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11-2 ストーンヘンジの謎

2017-07-11 17:34:40 | 世界史
『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年

11 巨人の積み石遊び――巨石記念物――

2 ストーンヘンジの謎

 しかし、もちろんストーンヘンジは巨人たちが遊んだなごりではない。
 それでは何であったのだろうか。どういう目的のために造られたものであったのだろうか。
 そしてどのようにしてそれらは造られたものだったろうか。ストーンヘンジには、そういうたくさんの謎がある。
 アリニュマンを、石の列のあいだから星の運行を見て、月日をきめる一種の観象台的なものと考えた学者もあった。
 しかし、それにしてはあまりにたくさんの石が立てられすぎていて、不要なものが多すぎ、「暦」あるいは「天文」に関係のあるものと、簡単に断定するわけにはいかない。
 イギリスのストーンヘンジも「暦」と関係があると、説く人がある。
 そういう説がでるのも理由があることなのである。

 それは、夏至(げし)の日の出の方向にむけて、ストーンヘンジがつくられているからである。環状列石の外の参道のところに、一本石が立っていて、それは「天文石(ヒールストーン)」とよばれている。
 六月二十一日の夏至の朝、ストーンヘンジの中央にある「祭壇石」から、この「天文石」を見ると、ちょうど石の頂のところから太陽が登り、石の頂の影が祭壇石にぶつかるといわれている。
 今では夏至(げし)の明け方には大ぜいの人々がこれを見るために集まる。しかし、じつは、一般に信じられているこの説は必ずしも正確ではない。太陽は「天文石」の頂でなく、すこし左にふれたところから登るのである。
 長い年月がたつあいだにそのような偏向ができ、昔は石の真上に登ったかというと、学者の計算では、ストーンヘンジができたころには今日より、さらに左のほうから登ったはずだといわれる。
 このように多少の偏向はあるが、ストーンヘンジが夏至の日の出の方向と、まるで無縁につくられたものだとすることはできない。
 しかし、それだからといって、この建造物が太陽神崇拝のための一種の神殿だとか、暦の役割をするものだとか、簡単にきめることは困難である。
 ストーンヘンジのもっているこういう方向性から、いろいろの人が想像をたくましくして、いろいろな説をだした。
 ステュークリーという人は一七二四年に、これはエジプトから逃げてきた神官たちのつくったものであるという説をだした。
 ストーンヘンジを宗教的な場所とみる説は古くからあり、建築家のインニゴ・ジョーンズは、一六二〇年に、これをローマ神殿の一つだという説をだし、ジョン・オーブリーは、一六六五年に、これをドリュイド教の聖所だという説をだした。

 ドリュイドというのは古代ケルト族の司祭で、妖術や予言などをおこなったという。
 この説はかなり人々のあいだに広く信じられ、サークルの中央にある石を「祭壇石」と名づけたり、遺跡の入口に倒れている大石を「屠殺石」と名づけたのは、そのためだった。
 しかしイギリスには紀元前二五〇年より前には、ドリュイド教徒はぜんぜんいなかった。
 そしてストーンヘンジは紀元前一八〇〇年から一四○○年ころまでに建造されたもので、年代がぜんぜん合わず、オーブリー説は今日では権威がない。
 十九世紀の学者たちは、太陽崇拝と関係のある宗教的な建造物だと説く者が多く、ファーガスンやピートリたちは、そう説いた。
 しかし天文学者のロッキアーは、一九〇六年これを宗教的な遺跡ではなく、天文の観測所にすぎないと説いた。
 シュペングラーは、この説に反対し、ふたたび太陽崇拝と関係あるものとした。
 上述したようにドルメンは墓であることに、学者の説がほぽ一致しているが、メンヒルも墓の上や、墓の近くに立てられることが多い。
 しかし、必ず近くに墓があるとはかぎらない。ストーンサークルも、環の中心に墓のあることが多い。
 しかし、これも墓のない場合もあり、ストーンヘンジの場合には墓がない。
 だが、こういうことから、ストーンヘンジを葬礼と関係があるところと考える学者もあり、古くは歴史家のウィリアム・カムデンが一五七五年に、そういう説を唱えた。
 とにかくストーンヘンジの目的は、今日のところでは、詳細にわかっていず、いぜん謎ではあるが、宗教的な、それもおそらくは太陽崇拝となんらかの関係のある遺跡であると一般に信じられている。

