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8-16-3 ビザンチン(東ローマ)征服

2024-03-13 20:01:29 | 世界史

『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
16 オスマン・トルコ
3 ビザンチン(東ローマ)征服

 しかし、バルカン半島をおさえていたオスマン国は、メフメト一世(一四一三~二一)のもとに不死鳥のごとくよみがえり、一代おいてメフメト二世(一四五一~八一)が即位した際には、その勢力はバルカン半島と小アジアの大部分とに確立されていた。
 そしてビザンチン(東ローマ)帝国は、その脅威の前におののいていた。
 いまやメフメトは、その首都たるコンスクンチノープル攻略にふみきる。
 それは曾祖父バヤジットが、果たそうとしてなしえなかったものである。
 かつてバヤジットは、ボスフォラス海峡のもっともせばまっているアジア側に、「アナトリア(小アジア)城塞」を構築していた。これに向かいあって、メフメト二世は、ヨーロッパ側に「ルーメリア城塞」を造営した。

東ローマ(カソリック)とトルコ(イスラム)のコンスタンチノーブルの戦い
これはキリスト教とイスラム教の戦いであった。トルコ側は船を陸路で運び東ローマを破った。
なお、コンスタンチノーブルは現トルコのイスタンブールで、黒海の入口の街である。

 ビザンチン帝国の援軍が、黒海方面からくるのを阻止するためであった。それとともに、かれは首都アドリアノープルで多数の巨砲を鋳造し、牛にひかせてコンスタンチノープル城外まではこんだ。
 一四五三年四月のはじめ、二十万のトルコ陸軍、四百隻からなるトルコ艦隊が、コンスタンチノープルの前に姿をあらわして、これを陸海から包囲攻撃した。
 トルコ軍の砲火は城壁の随所に突破口を開いたが、これらはすぐさまペネチア兵をふくむ守備軍の手で閉ざされてしまった。
 戦闘はいつ果てるとも知れなかった。
 そこでメフメトは、奇想天外ともいえる一計を案じた。
 ボスフォラス海峡の一つの入江から、ガラタ地区の背後をまわって金角湾に出る間の、ほぽ四・八キロの陸路にそって、艦隊の一部を運搬しようとしたのである。
 このときの艦艇の数は、およそ七十隻といわれている。
 このような大艦隊の運送計画が、どのようにして実行されたかについては、いろいろな説がある。
 それも、地ならしした道路の上に、オリーブ油や獣脂をぬった板をしきつめ、人力を使って艦隊をロープでひき、けわしいところでは牛をもちい、また風力も利用して、その上をすべらせていった、というのが真相らしい。
 こうして、四月二十一日の夜ふけてから二十二日の未明にかけて、トルコ艦隊は隠密のうちに、ボスフォラス海峡から陸上輸送され、金角湾に投錨するにいたった。
 現有艦隊のすべてを金角湾のなかに退避させて、湾を鉄の鎖でとざし、安心しきっていたビザンチン側にとっては、まさに寝耳に水であった。
 かれが早朝、朝日に映え、舷舷相摩(げんげんあいま)する艨艟(いくさぶね)の姿を金角湾上に見たときの驚きと怖れとは、想像にあまりある。
 とくにビザンチン側が、金角湾の方面からの攻撃をまったく予想していなかったとすれば、艦隊を陸上から迂回した作戦が、コンスタンチノープルの占領には果たした役割は、かぎりなく大きい。
 戦闘は五十余日にわたってつづいたが、結局オスマン軍は東方の突破口からなだれをうって乱入し、皇帝コンスタンチヌス十一世は市街戦で戦死したと伝えられる。
 弱冠(じゃっかん)二十四歳のメフメト二世は、一四五三年五月二十九日、白馬にうちまたかって軍団をしたがえ、威風堂堂とコンスクンチノープルヘ入城した。
 こうして一千余年の歴史をもつコンスタンチノープルは、トルコ人の手に落ち、ビザンチン帝国は史上から永遠に消えた。トルコ人がメフメト二世を「ファーティフ」(征服王)と呼ぶのは、おもにかれのコンスタンチノープル征服をたたえたものである。
 メフメトは、首都をアドリアノープルからコンスタンチノープルヘ移すと、ガラタ地区を中心にして商業活動にしたがうヨーロッパ人、とくにジェノワ人に免税などの特権をあたえて貿易や商業の繁栄をはかった。
 またギリシア人やスラブ人やユダヤ人、さらにトルコ人を首都に移住させて人口の回復につとめた。
 これらのうち、ギリシア正教徒やユダヤ教徒など、非トルコ系住民の宗教や慣習にはいっさい干渉せず、それぞれの宗教的首長のもとに特殊な宗教的自治体を構成させた。
 当時のヨーロッパで、かつてメフメトはキリストの胸中にいたといううわさが流れたのも、こうした宗教的に寛容な態度に由来している。
 しかし学者や文人のなかにはイタリアへ避難し、そこでルネサンスがおこるのに大きく寄与したものもすくなくない。
 メフメトは、個人的にはかなり自由な思想をもっていたが、公的には正統派イスラムたるスンナ派(スンニー派)にもとづき、ファーティフ・モスクをはじめ十余のモスク(イスラム寺院)や、学院(メドレセ)をたてている。
 またアヤ・ソフィア(聖なる知恵)大伽藍(だいがらん)など、多くのギリシア正教の教会をモスクに改造して、首都のイスラム化をおこない、さらに宮殿や市場(バザール)をつくった。
 なかでも、マルマラ海につきでた市の東端の岬の上に建設されたトプカプ宮殿(サライ)は、いまでは博物館として、かってのスルタンたちの栄華のあとを語っている。
 このようにしてオスマン国は、カトリックの総本山ビザンチン(東ローマ)帝国の継承者たるのみならず、ヨーロッパとアジアにまたがるイスラム帝国となった。
 これ以後、トルコ人はコンスタンチーノプルをイスタンブールと呼ぶにいたったが、これは「イスラムに満ちた」という意味のトルコ語「イスラムボル」のなまったもの、ともいわれている。
 この説は単なる語呂(ごろ)あわせにすぎないかも知れぬが、たとえそうであるとしても、コンスタンチノープルが、ビザンチン(キリスト教)文化の中心からイスラム都市へ変貌したことを、見事に象徴している。



