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公教要理図解:第66図 精神的慈善事業

2022-08-08 00:51:25 | 要理(カテキズム)
「第66図 精神的慈善事業」『公教要理図解』ワグネル神父

◎精神的慈善事業


精神的慈善事業とは、他人の霊魂を扶助する事業である。


精神的慈善事業の主要なものは、無学な者を教育し、不足な者に善き意見を加え、悲しむ者を慰め、また、生ける者と死者のために祈りあるいは祈らせ、かつ、司祭に願い、ミサ聖祭を献げて戴く等である。


聖福音書によれば、われらは世の終わりにおいて、精神的、肉身的慈善事業について、裁判を受けることになっているものであり、聖書にはこう記してある。

最後の審判 
人の子が栄光に包まれて天使を従えて来るとき、人の子は栄光の王座につき、すべての民族はその前に集められる。
そして、人の子は、牧者が羊とやぎとを分けるように、彼らを二つに分け、羊を右に、やぎを左に置く。
そのとき王は自分の右側の者に言う。
『わたしの父に祝福された人たち、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。
 あなたがたは、わたしが飢えていたときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢屋にいたときに訪ねてくれたからである。』
そのとき、正しい人たちは答えるであろう。
『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えておられるのを見て食べさせ、渇いておられるのを見て飲ませましたか。
 いつあなたが旅をしておられるのを見て宿を貸し、裸でおられるのを見て着せましたか。
 また、いつあなたが病気であり、牢屋におられるのを見て、あなたを訪ねてあげましたか。』
すると王は答えて
『あなたがたによく行っておく。これらのわたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしたのである。』
と言うであろう。
それから、左側の者に向かって
『のろわれた者たち、わたしを離れて、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火に入れ。
 おまえたちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、
 裸のときに着せず、また病気のとき、牢屋にいたときに訪ねてくれなかったからである。』と言うだろう。
そのとき、彼らもまた答えて、
『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしていたり、裸であったり、病気であったり、
 牢屋におられたりしたのを見て、世話をしてあげませんでしたか』と言うであろう。
そのとき、王は答えて言う。
『おまえたちによく言っておく。これらの最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしなかったのである。』と。
こうして、この者たちは永遠の刑罰に、正しい人たちは永遠のいのちに入るのである。」
(聖マタイによる福音書 第25章31節-46節) 引用おわり

◎絵の説明


ここには、精神的慈善事業が書いてある。

◎無学な者を教育すること


第一の精神的慈善事業は、無学な者を教育することである。


このことは、上段の中央に、洗者聖ヨハネが人民を教え、そして自己に質問する人々に、善い意見を加えているところが書いて示してある。


上段の左方の角に書いてあるのは、キリスト教学校の教師が、その生徒を教育するところである。

◎不足な者に善い意見を加えること


第二の精神的慈善事業は、不足な者に善い意見を加えることである。


このことは、中段の左方に、洗者聖ヨハネが、ヘロデ王に向かって、「兄弟の妻を自分の妻としているのは、許されないことです」と申して、ヘロデ王の不品行を咎めているところを書いて示してある。

洗者聖ヨハネの殉教
イエズスの名が知れ渡って、ヘロデ王の耳に入った。ある人々は、「洗礼者ヨハネが死者のうちから生き返ったのだ。だからこそ、奇跡を行う力があの人の中に働いているのだ」と言い、またある人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と行っていた。ヘロデはこれらのことを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」と行った。このヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロデヤをめとり、彼女のことでヨハネを捕えさせ、牢屋につないだ人である。
ヨハネがヘロデに向かって、「兄弟の妻を自分の妻としているのは、許されないことです」と言ったためである。ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと望んでいたが、できなかった。
それは、ヘロデがヨハネを正しい聖なる人であると知って、ヨハネを恐れ、保護し、またその教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んでその言葉に耳を傾けていたからである。
ところが、ヘロデヤにとってよい機会が訪れた。ヘロデが自分の誕生日にあたり、文官や武官、またガリラヤのおもだった人たちを招いて、宴会を開いた。
そこに、ヘロデヤの娘が入って来て、踊りを踊り、ヘロデをはじめ、列席の人々を喜ばせた。そこで王はこの少女に、「ほしいものはなんでもあげるから言いなさい」といい、さらに、「あなたが願うものなら、国の半分でもあげる」とかたく誓った。それで少女が出て行き、「何を願いましょうか」と母に尋ねると、母は、「洗礼者ヨハネの首を」と答えた。
少女はすぐ、王のところに急いで戻って来て、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に乗せて、いただきとうございます」と願った。王は大いに心を痛めたが、列席の人々の前で立てた誓いの手前、少女の願いを拒否したくなかった。そこで、すぐに衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首をはね、その首を盆にのせて持って来て、少女にわたした。少女はそれを母に与えた。このことを聞いたヨハネの弟子たちは、その遺体を引き取りにやってきて、墓に葬った。
(聖マルコによる福音書 第6章14節ー29節)  引用おわり

