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9-1-1 エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――

2024-03-18 17:48:41 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
1 エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――
1 日陰の身

 一五五八年十一月二十三日、エリザベス一世(⑤)はハットフィールドの館(やかた)を発してロンドンに向かう。
 メアリー一世(④)崩御のあとをうけて、イギリス女王の位につくためである。お伴の貴族やジェントルマンおよび彼らの夫人たちは、一千名以上におよんだという。エリザベスはホワイトホールの王宮でクリスマスを迎え、翌年一月十五日戴冠(たいかん)式を挙行する。
 エリザベス一世の四十四年にわたる治世がはじまった。
 それまでの道は平らかではない。
 彼女がこの世に生をうけたのは、二十五年前、一五三三年九月七日、母はヘンリー八世の第二王妃アン・ブーリン(一五〇七~三六)。
 アンは、ヘンリー八世の最初の王妃キャサリン(一四八五~一五三六)づきの侍女で、「その黒い目・陽気な人柄・無雑作なフランス風の物腰」をもって、ヘンリー八世の心をとらえた。
 王はアンと結婚するためキャサリンを離婚しようとしたが、ローマ教皇のゆるしがえられない。
 そこで、イギリス国教会をローマ・カトリック教会から独立させ、イギリス宗教改革の端(たん)をひらいたことは有名である。
 ところでキャサリン離婚の大事な点は、キャサリンの生存する子が娘のメアリー・デューターのみであり、しかもキャサリンがヘンリー八世より六歳も年長で、男子ができる見こみがなかったことである。
 したがってヘンリー八世(②)亡きあとは、メアリー・デューター(④)が女王として王位をつぐことになるが、イギリスでは女王の統治はひじょうな危険をともなうものとされた。
 女王はいずれ結婚しなければならないが、国内の貴族と結婚した場合には、かならずや女王の夫の勢力を嫉視(しっし)するものがあらわれ、内乱をひきおこす心配がある。
 また、外国の王侯と結婚すれば、外国の支配がイギリスにおよぶ危険がある。
 一方、若いアン・ブーリンは、これから男子を生むものと期待された。
 一五三二年の秋、ヘンリー八世はアンと同棲(どうせい)し、三三年一月二十五日、秘密に結婚したが、当時アンはすでに身ごもっていた。
 ローマ教皇のためらいをよそに、イギリスではこの年五月、王とキャサリンとの結婚の無効が宣せられ、アンとの結婚が正式にみとめられて、メアリーは正統の子でないとされた。
 当時アンに対する期待はひじょうなもので、「王子をおくり給え」という祈祷があげられ、医師も、占い師も、男子の生まれることをうけあった。ところが期待や予言もむなしく、生まれたのは女子で、これがわがエリザペスである。

 ヘンリー八世(②)の失望はひじょうに大きかった。
 アンはその後三年目の一五三六年一月、男子を流産したのち、五月二日突然逮捕され、ロンドン塔におくられ、、五人の男と姦通したという理由で死刑となった。
 その結果ヘンリーとアンとの結婚は無効、エリザベスは庶子というわけで、メアリー同様日陰の身の上となった。
 しかし二人はヘンリーにとって、そのあとに生まれた王太子エドワード(③)と同じように「最愛の子」で、彼らは宮廷にでて、公式の儀式に参列した。
 一五四四年、議会は王位継承法を制定して、エドワードに継承者のない場合、王位はメアリーによって継承されるべく、さらにメアリーに継承者のない場合は、エリザベスによって継承されるべきことを定めた。

 エリザベスは少女時代、ひじょうに勉強した。
 ギリシア学者グリンダルからギリシア語とラテン語を学び、彼の没後は有名なヒューマニスト、アスカムの教えをうけた。
 アスカムはエリザベスについて、こう評している。
 「エリザベスはちょうど十六歳の誕生日をむかえ、その年齢にしては、ふしぎなほどの威厳とやさしさとを示している。
 真の宗教と学問に関する勉強は、ひじょうに真剣である。
 王女の心には女性特有の弱点は一つもない。
 不屈な点は、男子に匹敵する。王女はフランス語とイタリア語を、英語と同じように話し、ギリシア語やラテン語を書くとき、その筆跡ほど美しいものはない。
 王女は音楽をきくことが好きであるとともに、自らも音楽にひいでている。
 身の飾りは、派手というよりも優美である。」
 まことにルネサンス君主として、典型的な教養である。
 一五四七年一月、父ヘンリー八世がなくなり、エリザベスの異母弟である王太子エドワードが即位した。
 エドワード六世である。
 王は当時九歳の少年であったから、叔父のハーフォート伯エドワード・シーモア(一五〇六~五二)が摂政となり、サマセット公に叙せられた。
 このサマセット公のもとで、トマス・クランマーが新教にもとづく祈祷書をつくったが、一五四九年礼拝統一法が制定され、教会の儀式は同祈祷書によるべきことが定められた。
 これがヘンリー八世の「政治上の宗教改革」に対して、「教義上の宗教改革」といわれるものである。
 エリザベスはこの時代、国教徒になったが、サマセクト公の弟の反逆事件にまきこまれ、疑いをかけられたことがあった。
 その後エドワードの治世にはサマセット公の没落、これに代わるノーサンバランド公ジョン・ダッドリー(一五〇二~五三)の台頭のような宮中の陰謀的な事件がしきりに起こった。
 しかしエリザベスはこのどれにもまきこまれないように、慎重に行動した。
 一五五三年エドワード王が没すると、ノーサンバランド公がカトリック教徒のメアリーの即位を妨げるため、ヘンリー八世の妹の孫で、自分の息子と結婚していたジェーン・グレーを女王に擁立する運動をおこして、失敗した。
 エリザベスはこの事件にも関係しなかった。




善を行う順序 聖アウグスティヌス

2024-03-18 00:42:55 | 格言・みことば
すべての人に善を行うことはできないので、時間や場所、状況などの偶然によって、あなたとより密接な関係を持つことになった人に特別な注意を払うべきである。

聖アウグスティヌス





エルサレムの聖チリロ総主教教会博士 St. Cyrillus Hierosolymit. Patriarcha et D. E..

