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夏淑琴(か・しゅくきん)さん!来日!!

2009-06-30 16:49:02 | Weblog
●(転載)(夏淑琴 【か・しゅくきん】さん名誉毀損裁判)
皆さんのご支援のおかげで
今年の2月に最高裁で完全勝利を勝ち取ることができました。
皆さんとこの素晴らしい勝利をお祝いしたいと思いますので
ぜひぜひご参加ください。

夏さんや南京の弁護士、
笠原先生や日本の弁護団からも
お話をしていただきます。

夏淑琴さん、南京大虐殺記念館長が来日します!!


==========================
 
夏淑琴さん名誉毀損裁判
 大勝利記念集会のお知らせ

==========================

 南京大虐殺の被害者・夏淑琴さんに対する名誉既存裁判は、今年の2月5日、2月5日
、最高裁第一小法廷より棄却する決定を受け、最高裁での勝利が確定しました。
 この勝利判決を祝して、中国より原告の夏淑琴さんをお招きし、勝利報告集会を開催い
たします。
 ご支援くださった皆様とともに、この裁判の意義を確認し、そして勝利をお祝いしたい
と思います。

 ・日時  7月5日(日)  午後1時30分~4時30分
 ・場所:江東区豊洲文化センター  第5・第6会議室
 ※地下鉄メトロ有楽町線 豊洲駅徒歩2分
 ・参加費:800円
 ・お問い合わせ
  事務局・荒川 090-3801-7184

▽南京大虐殺の被害者・夏淑琴さん
 1937年12月13日、南京での凄惨な虐殺が巻き起こる中、日本軍によって夏淑琴さんの
家族、そして隣家の人々が、夏淑琴さん(当時八歳)とその妹(当時四歳)を除いて皆殺
しされました。夏さんご自身も日本軍に銃剣で刺されるなどの被害を受けましたが、妹と
ともに、奇跡的な生還を遂げました。

 ▽夏淑琴さん名誉毀損裁判とは?
 南京大虐殺否定派の中心人物である東中野修道氏(亜細亜大学教授)は、『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社、1998年)で、夏さんを強引な理屈で「ニセ証人」だと侮辱しま した。
 この事実を知った夏さんは、00年11月、中国・南京で名誉毀損訴訟を起こしました。
東中野氏と松村俊夫氏及び展転社を被告とした裁判でしたが、被告人らは代理人も立てず、
一度も出廷することなく敗訴が決定しました。
 この中国での訴訟に対し、05年1月、東中野氏と展転社は、中国の裁判での賠償金支払
い 命令に関し、日本国内での支払い義務がないことを確認する「債務不存在確認訴訟」を
起こします。
 この訴訟に対し、06年5月、夏淑琴さんが原告となり、東中野修道と展転社を被告とし、
 反訴として名誉毀損訴訟を提起し、国内で本格的に裁判で戦うことになりました。

▽判決の内容
 一審では、ほぼ原告側の主張を認め、東中野氏と展転社に対して350万円、東中野氏に
対し50万円、総額400万円の支払いを命じる判決が下されました。
 しかし、注目すべきは金額もさることながら、判決文で東中野氏の研究姿勢について
「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果という
に 値しないと言っても過言ではない」 と厳しく断じている点です。
 二審の東京高裁では被告・原告ともに控訴を棄却、最高裁でも被告の上告を棄却したことにより、一審でのほぼ完全な形の勝利判決が確定しました。

> *-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
事実・COM(南京への道・史実を守る会公式HP)
http://jijitu.com/

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-06-30 07:51:27 | Weblog
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「日の丸」・「君が代」反対!!


●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。
中国通信社


●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

7、戦争責任を追及すべし

2、責任追及を止めず

戦後、日本の右翼勢力と保守勢力は731細菌部隊と細菌戦の責任を懸命に隠そうとしたが、目覚めた一部の元日本軍人と進歩勢力は日本の細菌戦責任の追及に努め、追求活動は進展を収めた。

●1992年から、日本の平和団体が「731部隊展実行委員会」を設置し、日本各地にて日本軍による細菌戦と生体実験の犯罪行為を公表している。同時に一部の元日本軍人も展示場に足を運び証言を提供した。かつて中国人をハルピンに護送した元憲兵の三尾豊しは、のちにかの中国人たちが731部隊で殺害されたことを知った。

