『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
16 オスマン・トルコ
3 ビザンチン(東ローマ)征服
しかし、バルカン半島をおさえていたオスマン国は、メフメト一世(一四一三~二一)のもとに不死鳥のごとくよみがえり、一代おいてメフメト二世(一四五一~八一)が即位した際には、その勢力はバルカン半島と小アジアの大部分とに確立されていた。
そしてビザンチン(東ローマ)帝国は、その脅威の前におののいていた。
いまやメフメトは、その首都たるコンスクンチノープル攻略にふみきる。
それは曾祖父バヤジットが、果たそうとしてなしえなかったものである。
かつてバヤジットは、ボスフォラス海峡のもっともせばまっているアジア側に、「アナトリア(小アジア)城塞」を構築していた。これに向かいあって、メフメト二世は、ヨーロッパ側に「ルーメリア城塞」を造営した。
東ローマ(カソリック)とトルコ(イスラム)のコンスタンチノーブルの戦い
これはキリスト教とイスラム教の戦いであった。トルコ側は船を陸路で運び東ローマを破った。
なお、コンスタンチノーブルは現トルコのイスタンブールで、黒海の入口の街である。
ビザンチン帝国の援軍が、黒海方面からくるのを阻止するためであった。それとともに、かれは首都アドリアノープルで多数の巨砲を鋳造し、牛にひかせてコンスタンチノープル城外まではこんだ。
一四五三年四月のはじめ、二十万のトルコ陸軍、四百隻からなるトルコ艦隊が、コンスタンチノープルの前に姿をあらわして、これを陸海から包囲攻撃した。
トルコ軍の砲火は城壁の随所に突破口を開いたが、これらはすぐさまペネチア兵をふくむ守備軍の手で閉ざされてしまった。
戦闘はいつ果てるとも知れなかった。
そこでメフメトは、奇想天外ともいえる一計を案じた。
ボスフォラス海峡の一つの入江から、ガラタ地区の背後をまわって金角湾に出る間の、ほぽ四・八キロの陸路にそって、艦隊の一部を運搬しようとしたのである。
このときの艦艇の数は、およそ七十隻といわれている。
このような大艦隊の運送計画が、どのようにして実行されたかについては、いろいろな説がある。
それも、地ならしした道路の上に、オリーブ油や獣脂をぬった板をしきつめ、人力を使って艦隊をロープでひき、けわしいところでは牛をもちい、また風力も利用して、その上をすべらせていった、というのが真相らしい。
こうして、四月二十一日の夜ふけてから二十二日の未明にかけて、トルコ艦隊は隠密のうちに、ボスフォラス海峡から陸上輸送され、金角湾に投錨するにいたった。
現有艦隊のすべてを金角湾のなかに退避させて、湾を鉄の鎖でとざし、安心しきっていたビザンチン側にとっては、まさに寝耳に水であった。
かれが早朝、朝日に映え、舷舷相摩(げんげんあいま)する艨艟(いくさぶね)の姿を金角湾上に見たときの驚きと怖れとは、想像にあまりある。
とくにビザンチン側が、金角湾の方面からの攻撃をまったく予想していなかったとすれば、艦隊を陸上から迂回した作戦が、コンスタンチノープルの占領には果たした役割は、かぎりなく大きい。
戦闘は五十余日にわたってつづいたが、結局オスマン軍は東方の突破口からなだれをうって乱入し、皇帝コンスタンチヌス十一世は市街戦で戦死したと伝えられる。
弱冠(じゃっかん)二十四歳のメフメト二世は、一四五三年五月二十九日、白馬にうちまたかって軍団をしたがえ、威風堂堂とコンスクンチノープルヘ入城した。
こうして一千余年の歴史をもつコンスタンチノープルは、トルコ人の手に落ち、ビザンチン帝国は史上から永遠に消えた。トルコ人がメフメト二世を「ファーティフ」(征服王)と呼ぶのは、おもにかれのコンスタンチノープル征服をたたえたものである。
メフメトは、首都をアドリアノープルからコンスタンチノープルヘ移すと、ガラタ地区を中心にして商業活動にしたがうヨーロッパ人、とくにジェノワ人に免税などの特権をあたえて貿易や商業の繁栄をはかった。
またギリシア人やスラブ人やユダヤ人、さらにトルコ人を首都に移住させて人口の回復につとめた。
これらのうち、ギリシア正教徒やユダヤ教徒など、非トルコ系住民の宗教や慣習にはいっさい干渉せず、それぞれの宗教的首長のもとに特殊な宗教的自治体を構成させた。
当時のヨーロッパで、かつてメフメトはキリストの胸中にいたといううわさが流れたのも、こうした宗教的に寛容な態度に由来している。
しかし学者や文人のなかにはイタリアへ避難し、そこでルネサンスがおこるのに大きく寄与したものもすくなくない。
メフメトは、個人的にはかなり自由な思想をもっていたが、公的には正統派イスラムたるスンナ派(スンニー派)にもとづき、ファーティフ・モスクをはじめ十余のモスク(イスラム寺院)や、学院(メドレセ)をたてている。
またアヤ・ソフィア(聖なる知恵)大伽藍(だいがらん)など、多くのギリシア正教の教会をモスクに改造して、首都のイスラム化をおこない、さらに宮殿や市場(バザール)をつくった。
なかでも、マルマラ海につきでた市の東端の岬の上に建設されたトプカプ宮殿(サライ)は、いまでは博物館として、かってのスルタンたちの栄華のあとを語っている。
このようにしてオスマン国は、カトリックの総本山ビザンチン(東ローマ)帝国の継承者たるのみならず、ヨーロッパとアジアにまたがるイスラム帝国となった。
これ以後、トルコ人はコンスタンチーノプルをイスタンブールと呼ぶにいたったが、これは「イスラムに満ちた」という意味のトルコ語「イスラムボル」のなまったもの、ともいわれている。
この説は単なる語呂(ごろ)あわせにすぎないかも知れぬが、たとえそうであるとしても、コンスタンチノープルが、ビザンチン(キリスト教)文化の中心からイスラム都市へ変貌したことを、見事に象徴している。