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経済学の歴史を見れば

2007年01月08日 22時03分34秒 | 俺のそれ
以前に、お金はまるで血液循環みたいなのに似ている、というようなことを書いた(参考記事1)。でも、これと同じような考えの人がかなり昔に存在していたと知り(何処かで見かけたけど、忘れた)、ネットで調べてみたら、これが凄いんだな。昔の人たちというのは侮れないというか、やっぱり偉い人たちはいたんですね、やっぱり。私が思いつく程度のことは、既に大体考えられているのですよね(当たり前か)。


で、ケネーと重農主義者たちに興味を持ちました。これは本当に面白いな、と。

重農主義者たち Physiocrats


これを読むと、この時代には既に「economist」に該当する人たちは存在したようですね。



そこで、「economics」の語源を調べてみた。

ラテン語でoeconomiaというのだそうだ。この元の言葉は、ギリシャ語でoikonomia ということだ(ギリシャ語の正確な表記ができてない)。これは、英語で言うところの、house management ということを表す語であるという。「家政術」というような意味が割り当てられている。

さらに分解すると、oikos と-nomos ということで、前者が house、後者が law を意味する。これを言ったのが、アリストテレスということらしい。紀元前から既にこうした考えがあった、というのは凄い。初めて知ったよ。しかも、経済活動の基本単位としての「家庭」というのが中心的だったのかと思えば、ナルホドなと思う。王様であっても「家庭」には違いないしね。金がなければ、戦争もできんわな。


因みに、アリストテレスは商人の活動を「取財術」と呼んでいたらしい。自然な労働で生産されないので、非難されるべきものとして考えられていたようだ。特にお金がお金を生み出す「貨殖術」は、貨幣的な現象によるものであり、ここから生み出される富には限りがない、と既に見通していたのだ。利子は、「貨幣の子たる貨幣として生まれる」という無限性があると考え、非難するべきものを感じ取っていたのであろう。こうした感覚は理解できるものではあるが(笑)、経済活動においては信用創造が必要なことであるのは確かであろう。アリストテレスの時代においては、「増殖し続ける富」に対しての疑問を感じるのはある程度止むを得ないのではないかな。金に魅入られるというか、精神を支配されうるという人間の本性を見抜いていたという点では、さすがに偉大な人物であると思うな。紀元前から人間の本質的な部分は変わっていない、ということでもあろうか(愚かということか?、笑)。


思想史とか、こういう歴史的なことというのは、中々面白いですね。

重農主義者たちの言い分というのも、今の時代でも似たような部分は凄く多いし、考えている核心部分というのが現代と大きな違いはないようにも思えます。ケネーの人生にも共感を覚えてしまいます。歴史の繰り返しみたいな感じで、何だか不思議です。


もうちょっと読んで、考えてみたいと思います。



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