10
下段の左方に書いてあるのは、新聞の売り子が、悪い新聞雑誌に反対して、人民にまことの宗教を知らせる善い新聞を売っているところである。

◎悲しむ者をなぐさめること

11
第三の精神的慈善事業は、悲しむ者をなぐさめることである。

12
このことは、イエズスが、ナイムの寡婦をなぐさめ、そのひとり子を復活させ給うところを書いて、示してある。

13
上段の右の方の角には、一人の青年がその家を離れようとして天に指さし、我らの相会う所はかしこであると言って、その弟を慰めてるところが描いてある。

◎生ける者と死せる者のために祈ること

14
第四の精神的の慈善事業は、生ける者と死せる者のために祈り、かつ祈らせることである。

15
このことは、下段の真ん中に、ユダ・マカベが飢え死にした者らのために、全軍隊とともに祈っているところが描いて示してある、またユダは祈りののち寄付金を募り、これをイエルザレムの聖殿へ送って、死者の罪のために生贄を捧げて貰ったのである。マカベ後書十二章四十三節以下参照

16
下段の右の方の角には、一人の女がすでに死した親戚のために、墓で祈っているところが描いてある。







公教要理図解:第65図 肉身的慈善事業

2022-08-07 03:58:01 | 要理(カテキズム)
「第65図 肉身的慈善事業」『公教要理図解』ワグネル神父

◎絵の説明


慈善とは、他人の不幸に同情し、かつ、これを慰め助ける徳である。


慈善事業には、肉身的、精神的の2種がある。


肉身的慈善事業とは、他人の肉身を扶助する事業である。


肉身的慈善事業のうち、主要なものは、
貧民の救助、
病人の訪問、
旅人の優待、
死者の埋葬
などである。


この図には、肉身的慈善事業が書いてある。

◎貧民の救助のこと


第一の肉身的慈善事業は、貧民を救うことである。


上段に書いてあるのは、預言者エリヤが、サレフタの未亡人の油と小麦粉をふやすところである。
この事柄は、次のとおりである。

イスラエル国が飢饉で非常に困っていたとき、エリヤは天主の御命令によって、シドンの国の、サレフタへ行き、市街の入り口に着いたとき、枯れ木を拾っている一人の寡婦に出会った。エリヤは未亡人を呼び止めて、
「のどが渇いたから、水を一杯ください。」と申した。
寡婦は水を汲みに行こうとすると、
「どうか、パンも少し持って来てください」とまた申した。
寡婦はこれに答えて、
「あなたの神なる主は祝せられ給え、わたしの壷の中に掌に入るほどのすこしばかりの麦粉と、瓶の中に少しの油しかありません。
 私は、わたしの子と共にそれを食べて、後は飢え死にする覚悟でそのパンを作ろうとおもって、今、枯れ木を拾いに来たのです」
と言いました。
エリヤが答えるには、
「心配せず、あなたが言ったとおりにしなさい。
 しかし、その前に、私のために、そのすこしの麦粉で小さいパンを作り、灰の下でこれを焼いて、持って来てください。
 そうしてから、あなたとあなたの子のために、パンを作りなさい。なぜならば、イスラエルの神なる主は、『主が地上に雨を降らせ給うその日まで、この壷中の麦粉は決して尽きず、小さき器の中の油は決して減らない』」と申したが、果たしてそのとおりになった。

