カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

第17章 日本カトリック教会

2018-07-27 00:42:30 | 教会史
「第17章 日本カトリック教会」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

81
 日本にカトリック教会が設けられたのはいつからでしたか。

 聖フランシスコ・ザベリオが1549年8月15日に初めて鹿児島に上陸されたときからです。みおしえは、一時、非常な勢いで全国に広まりましたが、その後、はげしい迫害が起こり、そのためにほとんど全滅の不幸を見ました。
しかし、19世紀の後半に至って、めでたく復活いたしました。

82
 聖フランシスコ・ザベリオはどうして日本に布教を試みる気になられたのですか

 聖フランシスコがマラッカに布教しておられた1547年に、弥次郎という日本人が、その従者2人とポルトガル商人の案内で面会に参りました。
 聖人は、この日本人を、ゴアの聖信学院に送って教理を勉強させました。
そして、主従3人は、1548年、聖霊降臨の祝日に、ゴアの大司教の手によって洗礼を受けました。

 聖フランシスコは、弥次郎が利発で、よく道理をわきまえ、信心も堅固であるのを見て、日本への布教が有望であると思い、コスモ・デ・トレス師、フェルナンデス教弟、及び弥次郎主従と、別に中国人(支那)や、マラッカ人一名ずつを伴い、1549年6月24日、マラッカを出帆し、同年8月15日鹿児島に安着しました。

 約一年のあいだ、鹿児島にとどまり、それから長崎の平戸に赴き、平戸から山口を経て京都に上がりましたが、当時京都は戦乱のさなかであって、宗教の話などに耳を傾ける者などいませんでした。
ですから、山口に取って返し、領主、大内義隆の免許を得て布教に従事し、2ヶ月を経過しないうちに、500名の信者を得ました。

83
 聖フランシスコは長く日本に布教しましたか

 聖フランシスコは、1551年11月20日、日本を出帆し、インドに帰られました。しかし、コスモ・デ・トレス神父様と フェルナンデス教弟とがとどまって布教を続けました。増援の宣教師もだんだんと参りまして、布教は順調に進み、九州では大村、有馬、大友などの諸大名、近畿地方では、高山右近、内藤如安、小西行長、黒田孝高のような、有力な武将が信仰に入り、信者の数も、慶長の初め頃には、30万人に達しました。

84
 迫害はいつごろから始まりましたか

 織田信長は、仏僧等の横暴を憎んでいましたので、それだけ、宣教師たちに好意を寄せて、これを保護しました。

その後を継いだ豊臣秀吉も、初めは好意を持っていましたが、後で、キリシタンが盛んになったら、比叡山や石山本願寺のような勢力を得て、手におえなくなるのではあるまいかと気遣い、天正15年、宣教師追放令を発しました。
 しかし、このときは、宣教師たちが制服を脱いで俗服に着替え、聖堂の門を閉ざして、公の集会を開かず、ひたすら秀吉の命に服したかのような観を呈しましたので、秀吉も見て見ぬふりをして、全く追求しなかったものですから、布教の上に大した害はありませんでした。

 でも、天正18年(1592年)、フランシスコ会の宣教師がフィリピンから来て、秀吉の免許を得たと称して京都に乗り込み、聖堂を建て病院を設け、公然と布教を試み、イエズス会の宣教師や京都所司代から注意されても、すこしも意にかけないのでありました。
そのために、とうとう秀吉の怒りにふれ、フランシスコ会の修道士6名、イエズス会の日本人修道士3名、フランシスコ会の聖堂に出入りしていた信者17名、合計26名が京都、大阪で捕えられ、1597年2月5日、長崎の入り口にある西坂というところで十字架にはりつけられて、あっぱれな殉教を遂げました。

 終に、徳川家康は1614年に全国的禁教令を発し、2代将軍秀忠は父の志を継ぎ、3代将軍家光に至ると、前代未聞の大迫害を断行して、キリシタンを根こそぎにしようと働きました。