 一九五〇年から五四年にかけて、イギリスのストーンヘンジの科学的な発掘調査がおこなわれた。
 そしてその結果、ストーンヘンジは紀元前一八〇〇年、一六五〇~一五〇〇、一五〇〇~一四〇〇年の三度にわたって改造され、この三期目にはまたさらに三度、改変の手が少しずつ加えられていることがわかった。
 まず最初の紀元前一八〇〇年ころには、直径一〇〇メートルほどの円型の土手とその外をめぐる濠がつくられ、土手の内側には五十六の小穴の列が掘られた。
 これはジョン・オーブリーという好古家が発見したため「オーブリーの穴」とよばれる。
 近年この小穴は再発掘され、人骨の灰、骨製の針、磨製の石棒の先などが発見された。
 こういう内容品はおそらくこの穴のところで何か宗教的な儀式がおこなわれたことを暗示している。
 しかし墓ではなく、またこれらの穴には石や木の柱の立てられた形跡もまったくない。
 つぎの第二期には、一本四トン以上もある青石(輝緑岩)の柱が八十本以上も、環の中央に二列に円をなして立てられた。そしてストーンヘンジからエヴォン川までつづく参道がつくられた。
 第三期には砂岩の大きな柱が環状に立てられ、上にはまぐさ石が置かれた。
 さらにこの環のなかに、鳥居状に積んだ石が五本、馬蹄(ばてい)型に並べられた。
 そしてこれらの列石の外に小穴が二列掘られた。
 おそらくそれには石柱が立てられたらしいが、今日では一本も残っていない。
 こうしてストーンヘンジは紀元前一四〇〇年ころに完成した。

 ストーンヘンジの付近には、ほかに種々の遺跡がある。
 「カーサス」とよばれる三キロも長さのある土手に囲まれた細長いものがあるが、何に使われたものかぜんぜんわからない。
 また種々の形をした古墳、第一期のストーンヘンジに似たアヴェペリーの遺跡そのほかがある。
 しかしとくに興味深いのは、「ウッドヘンジ」である。
 これは飛行機から空中写真をとるようになってから見つかったもので、写真をとると麦畑のなかに輪の形のものが写っていたのである。
 その輪のところを掘ると、木の柱の跡が見つかった。これを「ウッドヘンジ」とよぶ。
 ストーンヘンジの北東三キロほどのところにも「ウッドヘンジ」が見つかり、一九二八年に発掘された。
 直径七〇メートルほどあり、土手と濠をめぐらした中に、六重の同心円の柱跡がある。おそらくドーナツ型の木造建築物が、そこにあったろうと想像されている。
 これも入口は、夏至(げし)の日の出の方向をむいている。
 これは、ストーンヘンジより古い遺跡で、はじめ木の「環状列柱」がつくられ、それがやがて石のものにかわっていったらしい。
 このウッドヘンジでは、人身御供(ひとみごくう)にされたらしい頭蓋骨の割られた子供の死体が発見されている。
 こういうことからも、おそらくストーンヘンジも何か宗教的なものと関係のある遺跡だと考えられる。
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11 巨人の積み石遊び――巨石記念物――

2017-07-10 15:57:03 | 世界史
11 巨人の積み石遊び――巨石記念物――

1 巨石記念物

 西ヨーロッパのだいたい海岸沿いに、北はスカンディナヴィア半島からデンマーク、北ドイツ、イギリス、フランス、南はイベリア半島のスペイン、ポルトガル、地中海のコルシカ島にまでおよんで、「巨石記念物」とよばれる巨石の建造物の遺跡がひろく散在している。
 それらは多く、新石器時代の末期から青銅器時代にわたってつくられたものである。 巨石記念物には種々の形のものがある。
 たとえば「メンヒル」とよばれるものは、柱状の一本石で、二、三メートルから一〇メートルまで種々の高さのものがある。