8 
この歴史談は、天主が、貧民に対して愛徳を行う者に、時によっては現世の利益をもってさえ、御報いになるということを教えるのである。


上段の左方の角に書いてあるのは、ひとりの婦人が、貧しき者に施しをするところである。

◎病人の訪問

10
第ニの肉身的慈善事業は、病人を訪問することである。

11
このことは、左方に、福音書中の善きサマリア人をもって現してある。我が主イエズス キリストがおっしゃった。

善きサマリア人のたとえ話(聖ルカ福音書 第10章25節ー37節)
ひとりの律法の専門家が立ち上がり、イエズスを試みようとして、
「先生、永遠のいのちをいただくためには、何をしなければなりませんか」と言った。
そこでイエズスは
「律法にはなんと書いてあるか。
 あなたはどう読んでいるのか」と仰せになった。
彼は答えて、
「『心を尽し、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛せよ
  また、隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります」と言った。
イエズスは、
「あなたの答えは正しい。
 それを実行しなさい。
 そうすれば、生きるであろう。」
と仰せになった。すると、彼は自分の立場を弁明しようと思って、イエズスに
「わたくしの隣人とはだれですか」
と言った。イエズスはこれに答えて、次のように仰せになった。

「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗に襲われた。
 彼らはその人の着物をはぎとり、打ちのめし、半殺しにしたまま行ってしまった。
 すると、一人の祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見て、道の向こう側を通って行った。
 また、同じく、一人のレビ人も道の向こう側を通って行った。
 ところが、旅をしていたあるサマリア人が、その人のそばまで来て、その人を見て哀れに思い、近寄って、傷口に油とぶどう酒とを注ぎ、
 包帯をしてやった。
 それから、自分のロバに乗せて宿屋に連れて行き、介抱した。
 その翌日、サマリア人はデナリ銀貨2枚を取り出して宿屋の主人に渡し、
 『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰って来たときに支払います。』と言った。
 さて、あなたはこの3人のうち、だれが、強盗に襲われた人に対して隣人としてふるまったと思うか。」

律法の専門家が
「あわれみをほどこした人です」
と言うと、イエズスは、
「では、あなたも行って、同じようにしなさい」
と仰せになった。(ルカ福音書引用終わり)

12
下段の左方の角に書いてあるのは、一人の博愛会童貞女が、病人を看護しているところである。

◎旅客の優待

13
第三、肉身的慈善事業は、旅客を優待することである。

14
このことは、下段に、アブラハムが、ソドムとゴモラとを滅ぼしに行く天使等をもてなすところが書いて示してある。
(創世記第18章参照)

15
下段の右方の角に書いてあるのは、修士が旅客を優待するところである。

◎死者の埋葬

16
第4の肉身的慈善事業は、死者を埋葬することである。

17
このことは、中段の右方に、トビヤが、自分とともに捕虜となった同国人の一人を埋葬しているところを書いて示してある。
(トビヤ書参照)

18
上段の右方の角に書いてあるのは、一人の司祭が、唯今埋葬した死者の上に、聖水を注ぐところである。







公教要理図解:第64図 福音的徳(謙遜、清貧、貞節、従順)

2022-07-24 02:51:44 | 要理(カテキズム)
「第64図 福音的徳(謙遜、清貧、貞節、従順)」『公教要理図解』ワグネル神父

◎福音的徳


福音的徳とは、枢要徳に附属するもので、福音書中において、特に奨励された徳である。


福音的徳には、謙遜、清貧、貞節、従順の4つの徳がある。

◎謙遜のこと


謙遜とは、己の欠点を認め、かつ、己の持っているいささかの善を、わがものではなく、天主のものと思わせる徳である。

◎清貧のこと


清貧とは、我らの精神を、天主のみに向かわせる為に、この世の財宝を軽んじさせる徳である。

◎貞節のこと


貞節とは、禁じられた肉情を避け、赦された肉情であっても、その度を過ごさぬように致す徳である。

◎従順のこと


従順とは、すべての長上の者を、天主の代理者であると思い、その正しい命令に、服従させる徳である。


今述べた4つの徳は、キリスト教の完徳の基礎と言って、完全なるキリスト信者になりたいと思う人の守るべき道である。
しかし、ここによく注意すべきことがある。それは、イエズスキリストが、この4つの徳を超自然徳と為し、完全に守るように教えて下さったのは、命令的に、すなわち、キリスト信者が皆是非守らなければならないとして教えてくださったのではなく、ただ、守るがよいと、勧めてくださったにすぎないのである。それゆえに、天主から特別のお招きを受けた人だけは、イエズスキリストのこの御勧めに従い、人並みに優れたほど以上の4つの徳を行うために行者となるのである。行者または修道士とは、謙遜の徳を始終守る決心の上に、3つの願を立てた人である。
その3つの願とは、すなわち、
(1)貧乏で暮らすこと(清貧の願)
(2)完全なる貞操すなわち童貞を守ること(不犯の願)
(3)長上の命令に従うこと(従順の願)
である。


