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お金の流通速度

2006年02月13日 22時06分45秒 | 経済関連
前の記事の続きです。お金の流通に関する印象としては、前にもちょっと書いたのですけれど(金融調節の雑感)、コンパートメント・モデルに近いようなイメージがあります。例えば日銀という大元のコンパートメント(普通の部屋のようなものでもいいのですけど)があって、そこと別な経済主体(例えば市中銀行ですね)をつなぐ通路があり、そこでの貨幣のやり取りというのがある速度で行われていたとしますね。経済発展によって仕組みが複雑化するし、経済主体も色々と登場することとなり、要するにそこに繋がる部屋というかコンパートメントが凄く増加する訳です。となれば、次第に日銀と銀行との流通速度も減少していくような気がします。一回り還流してくるのに時間がかかるようになる、ということです。


日銀、銀行、個人1、という3者しかいない時に、一枚だけ1万円札にマークをつけて流したとしましょう。出発点は勿論日銀です。これが再び日銀に戻ってくるまでどれくらいかかるか、というのが流通速度ということになるかと思います。銀行が不人気で引出などが活発でなければ銀行の金庫で眠ったままとなるかも。個人1の手にようやく渡ったとしても財布の中でひたすら出番を待つだけかもしれないし、タンス預金にされるかもしれない。そういう風に色々な場合があると思いますね。しかし、これを無限に繰り返して平均的に戻って来るまでの時間を測定すると、普通の流通速度というものが分るのであろうなと思いますね。これに更に商店1を追加すると、お札は銀行や商店や個人の間を行ったり来たりして中々日銀に戻って来ないかもしれないし、商店1のレジで眠ることになるかもしれないし。活発な取引があれば気体分子の運動のような感じで、日銀に戻ってくる確率がアップするはずですね。なので、経済が不活発であると、お札の移動確率が減少するので多分観測される流通速度は落ちるし、景気が良くて活発な取引が行われれば速度は上がるはずですね。でも、もの凄くコンパートメントの数を増やしていくと、日銀に戻ってくる確率も減るし、その為に速度が低下していくのではないかな?


経済主体としてのコンパートメント、つまり個人とか企業とか銀行の数も凄く増えるので、流通ネットワークも複雑になります。変な例ですけれど、個人間では直径が1の水道管のような連結、個人と企業間は直径2の水道管、企業と銀行は直径20の水道管、日銀と銀行は直径50の水道管、と言う具合に連結されているような感じです(本当は全ての水道管の太さも長さも異なっているのです)。各コンパートメントには球体で出来た水を貯められる容量のようなものがあり、銀行は大きく、次に企業が、個人のは凄く小さいですが、個人差があるので球体の大きさがバラバラなのですね。そういうような水道ネットワークで日銀はダムの放流みたいにドバーっと貨幣を供給して、銀行を経由してお金が各水道管に流れていく。企業にも個人(家計)にも。個人の細い水道管あたりに行くと流れが悪い管もあるし、詰まっている水道管もあったりするかもしれないし。でも、全体的にはお金が水道管を通じて流通する。複雑な水道管ネットワークなので、誰がどこに繋がっているか正確には誰も分らないから、流れが悪い所も正確には掴めないし修理も出来ないこともある(出来ることもあるけど)。でも大きい球体とか、特に太い水道管などは、判りやすい。銀行は取引先を調べれば判るでしょうし。それでも、全ての連結状態を調べることが中々出来ない。