85
日本教会はどのようにして没落したか

 徳川幕府が日本教会を撲滅するが為に用いた残酷極まる方法は挙げて数えられぬ程です。
 最初は打ち首、十字架にはりつけ、火あぶりなどを用いましたが、後ではそれを手ぬるいとして、首以下を土の中に埋めて、竹ノコギリでその首を挽くとか、裸体にして熱湯を注ぐとか、寒中池の中に入れて凍死させるとか、穴の中に逆さ吊りにして幾日も幾日も棄て置いてもだえ死にさせるとか、血あり涙あるもの到底忍び得ないことを断行しました。
しかし、刑罰が酷烈であっただけ、宣教師や信者たちの殉教的精神は、いよいよ美しく発揮せられました。

 幕府がキリシタンを滅ぼすために用いた方法は、刑罰ばかりではありません。
 また、5人組の制度を設け、組中からキリシタンが発見されたら、組全体を処罰することにし、キリシタン訴えの高札を立てて、彼らを告発させ、踏み絵の制を定め、棄教者に聖像を踏ませて、その棄教の偽りないことを証明させ、寛永18年頃から、キリシタンを発見するが為にこれを利用しました。

 寛永14年10月(1637年)、島原と天草とに、容易ならぬ騒ぎが起こりました。
 それは、島原の領主、松倉重次、天草の領主、寺沢堅高の無理な取り立てに人民がたまりかねて起こした一揆であったのです。
そして、当時、彼らは信仰を棄てて仏教徒になっていたのですけれども、いよいよ命がけとなりましたので、再びもとの信仰に立ち帰り、そのために「キリシタン一揆」と言われるようになりました。
しかし、彼らはキリシタンであるがゆえに一揆を起こしたのではなく、一揆を起こした彼らがキリシタンであったに過ぎないのです。

 宣教師は自国政府の手先で、宗教を説いて人民をなづけ、機の熟するを待って軍兵を送り、これを占領するのだ、その証拠は島原の乱にあり、と知識階級の人が言い立てるのですが、しかし、島原の乱徒は決して外国政府と何らのわたりをもつけず、また、外国側の助けをも期待してはいません。
 かえって、幕府側こそ、オランダの助けを懇請して乱徒を攻撃したのであります。

86
 日本カトリック教会はいつ復活しましたか

 幕府は鎖国令を敷き、支那人とオランダ人とを除き、そのほかの外国人は一人も日本に入れないことをして、ついに日本教会を絶滅させました。
しかし、安政5年、アメリカにせまられて国を開き、居留地にはキリスト教の礼拝堂を建設することを許しましたので、フランス パリの外国宣教会所属プチジャン神父様は、慶応元年長崎に26聖殉教者聖堂を建立いたしました。
 すると、同年3月17日、北隣の浦上から14、5人の見物人が参りまして、
「私どもは貴師様と同じ心でございます」
と打ち明け、
「サンタ マリアの御像はどこ?」
と問いました。
それにつづいて、200年来あの地方に隠れていた幾万のキリシタンが次から次へと名乗りでました。

 しかし、まだ、迫害令は撤去されていません。
慶応3年(1869年)7月、浦上の戸主、114名は、萩、津和野、福山に遠流され、越えて明治2年12月、遺族家族及びその他全村の信者3400人以上が全国22藩に追放され、3ケ年半にわたって餓え、渇きに苦しみ、虐待に泣き、あらゆる辛酸をなめ、明治6年(1873年)に至って漸く放免となり、帰郷を赦されました。

 浦上のキリシタンの他に、平戸、五島、大村、肥前藩等のキリシタンは、いずれもその藩、その藩において過酷、残虐な迫害を浴びせられたものであります。

結び--

 長崎県のキリシタンが一切をなげうって信仰を固守し、いかなる弾圧にも屈しなかった結果、明治6年からキリスト教は黙許となり、正教会でも、プロテスタント教会でも、その余恵にうるおうことができました。
終に、明治22年2月11日に発布された明治憲法によって、不完全ながらも信教の自由が赦されることになり、明治24年日本教会には階級制度がしかれ、東京大司教区、及び大阪、長崎、函館司教区が新設されました。

