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ビットコインが1000万円を突破!

2024-03-05 06:59:17 | 時事


 ビットコインが極端に上がり、ついに1BTC=1000万円を超えました。

 ビットコインに限らず、株価も、金(Gold)も、あらゆるアセットが上がっています。

 これは、とりもなおさず、法定通貨の価値が下落し続けているということです。たいして日本が繁栄しているわけでもないのに、株価が上がり続け、貴金属も上がり、ビットコインも上がり、物価も上がり・・・。

 私も自分のビットコインが上がって嬉しいのですが、こういうご時世です。各自の責任で、各自の計画で、資産防衛を行いましょう。資産を日本円以外の、もっと確からしい別のものに換えましょう。それが何かは、自分で考えて下さい。ご家族や周りの方と話し合ってください。いずれにしても、お金の価値が日増しに失われていくこの時代に、もしある程度の資産がありながら、漫然と預金を続けるならば、自分や家族に対する責任感を欠いていると言われても、仕方がないでしょう。

 あなたの資産は、あなたの労働の正当な対価なのです。日々の汗と涙の結晶なのです。あなたには、それを守る権利があります。価値の保存を図る権利があります。


8ー15ー5 ムガルの栄光

2024-03-05 01:11:16 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
15 イスラムとインド
5 ムガルの栄光

 一五二六年、カーブルの小国の王であったバーブルは、パーニーパットの戦いで、デリーのローディー朝の軍を破り、ムガル帝国の基礎をきずいた。
 この帝国の三百数十年にわたる支配の期間に、十七人の皇帝が王座にすわった。最後の皇帝バハーズル・シャーは、十九世紀なかばの「セポイの反乱」の結果、ビルマのラングーンに流され、異国に獄死した。
 この悲劇の大物のほか、一般の人たちにもよく知られている人物といえば、はじめの六人の皇帝だけにすぎない。
 ムガルの初期から中期にかけての六人の皇帝は、それぞれインド史上では、名のとおった人物となっている。
 この六人の帝王の、およそ百八十年にわたる治世の間に、ムガルの勢力は、帝国の体制を完成し、その支配も北インド全域から南インドの一部にまで及んだ。
 それは広大なインド半島の重要な部分を、ことごとく占めるにいだったのである。
 その後のムガル帝国たるや、弱小の皇帝のもとに、デリーに都をおく名ばかりの「帝国」にすぎなかった。
 しかも末期には、ようやくインドに権力を拡大してきたイギリス東インド会社によって、その傀儡政権にまでなりさかってしまったのである。
 ムガル帝国の初期と中期をかざる六人の帝王たちの治世については、たいていの史書が記している。
 そこで、ここではかれらの墓について紹介しながら、その建物を通じてうかがえる、中世インドの帝国の歴史の流れの一端をくみとってみたい。
 初代皇帝バーブルの墓だけは、インド国内にはなく、アフガニスタンの首都力ブールの郊外にある。
 カブールはひとあし中心部を離れると、もう茶褐色の岩山地帯である。
 アフガン人のローディー朝を倒してムガル帝国の基礎をつくりあげたバーブルは、父の血統ではチムールの五代目の孫を称し、毋の血統ではチンギス汗の血統をひいていると称した。
 そのバーブルは、どうやらインドの大都市デリーよりも、じぶんが多年にわたって支配していた王国の小都カブールを好いていたらしい。