個人差(企業でも個人でも)があって、「金離れのいい人と悪い人」がいたりする。タンス預金が好きな人とそうでもない人がいたりする。なので、各コンパートメントにどれくらい水(=お金)が貯まってるかは分らない。刻々と流れているから変化するし。お金を余り使わない人は、周りとの連結されている水道管の距離が長いので、結構な水圧がないと出て行かない(地方などで周囲に使うべき場所や機会の少ないことも、そういう水道管距離が長いということになるかもしれない)。また、金への執着度の違いもあったりして、それはその人特有の粘度による。ケチであったりするとこっそり畳の下に隠してあったりして、そういうのは執着が強いってことで、「お金への執着度=流体の粘度」というような意味合いに近いように思う。きっとお金の出入りが大きい人は、水道管の直径が大きくなければならないだろう。川の流れと同じようなもので、水面に浮かべた笹船が同じ時速5キロで流れていても、大きな川は水量がドーンと多いけど、小川なら全然少ないでしょ?つまり水道管の直径が大きくないと、他の人の何倍もの猛烈なスピードで流さないとダメってことになってしまうので。もしも水のような普通の流体ならば、水道管の直径が大きくなればその4乗に比例して流量は増大するし、長さが長くなればそれに比例して抵抗が増す(はずです・・・だったか?)のです。お金が出るのも、それに似てるかなー、と。


お金の流れを規定するのが、こうした「水道管の直径」「水道管の長さ」「特有の粘度」といったことに影響される。しかもその時々の気分などによって粘度が変わったりするし。しかもある程度の速度が出てくると、その速度による粘性抵抗を生じる。つまり、速いことによって抵抗が大きくなる、ということですね。雨滴が一定速度で落下してくる原理と同じようなものです。通常空気と雨滴の関係では、粘度は一定で変わらないですけど、お金の流通では経済主体ごとに粘度がバラバラで(勿論日銀も例外ではなく)、しかも同一の経済主体であっても時が違えば同じではない。その為に、流通ネットワークの中では一定速度を計測するのは難しい。でも、全体的に見れば、おおよその速度傾向が出てくるでしょう。そういうイメージですね。どんなに速度をアップしても粘性抵抗があるので、一定以上の流通速度を達成するのは難しくなるはずです。即ち限界速度というものが自ずと生まれる、ということです。その平均的な流通速度は、経年的に低下してきているのであろうと思いますね。経済発展による流通経路の複雑化によるものとか、執着度を増加させるような社会環境とか、そういうものの影響を受けているのではないかな、と。


「97年ショック」のような危機によって「現金頼み」という風に行動しようとしてしまうと、各コンパートメントでの金への執着度=粘度は平均的には高くなると思いますね。企業の現金かき集めもそうです。これも粘度上昇の傾向が表れると思いますね。それは即ち、「流通速度」低下要因であろうと思いますね。「マーシャルのk」が大きくなっている(=速度低下)、というのはそういう意味であろうと思います。あ、「マーシャルのk」自体は単位がないものです(そうだよね?)から、本来的には意味が”速度”とはちょっと異なるか。単位時間当たりの「貨幣回転率」というような意味であろうか。マークした一万円札が一年間で平均何回日銀に戻ってくるか、というような意味です。違うかな?景気が良いと回転率が高い(=流通速度が速い)ので、マネーサプライが名目GDPよりも小さくても済みそうですね。しかし、景気が悪くて停滞していると循環不全と同じようなことになってしまい(うっ血している)、流通速度は遅くなるので、マネーサプライを増やさないとダメですね。


赤血球が肺循環にどのくらいで到達するか、というのとも似てるな(5分とかそれくらいで全血が通過するはずだったような・・・。思いのほか回転が速かった気がする)。とある赤血球はどこかの血管か、組織かに行ってしまうけれど、酸素を放出してもしなくても再び肺循環に戻ってくる。血行が悪いと酸素化されていない赤血球の割合が相対的に多くなり、より多くの赤血球を必要とするはずですね。体の場合には、本来必要な量の何倍も備えているから、元々が有り余っているんですけれど。でもこれは急な出血などによって部分的に赤血球を失ったとしても耐えられるような仕組みになっており、セーフティ・マージンは相当高い設定になっている、ということですね。それはまあいいんですが、要するにお金の場合には大体1年間に一度戻ってくるかどうか、というくらいの水準で、回転率が高いとそれよりも少なく済み、低いとそれよりも多く必要になる、ってことですね。