 それには自然のまま、ほとんど人の手の加わっていないものもあり、ときには、人間の顔などの彫ってある人工の加わったものもある。
 こうしたメンヒルは、フランスだけでも千五百本以上もあるという。
 さらに人工の加わっている「巨石記念物」は「ドルメン」である。
 ドルメンというのは、ケルト語で「机石」という意味で、石をいくつか立てた上に大きな石を横たえたもので、ちょうど巨人の机のように見える。
 巨石記念物のなかで、この「ドルメン」だけは、その用途が明らかで、多くの学者が異論なく墓と認めている。
 ドルメンはのちにさらに発達し、石で築いた通廊状の「羨道(せんどう)」がついたものや、上を土でおおって、塚状にしたものなどができた。
 大規模な巨石記念物としては、フランスのブルターニュ地方のカルナックというところにある「アリニュマン」があげられよう。
 わが国ではこれを「柱状列石」とよぶ。一平方キロほどの広さの原に、二メートルから四メートルほどの高さの自然石が、総数で千二百本ほど、十三列にならんでいる。
 これほど大規模で壮観ではないが、より建築的な構造をもっている巨石記念物に「ストーンサークル」がある。
 これはケルト語で「クロームレッヒ」ともよばれ、石柱を円形に立てならべたもので、「環状列石」とわが国ではよばれている。イギリスに多く、直径五、六〇メートルのものが多い。
 最大のものは直径一〇〇メートルもあり、イギリスの南部、ソールスペリー飛行場近くのアムズペリーというところにあって、とくに「ストーンヘンジ」とよばれている。
 これらの「アリニュマン」や「ストーンサークル」はそれこそ、まるで巨人が、大きな石を槓んで遊んだように見える。

 昔の人もそう思ったらしく、ストーンヘンジにはそのような伝説がある。
 十二世紀のイギリスの学者たちは、巨人たちがはるばるアフリカから巨石をアイルランドまで運び、そののち魔法使いのメルランが、これをイングランドに運んだという伝説があったことを伝えている。
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10-4 馬と鉄

2017-07-08 20:53:46 | 世界史
『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年

10 幻の帝国の再現――ヒッタイト帝国――

4 馬と鉄

 アクン・アトン王の宗教改革、ツタンカーメン王の若死に、そのようなことがつづき、王家の威令が弱くなったエジプトでは、アモンの神官の力を利用して、ある将軍が反乱をおこし王位につき(ハルエムヘブ王)、新しい王朝をひらいた(紀元前一三四五)。
 これが第十九王朝である。その後エジプトはふたたび国力を回復し、シリア、パレスティナ遠征を再開した。
 そのためエジプトは、シリアに進出してきていたヒッタイト帝国との戦いが避けがたくなった。
 両国はこうしてオロンテス河畔のカデシュでついに大戦をすることになった。

 エジプト王ラメス二世とヒッタイト王ムワタリシュは、おのおの約二万の兵を率いてここであいまみえた。
 この戦いの情況と経過は、エジプトのカルナク、ルクソル、アビドス、アブ・シンベルなどの諸神殿に、ラメスの勝利をたたえる詩として石に彫りこまれている。
 ほかにパピュロスに書いたものものこっている。
 それは誇張し、ラメスの勝利のようにのべているが、どうも彼はムワタリシュの計略にまんまとはまって大打撃をうけ、やっとのことで脱出し、命びろいをしたらしい。
 そしてラメスはダマスクスまで軍をひいた。
 その退却中に、ヒッタイト王から和平をこう手紙がついたことになっている。しかし戦後、ヒッタイトはシリアの中・北部を確保し、エジプト人とむすんでいたアムル国がヒッタイト側についているから、どちらかといえばヒッタイト側か勝利であったことは確かであり、おそらく和をこうたのも、エジプト側からであったろう。
 ムワタリシュ王のあと、その息子ウルヒ・テシュプが王位をついで、ムルシリシュ三世となったが、叔父のハットゥシリシュを攻めて失敗し、逆に王位を奪われた。叔父はハットゥシリシュ三世と号した。