●「731部隊展」では、大量の分かりやすい資料で日本軍の暴行を紹介しており、多くの人々が戦争中の日本軍人の残忍さを初めて知り、これは日本社会で大きな反響を呼んだ。

●展示と同時に、日本の平和を愛する人々は募金活動を行い、中国での731細菌部隊罪証陳列館の設置と731部隊旧跡の保護に充てた。

●田村(篠塚)良雄氏は当時自分が解剖室の助手として被験者の顔にブラシをかけたことを証言した。

●小笠原氏はその証言で、当時、731部隊標本陳列室を掃除したとき、ホルマリン溶液に漬けられたソ連人被験者の首を見たことなどの状況を話した。


日本軍細菌戦部隊


日本陸軍軍医学校(東京)

関東軍第731部隊(ハルピン) ・・・関東軍各師団防疫給水部

華北方面軍甲1855部隊(北京) ・・・華北方面軍各師団防疫給水部

華中方面軍栄1644部隊(南京) ・・・華中方面軍各師団防疫給水部

華南方面軍波8604部隊(広州) ・・・華南方面軍各師団防疫給水部

南方方面軍岡9420部隊(シンガポール) ・・・南方方面軍各師団防疫給水部

関東軍第100部隊(長春)



   516部隊

   731部隊

   731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。  


   化学兵器CAREみらい基金ブログ

   大久野島(毒ガス島)

   中国人戦争被害者の要求を支える会

   中帰連

   南京への道:史実を守る会

  
南京大虐殺   

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

蒼開甲(男、67歳)の証言

日本の侵略軍が南京を占領した時、私は20歳で、玄武湖の老齢洲(今の動物園)に住んでいましたが、もう結婚していて、1歳余りの男の子が1人いました。家中が私の玄武湖で魚を捕るので生活していました。日本軍が掃蕩するので、妻は朝子供を連れて芦葦にもぐって隠れ、夜家に帰って夜を過ごしていました。
 1938年の1月2日、昼の1時頃、家で昼飯を作っていたら、突然完全武装した日本兵が2人闖入して来て、「ホアクーニャン(=若い綺麗な女の子)」を出せと言いました。いないと言うと、すごく怒って、その内の1人が小銃を手にして私の腹部に1発撃ったので、弾が腹部を貫き、私は地に倒れ、血が止まらず、くらんで分からなくなりました。父がすでに日本軍に捕まって使われていたので、家に誰が居て私を救護してくれたと言うのでしょう。日本軍が行ってしまってから、村の人たちが戻って来て私の惨状を見、みんな私が死んだと思って、洞穴まで運びました。気が付いたら、死人が1人私の体を上から押し付けていると分かり、骨折ってその人を押しのけ、頑張って洞穴を這い出たら、もう午後の5時頃で、夜、父が逃げ帰って来て、やっと私を連れ戻してくれました。それから膏薬で治療して、傷口はだんだん好くなりましたが、今でも傷痕はまだあるのです。
 後で分かったのですが、私の上で押さえつけていたあの死んだ人は周太山という人で、私がやられた後で日本軍に撃ち殺されたのです。(張登風と田梅が記録)

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

9条がゆきわたった世界

「武力によらずに平和をつくる」という日本国憲法9条の考え方は、国家や人種、民族の壁を越えて「地球市民」として生きていくための共通の鍵となります。
 「世界中の国が憲法9条をもてば、すべての国は戦争ができなくなる」、それは無理なのでしょうか。いいえ。奴隷制に苦しんだ黒人の人々が、人間として生きる権利を獲得したように、長いあいだ社会から排除されてきた女性たちが参政権を得たように、戦争も、私たちが働きかければなくせるものなのです。
 第2次世界大戦を経験した人類は、「もう2度と悲惨な戦争を繰り返してはならない」という思いで、国連をつくりました。国連憲章は、「武力行使をしない」「軍事費は最小限にする」ことを定めました。しかしその国連憲章がつくられたあとに、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。そして、日本の憲法9条が生まれました。
 国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。
同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-06-29 13:22:05 | Weblog
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731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