定常状態がずーっと続く場合には、どの瞬間で静止させてみても、全く同じ分布になっているはずですね。動的ではなくて静的観察というのでしょうかね。仮に、日銀、銀行、家計、企業というコンパートメントに均一に必要なお金を分布させておくと、例えば日銀100、銀行300、家計400、企業200、というような感じで分布していて、いつの時点で見ても全く同じ分布になっている、ということです。見かけ上、実は全く動かずに一円も流通していないとしても、それと同じように見えてしまいますね。その場合には、マークした1万円札が何処かに―銀行にあるとすれば銀行に―残っていて、それは全然動かない訳です。他のお金も全部がそうなのです。でも、このような状態であるとしたら、所謂「死体標本」のような状態と同じくなってしまいますね。見かけ上は何ら変化がないとしても、マークした1万円札はある瞬間には家計にあり、ある瞬間には日銀にあり、というような「動いている状態」でないと、恐らく経済は死んでいることと一緒になりますね。気体分子と同じようなもの?ある家の空気が一定温度で定圧であるとしても、とある酸素分子一つにマークしたとしたら、ある時には居間にあり、別な時には寝室にあり、また別な時には台所にある、という風に勝手に動いていますね。でも、マークしてないと、観察者にとってはどの部屋の気体も同じ温度、同じ圧で存在していて、分布密度も各気体成分の濃度も全くの定常状態にしか見えない、ということですよね。だが、本当は一定に流れていたり拡散したりして、勝手にバラバラで動いているはずですね。


変な方向にズレましたが、マネーサプライとか「マーシャルのk」については、ちょっと理解が進んだような気がします。自然利子率については、次の機会に書いてみます。テイラールールについてもその時に。




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3 コメント

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すり替えられた規制緩和 (内橋克人)
2006-02-13 22:42:19
規制緩和に反対すると非国民扱い







 私は、ジャーナリスト生活を始めて四〇年になります。その間に、一九六〇年代半ばの資本・貿易自由化もありましたし、一九七三年秋に始まったオイルショックもありました。また、それにつづく第一次の円高が、日本経済を直撃するなど、さまざまな困難に見舞われる日本を見てまいりました。しかし、その都度、多くの人々が汗と知恵をふりしぼって、何とか、危機を乗り切ることができたと思います。







 ところが、九〇年代を迎え、バブル経済が崩壊致しましてから、私たちの社会はきわめて深刻な不祝に突入しました。この不況は、一般にいわれる資本主義経済に特有の、循環型不況とは趣を異にしているということです。危機の真因は、きわめて構造的なものであり、過去、日本をして経済大国たらしめた構造そのものが、今度は、日本の行き詰まりを招いているということです(私は従来より、私たちの国は生活大国になれない道を選んだからこそ、経済大国にたり得たのだと主張してまいりましたが)。







 私は、九七年より、公正取引委員会の「政府規制研」に参加してまいりました。そこで議論されていることは、再販価格維持制度の存続の是非をめぐる検討です。再販価格維持制度というのは、書店あるいは新聞販売店が、新聞杜あるいは出版杜から最終の消費者に、予め決められた値段を守って販売する制度のことです。この制度のあるお陰で、遠隔の過疎地や地方で新聞を宅配してもらう料金と、便利な都市での購読料金が同一に保たれ、戸別配達が維持されているわけです。けれども、再販廃止論者たちは、地方と都市での値段が同じであるのはけしからんと、主張します。これはつまり、私たちが、民主社会に生きて、たとえば代表としての政治家を選ぶに際してその判断を下すのに必要な情報の対価が、地方に住めば住むほど高くなってもそれはやむをえない、コストが高く付いたところで高く売るのが正当な市場原理である、という理屈です。







 再販制度が廃止されれば、中小零細な書店はなかなか経営が立ち行かない。本当にいい本が、世の中に流通しない。新聞についても、全国同一水準での戸別配達制度が成り立たない時代の到来が当然予想されます。







 それでもなお、市場原理の例外なき貫徹こそが正義だ、日本人の幸せになる、と彼らは主張をつづけています。そうした彼らの論理からすれば、今日、ここにお集まりになっているみなさん方は、古い「既得権」にしがみつくけしからん人々だ、ということになります。