 彼はウルヒ・テシュプの生命は奪わず、追放しただけだった。
 このハットゥシリシュ三世とラメス二世のあいだに取りむすばれた条約が、さきにヴィンクラーがみつけて書いたものだった。
 長い条約で、詳細な規定があり、ボガズキョイのものは後半が失われているが、両国の不可侵と、防御同盟を約束したものだった。
 この条約をむすんだのち、ラメスはハットゥシリシュの王女を王妃にむかえた。
 当時のオリエント世界の二大勢力が手をむすんだ結果、オリエント世界には平和がおとずれ、それは七十年間つづいた。
 カデシュの戦いでヒッタイト軍に勝利をあたえたのは、軽戦車のおかげだった。
 調教した馬にひかせる戦車は、ヒッタイト人の発明ではなくもちろん、エジプト軍にもあった。
 しかしヒッタイト軍のは、とくに改良がくわえられていた。従来のぶざまな板車輪でなく、六本の輻(や=スポーク)の車輪が二つつき、優美な外観のとおり、軽やかでスピードがあった。
 彼らはこういう戦車で、戦車隊を編成して、戦闘したのである。
 馬を飼い、その馬に乗ったり、戦車につけて戦うことは、紀元前一五〇〇年前後にはじまった。
 それがどこではじまったのかは、よくわからない。ヒッタイト人、フルリ人、カッシート人、ヒクソス人のどれかのところで、はじまったらしい。
 ヒッタイト人もこのなかにいれられているが、たぶん彼らは、馬の飼育をよそから学んだ。
 ハットゥシャシュでみつかった粘土板のなかに、「馬学案内書」とよばれるものがあり、馬の飼育法について書かれているが、そのなかで馬を飼育しているのはフルリ人である。
 しかしそのフルリ人も、馬の飼育の発明者かどうかはわかっていない。
 馬を飼育しはじめた人々は、このようによくわからないが、馬にひかせる戦車を改良して完成したのは、ヒッタイト人であった。これが彼らの戦力をなしたのだった。
 もう一つヒッタイト人の戦力の源については、鉄器のことがよく強調される。
 たしかに鉄はアナトリア地方に産し、そこでは製鉄術もはやく発達していて、ヒッタイト人侵入以前の紀元前二〇〇〇年ころから、鉄の剣がおこなわれていた。
 アランジャ・ヒュユックの青銅器時代初期の王墓から出土したものは、その代表的な遺物で、金製の立派な柄のついた鉄剣で、当時アナトリアに進出していたアッシリア商人の居留地カネシの遺跡(キュルテペ)出土の粘土板に、金の五倍、銀の四十倍もしたとある金属は、たぶん鉄のことであろうとされている。
 またエジプトの王は、ヒッタイトの王に鉄器をほしいと手紙をだして、断わられている。
 これらのことからヒッタイト時代でも鉄器が貴重品だったことはわかる。
 しかしその鉄器が当時、石器や青銅器より鋭利、堅牢だったという証拠はない。
 むしろ青銅器よりもろかったと考える学者もある。鉄器がのちに有利になるのは、安価に大量にできるようになったためだった。
 貴重品扱いをされていたのでは、安価でも大量でもなかったわけである。
 カデシュでは勝利をえたがヒッタイト帝国は、このころから衰微にむかう。
 紀元前十三世紀の終わりごろ、ギリシア本土にドリア人の移住があり、これに追われた先住者のなかには、小アジア、アナトリア地方にはいりこむものもあった。
 また東部地中海沿岸も諸民族に荒らされた。
 その結果、ハットゥシャシュは侵入してきた人々のために落とされ、火をつけられた。
 はげしい火が何日も燃えつづいたらしく、遺跡に大火の跡がみられる。
 こうしてヒッタイト帝国は紀元前一二〇〇年ころ滅んだ。
 しかしヒッタイト文化の余燼(よじん)はその後シリアの地で、カルケミシュを中心にして、紀元前七〇〇年ころまでのこったが、アッシリアに滅ぼされてしまった。
 そして、ふたたび発見されるまで、ヒッタイトは二千年以上も人々からほとんどまったく忘れられていたのである。
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10-3 ヒッタイトの王たち

2017-07-07 14:05:15 | 世界史
『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年

10 幻の帝国の再現――ヒッタイト帝国――

3 ヒッタイトの王たち

 ボガズキョイでたくさんの粘土板を発掘したのは、ドイツ人のフーゴー・ヴィンクラーだった。
 彼はボガズキョイの発掘をするまえに、シドンの近くで発掘をしたこともあり、アッシリア学者として、よく知られていた。
 彼は一九〇五年にまず、ボガズキョイに予備調査に行き、わずか三日間で、三十四個もの粘土板を手にいれた。
 雨期が近づいたので、その年はそれで調査をやめ、翌年の夏にまたでかけた。

 そしてひと月もたたぬうちに、重要な粘土板を、まるで奇蹟のようにみつけることができた。
 それは、ヒッタイト王ハットゥシリシュ三世とエジプト王ラメス二世とのあいだでとりかわした平和条約文を記したものだった。
 この条約文は、エジプトのカルナク神殿の壁に刻まれてよく知られていた。
 ところが、この条約についてラメスがハットゥシリシュに書いたくわしい手紙が、粘土板に楔形文字で書かれて、発見されたのだった。
 こうしてボガズキョイがハットゥシャシュであることが明瞭になったが、カルナタとハットゥシャシュとは二〇〇〇キロも離れており、また条約がむすばれてから三千年以上もたっていることを考えると、これは実際、奇蹟というほかはないではないか。
 ヴィンクラーは翌一九〇七年にもまたボガズキョイに発掘に行った。そして一万枚以上の粘上板をみつけた。