7、戦争責任を追及すべし

2、責任追及を止めず

戦後、日本の右翼勢力と保守勢力は731細菌部隊と細菌戦の責任を懸命に隠そうとしたが、目覚めた一部の元日本軍人と進歩勢力は日本の細菌戦責任の追及に努め、追求活動は進展を収めた。
●1941年12月、湯浅氏は軍医として中国山西省潞安陸軍医院で、中国人への生体解剖を目撃した。責任を強く感じた湯浅氏はこの犯罪行為を暴く活動に積極的に参加し、80歳を超えたにも関わらず、今も日本各地で講演を行い、自らの経験を以って若い世代を教育し、またそれを通じて悔恨と謝罪の意を表している。
●陰地氏は、元日本関東軍憲兵隊憲兵。1944年に2名の中国抗日人士を黒龍江省福錦県からハルピンまで護送。後にこの2人が生体実験により無残に殺されたことを知った彼は、自分の責任を強く感じた。敗戦当時、部隊から戦時状況の他言禁止の「緘口令」が出ていたが、彼は毅然として当時の事情を公表し、日本軍の暴行を暴いた。

南京大虐殺 
 
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
本人の受けた害

張文泉(男、72歳)の証言

1937年までは、家は大輝復巷10号でした。日本軍が南京に侵入した時、私は金陵中学の難民区の中に住まっていましたが、難民が割りに多いのに、中学には井戸が1つしかなく、水が足らないので、私は水を担ぎに外へ行きました。1937年の冬月14日の早朝、私が外へ出て直ぐ、日本軍の一隊に出くわしたところ、彼らは私が水を天秤で担ぐその桶を取り上げ、地に放り投げて、脚で桶を踏みつけ、自分たちが背中に背負っていた物をおろして、(40斤くらい)、替わりに私に強引に背負わせ、その隊伍に付いて行かせました。昼の12時くらいに、板橋まで来ると、又無理に私にご飯を炊かせ、炊き終わったら私が毒を入れていないかと恐れて、私に先に毒見をさせてから、やっと自分たちも食べたのでした。飯を食い終わったら、又日本軍の別の一隊が来て、その中の馬に乗っているのが、馬の左脚の蹄(ひづめ)が落っこったので、、それを打ち付けました。ところが馬がおそらくは痛みから身をかばおうとして、突然片足をあげたのが、ちょうどこの男の口に当たり、顔が途端にふくれあがりました。そうしたら、その日本兵が怒って、私に当たり散らし、直ぐに腰から日本刀を抜いて、下腹をめがけてこっ酷く2太刀突いてきました。ベルトは消防ホース用のズックで出来ていて、とてもぶ厚く、突かれた時は痛く感じませんでした。午後、また続いて彼らのついて出かけ、4,5里くらい行った頃に、何となく体が熱っぽいので、自分でちょっと手でなでたら、手が血でべっとりし、その時やっと痛みがたまらないくらい感じて来たのですが、声を上げるわけにもいかず、ベルトで傷口をしっかり押さえるしかなく、しばらくして痛みも止まりました。
 夜になったら、私と同時に捕まった馬大福たちが、こっそり私に「暗くて日本軍に見えないから、俺たち逃げようや!」と言いました。それを聴いて、この連中についていち早く走りました。ところが、ちょうど江寧橋の北まで走った所で、後ろから機関銃が突然響いてきて、私の後ろを走っていた何人かが、みんな撃ち殺されました。その時、私は逃げ切れないんだと知って、もう走らずに、また、新たに日本軍に捕まって帰って行きました。私と同時にもう一度捕まったのは、張道全(句容の人で30歳余り)と余勝顔(淮安の人で30歳余り)の2人で、また日本軍に強いられて江寧の「張而生薬店」で飯を炊かされました。腊月の20日に、また日本軍について南京の昇州路まで行くのに、3人で道々どうやって逃げ出すか相談していました。黒廊巷まで行って、私たちある人家の内庭に駆け込んで隠れてしまい、日本軍がどんなに大声で私たちを呼ぼうとも、死んでも答えず出ても行かずで、彼らはどうしようもなくて、行ってしまいました。私は何とか生き延びられて、また難民区に帰ってきたのです。(井升安と丁亜慶が記録)