 1945年、終戦後、完全なる信教の自由が保証され、求道者は教会の門にあふれ、教会の面目も一新されつつあります。1949年の今日、信徒数は11万人にのぼっています。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

第16章 19世紀と20世紀

2018-07-26 04:40:31 | 教会史
「第16章 19世紀と20世紀」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

75
 フランス革命の後、聖会はどのように立ち直りましたか。

 革命騒ぎはフランスから四隣の国々に広まり、色々の政治的変動が起こり、それが聖会に種々の影響を及ぼしましたが、しかし、聖会は次々にその難関を切り抜けて、雄々しく立ち直りました。

 まず、フランスでは、ナポレオン1世が政権を握るや、国内を平和に一致させるためには、カトリック教会を復興するより外に道がないことを悟り、教皇ピウス7世と談判し、一個の協約を結び、教会から奪った財産はそのまま返さない代わりに、聖職者には一定の俸給を払うことにしました。
 ナポレオンは、「宗教なき社会は羅針盤なき船の如し」と言っていましたが、
しかし、ナポレオンは、聖会でも、教皇でも、自分の政策を遂行するために利用したいということしか考えていないのでした。
教皇が彼の野望の道具となることを拒絶するや、兵を遣わしてローマを占領し、
教皇を捕えてフォンテヌブローに幽閉しました。(1812ー1814年)
それから間もなく、50万の大群を率いてロシアに攻め入り、さんざんに敗北して教皇を囚えていたその同じフォンテヌブローで、自分の退位書に署名させられました。

77
 イタリアでは何事が起こりましたか

 これまでイタリアは、いくつもの小さな国に分かれていたのですが、革命党員等はピエモン王を担いでイタリアの統一を謀り、すべての小国を占領した上で、教皇領に迫り、1870年にはローマを奪ってこれを新イタリア政府の首府としました。教皇ピウス9世はローマの一角、ヴァティカン内に閉じこもり、イタリア政府と関係を絶って、最近に及びました。

78
 その他の国々には何事が起こりましたか

 ドイツのビスマルクは、文芸闘争を起こして、カトリック教会を圧迫し、司教や司祭を牢獄に叩き込み、自分の意のままにあごの先で遣い回そうとしましたが、それもとうとう失敗に終わり、教皇レオ13世の前に兜を脱ぎました。

 200年来、カトリックを厳禁していたイギリスも、1929年にはカトリック解放令を発して、その自由を認めました。その他、オランダ、スイスなどでも、政府の圧迫が緩むとともに、カトリック教会はメキメキと立ち上がってきました。

 ついに、1869年ローマに開かれた(第1)バチカン公会議では、「教皇は教皇の資格をもって信仰道徳の問題を定めるとき、謬ることが出来ない」と定義しました。

 しかし、この都市、フランスとドイツとの間に戦端が開かれ、フランスの守備兵がローマから引き揚げたのを好機失うべからずとして、イタリア軍はローマに迫り、ローマを占領しましたので、ヴァティカン公会議は中止となりました。

79
 19世紀には、どのような誤謬説がはびこりましたか。

 反宗教的思想は相変わらず衰えませんでした。
科学をもって、宗教に代えようとはかり、科学さえあれば宗教なんか必要ない、宗教は科学の敵、それこそ灰色の老人だ、一日も早く葬り去れ、と叫びました。
しかし、その科学は悪人に利用され、今まで見たこともない大仕掛けな悪事を働く道具となりました。

 科学崇拝者の外に、反宗教的新聞、秘密結社等が至るところに起こり、カトリック教会を覆そうとして、力の限り働きました。
 特にフランス、スペイン、ポルトガル等のカトリック国では、政府は皆、秘密結社のあやつり人形となり、陰に陽に教会いじめをやりだし、フランスでは1905年、ナポレオンの時に成立した協約を一方的に廃止して、政教分離を断行し、さして多くもあらぬ教会の財産を巻き上げてしまいました。
 しかし、そのためにフランス教会は政府の干渉を免れ、自由に活動の手を振るうことができるようになりました。

