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【書評】三体

2024-03-14 14:12:41 | 書評


【書評】三体

 今回読んだのは、中国人のIT技術者の書いた近未来~超未来の宇宙SF小説です。もうすぐ読み終えますが、少なくとも2編『三体II』まではいい小説です。最終編『三体III』になると、少し世界観が崩壊しています。

(内容)

 地球の隣の星系、プロキシマ・ケンタウリにも知的生命体が住んでおり、あることがきっかけで、地球への侵攻を開始し、いろんな問題が起きる、という物語です。

 少し詳しく書くと・・・

(物語の前提)

・三体星系

 太陽系の隣の星系、ケンタウルス座α星系には、3つの恒星があるが、互いに不規則に動く。その周りを回る12の惑星も不規則な動きを余儀なくされ、1つ、また1つと恒星に飲み込まれて滅びていき、いつしか一つの惑星が残るのみになっていた。

 その惑星の公転周期は、惑星が3つの恒星のうちのどれか一つに捕まって、その周りを規則正しく公転する恒紀と、3つの恒星の間を不規則に動く乱紀に分かれる。恒紀には気候は安定するが、乱紀には灼熱地獄になったり、酷寒の世界になったりと、それはそれは過酷な環境であり、そこで育った生物、特に知的生命体 三体人は、独特の進化を遂げた。乱紀が来ると脱水して、全身の水分を抜いて仮死状態になり、灼熱や酷寒に耐えながら、次の恒紀が来るのを待つのである。

 また、そんな環境下では、全体主義の国家が続きやすく、地球の20世紀、三体星系では、厳格な階級制と労働年齢を過ぎると強制的に脱水させられ、焼かれてしまう極端な国家が成立していた。ただし、知的生命体の発祥は、地球と比べて、数百万年早く、極端な環境下で既に200以上の文明が栄えては滅んだが、科学技術では、地球の人をはるかに凌駕していた。

 そして、3つの恒星の動きは、基本的に不規則なので、その惑星もいつかは他の星のように、恒星のどれかに進路を乱され、飲み込まれてしまうだろう。そうなる前に、脱出しなくては・・・。そう考えていたところに、地球からの通信が届く。

・地球との接触

 強力な電波でメッセージを送ってきたのは、1970年代の地球外文明探査プロジェクトが進む地球。地球から4.2光年の三体星系では、その受信に成功して、メッセージを返す。三体の監視員は善意で「侵略の企図がある。決して返信するな」と送信するが・・・。

 文革で家族ともどもひどい弾圧を受け、政治にも人生にも絶望していた研究者の葉文潔は、「助けてほしい。人類文明は危機に瀕している」と、あらぬメッセージを返してしまう。

 メッセージを受信して、地球の正確な位置を知った三体文明は、その距離が近いことに狂喜し、移民船団(=侵略艦隊)を派遣する。ただし、それでも4.2光年はあるので、彼らの能力で400年近くはかかる、

 というストーリーです。

 以後、地球の側は、さまざまに準備して、迎撃なり避難なりの努力をするのですが。優秀な学者や軍人を冬眠させて、200年後に送ったり、あの手この手で頑張りますが、大航海時代、中南米の古代文明が西洋人にかなわなかったように、どうやっても、勝つことはできません。その後、二転、三転するのですが・・・。

(感想)

 1巻にあたる『三体』から3巻目の『三体II下』までは、かなりバランスよく書かれています。冬眠覚醒後の未来都市やそれまでの歴史も、毎回克明に描写されたり、登場人物の会話を通じて紹介されており、時間旅行をしている気分になれます。

 ただ、最終編の『三体III』あたりになると、他のいろんなSFにも似て、世界観の崩壊が起きており、残念な要素も多く、それはマイナス点です。

 例えば、相対性理論を中途半端に肯定した結果、おかしなことになっていたり・・・

 相対性理論は、光の速度を一定としますが、この小説では理論は不完全であり、可変であった、とします。それで、最終巻では、しばしばいろんな場所で光の速度が変わったりするのですが、そのくせ登場人物は相対性理論の別の法則には縛られます。あらゆる物体もエネルギーも、光速を超えられない。だから、光速が遅くなった世界では、えらいことになってしまいます。物体の移動速度が、遅く縛られたりするのです。

