減る)が為に、虚血部位には血が流れなくなり次々と壊死していったのです。必要部位にも血流が途絶えてしまったのです。これが、不良債権が中々消えなかった(それか、新たに発生させた)理由です。


デフレはこのような経過を辿り、非常に強固なものとなってしまったのですね。


前半では
・低価格輸入品の下落圧力から始まった
・消費税導入後の反動と「97年ショック」の発生
・アジア地域の供給能力の過剰
・日本経済の需要収縮

後半では
・社会保障政策、規制緩和などの「政策デフレ」要因
・財政的な中立を超えた緊縮路線
・それらを打ち消すような政策の失敗(特に雇用政策)
・将来不安・デフレ期待を払拭させる強い決意・アナウンスの不足
・結果的には失望が増強され、株価も下落、期待形成にもマイナスに作用


このようにして現在に至ったのではなかろうか、と思いました。




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