聖オイフラシア修道女  St. Euphrasia Virgo

2024-03-13 20:01:17 | 聖人伝
聖オイフラシア修道女  St. Euphrasia Virgo          記念日 3月 13日


 7歳にして修道女となるとは甚だ珍しい例であるが、オイフラシアは之を実行した聖女であった。

 彼女は380年、東ローマ帝国の首府コンスタンチノープルに生まれた。父は宮廷に仕える高官でアンチゴノといったが彼女の誕生後一年にして世を去った。母は東ローマ教会で聖女と崇められているほどの人で、夫の死んだ頃はまだ年も若かったからしきりに再婚を勧められたけれど、故人を偲び遺児の為を思っては、到底そうした気持ちになれず、かえって世間をうるさいものに思い、縁談を断って娘と共に亡夫の財産のあるエジプトに退いた。
 それから未亡人は諸々を巡り、或いは聖人隠者に道を聞き、或いは慈善の業を行いなどしていたが、たまたま一修道院の童貞方の厳しい生活振りに感心し、その後は同院の付近に居を定め、しばしばそこを訪問しては修女方と祈りを共にしたり彼等に霊魂上の教訓を請うたりする事にした。
 それにしてもその修女方の生活があまりにも貧しいので、気の毒に思った未亡人は、夫の冥福を祈ってもらう事にして毎年一定の金額を寄付し、彼女達を援助しようとした。しかし修院長は「私共はせっかく天主様の為にかような貧しい生活に入ったのですから、生涯この不自由を忍びたいと思います」と彼女の好意を固辞し、ただ聖堂に用いる燈油、香などを受ける事だけを承諾した。

 さて娘のオイフラシアは愛深い母の庇護の下にすくすくと成長し、早7歳を迎えたが、ある日例の通り母について修院を訪れたとき、楽しげな修女達の様を見て子供心にも何かを感じたのだろう、時刻が来て母が連れ帰ろうとしても「いつまでも此処にいるの」と言ってどうしても動かない。院長が「此処は天主様に身を献げた人でなければ居られないのですよ」と諭して帰そうとすると、オイフラシアは傍にあった十字架を取り胸に抱いて「それなら私も天主様に身を献げます」と言う。院長はそのけなげさに感嘆しつつも、なお修院に入れば厳しい断食や激しい労働をしなければならぬ上に、全く我が儘の出来ない事などを話して、思い止まらせようとしたが、幼いオイフラシアは「何でも言うことを聞きますから、此処においてちょうだい。もし少しでも言いつけを守らなかったらその時追い出されてもいいわ」とあくまで願ってやまない。で、その熱心さに、始めは驚いた母も今は共々に院長に頼み、彼女を修院においてもらう事にした。しかし何分幼い子供の事とて、最初は修院の他の人々も多少危ぶんでいたが、さて共に生活してみると成人も及ばぬ真剣な態度に、今更の如く舌を捲いたのであった。
 オイフラシアの母はその後5年にして帰天した。娘のオイフラシアは13歳になった時、東ローマ帝国の宮廷から一通の書簡を受け取った。何事であろうと封を切って見ると、それは幼い時に許嫁になったある人との結婚を果たせとすすめたものであった。けれども日々天主との清い交わりを楽しんでいるオイフラシアには、もとより煩わしい世間の渦中に帰るつもりは少しもない。彼女はテオドシオ皇帝及びその皇后に返書をしたため、今の自分には愛するイエズスの浄配として一生を終える他何の望みもないことを述べて容赦を乞い、また自分の全財産を貧民に施されるよう依頼したので、皇帝皇后も大いに感じ、彼女の願いを許可されたのであった。

 それからもオイフラシアはますます我が身を修め徳を磨くに努め、衆人に優れた熱心を以て苦行、祈り、日々の務めにいそしみ一院の尊敬を集めていたが、30歳になった時急に大患をを得て、410年3月13日天国に旅立った。

教訓

 「三つ子の魂百までも」ということわざは宗教の方面に於いても真理である。聖女オイフラシアはその好適例であるが、彼女が7歳の幼年で心から修道生活を望むに至ったのは、日頃の母の指導もよろしきを得ていた事と思われる。一般信者の親たる者も常に子供は天主より与えられて天主に返すべき者である事を忘れてはならぬ。しかして心して之に宗教教育を施すならば、他日その子供達の中より、ただ国家社会に有用な人物のみならず、また天主の聖意に適う聖人も必ず出ずるに相違ないのである。