 いや、これ、あり得ないでしょ(笑)と、突っ込みを入れたくなる設定です。光の速度不変を変えるなら、他の箇所も変えないと・・・。例えば、光の速度を亀の速度にした場合、人は殆ど歩くことができなくなります。そんなこと、起こり得ますかね? 相対性理論は、光の速度不変を含め相対性理論の前提で成り立っているんだから、前提が壊れた世界では、他の箇所も適宜調整しないとおかしくなるでしょ、と思うのですが。

 他にもいろいろ、突っ込みどころはあったのですが、それはSF小説ですから、仕様上、当然ですね。

 ただ、あともう一つ、目だった不満点、というかこの物語の特徴が。

 この小説では、異星人からの侵略なり、さらに全く別の異星人からの地球破壊などに備えて、人類の太陽系脱出が何度も計画されますが、そのたびに「逃亡禁止法」などが制定されて、組織的な地球脱出は禁止になってしまいます。このあたりは、作家のお国柄を感じさせてくれました。

 この作家は、何が何でも、地球人を太陽系の外に避難させたくなかったようです。地球から外宇宙への大移住ができれば、それはそれで、ストーリーが広がって、物語も面白くなり、続編も余分に書けて、作家は儲かると思うのですが、なんでと思ってしまう設定ではありました。この辺は、ちょっと普通のSFの作りじゃない。最近は、中国政府がSFにも多少の規制をかけていると聞きます。そうした影響があるのでしょうか、と勘繰ってしまうような作りでした。



8-16-4 イスラム帝国の完成

2024-03-14 14:05:45 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
16 オスマン・トルコ
4 イスラム帝国の完成

 メフメト二世のあと一代おいて、セリム一世(一五一二~二〇)が即位したとき、イランには、シーア派(ジーイー派)イスラムを国教とするサハビー朝が成立していた(一五〇二)。
 シーア派とは、オスマンの国教たる正統派のスンナ派に対立する、異端の少数派である。
 セリムは、サハビー朝がハンガリーと通謀するのをおそれ、またオスマン領内のシーア派教徒が反乱をおこしたため、この正統派イスラムの敵サハビー朝に立ちむかった。
 かくて小アジア東部のジャー(皇帝)、イスマーイール一世の軍を撃破し、首都タブリーズを占領したのである(一五一四)。
 つぎに、セリムは、エジプトのマムルーク朝に鋒先(ほこさき)をむけた。
 マムルーク朝は正統派イスラムを奉じ、アッパース朝の子孫をカリフ(予言者マホメットの後継者で、イスラム世界全体の首長)にいただき、オスマン帝国のごときは成りあがりものにすぎぬとして、これを軽蔑していた。
 そこでセリムは、まずシリアに軍を進めて、ダマスクスやエルサレムなどを征服する。
 さらに南下してカイロを占領し、マムルーク朝をほろぼした(一五一七)。
 いまや、イスラムの聖地たるメッカとメジナとの保護権を獲得したのである。
 のみならず、このときセリムは、まったく名前だけの存在にすぎなくなっていたカリフから、その尊号をゆずりうけたといわれる。
 こうしてマホメットを継いだアブー・バクル以来、連綿としてつづいてきたカリフの位は、予言者とは血縁的にまったく無関係のトルコ人スルタンの手にわたった。
 オスマン・トルコのスルタンは、世俗的権力者たるとともに、正統派イスラム世界における精神的最高権威者カリフとして、北アフリカをふくむアラブ世界に君臨することとなったのである。
 それと同時にセリムは、その国内におけるシーア派教徒に弾圧をくわえた。
 オスマン帝国が、単にビザンチン帝国の継承者であるだけでなく、対外的にも対内的にも、かってのイスラム帝国アッバース朝の継承者、正統派イスラムの擁護者としての地位を確立するにいたったのは、このセリム一世のときからなのである。