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

9条がゆきわたった世界

  みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。

 第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-06-28 05:08:55 | Weblog
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「日の丸」・「君が代」反対!!
●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
731部隊の足跡
中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より
7、戦争責任を追及すべし
1、審判 
 1945年8月8日、ポツダム宣言に基づき、ソ連は日本に正式に宣戦布告。交戦後、ソ連は一部逃走中の731部隊隊員を捕獲した。1949年、ハバロフスク裁判では山田乙三をはじめとする元関東軍戦犯が裁かれ、中には731部隊の生産部部長川島清、細菌生産班班長の柄沢十三夫、孫呉支隊隊長西郡英及び牡丹江支隊隊長の尾村正男などもいた。裁判では、川島清と柄沢十三夫が第四部の細菌製造量などの仔細な問題について証言している。その他、彼らは731部隊の中国の寧波、常徳、及び浙贛鉄道沿線地区での細菌戦実施に関する状況も認めた。こうして山田乙三、川島清には懲役25年、柄沢十三夫、西郡英などには懲役15年から20年の判決が言い渡された。
●張清林さんはかつて162支隊の労働者で、細菌部隊が当時使用したネズミ飼育用の鉄カゴを提出し、日本軍による細菌兵器研究の犯罪行為を証拠立てた。
●瀋陽軍事裁判での榊原秀夫に対する尋問時の対話:
以下大意
問:医学専門知識を持つあなたは、細菌兵器は人類にどんな結果をもたらすのか当時すでに知っていたでしょう?
答:私は細菌兵器は反人類であること、「ジュネーブ条約」に反することを知っていましたが、私は完全に意識的に国際条約に背きました。私は自分が極端残忍で非道な罪を犯したことを認めます。
南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
  
本人の受けた害
薛家林(男、74歳)の証言
 
家は棲霞山衡陽寺でした。1937年の冬月に、日本兵が村に入って来ました。村の人は、行くのは行き、隠れるのは隠れました。私は行くのに間に合わなくて、日本軍に捕まりました。日本軍2人が私に道案内を命じ、ホアクーニャン(花姑娘=若くてきれいな女の子)を探しに行きました。日本軍は陳徳山の家の門を蹴り開けて、炉端に近寄り、鍋の蓋を開け、ぐつぐつ煮えているお粥を見つけました。日本軍の1人が首をかしげ「うん?」と一声発したのは、「こんなにたくさん粥がたけてて、人はどこへ行ったんだ?」という意味のようでした。もう1人の日本軍に「ホアクーニャン、いるのか?」と聴かれ、私は思わず「いないよ」と応じてしまいました。この日本兵は怒って、猛然と刀を抜いて斬りかかってきました。ひょいと首をかしげ、この一太刀をかわしたかったのですが、「カチン」とだけ聞こえて、日本刀が私の口に来ました。私は何も構わず、身を巡らして、いち早く駆け出しました。角は曲がるは、路地は抜けるはで、日本軍は私に振り切られ、私は後山の林に潜り込んで隠れました。その時分かったのですが、唇が上下とも切れて四つに別れ、左の歯が5つ6つ切り落とされていて、血が下あごから滴り落ち、汗が全身から噴き出し、痛くてたまらないのに、叫べもしませんでした。
 その時、私は九死に一生を得、生きて来れたとは言うものの、口の傷痕は永遠に日本軍の犯罪行為を記録しているのです。(張良と李家坤が記録)
憲法9条
「Imagine9」【合同出版】より
ひとりひとりの安全を
大事にする世界
 また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。
 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-06-27 06:59:08 | Weblog
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731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

6、罪証を隠滅、狼狽な逃亡
 
 1945年、日本軍のアジアと太平洋の戦場におけるたび重なる敗北に伴い、石井四郎は日本の大勢がすでに去ったことを知り、その年頭に731部隊の留守者リストを作成した。731部隊の行為が国際条約にひどく違反していることを日本関東軍は十分に承知していたことから、その罪を隠すため、731部隊は逃亡前にすべての施設を完全に爆破し、重要物資と核心資料を日本に持ち帰った。

●731部隊隊員の大部分は中国の通化を経過し、丹東及び韓国釜山(ぷさん)を経由し帰国した。
●日本軍投降後、731部隊隊員のほとんどは日本に戻り、少数の支隊隊員だけが捕虜となった。
●「日本に戻った一部731部隊隊員の名簿と職務」については「ノブの日記」 を見てください!!