福音書中に、イエズスキリストが、一人の青年を、完徳の道に招き給うたことが記してある。

 一人の重立ちたる者、イエズスに問いて、善き師よ、我何をなしてか永遠の生命を得べき、と言いしかば、イエズスのたまいけるは、何ぞ我を善きと言うや、神ひとりの他に善きものはあらず、汝は掟を知れり、すなわち殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗みするなかれ、偽証するなかれ、汝の父母を敬え、とこれなり、と。彼、幼年よりことごとくこれを守れり、と言いしに、イエズスこれを聞きてのたまいけるは、汝、なお一つを欠けり、ことごとく汝の持てる物を売りて、これを貧者に施せ、しからば天において宝を得ん、しかして後、来たりて我に従え、と。これを聞きて、彼いたく悲しめり、そは富豪なればなり。イエズス、彼が悲しむを見てのたまいけるは、富める者の神の国に入るはいかに難きぞや、けだし駱駝が針の穴を通るも、富者が天国に入るよりは易し、と。これを聞ける人々、しからば誰か救わるることを得ん、と言いたるに、イエズスのたまいけるは、人に叶わざる事も神には叶うものぞ、と。

(聖ルカ福音書18章18節から27節まで)

◎絵の説明


上段の左方には、謙遜の一例として、洗者聖ヨハネのことが書いてある。ある日、ユダヤ人らは、エルサレムから司祭とレビ人等をヨハネのところへ遣わして、「汝は誰か」と尋ねさせた。ヨハネは、「私はキリストではない。エリヤでも、預言者でもない」と告白した。
よって、彼らはヨハネに向い、
「お前はキリストもなく、エリヤでもなく、預言者でもないのに、どうして洗礼を授けているのか」と申した。
そのときヨハネは、「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたが未だ知らない者が一人ある。その方は、私より後に来られることになっていて、しかも、私にまさる者である。私はその方の靴のひもを解く値打ちもない」と、彼らに答えた。

10
聖会のはじめごろの信者は、清貧の徳を完全に行った。土地家屋を持っている者は売り、その代金を、上段の右方に書いてあるとおり、使徒たちのところに持参し、これを受け取った使徒らは、さらにこれを 困窮する信者方に分配して配った。

11
下段の左方には、完全なる従順の一例として、ゼベダイの子、聖ヤコブと聖ヨハネとのことが書いてある。ある日、彼らがその網を繕っていると、イエズスがその所へお越しになって、「我に従え」と仰せられた。そのとき、二人は、ゼベダイ及び共に働いていた者等を、船の中に残して、ただちに我が主に従い、弟子となった。
(聖マタイ福音書第4章21節参照)

12
下段の右方には、潔白な心を殊に愛し給う、イエズスキリストと、そのおそばには、最も完全なる貞節によって著名である4人の聖人が書いてある。御主の右方の二人は、終生童貞なる聖マリアと、洗者聖ヨハネである。左側のは、聖ヨゼフと、福音史家聖ヨハネの二人である。




公教要理図解:第63図 徳 枢要徳(賢明 正義 武勇 節制)

2022-07-23 02:41:18 | 要理(カテキズム)
「第63図 徳 枢要徳(賢明 正義 武勇 節制)」『公教要理図解』ワグネル神父

◎枢要徳のこと


倫理上の徳とは、直接に自分の風俗を矯正し、自分の行状を正しくする徳である。


倫理上の重要な徳は、賢明、正義、武勇、節制の4つである。これを枢要徳という。


キリスト教外の哲学者は、この4つの枢要徳を自然徳と認め、かつ、教えた。しかし、キリスト教は、この徳を聖寵によって超自然徳と為し、これを堅固にして一層高尚な目的に赴かせたのである。