 彼は一九一三年に死ぬが、一九一一~一二年にも病をおして、ボガズキョイで発掘をおこなっている。
 彼は病身のためもあり、暗く、疑いぶかく、嫉妬(しっと)心つよく、人々に好かれない性格だった。
 そのうえ、粘土板とその解読にばかり熱心で、発掘作業をぜんぜん自分ではしなかった。
 発掘現場の近くにある仕事部屋に閉じこもったままで、どんどんはこびこまれる粘土板を読むのに一日中かかりきりだった。遺跡にみられる建築物の構造やその測量などには、ほとんど関心をもたなかった。
 そればかりか、粘土板がどこからどのような状態で出たということにさえ、あまり心をもちいなかったという。
 彼の発掘調査にはこのような種々な欠陥があったけれども、多数の粘土板がみつかったことによって、ヒッタイト帝国の諸王の名前や事績がしだいに明らかになっていった。
 そしてヒッタイトの歴史も、他の諸国とのあいだの外交関係も明らかになってきた。
 ボガズキョイで発見された粘土板に書かれていた言葉は八ヵ国語もあった。
 しかし大部分は二種類の国語で書かれていた。一つはアッカド語で、これは当時の外交語だったので、公式文書など、大部分の国事の記録はこの言葉で書いてあった。
 ヴィンクラーが発掘したころ、この言葉は読めるようになっていたので、彼は粘土板がみつかるとそれを読むのに熱中したわけだった。
 もうひとつは、ヒッタイト人の言葉を楔形文字で書いたものだった。
 これは発掘の当時は読めなかったが、一九一五年にチェコスロヴァキアの学者フリードリヒ・フロズエーが読み解き、印欧語であり、表意文字をふくむことを明らかにした。
 彼の説には反対者もあり、彼自身の誤りも小さな点ではあったが、その後大ぜいの学者が研究をすすめ、大すじにおいては誤りがないことが明らかになり、ヒッタイト研究はすすんだ。
 他の六ヵ国語はそう頻繁にあらわれるわけではなく、断片的にちらほらするばかりだった。
 かってのハットゥシャシュが国際都市であったことをあらわしている。

 こうしてわかってきたヒッタイト帝国の歴史を、その王を中心として簡単に書こう。
 紀元前二〇〇〇年ころ、小アジアでは民族移動があり、インド・ヨーロッパ語族に属する一派(のちに「ヒッタイト人」とよばれる)の人々がはいってきた。彼らは小アジアにはいる前に、どこにいたのか、わかっていない。
 彼らは数ではたいしたことはなかったろうと思われるが強力で、原住民(「原ハッティ人」とよばれている)を征服した。
 そして小都市国家をいくつもつくった。
 ハットゥシャシュもそうした都市国家のひとつだった。
 紀元前一八〇〇年ころ、クッシャラのアンタッシュ王が、このハットゥシャシュ市を征服し破壊するが、市はすぐ復興した。その後トゥドハリヤシュ一世、プナルマシュ王がでたが、その年代も、事績もはっきりしない。その後、王になったラパルナシュ(在位紀元前一六八〇~五〇ころ)は、諸小都市国家をあわせて、一つの連邦王国にした。
 ヒッタイト帝国の基礎はこうしてでき、王の名の「ラバルナシュ」はこの後、「王」をあらわす普通名詞になった。ヒッタイト帝国には貴族の会議「パンクシュ」というのがあった。
 これは王権の専横を制限する機能をいくぶんか果たせたらしいことは、インド・ヨーロッパ語族らしさであろうが、王はしだいに強力になるとともに、パンクシュを無視して後継者を指名することができるようになり、この点ではオリエントの専制王にちかい性格をもつようになる。
 つぎのハットゥシリジュ一世(紀元前一六五〇~二○ころ)は、帝国の領土をひろげるために、南方のアレッポへ征服をすすめたが、病をえて、これを中止した。彼の遺言がのこっているが、それを「君主学の書」とよぶ人もある。
 王は無能な息子をしりぞけて、孫のムルシリシュを後継者にさだめ、質素にパンと水で暮らし、酒は老年になるまで飲むな、老年になったら飽きるほど飲んでよいなどと、さとしているのである。
 ムルシリシュ王(紀元前一六二〇~一五九〇ころ)は先王の遺志をついで、アレッポを占領し、ついでエウフラテス川にそって下り、バビロンを攻め、古バビロニア王国を滅ぼした。
 しかし王室内に争いがおこったため、彼はバビロニア支配をあきらめて帰国したが、帰着すると一族のものに暗殺された。
 その後、四人ほどの王が知られているが、その時代は王、貴族、神官が王位をめぐって勢力争いをし、親や兄弟の肉親殺しも横行した。
 しかしやがてテリピヌシュ王(紀元前一五二五~一五〇〇ころ)が王位につくと、王位継承法や諸法令集をだし、この混乱をおさめた。テリピヌシュ王ののち、名もよくわからず、事績のほとんど知られない王が数代つづく。

