いもりんのヒルズ的生活+貧乏昔話

教師から起業家へ。無一文の外国人夫との超ビンボーな暮しから脱出、奮闘の末つかんだ、ちょこリッチな生活をおバカ調で公開。

3月11日、私の周りで被災された方々

2012年03月11日 10時56分28秒 | 東日本大震災311

震災が起きてからの1年、小学校から大学時代までの同級生と一生懸命会っていた。
人はいつ死ぬかわからないから、今のうちに会っておこうという心情。
そうしているうちに、知り合いに結構被災者がいることが分かった。

私は街の中心部の小・中学校(学校の敷地をぐるりとマンションが囲むようなイメージ)に通っていたので、津波の被災者はいないと思っていた。
ところが山元町の海の近くに家を買って移り住み、そこから仙台市にJR通勤していた同級生がいたのである。ご家族は無事だったが、家は全壊してしまった。

中学校では、当時より石巻から通勤していた恩師が、東松島で被災された。幸い先生はご無事だったが、奥様のご親族が多数亡くなられた。うち一人だけ残された小学生を、親代わりになって育てている。

高校では、多賀城、塩釜、松島からJRで通ってきていた人も多かったので、彼女たちの実家がどうなっているか気になる。同級生で亡くなった人は聞かない。それでも結婚相手が、大船渡や釜石、相馬だったりするから、夫実家が被災されているケースも多いと思う。

大学の友人では、海岸部出身の人が結構いる。若林区荒浜の後輩(♂)は実家が流された。みな無事だったが、放射能を恐れた奥さんが、まだ小さい子供を連れて北海道の実家に帰ってしまった。気仙沼の先輩は、海のそばに建てた家が全壊。仮設から小学校に出勤されていると聞いた。

学校の先生になっている友人たち。採用後は海岸部の過疎地に赴任することが多い。それで、教え子の安否確認やボランティアをしに、週末になると被災地に入って忙しそうだった。

福島県伊達市の叔母さんの家。避難区域ではなく今も住んでいるけれど、小さい子供のいる従妹は実家に帰れずにいる。子供が訪問できない家というのは何とも寂しい。

そして・・・・石巻の牡鹿半島の姻戚。家は流され丘の上に引っかかって見つかった。今は仙台市の2LDKに住んでいるが、集落全体が知り合いのような所からの移転、しかも年取ってからでは、精神的にもつらく、大変だろうと思う。

そんなことを思って、今日1日を過ごします。

子供の日記。誤字もありますが、彼なりに震災について感じたことを書いています。
 ビデオ→映像、木とう→黙とう、石のまき→石巻


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