◎賢明のこと


超自然徳として、賢明は、我らの智慧を照らし、我らが救霊を得るために、最も確実な方法を選ばせる徳である。

◎正義のこと


超自然徳としての正義は、我らに天主に対する、また、他人に対する、尽くすべき義務を尽くさせる徳である。

◎武勇のこと


超自然徳としての武勇は、我らを激励し、天主がお命じになる一切の義務を、実行させる徳である。

◎節制のこと


キリスト教的の節制とは、どのような事物を使用するにも、その度を過ごさずにもっぱら質素を守るばかりではなく、余剰がでたとき、これらの事物が救霊の手段として与えられた事物なので、我らが最上の幸福をこれに求めてはならないということを教える徳である。

◎絵の説明


賢明は、上部の左方において、ソロモン王の有名な裁判をもって示されている。同じような幼子を持っている二人の婦人が、同じ家に住んでいたところ、ある夜、一方の幼子が不意に死んだので、おsの母親が隣に寝ているもう一人の婦人の幼子と、そっと取り替えて、生きた子を自分の子であったように自分の側に寝かしておいた。自分の子を取り替えられた母親はそれに気がついてソロモン王に訴えた。そこで、賢明な王は、生きた子の母親が誰なのかを試すために、「この子を二つに切って銘々に半分ずつ渡せ」
と命じられた。
すると、一人の婦人がそれを承知するのに、もう一人は、「どうぞこの子を殺さずに彼女に渡してください」と叫んだので、
王は、
「これは、真の母親である。彼女に生きた子を渡せ」
との裁判を下さったのである。(列王記 3巻3章16節以下)

絵に描いてあるのは、ソロモン王が玉座に着し、その前に二人の母親が呼び出され、死んだ幼子は王の足下に置かれ、一人の兵卒が剣をもって生きた幼子を今に切ろうとしているところである。


上段の右方は、イエズスキリストが、ファリサイ派とヘロデ党に、正義について教えておられるところである。
ある日、彼らは我が主を試みようとして、
「カエサルに貢を納めてもよろしいですか」
と尋ねた。
イエズスは、貨幣を出させて、
「この像と銘は誰のものですか」
と問い返されると、彼らは
「それは、カエサルのです」
と答えた。
その時、主は、
「それなら、カエサルのものはカエサルに還し、神のものは神に還せ」と仰せられた。

10
下段の左方は、ジュディト(ユディト、あるいはジュディスでも同じ意味)という女が、非常な武勇を現しているところである。
この女は、その住んでいるベツリアの市街が、アッシリア国の大将ホロフェルネスから攻め落とされそうになっているのを見て、我が故国を救うか、さもなければ自分は死ぬとの決心をした。そこで、ジュディトは、ベツリアの上に落ちかかっている不幸をのがれるような振りをなし、美服を着て、ホロフェルネスの陣に逃げ込んだが、大将はその美貌に見とれ、かつ、その話し方の賢いのに驚き、彼女のために大宴会を催し、非常に飲み過ごした。
宴会後、その室に残った者は、ジュディトと大将だけであった。ジュディトは、ホロフェルネスが大変に酔っぱらって、寝込んでいるのを見て、そのそばに掛けてあった剣をとり、大将の首をはね落とし、もって自分の国を救ったのである。

11
下段の右方には、ダビデ王の節制を示してある。ある日、王はベトレへムを占領しているフェリシテ人と戦った。そのとき、のどが非常にかわいたから、嘆息して、ああ、だれかベトレへムの門のそばにある井戸の水を汲んで来る者はいないのか、と叫んだ。すると、3人の勇士が、これを聞き、密かに言い合わせて、そっと我が陣を抜け出て敵陣に突撃し、九死に一生の中にその水を汲み取り、帰ってダビデ王に献じた。
ところが、王はこの3勇士が命がけで、汲み取った水を私が飲むのは勿体ないことであると言ってこれを飲まず、この水を天主に捧げてから、地上にまき散らしたのである。






公教要理図解:第62図 徳について 対神徳(信徳、望徳、愛徳)