 しかもバーブルは、なかなか筆のたつ人物であった。
 その日誌ふうの記録のなかでは、インドの食べもののまずいこと、気候のわるいこと、インド人のつきあいにくいこと、などを記しており、逆に力ーブルの果物のうまさなどを自慢している。
 インドで死んだかれの遺体は故郷のカブールへ運ばれて葬られた。
 いまもカブール郊外の岩山の斜面にある静かな庭園の一隅に、チュナールの大樹を背にして、小さな小屋のなかにおかれた小じんまりとした大理石の墓石の下に眠っている。
 小屋は、近代になって設けられたものである。
 ムガル二代目の皇帝フマーユーンは、長身のなかなかの美男子で、わかいころの生活は恋物語でいろどられている。この皇帝は、アフガン人のスール朝の王シェール・シャーによってインドを追われ、一時はペルシアの地に逃散をよぎなくされた。
 しかし、やがてデリーの王座を回復して、ムガル帝国の権威をふたたびもとに戻した。
 かれの死後、デリーに建てられた墓は、いまではニューデリーの西部地区にのこっている。
 それは、インドの墓廟建築のなかでは、ずばぬけた規模をもつ。
 当時としてはインド最大のものであった。
 しかも、この墓廟の広大な基壇の四周には、一族郎党から子孫の末にいたるまで、多数の墓をならべる小部屋がならんでいて、現代流にいえば、まさに墓のマンションといった感じである。
 三代皇帝はアクバル。古代のアショーカ王とならんで、インド史上もっとも知られた帝王である。
 アーグラの北郊、ほど遠からぬ地にある墓廟は、外観も堂々として、しかも落着きのある建てかた。
 まことに、このムガル最大の皇帝の墓所たるにふさわしい。
 アクバルは帝国の体制を整備し、ムガル支配を安定させたが、同時に「神聖宗教」なる独自の宗教思想を主唱し、みずからをその神に近づけようとつとめた。
 この思想家帝王ともいうべきアクバルが、じつは文盲で宇がよめなかったということは、世界史のなかでもめずらしいことがらの一つとされている。
 こうしたアクバルの廟の地下の墓室は、なんの飾りけもない、白塗りの大きな部屋に、たった一つの墓石を中央に置いただけである。
 二つの明かりとりの窓から入ってくる光線だけが、地上と地下とをむすびつけ、墓石をおおう黒布を浮かびあがらせている。
 どんな華麗な墓室も生みだせない落着いた、しかも壮重な雰囲気をかもしだしている。
 それは帝国の体制確立の陣頭に立ち、しかも思索をかねた中世インドの主人公に、まことにふさわしい。
 アクバルの子で四代目皇帝のジャハーンギールは、美女アナールガリーとの悲恋の物語の主人公の王子として、ひろくインドの民衆にまで知られている。
 即位してのちは、酒色を好み、やり手の美妃スールジャハーンによる「女袴政権」(ペチコート・ガバメント)のかげにかくれて、やや精彩のあがらない皇帝であった。
 この二人を埋葬した墓も、西パキスタンにおける歴史の都、ラホールの郊外にのこっている。
 一風かわった建物で、いまは壁面のはなやかな装飾もはげおちてしまっているが、周辺のシュロやパームの樹や灰色の砂地とあいまって、砂漠のなかのオアシスに設けられた宮殿のハレムのような夢幻の趣がある。
 王妃ヌールジャハーンは、砂漠で生まれおちたという。
 そのペルシア系美女の眠る場所として、この墓も、まことにふさわしい雰囲気につつまれている。
 タージ・マハルについては、いまさらくわしく述べる必要もあるまい。
 この「大理石の夢幻」とまでいわれた墓廟は、満月の輝くときでも、新月の暗闇でも、えもいわれぬ美しさをたたえる。
 およそ世界で、これはどの規模をもち、これほどに美しく、これほどに端正な墓廟を建ててもらった女性は、ムガル五代皇帝の妃ムムターズ・マハルをおいて、ほかにその比をみないであろう。
 皇帝ジャージャハーンは、このタージとまったく同じ墓廟を、ジャムナー川の対岸につくり、両者を橋でむすぶことを夢みていたという。
 ムガル帝国中期の繊細な建築をはじめ、芸術一般も、この五代皇帝の治世に最高潮に達した。
 ムガルの首郡デリーをはじめ、アーグラやラホールなどは、西アジアのイスラムの世界にも、その名を知られる国際的な都市となっていた。
 タージ・マハルにせよ、デリーやアーグラやラホールの王宮、またモスクにせよ、その繊細な美しさは極限に達した感がある。
 もう一歩すすめば、それは美の崩壊であり、様式の堕落であるという感じさえする。
 実際、ジャハーンギールやシャージャハーンの時代、その華麗な宮廷生活に象徴されるムガル中期の情勢は、つぎの皇帝オーラングゼーブの治世における崩壊への因子を秘めていたとみてよいであろう。







クレモナの聖エウゼビオ 

2024-03-05 00:18:06 | 聖人伝
クレモナの聖エウゼビオ                         記念日 3月 5日



 エウゼビオが聖ヒエロニモにローマで初めて会った時、ヒエロニモはダマソ教皇の秘書をしながら、厳しい修徳の道を人々に説教していた。エウゼビオはこの厳格な聖書学者に心を惹かれて、彼に従って聖地に行った。

 途中のアンチオキアで、ヒエロニモの友人であった聖女パウラとその娘の聖女エウストキウムが加わり、4人は、イエズスが地上で過ごされた地所を巡礼し、最後に、ベトレヘムで住むことに決定した。

 ヒエロニモは、非常に貧しい人々が多数ベトレヘムに来ることに感動して、彼等のために宿舎を建てることに決め、エウゼビオをダルマチアとイタリアに送って資金を集めさせた。聖女パウラは、このためにローマの土地を売り、エウゼビオもクレモナの自分の土地を売って助けた。

 400年にエウゼビオはクレモナに帰り、死ぬまでそこに住んだと伝えられているが、他の説によると、彼はベトレヘムに帰ってから、ある修道院の霊的指導者となって余生を過ごし、死後、その遺体はヒエロニモのそばに葬られたという。ご誕生の教会の地下の祭壇の一つは彼の名でささげられている。