80
 20世紀の聖会は、どのような活動を続けていますか。

 20世紀を18世紀と比べるならば、聖会の状態は全く大転回をしていることを見るのです。
 なるほど、無知の大衆が宗教的無関心に陥っているとは否定できませんが、しかし、選り抜きの著作家、博識の学者、奥深い思想家などは、多くキリスト教に復帰しました。特に、第1回、第2回の恐るべき世界大戦の苦い経験によって、長い夜の眠りを醒し、幼児の信仰に立ち返った人はおびただしいものであります。

 なお、教育事業、博愛事業を目的とする修道会が多く設立され、聖徳高い偉人もあまた輩出しました。そのなかでも、聖ヴィアンネ、幼きイエズスの聖テレジアは、世界的に尊敬されています。

 布教事業も従来に見ないほど盛大となり、北アメリカ、イギリス、オランダ等にはカトリックの勢力がムクムクと揚がってきました。

 カトリック教会の長い歴史の間に、現代ほど教皇が尊敬されたこともなく、現代ほど信徒がよく一致団結していることもありません。
 特にイタリアでは、66年来の非行を改めまして、1929年2月21日、教皇とラテラノ条約を結び、教皇をヴァティカン市国の独立君主と認め、また、同時に和親条約を結んでイタリア内ではカトリック教会がその精神的権利を完全に実行することができるように定めました。

 結び--
 20世紀において聖会は、よくその剛健にして結実豊かな偉観を呈しています。過去はその将来を保証することを思いますと、我等はいよいよ希望に満ちた前途を仰ぐことができます。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

第15章 17世紀、18世紀

2018-07-25 00:29:10 | 教会史
「第15章 17世紀、18世紀」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

70
 第17世紀、第18世紀は、どのような世紀でしたか。

 フランスにおける第17世紀は、偉大なるキリスト教的世紀でしたが、第18世紀は反キリスト的で、大崩壊をはらんでいるのでした。

71
 どうして第17世紀を偉大なる世紀と呼ぶのですか

 前世紀の中頃に行われた改革はその実を結び、17世紀に実に、信仰と聖徳との偉大な世紀となるきっかけとなりました。
聖人を挙げますと、前に申しましたサレジオの聖フランシスコは、ジェノバの司教でしたが、すばらしい柔和と深い学識によって多くのプロテスタントを改宗に導き、愛徳の姉妹会の創立者聖ヴィンセンシオ・ア・パウロは博愛慈善の天使として大車輪の活動をつづけ、聖ヨハネ バプチスタ・ド・ラ・サールは、キリスト教教職会を創立して、小学教育の先駆者となりました。

 その他にも、キリスト教の擁護に当たったのは、大雄弁家ボスエ、フエヌロン、ブルダルー、マッションをはじめ、名声かくかくたるパスカル等であります。

 国内の空気がキリスト教的でしたから、大罪人はその罪を償うために大いなる苦行をしました。大文豪コルネイユは所属協会の理事をつとめ、悲劇の大家ラシーヌは詩篇を翻訳し、回心者ジャヌ・ド・ランセは粛なトラピスト会を創立しました。

72
 表面はそう輝かしくても、また暗い影もありませんでしたか。

 それはもとよりありました。
まず、ヤンセニウスの異端がオランダに起こり、フランスに広まり、天主の愛と慈悲とを狭め、天主は厳烈おそるべきもの、人はふるえおののきつつ天主に近づかねばならぬ、罪の償いは随分と長く続け、聖体は至極まれに拝領すべきもので、それには長い長い準備を要すると主張して
人々を秘跡より遠ざけ、それだけ信者の信仰を冷まし、非常な危害を及ぼしました。

73
第18世紀に聖会はどのような困難に見舞われましたか。

 心の腐敗より不信仰が生まれてきました。
それは、プロテスタント派より起こった当然の結果で、カトリック教会を最も残酷に迫害したイギリスに起こりました。
 その賛成家は、唯理主義者とか、理神論者とか、自由思想家、または唯物論者とか呼ばれ、後では集まって秘密結社を組織しました。
この秘密結社は博愛、慈善を表看板にしていますが、実は宗教を滅ぼし、国家社会を叩き潰すのを目的としているのであります。