2022-07-20 23:20:52 | 要理(カテキズム)
「第62図 徳について 対神徳(信徳、望徳、愛徳)」『公教要理図解』ワグネル神父

◎対神徳の事

1 
徳とは、我らをして常に悪を避け、善を行わしむる精神(こころ)の習慣性である。

2 
我らをして、ただ道理あるいは人情によって、善を行わしむる徳を、性徳と申す、例えば貧者は我が兄弟である、故にこれを助けねばならぬと道理によって知り、人情の上からこれに施しを致すのは、性徳を行うのである。


 超性徳と申すのは我らの力のみに寄らず、信仰から出る動機によって善を行わしむる徳である。例えば貧者に施しをする時に彼をイエズス・キリストの代わりであると思うて救うのは超性徳である。


 超性徳には、天主に対する徳と、倫理上の徳との二種ある。


 対神徳には、信、望、愛の三つある、この三つの徳を対神徳と申すわけは、直接に天主に対するからである。

◎信徳の事


 信徳とは、天主がお示しになり、また公教会をもって我らに教え給うすべての真理を、堅く信ずる超性徳である。


 天主は真理の源で、誤る事も、我らを欺く事もできぬお方であるから、そのお示しになったすべての真理を信じねばならぬ。


 信徳は救霊(たすかり)のため絶対に必要である、なぜなれば「信仰せざる者は罪せらるべし」と、イエズス・キリストが申されたのである。

◎望徳の事


 望徳とは、我らが天主から終わりなき命と、またこれを得るために必要な聖寵とを、必ず与えていただくいう事を、深く望む超性徳である。

◎愛徳の事

10
 愛徳とは、我らが万事に超えて天主を愛し、また天主のために他人をも自分のように愛する超性徳である。

11
 天主を万事に越えて愛すとは、いかなる被造物よりも、また自分よりも、天主を愛し、また天主に背くよりは、むしろ死ぬ方がましであると思うことである。

12
 我らが天主を愛すべき理由は左の通りである。
(1)天主は限りなき良善にして完全なるおん方である、
(2)天主はご自分を愛する事を我らに命ぜられたのである、
(3)天主は我らに絶えず大いなる恵みを賜る、
(4)死後にはいっそう大いなる恵みを与えるとのおん約束をなされた、
(5)我らがいかほど徳を積み、どんな善行を行うても、天主を愛する徳がなければ救われることができないのである。

◎絵の説明

13
 信徳は上段に、右の手に十字架を持ち、左の手には火のついた燭台を持てる乙女をもって表してある、十字架は救贖(あがない)の玄義が、我らの信ずべき主なる真理の一つである事を示し、灯火は信仰が霊魂を照らす光の如きものであるという事を示したのである。

14
 乙女の下には、アブラハムがその子イザアクを生贄にしようとしておるところが描いてある、アブラハムは、天主がかかる生贄をお命じになっても、多くの子孫を与えるとの、そのおん約束は必ずこれをお遂げになると信じて、その信徳を勇ましく表した。

15
 望徳は左の方において、右手に冠を持ち、左の手に錨を持てる乙女をもって表してある。冠は天国の栄えを示し、錨は天国の幸福を望む心を示すのである。そは錨が船を動かさせぬようにする如く、望徳は我らを世の波風に耐え凌がしむるのである。

16
 この乙女の下には、旧約時代のヨブが、頭から足の先に至るまで傷だらけになり、痩せ衰えて、家畜の敷き藁の上に横たわっておる、ヨブはこのような大いなる苦しみの内において、少しも失望落胆せず、却って「たとい神、我をして死せしめ給うとも、我はなお彼に頼らん」と、申して望徳を示した。

17
 右の方において、左の手にてその燃える心を見せ、右の手には聖体を載せたる杯を持てる乙女は、愛徳のかたどりである、燃える心は、我らが心を尽くして天主を愛さねばならぬという事を示し、杯と聖体は、我が霊魂の内に天主の愛を養う主なるものは聖体である、という事を示すのである。

18
 愛徳をかたどる乙女の下には、イエズス・キリストが、ファリサイ人シモンの家において、食卓についておられると、マリア・マダレナが、香油の器を持参して、み足に油を塗る前に、み足の元にひれ伏して、その涙をもってみ足を濡らし、その髪の毛をもってこれを拭うところが描いてある、イエズス・キリストは、シモンに向かって「我、汝に告ぐ、彼はおおいに愛したるによって、その多くの罪も赦さる」とのたもうて、マダレナの愛徳をお誉めになった。