メフト二世のコンスタンチノーブル攻略から始まったオスマン・トルコ帝国の拡大は、
セリム一世を経て、スレイマン一世の時世に最大領域に達した。

 セリム一世をついだスレイマン一世は、その半世紀にちかい治世(一五二〇~六六)の間に、ハンガリーに五回、オーストリアに三回、ロードス島に一回、モルダビア(黒海の西北)に一回、そしてイランに三回の遠征をおこなった。
 この数字は、セリムの時代に東方へむかっていたトルコの勢力が、その子スレイマンのときになると、くびすをかえしてふたたび西方へ発展するにいたったことをしめしている。
 スレイマンは、神聖ローマ皇帝ガール五世と対立するフランス王フランソワ一世とむすび、ヨーロッパヘ進軍した。
 ドナウ川流域のベルグラードを占領し、ブダペストの南方でハンガリー軍を破って、ハンガリーを支配下におさめる(一五二六)。
 さらに長駆してウィーンを包囲攻撃したが、これは失敗におわった(一五二九)。
 トルコ軍の活躍は海上でもはなばなしい。その艦隊は、イタリア半島の東南、イオニア海の入口で、スペイン・ベネチア・ローマ教皇の連合艦隊をうちやぶって(一五三八)、地中海の制海権をにぎった。
 このようにして、スレイマンの治世には、オスマン・トルコの三日月旗は、小アジア、バルカン半島はもちろん、ハンガリー、コーカサス、メソポタミア、アラビア半島から北アフリカにひるがえる。
 その艦艇はツーロン、マルセーユにまで進出するにいたった。
 スレイマンはあたらしい法典を発布したが、これはイスラムの聖法(シャリーア)に規定されぬ事項に関して規定したものである。
 よって、トルコ人から「カーヌーニー」(立法王)とたたえられた。
 オスマン帝国は、スレイマン一世のときに黄金時代をむかえ、イスタンブールにはイスラム文化の花が絢爛(けんらん)と咲きはこった。
 イスラム帝国は、アラブならぬトルコ人の手によって、ここに完成されたのである。



現代の最大の毒 聖マクシミリアン・コルベ

2024-03-14 14:04:22 | 格言・みことば
現代における最も致命的な毒は無関心である。神を賛美することに限界はないはずなのに、このようなことが起こるのだ。それゆえ、私たちは自分の力の及ぶ最大限の範囲で神を賛美するよう努めよう。

聖マクシミリアン・コルベ






聖マチルダ皇后    St. Mathildis Vidua

2024-03-14 13:31:04 | 聖人伝
聖マチルダ皇后    St. Mathildis Vidua                  記念日 3月 14日


 聖マチルダ皇后は9世紀の末にドイツ、ウエストファーレン州のテオドリコ侯爵家に、もとデンマークの王女ラインヒルヂスを母として生まれた、当時は子供を修道院に託して教育を授けるのが上流社会の習慣であったから、彼女もそれに従って叔母が院長を勤めているヘルフォルド女子修道院に預けられ、一般必要な知識と共に宗教もよく教え込まれ、敬虔に生い立ったのである。その内に彼女は若くしてサクソニア候ハインリッヒと結婚し、夫婦仲も睦まじく三男二女を挙げた。その結婚後ちょうど三年目の912年の事である。ドイツ皇帝コンラド一世が崩御になり、ハインリッヒがその後継者に推戴され、したがってマチルダも国母と仰がれる身となったが、謙遜な彼女は少しも高ぶる色なく、かえって貧者に恵み病者を見舞い人民を憐れむ事を忘れなかった。のみならず夫が生来短気で立腹しやすい性質であるのを、柔和な態度でなだめ、また囚人を釈放し罪人を寛大に処分するようとりなした事も度々あった。されば国民はこぞってその徳を讃仰し、彼女を慈母の如くに敬愛したのである。なお、彼女は修道院が一国文化に寄与する所甚大なるを思い、夫と共に数カ所に之を設け、その一つなるクエドリンブルグ修道院を自分達の墳墓の所と定めさえした。