 この不信仰思想は、イギリスからフランスやドイツに流れ込みました。
フランスでは、ダランベールとかディドロとかいうような哲学者たちが盛んに不敬神きわまる言論をもてあそび、ヴォルテールなどは、「嘘をつけ、いつでも嘘をつけ、醜類(教会)を叩き潰せ」と叫び、聖会に向かって口からでまかせの悪口雑言をならべたて、ルソーは宗教、道徳、教育等について、とんでもない誤謬説をまき散らしました。

74
 そうした不信仰より何が生まれましたか。

 宗教の基礎をなぎ倒した不信仰者たちは、それとともに社会の根底をもくつがえしました。混乱はどうせ免れ難く、大革命、大恐怖が起こったのは怪しむに足りません。

 フランス革命は、1789年、自由の名をもって開始され、10年間の久しきわたって迫害の大暴風を巻き起こしました。

 はじめ、離教的憲法を発布して、聖職者を教会から引き離そうとしました。(1790年)しかし、大部分の司祭はそれに服さなかったので、終にはカトリック教会を廃絶して、司祭や修道者はドシドシ断頭台(ギロチン)に送り、聖堂を閉鎖し、その財産を没収してしまいました。

 このようにして、無宗教家がフランスを支配し、数ヶ月の間に働いた彼らの暴行、崩壊は、蛮族の軍隊が10年間も暴力をふるった以上でありました。

結び--
 このように、宗教に忠であると否とは、国家社会の為に死活問題です。天主なき社会は、死滅するのみであります。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

第14章 プロテスタント主義と宗教戦争(16世紀)

2018-07-24 04:09:21 | 教会史
「第14章 プロテスタント主義と宗教戦争(16世紀)」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

65
 聖会はそれらの腐敗や不道徳を改めるべく力を尽くさなかったのですか

 文芸復興(ルネッサンス)の結果、人々は異教主義に流れ、不道徳に陥りましたので、その改革を図るために、聖会はずいぶん骨を折りました。
もっともプロテスタントの異端に妨げられて、思いのままに改革の斧を振るうことができないこともありました。しかし、「雨振って地固まる」ということわざのとおり、今までの腐敗分子は、先を争ってルター等の傘下に馳せ集まったので、それだけ清い、朗らかな世界を現出させることができるようになりました。

66
 プロテスタントの異端とは、どんなものですか

 プロテスタントの異端は、まず、ドイツのマルチン・ルターが唱えたものであります。ルターは、アウグスチン会の修道司祭で、熱情的な雄弁家でした。
情欲を原罪と思い誤り、洗礼の後にもなお情欲がなくならないところから、「人間は原罪のために全く腐敗している。何らの善業をもなすことはできない。ただ、キリストの功徳に覆われて、その腐敗が天主の御目に見えないまでのことだ。そして、キリストの功徳をこうむるには、信仰さえあれば、それでよい。つまり善業なんか無用の長物だ」と主張しました。
ルターにおだてられて、ドイツには激しい内乱が起こり、学問は衰え、道徳は腐敗しました。ルターの異説は、今もドイツ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー等に行われています。

67
 フランスにはどのような異端が起こりましたか

 フランスとスイスには、カルヴィンが同じような異端を広めました。
ただ、彼はルターよりも一歩先へ進み、聖体内におけるキリストの実在や、司祭職をも認めず、人が救われるのも滅びるのも、その運命は永遠よりきまっているのだ、という予定説を唱えました。カルヴィンの異端は、主としてスイス、フランス、オランダ、スコットランドに行われています。フランスでは彼らは勢力を得るに従い、国王に背き、国の中に国を建てようとして、為に宗教戦を巻き起こすこと36年間に及びました。
プロテスタント派であったアンリ4世が国王となったとき、国民の大部分は、異端者を国王に戴くのを肯んぜず、飽くまでこれを排斥しました。
1593年アンリがついに異端を棄て、カトリック教会に立ち返ったとき、はじめて武器を棄てました。