 もう二、三年程前になりますか、『なぜ規制緩和は進まないか』というテレビ討論番組がありました。番組には私も登場致しましたが、要するに、規制緩和はすべて正しく、望ましいものだ、それがどうして進まないのか、というアングルでした。







 新聞、テレビ、公共放送など、ほとんどのメディアがこうしたアングルで制作され、世の中を覆ってしまったわけです。最近の番組を拝見しておりましても、登場する経済学者あるいはエコノミストらはいずれも強烈な規制緩和論者です。とりわけ、行政改革委員会の規制緩和小委員会のメンバーなどが、金融ビッグバンについての解説、あるいはまた規制緩和に関連するメディアに相次いで登場しております。規制緩和をやらなければ日本は世界に遅れていく、国際競争力が弱くなってしまう、景気は回復しない、新しい産業フロンティアも開けない、そういう雰囲気がどんどん作られております。







 恋愛は美しき誤解によって成立し、結婚は真実を見る目によって破壊されるといいますが、日本におきましては規制緩和に関しましても、美しき誤解によって、一世を風靡しやがて地獄を見ることによって初めて人々はその本質を知ることになるのではないでしょうか。
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すり替えられた規制緩和 (内橋克人)
2006-02-13 22:42:56
企業行動完全自由化要求運動







 そこでまず、日本における規制緩和はどういう特徴をもって進んできたのか、項目に分けながらお話をしたいと思います。







 戦後、わが国におきましては、経済民主主義が大変強調されてまいりましたけれども、現実には、今に至るまで官僚独裁、行政独裁の構造が大変長く続いてきました。何事も官僚、行政の裁量下にありまして、民は官のお伺いを立てなけれぼ物事を成すことができない状況です。こうした現実へのアンチテーゼとして、真の意味での民主的な社会を再構築するには、何よりもまず、行政官僚が掌握しておりました権力を民に再配分することが至上命題であり、規制緩和はそのための方策なのだ、と私たちは説得されてきました。







 ところが、官から民へ、という権力の再配分の向かう先は、民は民でも市民ではなく巨大な民間企業に権限を移そうという方向であり、それがあっという間に進んでしまいました。国家権力の再配分先には市民はいうまでもなく、中小零細企業も、中小零細な商店も入っておりません。つまり規制緩和によってダメージを受ける当事者がすべて排除されたまま政策プログラムは進んでいるのです。その本質を一言で申しますと、いま進みつつある規制緩和とは経団連傘下にある巨大なる企業にとっての企業行動完全自由化要求運動にほかならないというべきです。経団連とは、いうまでもなく、五五年体制下の自民党支配を政治献金などによって支えた財界の組織です。私はこの現実を「すり替えられた規制緩和」と呼んでおります。







 四〇年間、日本経済を見てまいりました私には、長らく経団連が主張してきたことが今、規制緩和の名の下に、一挙に、あれもこれも実現されようとしていることが、とてもよく分かります。権力の多くが、官から民へと移る代わりに、官から業へ移っているというのが偽らざる実態です。







 これまで日本社会の大きな弊害として、鉄のトライアングルと呼ばれる構造がさんざん取り上げられてまいりました。政、官、業の癒着です。今、これを打破しなければならないのに、政から官へ、官から業へと、その三者の仲間うちで権力、権限が回されている。







そうした中で、今、ショウケツを極めておりますのが、「規制元凶説」というものです。日本経済が活力を失い、成長力を衰弱させているのも、すべて規制が悪い、という議論です。そこから「例外なき規制緩和」というキャッチフレーズが飛び出してきました。







 最近では、私どもの議論に影響を受げて、規制緩和一辺倒は必ずしもよろしくない、経済的規制は撤廃しろ、社会的規制は置いておけ、というふうな議論も出てきてはおりますが、こうしたささやかな抵抗などはすでに規制緩和推進論者があっさりと論破しておるところです。先般、NHKのETV特集で、三日間にわたって評論家の堺屋太一さんが規制緩和、構造改革について論じておりました。その中で主張されているもっとも大きな柱は、経済的規制も社会的規制も区別は無い、社会的規制という名の経済的規制がはびこっているんだから、という議論でした。いまは要するに「例外なき規制緩和」こそが社会正義なのです。