日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)

南京大虐殺 

「この事実を・・・・」


(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

周兆坤(男、70歳)の証言

1937年には、家は西芦柴廠178号で、父(その時50歳足らず)と母と兄と私の妻とでみんなで5人でした。家中がむしろを編むのを業としていました。日本軍が入ってくる一日前に、我が家は三岔牌(つまり今の江東郷清江村)に引っ越して住まいました。
 日本軍が南京を占領した2日目の午前8時か9時に、私は様子を見に出て来たいと思い、漢中門までまだ来ない内に、日本軍が何十人か向こうから来ました。日本軍の偉そうにしてたのが軍刀を手にして、私の面前まで来て斬り付けて来、私が首をちょっと左に避けたので、頭の右上の所が斬られて、血がぱっと出ました。幸い私は頭に厚い綿の帽子をかぶっていて、思いがけなくそれが防御になってくれ、そうでなかったらとっくに命は無かったのでした。その後で通訳みたいな人が私は兵士ではないようだと言ったので、日本軍はやっと手を止めて私を放ちました。私を痛みを堪え傷口をしっかり押さえて家に帰り、それからはもう家の門を出られませんでした。頭の傷口は10針以上縫い、1ヵ月余り大事にしてやっと癒着しました。今も頭に長さ3寸余りの傷痕が残っています。(袁史明と湯雲龍が記録)


憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

ひとりひとりの安全を

大事にする世界

これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
 緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
 武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。

 2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-06-26 07:55:26 | Weblog
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「日の丸」・「君が代」反対!!
●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!

731部隊の足跡
中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

6、罪証を隠滅、狼狽な逃亡
 
 1945年、日本軍のアジアと太平洋の戦場におけるたび重なる敗北に伴い、石井四郎は日本の大勢がすでに去ったことを知り、その年頭に731部隊の留守者リストを作成した。731部隊の行為が国際条約にひどく違反していることを日本関東軍は十分に承知していたことから、その罪を隠すため、731部隊は逃亡前にすべての施設を完全に爆破し、重要物資と核心資料を日本に持ち帰った。

●細菌実験センターであった「四方楼」は完全に爆破され、特設監獄に監禁された最後の被験者たちも爆破前に全員毒ガスで殺され、死体も焼却された。しかし、その数が多いため、短期間に全部は焼却できず、731部隊運輸班は焼却しきれない死体を秘密裏にトラックで運び松花江に捨てた。
●隊員たちは、動力班の3台の機会で、被験者のレントゲンと日本に持ち帰れない重要資料を毀棄(きき)してから機械を爆破した。その他、兵器班、高橋班、焼却炉などの施設も爆破された。
 
南京大虐殺   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

馬金義(男、76歳)の証言

 日本軍が南京を占領した時、私は29歳で、妻と銅坊苑5号に住んでいました。私は夫子廟のある食べ物屋で料理人をしていました。
 1937年12月16日の午前9時過ぎに、私が中庭に立っていた時、門を猛烈に叩くのがいて、鍾という隣人が門を開けると、頬にひげをいっぱい生やした日本兵が1人入って来て、自転車を1台押し、刀を体にかけていましたが、様子からして下級将校でした。私を手招きし、自分について来るようにとの素振りなので、私は付いて出て行くしかありませんでした。道々通りの両側とも火が盛んに燃えているのしか見えないみたいで、日本軍が勝手に火を放ち焼きまくっているのでした。私が付いて行き三坊巷の前の電報局の所まで行くと、門に「清水大隊」という札がかかっていました。門を入ると日本兵が私を指し「中国兵だ」と言いました。すると日本兵が4,5人かかって来て手で殴るやら脚で蹴るやら、着ていた綿入れを引き破るやらし、黒い布で目隠しをして、「スーラスーラトィ」(死んじまえ、死んじまえ)と言いました。私の腰のベルトを外して首に巻き、2人が片方ずつ持って、同時に力を入れて引っ張り、私が気を失うと、少し緩め、気が付くと、又力を込めて引っ張りました。そんな風に締めたり緩めたりして、私を何回か目がくらんで分からなくさせたのです。
 もう直ぐ暗くなろうとする頃に、私が気が付いたら、むしろが1枚体にかかっていて、電報局の後ろの花壇に横たわっていましたが、周りは何処もかしこも死体ばかりで、ぞっとしました。やがて、日本兵が2人むしろを2枚持ってやって来て、私を脚で2度蹴り、1度はちょうど左の目を蹴ったのですが、痛いのを堪えて動かなかったので、私が死んだと思い、身を巡らして行ってしまいました。
 暗くなり、あたりに人声がしなくなってから、私はゆっくり囲い塀の辺まで這って行きましたが、塀の外は高家巷の四聖堂に通じていて、塀の脇の大きな木の下に肥え桶が置いてあったので、私は木につかまり肥え桶の上に立って塀に這い上がり逃げ出ました。上浮橋一帯は日本軍が見張っていて、家には帰れず、水倉巷の妻の兄弟の家まで行って隠れるしかありませんでした。左の目がはれて開けられず、腿も塀を跳び越えた時に転んで悪くしてしまい、行き来に不便で、体がとても弱り、1ヶ月余りふせっていてやっと次第に回復しました。やがて上浮橋を見張っていた日本軍が撤収したと聴いて、やっと杖を突き付き家へ帰りました。私の左の目はこの時から視力が減退して、半年で失明し、一生私は1つ眼の障害者に成ったのです。(劉淑芳と梅嘉福と顧蘇寧が記録)