 936年ハインリッヒ皇帝は重い病気に罹り、マチルダの手厚い看護も効なく崩御になった。その時最早朝ではなかったが、皇后は一刻も早く亡き夫の為神の子羊の犠牲を献げたいものと、まだ食事を摂らぬ司祭があったのを幸いに、すぐさまミサ聖祭を執り行わせ、自分もそれにあずかって心から死者の冥福を祈ったのである。
 御ミサの後マチルダはその司祭に心ばかりの礼として自分の黄金の腕輪を贈り、皇帝の棺の前へ行って更に別離の涙にくれたが、やがて忘れ形見のオットー、ハインリッヒ、二王子を招き「見られる通り黄金の冠を戴く皇帝といえど、時来たれば一般人民と均しく死して天主の審判の法廷に出でねばなりませぬ。それにつけてもそなた達は身分あるだけよくよく我が身を慎み、善を行い悪を避け、あっぱれ明君となって天主の聖旨に添い、死後の永福を受けるように努めて下さい」と懇々と教え諭した。
 しかし新たに帝位に即いたオットーはバワリア候となった弟ハインリッヒと、母のいましめも忘れたように長い間争って、彼女に深い心配をかけた。そしてやっと仲直りをしたかと思うと、今度は「マチルダ皇太后は取るに足らぬ者を救う為に財宝を浪費しておられる」というわるものの讒言を信じ、弟もろとも母の財産を取り上げてしまった。
 マチルダはこの我が子の不義にいたく心を苦しめたが、自分が宮中にいてはかえって風波の原因と、何事も言わずにそこを去り、エンゲルン修道院に身を寄せ明け暮れ天主に仕えて不幸な子等の為にその御ゆるしと改心の恵を願っていたのである。
 所がマチルダが宮殿を出てからというものは、国内に様々の災厄不幸が続くばかりであったので、聖職者達や諸候はこれを天罰と考え、皇后の口を経て皇帝に皇太后を呼び戻すように懇願したので、オットーも深く前非を悔い、自ら母を迎えに赴き衷心から謝罪の意を表したのであった。
 マチルダ皇后はかくて再び宮中の人となったが、豪奢な生活などは少しも望む心なく、唯思う存分憐れな人々を救い得る境遇になり得た事を喜んだに過ぎなかった。その慈善の数々は彼女の死後6年を経て編纂された伝記に詳しいが、その一部を挙げて見れば「彼女は日に二回貧者に食を与え、己の摂る食物より美味なものを憐れな人々に贈った」とある。また土曜日は夫の命日でもあり主日の前日でもあるので、特に多く施し、且つ貧民の為風呂を立てさせ、自ら何くれとなく手伝いをした事も稀ではなかった。

 マチルダの祈りに熱心なことは実に感に堪えぬものがある。彼女はしばしば夜中でも侍女と共に起き、聖堂を訪れては祈った。そして大抵の日は怠らずダビデの詩百五十篇を唱えたとの事である。
 955年、あたかも彼女がクエドリンブルグの修道院に滞在していた時の事である。バワリア候たりし息子ハインリッヒの訃報がもたらされた。するとマチルダは早速修道女達に彼の為天主の御憐れみを祈り求めさせ、なお亡き夫と子供の冥福を願う目的から、ノルドハウゼンに女子修道院を建てた。
 後帰天の時の近づいた事を感じたマチルダは、亡夫の傍に葬られる事を望んで、その墳墓のあるクエドリンブルグ修道院に赴き、そこで968年3月14日永眠した。そしてその時刻はちょうど彼女が常に貧者に施し物を与えた時刻であったという。


教訓

 本文にもある通り、聖マチルダはわが夫、我が子の死去に逢うと、何よりもまず或いは司祭に御ミサを献げてもらい或いは修女等に祈ってもらう事を求めた。之は彼女が如何に活き活きした信仰を持っていたかという証拠になる。何となれば真に公教の教える死後の世界を信ずる者には立派な葬式を出し、見事な石碑を建立するなどの外面的な事よりも、御ミサや祈りこそ死者を幸福にする無上の道であるからである。