 次に、二番目の特徴に移りたいと思います。







 現代日本社会を覆っている行政、官僚に対する反感と反発、批判、これを追い風としているということです。要するに日本の行政組織と官僚が悪いんだ、これを征伐しなければならないという。こうした一般社会の雰囲気を追い風として、いつの間にか規制緩和は社会的正義となった。規制緩和に反対をすると、社会正義に刃向かう輩、ということになるわけです。いってみれば、戦前、戦時の国民精神作興運動に同じでしょう。日本において、何か出来事が起こりますと、たちまち精神運動に高められていく。







 それとともに、行政独裁に代わって、アッという間に市場競争原理至上主義が登場し、今度は「自己責任原則」というスローガンが掲げられるようになりまた。この二つは、むろん裏腹の関係です。いま進みつつある規制緩和のもとで、庶民に強要される「自己責任」とはどういうものか。







 たとえていえば、従来ですと、自宅が強盗にやられたと致しますと、悪いのは強盗だと誰もが考えた。ところがそのうち今度は、いや、鍵を掛け忘れたお前も悪い、ということになり始めた。お前も悪いといっている間はまだよかったのですが、今ではさらに、鍵を掛け忘れたおまえが悪い、と被害者の方が責められる社会が来ようとしています。[2]







 まもなく、「ぺイオフ」の時代が始まります。個人が一つの金融機関に一〇〇〇万円を超えて預金をしておりますと、万一その銀行が倒産に陥つた場合、一〇〇〇万円を超える分は戻ってきません。二〇〇〇万円までは預金保険機構の保険によってカバーされるけれども、それ以上は自己責任だ、そんな銀行に預けたお前が悪いんだ、とそういう社会になろうとしている。これが、自己責任であります。







 このように、いまになって声高に叫ばれる自己責任論というものについても、私たちは、真の意味というものをきちんと見抜くことが大事だと思います。







 いうまでもなく、真の意味での、規制緩和は進めなけれなりません。あまりにも過剰に行政官僚の手に集中した権限、すなわち規制というものを取り払つて、権限を市民の手に移していかなけれなりません。そのための規制緩和は、必要です。しかし、残念ながら、その規制緩和があっという間にすり替えられて、政、官、業の内輪の、権力の仲間回しの規制緩和が進んでいると指摘したいのが私の二番目の主張です。







 それから、三番目です。いま、私たちの社会で進みつつある規制緩和については、光の部分、いわゆる薬の効果の面だけが強調され過ぎている。規制緩和さえすれば不況から脱出できる、新しい技術が開発され、産業フロンティアが開ける、人間の自由な創造力が解放され、これまで個人を縛ってきた桎梏からも自由になれる、そういうイメージで語られます。けれども、たとえ官から業への規制緩和でありましても、その中にはもちろん、薬でいいますと副作用がある訳です。その副作用についてはほとんど全く触れられていない。







 たとえば、私たちは、力の大と小の間の公正な競争とは何か、公正な競争を確保できる制度のある社会を望んできたわけです。たとえば、巨大な資本もあれば、同時に中小零細な地方の商店街もある。そういう商店街の零細な自営業と、欧米の資本とも十分対抗できるような巨大な流通資本とが、同じ土俵の上で、剥き出しの競争をすればどうなるかについて、多くの経験を持っています。ですからこそ、作り上げてまいりましたのが、「調整」の精神を軸に据えた、社会的調整のための各種の制度でした。







 大規模小売店舗法(大店法)もその一つとして生まれたものだと思います。その大店法も、今や市場の自由をそこなうということで、完全撤廃に向けて進んでいます
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有難うございます (まさくに)
2006-02-15 21:01:47
長文のコメントでしたので、記事に書いてみたいと思います。ちょっと私には難しい部分もありますし・・・
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