 そのころ東隣のフルリ人のミタンニ王国が最盛期をむかえていた。
 またエジプトはトゥトメス三世がさかんに遠征軍をおこし、シリアに進出した。
 ことにメギッドの戦い(紀元前一四八〇ころ)で勝利をえて、シリアを獲得した。
 アッシリアとヒッタイトは、トゥトメス三世に朝貢(ちょうこう)した。
 トゥトメス三世をついだのは、その子アメン・ホテプ二世で、それをついだのは、トゥトメス四世だった。
 彼はミタンニに使いをだし、王女をむかえ、王妃とした。
 極端な近親結婚をおこなって、王家の神聖性を強調していたエジプト王家で、このようなことは注目してよい。
 たぶん、この間にトゥドハリヤシュ二世やハットゥシリシュ二世、トゥドハリヤシュ三世などのヒッタイトの諸王が、シリアの国境まで勢力をのばしてきており、またアッシリアの勢力も強くなってきたため、エジプト王はミタンニとむすび、これらの諸国に対する防衛をミタンニにさせようとしたらしい。
 トゥトメス四世の子アメン・ホテプ三世も、ミタンニの王女を後宮にむかえいれている。
 また彼の子アメン・ホテプ四世(アクン・アトン)の妃のネフェルトイティも、ミタンニの王女らしいといわれている。
 アクン・アトンをついだのは養子のツタンカーメン王である。
 「アマルナ文書」にはミタンニの王トゥシュラッタがアメン・ホテプ三世におくった手紙がある。それは、
 「あなたは私の父とひじょうに親しかったが、いま私たちは父の代よりも十倍も親しい。だから兄弟であるあなたは、私の父にくださったよりも、十倍も私に金を送ってくださるように……」というずうずうしい無心状だった。
 しかし、こういうずうずうしい無心状は、トゥシュラッタだけでなく、バビロニアの王なども送っていて、いくつもある。バビロニア王カダシュマン・ハルベなどは、金ばかりでなく、妻をくれと無心している。
 しかしミタンニの王女を妃にくれといったのは、むしろエジプトのほうだったらしい。
 「アマルナ文書」にはヒッタイト王シュッビルリウマシュ一世(紀元前二二七五~三五ころ)の、アクン・アトンの即位を祝う手紙があったことは先述した。
 このシュッビルリウマシュは偉大な王だった。決断力をもって勇敢に戦い、ついにミタンニ王国を征服した。
 しかし彼は強い戦いの人であるばかりか、賢明な政治家でもあった。
 征服地の人を奴隷とはせず、結婚政策などでたくみにあやつり、味方につけた。
 ツタンカーメン王はまえに述べたように、二十歳にもならずに死に、子供がなかった。
 未亡人になった王妃は、シュッビルリウマシュの名声をきいて手紙をよこした。
 「私の夫がこのたび亡くなりました。しかし王には王子がございません。
 あなたにはたくさん王子がおありだとうかがいます。
 そのおひとりを私にくだされば、私の夫になり、エジプト王になっていただきたいのです……」
 シュッピルリウマシュは意外な申し出におどろき、使いをだして、エジプトのようすをさぐらせた。
 王妃はさらに手紙をよこして、
 「なぜからかっているなどとお思いなのですか。私はほかの国にはぜんぜん手紙などだしておりません。ぜひ王子をください……」とふたたび乞うた。
 王は決心して、王子をエジプトにおくった。しかしエジプトに着くまえに、反対派のために王子は暗殺されてしまった。
 この事件を我々が知っているのは、シュッビルリウマシュ王の息子、ムルシリシュ二世(紀元前一三三四~○六ころ)が自分の功業をくわしく書きのこしたさいに、父王の事績を書きしるし、それがのこったためだった。
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2 姿をあらわすヒッタイト帝国