2024-03-18 00:41:51 | 聖人伝
エルサレムの聖チリロ総主教教会博士 St. Cyrillus Hierosolymit. Patriarcha et D. E.. 記念日 3月 18日
 


 同じくチリロ総主教教会博士と呼ばれる聖人に二人ある。共に3世紀に生まれ、アリオ派の異端者に苦しめられつつもその謬説と闘った人であるが、一人は2月9日に記念されるアレクサンドリアの聖チリロで、他は本日祝われる聖チリロである。

 このチリロは西暦315年頃生まれた。20歳までは退いて宗教研究に精魂を打ち込み、聖書はおろか教父の著書なども余す所なく調べ究め、傍ら異端説なども一渡り研究していよいよ聖教の真理なるを悟った。19歳の時エルサレムの司教マカリオに選ばれて助祭となり、信者等に説教したり求道者を導いたりしたが、彼の教え方が如何に諄々として痒いところへ手が届くようであったかは、その求道者の為の著書を見ても知られるのである。

 チリロは助祭たる事10年にして司祭となり、又5年を経てマカリオの後継者に挙げられ、全キリスト教会の母教会と言われるエルサレム教会の総主教となった。これは彼にとって名誉であるよりはむしろ苦しみの因であった。何となればその為に彼はアリオ派の異端者達に迫害の目標とせられ、前後三度も総主教座より追放され、三十五年の主教生活中十六年は流謫の中に送らねばならなかったからである。

 最初の追放の原因となったものは「チリロは聖堂の聖具を片っ端から売り飛ばした」という反対者の非難であった。チリロはかって大飢饉の時、貧民達に食物を買い与える為、典礼にさほど必要のない聖具を売って金に換えたことがある。かような事は「貧者の父」と呼ばれる彼には別に珍しからぬ事であったが、愛の精神をわきまえぬ異端者等は、得たりかしこしと之を冒涜の仕業の如く吹聴、攻撃したのであった。それは罪人を憐れみ罪人と食事を共にされた主イエズスを非難したファリザイ人のやり口にも比べられよう。

 チリロは流謫の間にも決して徒に月日を過ごした訳ではなかった。或いは我が教区信徒の為に祈り、或いは我が身の徳を磨きなどしたのである。そしてあの名著、教義解説をものにしたのもその時の事であった。
 彼がまだエルサレムに主教たりし頃の事である。明らかに奇跡と認めるべき二つの現象が起こった。その一つは351年5月7日午前9時頃、カルワリオからオリーブ山まで約4キロほどにわたって、空に大いなる十字架の形が現れ、太陽を欺くばかりの強い光を放った事で、為に信者は深い慰安を受け、未信者は感動して多数改心した。その詳細はチリロがコンスタンチオ皇帝に送った書簡中に記してあるが、ギリシャ教会では今なお5月7日に右の奇跡を祝うとの事である。
 もう一つの奇跡は更に偉大なもので、背教者ユリアノ皇帝がキリスト教の真理に非る所以を立証しようとして、エルサレム神殿に関するキリストの御預言「一つの石も崩れずして石の上に遺されじ」(マルコ13-2)を成就せしめぬ為69年ティトー将軍の軍兵に完膚無きまで破壊された神殿を再興しようと思い立った時の事である。皇帝の援助に喜び勇んだユダヤ教徒は廃墟の後かたづけをしていよいよ再建築に取りかかろうとした。キリスト教徒は、皆主イエズスの御預言が空しくなりはせぬかと懼れている。主教チリロは「天地は過ぎん、されどわが言葉は過ぎざるべし」との主の聖言を引いて懸命に彼等を宥めていた。所がユダヤ人等が礎石を据える為に地面を掘ると、たちまち地中より物凄い火焔が吹き出して、ある者は焼け死に、ある者は大火傷を負い、幾たび繰り返しても同じ災いが起こり、とうとう工事続行は不可能に陥ってしまった。キリスト信徒の喜びは言うまでもない。聖教の真理に非る事を証拠立てようとした背教者の企てが、却って聖教のことごとく真理なる事を証明する結果となったからである。チリロを始めエルサレムの信者等は目前の事実に益々信仰を堅め、衷心から天主に感謝した。これは当時異教の歴史家までもその著書に記している有名な奇跡である。

 その後チリロは67歳の時、381年コンスタンチノープルで開かれた公会議に列席し、マケドニオの異端に対して聖霊の天主に在す事を議定したが、それから5年を経て386年安らかにこの世を去った。行年72歳


教訓

 ユリアノ皇帝の天を恐れざるエルサレム神殿復興の計画が着々と実現されるように見えた時、信者の中には主の御預言に疑いを抱いた者もあったが、聖チリロ総主教は些かも動揺の色を示さず、却って人々を励ましその信仰をかためる為に努力した。我等も彼に倣い、主の聖言をあくまで堅く信ずるように努め、又その助けとして日頃よく教理を研究し、しばしば心を以て、口を以て「主よ我は信じ奉る」(ヨハネ9-38)と祈らねばならぬ