 この戦争中に起こった聖バルトロメオ虐殺は、母后カタリナ・デ・メディチが、プロテスタント派の水師提督コリニを片付けるが為に企てた全く政治上の話で、宗教には直接関係がないのです。

68
 イギリスのプロテスタントはどうして起こりましたか。

 イギリスでは国王ヘンリー8世が正妃カザリンを離婚して、宮女アン ブーリンを容れようとした時、教皇が許可しなかったので、王はローマと手を切り、国民をその道連れにしました。次王エドワルド6世のとき、離教は一歩進んでプロテスタント派の異端となり、エリザベス女王は国民に無理非道な圧迫を加えてこれを採用させました。ただアイルランドだけはカトリック信仰を固く執って動かず、為に世界史上まれにみる苛酷な暴圧をこうむり、土地は奪われ、権利ははがれ、貧困のどん底に投げ込まれたのであります。

69
 カトリック側の改革はどのようにして行われましたか

 プロテスタント者は自分等の運動を「宗教改革」と称し、教会の弊害を矯め直すという口実の下にキリスト教会の滅びを来すようなことをしたのでした。
ほんとうの改革は、カトリック教会の手によって行われたのです。
まず、トリエント公会議(1545-1563年)は、異説を排斥するとともに、カトリックの教義を明確に定義し、また、弊害を矯め直すがために、各種の条令を発布して、いちいちそれを実行に移させました。

 次に各種の修道会が新たに創設され、また、古くからの修道会はその規律を厳粛にして面目を一新しました。

 なお、プロテスタントの離反によって、ヨーロッパで失ったところは、アジア、アフリカ、アメリカの布教によって優にこれを回復しました。
ドミニコ会の宣教師たちが、インドで洗礼を授けたのは、6万人以上に昇りました。フランシスコ会の修道士たちはコロンブスに従ってアメリカに渡り、100万人以上の信者を作りました。
 ドミニコ会も同じくアメリカで大きな働きをしました。
 同会出身のバルトロメオ・デ・ラス・カサス司教は、征服者スペイン人に対して、原住民を擁護するが為に5回もスペインにかえって国王に訴えました。
イエズス会の修道士は、南米ブラジル、中国、日本にキリスト教を広め、盛大な教会を築きました。
「十字架の外に寸鉄をも帯びずして野民を文化に導くより、宗教の為に大なる名誉はない」と、17世紀のブッフォンという学者は言っています。

 終に、有名な聖人が競い起こって教会の粛正に当たりました。
教皇には聖ピウス5世があり、司教にはミラノの聖カロロ・ボルメオ、サレジオの聖フランシスコがあり、その他、ネリの聖フィリッポ、十字架の聖ヨハネ、聖女テレジア、イエズス会の創立者ロヨラの聖イグナチオ、キリスト教青年の模範たる聖アロイジオ・ゴンザガ、インド、日本の使徒にして、布教の擁護者である聖フランシスコ・ザベリオ、公教要理問答書を著して、プロテスタント派の発展を食い止めた聖ペトロ・カニジオ等がありました。

 結び--
 プロテスタント派は凄まじい嵐を16世紀のヨーロッパにひきおこし、カトリック教会はそれに巻き込まれてしまうのではないかと思われましたが、しかし、その嵐を切り抜けて顕われ出た後の教会は、一層強大となり、すっかり浄化されていたのであります。

第13章:15世紀の聖会

2018-07-22 00:38:21 | 教会史
「第13章:15世紀の聖会」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

61
15世紀はどのような時代でしたか。

フランスはその使命を裏切り、為にイギリスとの間に百年戦争が巻き起こり、国家は存亡の危機に陥りましたが、ようやく、ジャンヌ・ダルクにより救われました。他の国々、特にイタリアには、文芸復興(ルネサンス)の花が咲き、やがてはプロテスタントの先駆者も顕われて、宗教界も多事になってまいりました。

