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聖クネグンディス皇后 St.Cunegundis V.

2024-03-03 00:00:07 | 聖人伝
聖クネグンディス皇后 St.Cunegundis V.            記念日 3月 3日


 篤信の信者は身の貴賤貧富にかかわらず、天主の聖寵の助けによりその霊魂に見事な実を結ぶ。聖女クネグンディスはドイツ国皇后という高い地位に昇ったのみならず、その両親も王侯の家柄であった。皇帝や皇后で聖人と崇められる方は外にもないわけではないが。聖クネグンディスは徳に広く世に知られている一人である。
 彼女は信心深いキリスト信者の父母に薫陶されて敬虔に生い立ち、また王侯の息女たるに恥じぬ教育も授けられた。年頃になるとクネグンディスはバワリア王に望まれてその皇后になる事となり、盛大な結婚式もあげた。所が彼女は、前から童貞の誓願を立てていたかどうかは定かではないが、結婚式の後、良人たる王に天主に清い心を以てお仕えする為一生童貞を守りたいと申し出たのである。すると案外にも良人は「実は私もそういう望みをもっているのだ。では、二人はこれから兄妹として仲良く暮らそう。もっとも世間へはこのことをあくまで隠しておかねばならぬが・・・・・」と答えた。その時のクネグンディスの喜びがどれほどであったかはここに記すまでもない。
 かくて二人は清らかな生活を続け、互いに励まし合っておのおの徳の道に精進した。クネグンディスはあらゆる上流婦人の典型と仰がれ、良人のハインリッヒはまた、オットー大帝の死後を受けてバワリアのみならずドイツ全土を治める皇帝に推戴されマインツで大司教からその冠を受けた。

 戴冠式後皇帝はすぐある戦争に出陣せねばならなかった。それから国中を視察して廻り、後初めて皇后の待ちわびているパデルボルンに帰ってきた。しかしクネグンディスもその間安閑としていた訳ではなかった。一方に国母の務めを果たしながら、他方には祈りや、貧民、病人の見舞いその他の仕事に寧日なかった。彼女は国祭日などには美々しく着飾り人々と宴を共にしたけれども一人になると質素な服に着替え、厳しい大斉を守った。そして謙遜から善行もできるだけ人知れず行おうとしたが、徳の光は遂に隠し得ず、その為一層人民の尊崇を受けるようになった。

 1114年には皇帝皇后同列でローマを訪問し、聖ペトロ大聖堂で教皇の手から改めてドイツ皇帝の冠を受けた。ハインリッヒは聖会に服従する印として、それをまた聖ペトロの祭壇に献げ、かつ宗教に忠実に、聖会を保護する旨を宣誓した。クネグンディスは心嬉しくその式にあずかり、衷心から自分等の治める国家の為に祈った。それが聴き届けられたのか、実際ハインリッヒ皇帝の治世は恵まれたものであった。
 帰国するや皇帝はバンベルグに立派な聖堂付きの一修道院を建てた。彼は暇あればその修道院を訪れ、そこに起居する事を好んだ。この修道院は今も残っていて、敬虔であった皇帝を偲ぶ絶好の記念となっている。その建築にはクネグンディスも自分の財産を投げ出して、能う限りの援助をしたが、やがて皇帝の助けを受けて、カウフンゲンに自分も一つの女子修道院を設け、黄金宝石、目も絢な貴重品を、ことごとくその聖堂の祭壇の装飾品として献げ、以て御聖体の主を敬うまごころを現した。

 かくて二聖人は楽しく暮らしていたが、その内どうした事か皇帝の胸に、皇后の貞潔を疑う心が起こり、今まで彼女を尊敬していただけにその苦悩は一方ならぬものがあった。で、当時の習慣に従って、天主直々にその正邪曲直を定めて頂く事になった。その方法は、十二の鍬を火で真っ赤に焼いて、クネグンディスに裸足でその上を渡らせ、火傷をすれば罪あり、無事なら罪なしとするのである。皇后も身の明かりを立てたい所からそれを望み、暫く天主に祈りを献げてから裸足で灼熱された鉄の農具の前に立った。皇帝始め立会人等は結果如何にと固唾をのんで見守っている。クネグンディスはいよいよ素足を熱鉄の上にかけた。一本二本、次第に真っ赤な鍬を渡っていくが、奇跡、何の怪我もない。遂に十二本をことごとく渡り終わった。人々は思わず声を上げた。彼女の潔白は証明されたのである。それと見た皇帝は走り寄って彼女の前に平身低頭し、由なき疑いをかけた身の粗忽を詫びれば、クネグンディスも快く良人を赦し、二聖人の胸中は釈然として光風清月の昔に帰った。
 それからも二人は多くの善行を行ったが、1124年皇帝がまず病を得てこの世を去った。崩御の前皇帝は親友、重臣、司祭等を枕べに招き、国政に関し何くれといい遺した後、始めてクネグンディスと共に終世童貞を守った事実を打ち明けた。一同は驚いて今更の如く皇帝皇后の聖徳に感嘆し、また先にクネグンディスの無罪を証した奇跡も偶然ではなかった事を知った。皇帝に先立たれた彼女は、今は唯天主の為にながらえているようなものであった。彼女は暫く平和に国を治めた後、親戚のコンラド一世に国政を譲り、それからは祈りと慈善の業に日を送る身となった。