2017-07-06 14:01:37 | 世界史
『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年

10 幻の帝国の再現――ヒッタイト帝国――

2 姿をあらわすヒッタイト帝国

 「アマルナ文書」は、ヒッタイト帝国再現の手がかりの重要なもののひとつであったが、もちろんこれひとつで、すぐにすべてがわかってしまったわけではない。
 ちょうど絵合わせ(ジグソー)パズルで、複雑な曲線をもった小さな絵のかけらが、いろいろ組み合わせられて、大きな絵をしだいにつくっていくように、長いあいだにわたっての考古学者、言語学者、歴史学者たちの調査、研究、仮説などの結果がいろいろ組み合わせられて、しだいにヒッタイト帝国の存在は明らかになっていったのである。
 ヒタタイト帝国が発見されていく経過には、シュリーマンのトロイア発掘などのようにわくわくするようなはでな物語はない。
 しかし長い期間にわたる大ぜいの学者たちの一見バラバラにみえる研究が、しだいにひとつにつながり、ちょうど濃い霧がゆっくりと晴れあがって、うしろにある偉大なものの姿がみえてくるように、人々に忘れられてしまっていたヒッタイト帝国の姿が、しだいにはっきりと再現していく物語は、魅力もあるし、感動的でもある。
 セイスが一八七九年に「小アジアにおけるヒッタイト人」という題の論文を書くきっかけになったのは、「ハマト石」とよばれる奇妙な象形文字のような記号を刻んだ石だった。
 この石については早く十九世紀のはじめに、シャイヒ・イブラヒムという男が記録をのこしていた。
 シャイヒ・イブラヒムというのは本名ではなく、ヨハン・ルートウィヒ・ブルクハルトというのが本当の名だった。
 あの有名な歴史家のヤコブ・ブルクハルトと同じスイスの名門の出だった。
 彼は東インド会社につとめる商人と称して、シリアの各地を歩きまわった。
 彼は商人だというのに商売にはあまり熱心でなく、その地の言語や歴史・地理の勉強に熱中し、またさかんに旅をして歩いた。
 そのためスパイと疑われたが、メッカにも行き、アララト山にものぼった。
 しかし一八一七年、わずか三十三歳という若さでエジプトで急死し、イスラム教徒として葬られた。
 彼はくわしい記事の、大部の日記をのこした。それは彼の死後編集されて、何冊かの本になって出版されたが、その一冊に「シリアと聖地の旅」と題するものがあった。
 そのなかに、ブルクハルトがオロンテス川のほとりのハマトでみた、「象形文字の一種らしくみえる小さな図形と記号がたくさん書かれている石」についての記事があった。
 この石はハマト町の市場に面した家の角のところにはめこまれていた。
 この本は一八二二年に出版され、その興味ふかい旅の冒険談は人々をよろこばしたが、この記事はさっぱり注目されなかった。
 その後半世紀ちかくたって、一八七〇年にオーガスタス・ジョンソンとジュサップというふたりのアメリカ人が、ハマトの町をとおり、この奇妙な石に目をひかれた。
 しかしそばに近づくと、町の人々が大ぜい集まってきた。そのためふたりはスケッチをすることさえできなかった。
 町の人々はこの石は神聖なもので、この石にさわると、病気がなおると考えていたのだった。
 ジョンソンは帰国すると、この石のことを、ある講演会で発表した。
 一八七二年の末に、当時ダマスクスにいたスコットランドの宣教師ウィリアム・ライトは、この石のことをきき知っていて、ぜひ見たいとかねがね思っていた。
 運よくシリアの総督スプヒ・パシャが任地を視察旅行することになり、彼に同伴を許してくれた。
 パシャは兵士をつかって強引に、この石を家の壁からはずしてしまった。
 そのためあやうく住民たちの暴動さえおこりかけた。よそ者に神聖な石をわたすくらいなら、こわしたほうがよいというのだった。
 しかしパシャは応分の金をあたえて住民をなだめ、またおりから大流星があったのも凶兆だと住民はさわいだが、パシャは天が祝して花火をうちあげ、自分のやりかたを承認したのだと詭弁で住民をいいくるめ、石をイスタンブールヘおくってしまった。
 ライトはさいわい石膏で写しをとることを許され、それは大英博物館におさめられた。
 こうしたやりかたは、たいへん乱暴だったが、人々の目にふれやすくなったハマト石は、やがてその象形文字を読みとかれることになり、ヒッタイト研究の進展に大きな貢献をした。
 そのころ、エウフラテス川の右岸のイェラブルス(あるいはイェラビス)にある遺跡がみつかり、ここからハマト石と同じような象形文字を書いた遺物がたくさん発見された。
 この遺跡はのちにカルケミシュ市であることがわかった。カルケミシュはヒッタイト帝国の末期の都だったところである。同じような象形文字は次々にみつかり、その分布のひろいことが人々をおどろかした。
 東はカルケミシュのようにシリアの奥地まであり、西は小アジアの海岸のスミルナで発見された。
 そしてそのあいだの小アジアでは各地にそれは分布していた。
 この文字をセイスはヒッタイト文字と考え、その分布地をヒッタイト帝国の領土と考えたのである。
 ウィリアム・ライトも彼の説を援護して、「ヒッタイト帝国とA・H・セイス教授によるヒッタイト碑文の解読」という著書を、一八八四年にだした。
 しかし先述したように、彼らの説はすぐには受入れられなかった。