62
ジャンヌ・ダルクの使命をお話ください

百年戦争とは、1337年から1453年まで、フランスとイギリスとの間にくりかえされた戦争です。フランスは連戦連敗、国家は今にも滅亡せんばかりとなりました時、天主は聖女ジャンヌ・ダルクを起こして、困難を救わせなさいました。聖女は17歳の田舎娘でした。
「往って国家の急を救え」という天の御声を幾度も幾度も聞き、終に起って国王シャール7世に拝謁して、自分に授けられた天の使命を信じさせました。
そして、一隊の兵を授けられて、11ケ月前からイギリス軍に包囲されていたオルレアン城をわずか3日で救い、それからレンヌにおいて国王シャール7世に戴冠式を挙げさせました。

しかし、ジャンヌ・ダルクは、コンピエヌ城外でイギリスの興党たるブルゴーニュ軍と戦ってその虜となり、イギリスに売り渡されました。
イギリス人は、宗教裁判の判事等を買収して、ジャンヌ・ダルクに、魔法使いと異端者の罪をきせ、1431年5月3日、ルーアン市において火刑に処しました。

しかし、聖会は久しからずしてこの判決を破毀し、1920年に至って、ジャンヌ・ダルクを聖人の列に加えました。
ジャンヌ・ダルクは、フランスをイギリス人の手より救うとともに、また、イギリスが間もなく陥ったプロテスタント派の禍いより、フランス国民を救った訳であります。

63
他の国々もカトリック教会によってどのような恩恵をこうむりましたか。

他の国々も、種々の恩恵をこうむりました。
まず、宣教師たちは、東洋の発明品を西洋に携え帰るとか、アジアの地理、歴史、風俗、習慣などを明らかにするとかして、大いに人々の見聞を広くしました。

教皇がイタリアに帰りましてから、教皇、司教たちの奨励によって、昔のギリシア、ローマの文学、美術の研究が盛んになり、「レオ10世の世紀」と呼ばれる文芸復興期を現出せしめるに至りました。
「神曲」の著者ダンテ、画家フラ・アンゼリコなども文芸復興のさきがけをした人たちで、後には、ミケランジェロ、ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ など、著名な画家や、彫刻家がぞくぞく輩出しました。ローマの聖ピエトロ大聖堂もこの時代に建てられたのであります。

スペインでは、クリストフス・コロンブスが宣教師たちの前例に動かされ、フランスの枢機卿、ピエルダイイの著書に導かれてアメリカを発見しました。

コロンブスは、新世界の一島に上陸するや、真っ先に十字架をたて、その島をサン サルバドル(聖救世主)と名付け、その地をキリストに献げ、教会の指導に委ねました。

ドイツでは、グーテンベルクによって活版印刷術が発明されました。
そして、その新発明を礼讃し、支持したものは、司教、司祭、修道士であったのです。

しかし、活版印刷術は、また多大の危害をも来しました。「書籍や新聞の記事は、時として泥棒や殺人よりも悪いものだ」とフランスの哲学者ヒユイエは言っています。一利一害は免れ難いものです。よって、聖会は禁書目録を作って、取り締まりを厳重にしました。

64
プロテスタント派のさきがけをしたものは誰々でしたか

アヴィニヨンの遷居につづいて大離教さわぎとなり、人々は声を大にして教会の改革を叫び出しましたその改革を叫んだ人々の中に、イギリスのジョン・ウィクリフや、ボヘミア(チェコ国)のヨハネ フスというような司祭がいました。
彼らは教皇の権威に反抗してまで教会の改革を図ろうとし、後日、ルターやカルヴィンの口にしたような異説をとなえました。
幸いにそれは成功しなかったけれども、ルター等の先駆者となったことだけは確かであります。

結び--
不幸にして、活版印刷術の発明や、新世界の発見や、文芸復興やらは、不道徳、不信仰をもたらす機会となり、世はこぞって異教主義に後戻りするかとも思われました。




よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。