 良人の死後一年を経て、彼女は自ら建てたカウフンゲンの女子修道院に入る事とし、イエズスの十字架の一片を聖い遺物としてそこに献納し、美服はことごとく脱ぎ捨て代わりに手ずからこしらえた粗服をまとい、髪を切って司教の祝した冠布を着けた。そして楽しげに修道にいそしみ、前の高貴な身分を忘れた如く卑しい仕事も厭わず、分けても手が器用な為に、聖堂を飾る様々な品を作る事を好んだ。また今まで通り病人の見舞いなども喜んで勤めた。
 修道生活を送ること十五年、彼女も遂に招かれて天国に旅立った。遺骸は遺言によりバンベルグの聖堂に運ばれ、彼女が常に兄と呼び慣わしていた配偶ハインリッヒの眠る傍らに葬られたが、その途中彼女の徳を追慕する人民達は四方から集まり来たり、沿道に跪いて敬意を表したという。

教訓

 決して他人を邪推してはならぬ、又自分が濡れ衣を着せられたような場合は、全知なる天主を信頼して忍耐するがよい。天主は一旦は試練としてかかる不義を許し給うても、最後には必ず罪なき者を守り給うのである。






8-15-3 イスラムの聖者

2024-03-03 00:00:05 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
15 イスラムとインド
3 イスラムの聖者

 イスラム教徒だったトルコ人やアフガン人の政治的支配が、そのままインド人のイスラム教への改宗をうながした、とは言えない。
 多くのインド人が、この新しい異民族の宗教に帰依するようになった大きな原因は、支配者による軍事的な強権によるよりは、じつは平和的なイスラムの宗教者たちによる、熱心な宗教活動の結果だったのである。
 もっとも、宗教者とは言っても、スルタンや貴族たちにむすびついていた司法官や御用学者たちは、もっぱら自分たちイスラム教徒の世界のなかのことに忙しかった。
 かれらが、イスラムの旗のもとに集めなければならなかった異教徒たるインド人のほうには、あまり目をむけなかった。
 インド人、とくに都市の民衆や農民だちと接触して、これらの人びとにイスラムの教えを説いたのは、スーフィーと呼ばれて、イスラム教の神秘主義派に属する一群の人たちであった。
 「スーフ」というのは、粗末な衣を意味するのだという説が有力である。
 スーフィーの聖者たちは、ふつう、なりふりなどにはかまわずに、質素な庵(いおり)をむすんで、食事もろくなものを食べずに、ひたすら神の恩寵にすがるという、いわば祈りと暝想(めいそう)と修業の毎日をおくるのが常たった。
 「妙な人がいる。ろくに言葉も通じない。でも、どうやらえらい人らしい。おれたちに教えてくれるバラモンの聖者に似ているが、あの人の神様は、ただ一人、アッラーというのだそうだ。」

 そんな気持で、インド人は、これらのスーフィーの聖者たちに接し、関心を持ち、そしてしだいに、その教えと雰囲気とに影響されていたのかもしれない。
 十二世紀の末から十三世紀にかけて、このようなスーフィーの聖者たちが、バグダードから、イランから、アフガニスタンの高原地方から、つぎからつぎへとインドの地へやってきて、各地に布教の庵をかまえたのである。
 なかでも西北インドは、その中心で、とくにデリーには、すぐれた聖者があつまった。
 いまでもニューデリーにいくと、インドやパキスタンばかりか、西アジアの人たちにも名を知られているスーフィー聖者たちの墓廟がいくつかあり、にぎわっている。
 その周辺の地域には、デリーの王や貴族たちの墓や、かれらが寄進したモスク(礼拝所)などが、ぎっしりとたてこんでいる。
 聖者にあやかりたいがために建てたものである。
 ヒンズー教徒のなかからイスラム教に改宗する者がでた最大の要因は、このようにスーフィーの聖者の多年の努力によるものであった。
 もともとイスラム教とヒンズー教は、一方は絶対的な唯一神教、他方はなんでもかでも神様にしてしまう傾向の多い多神教的な性格を、つよく持った宗教である。
 一方は、ともかくも平等連帯の意識がつよく、どんなに人種や民族を異にしようとも、「アッサラーム・アライクム」(あなたに平安がありますように)という挨拶(あいさつ)で通じてしまう宗教である。
 それなのに他方は、やれバラモンだ、やれバイシャだ、それに相手にさわれば身がけがれるという、悪名たかい不可触民の差別性まで強調する宗教だったのである。
 だからインドにイスラム教の影響が根をおろしはじめると、カーストのひくいヒンズー教徒のなかには、身分的な枠から解放されたいがために、この新しい宗教に改宗する人たちがでてきたとしても、すこしも不思議ではなかったのである。
 ところで、ヒンズー教徒の社会はどうだったであろうか。
 仏教は、すでにずっと前におとろえてしまっている。
 そこでは司祭者たるバラモンたちが、あいかわらず精神的な権威をふりかざして、政治権力をにぎっていた王だちと、たがいにじぶんたちの立場を利用しあいながら、民衆の心と生活とを、宗教の名において支配していた。
 そのバラモン支配のたくみな社会的なしくみこそ、カースト制度だったのである。
 「カースト」という言葉自体は、もとはポルトガル語の「血統」とか「種」を意味する語であった。
 のちにインドにやってきたポルトガル人たちが、このヒンズー教徒の特異な身分制度を、このように呼んで以来、いまでは世界的に用いられるようになってしまった。
 要するに、生まれが人間の一生をきめてしまうという、まったく前近代的な身分制度である。
 イスラムは、それを変えるのにひと役買ったというわけであった。