 彼らの説を証拠だてるのに「アマルナ文書」の発見はおおいに役にたったが、本当にヒッタイト帝国の姿が明らかになったのは、その首都ハットゥシャシュの発掘がおこなわれるようになってからだった。
 はじめてハットゥシャシュの遺跡をみて、その見聞を書いたのは、フランスの考古学者シャルル・フェリクス・マリ・テクシエだった。
 彼は小アジアのハリュス川の岸辺にあったローマ時代の都タヴィウムの遺跡をさがそうと、そのあたりを旅して歩いていた。
 そして一八三四年の七月のすえ、ボガズキョイという村のそばで大きな遺跡をみつけた。
 その遺跡は、数キロメートルにもおよぶ大城壁をめぐらしていた。そしてその城壁には巨大な門が二つあった。
 東門には、二メートルほどある大きな浮き彫り像がついていた。テクシエはこれを王の像と考えたため、この門は「王門」とよばれたが、今日では神像と考えられている。
 他の門には南西側にライオンの前半部が彫ってあった。
 テクシエはこの最盛期のアテネ市くらいあったと思われる大きな遺跡こそ、さがしているタヴィウムにちがいないと考えた。
 しかし、ローマ時代と考えられるような遺構は、どこにもないことがわかってきて、彼はその考えをすてた。
 そしてヒッタイト人を知らなかった彼は、これをどういう人々の遺跡と考えたらよいのか、途方にくれた。
 テクシエは土地の人に案内されて、近くの岩山にある「文字の書かれ(ヤジリ・カヤ)た岩」もみることができた。
 それは、一種の神殿址で、神々の像が彫られていた。
 そしてそこには象形文字らしいものも彫られていた。
 これはのちにわかったのだが、トゥドハリヤシュ四世(紀元前二一五〇~二○ごろの王)の名をあらわしたものだった。

 彼は一八三九年に、彼の旅行記を「小アジア記」と題して出版した。
 テクシエのすぐあとにはイギリス人のウィリアム・ハミルトンがボガズキョイの遺跡を見て、彼はそれをタヴィウムの跡と考えた。
 また彼はすこし北のほうにあるアランジャ・ヒュユック村の近くの遺跡をみている。
 一八五九年から六二年にかけては、ドイツ人のバルトとモルトマンが、つづいてフランス人のペローが、ボガズキョイを見、くわしい報告や、見取り図などを出版している。
 このほかにもこの地への旅行者が次々にでて、ボガズキョイについてのヨーロッパ人の知識はしだいにふえていった。
 このボガズキョイこそヒッタイト帝国の首都ハットゥシャシュの遺跡にほかならないが、そのことが確実になったのはかなり後のことである。
 一八九三年にはフランスの考古学者、E・シャントルがボガズキョイで、いわゆる「アルザワ語」で書かれた粘上板を発見している。
 しかしボガズキョイの粘土板がぞくぞくと発見され、ヒッタイト帝国の歴史が明らかになってゆくのには、もうすこし時間が必要だった。
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