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界

また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-06-26 07:49:58 | Weblog
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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社


●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

6、罪証を隠滅、狼狽な逃亡
 
 1945年、日本軍のアジアと太平洋の戦場におけるたび重なる敗北に伴い、石井四郎は日本の大勢がすでに去ったことを知り、その年頭に731部隊の留守者リストを作成した。731部隊の行為が国際条約にひどく違反していることを日本関東軍は十分に承知していたことから、その罪を隠すため、731部隊は逃亡前にすべての施設を完全に爆破し、重要物資と核心資料を日本に持ち帰った。

●細菌実験センターであった「四方楼」は完全に爆破され、特設監獄に監禁された最後の被験者たちも爆破前に全員毒ガスで殺され、死体も焼却された。しかし、その数が多いため、短期間に全部は焼却できず、731部隊運輸班は焼却しきれない死体を秘密裏にトラックで運び松花江に捨てた。
●隊員たちは、動力班の3台の機会で、被験者のレントゲンと日本に持ち帰れない重要資料を毀棄(きき)してから機械を爆破した。その他、兵器班、高橋班、焼却炉などの施設も爆破された。
 
南京大虐殺   
  

「この事実を・・・・」


(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

馬金義(男、76歳)の証言

 日本軍が南京を占領した時、私は29歳で、妻と銅坊苑5号に住んでいました。私は夫子廟のある食べ物屋で料理人をしていました。
 1937年12月16日の午前9時過ぎに、私が中庭に立っていた時、門を猛烈に叩くのがいて、鍾という隣人が門を開けると、頬にひげをいっぱい生やした日本兵が1人入って来て、自転車を1台押し、刀を体にかけていましたが、様子からして下級将校でした。私を手招きし、自分について来るようにとの素振りなので、私は付いて出て行くしかありませんでした。道々通りの両側とも火が盛んに燃えているのしか見えないみたいで、日本軍が勝手に火を放ち焼きまくっているのでした。私が付いて行き三坊巷の前の電報局の所まで行くと、門に「清水大隊」という札がかかっていました。門を入ると日本兵が私を指し「中国兵だ」と言いました。すると日本兵が4,5人かかって来て手で殴るやら脚で蹴るやら、着ていた綿入れを引き破るやらし、黒い布で目隠しをして、「スーラスーラトィ」(死んじまえ、死んじまえ)と言いました。私の腰のベルトを外して首に巻き、2人が片方ずつ持って、同時に力を入れて引っ張り、私が気を失うと、少し緩め、気が付くと、又力を込めて引っ張りました。そんな風に締めたり緩めたりして、私を何回か目がくらんで分からなくさせたのです。
 もう直ぐ暗くなろうとする頃に、私が気が付いたら、むしろが1枚体にかかっていて、電報局の後ろの花壇に横たわっていましたが、周りは何処もかしこも死体ばかりで、ぞっとしました。やがて、日本兵が2人むしろを2枚持ってやって来て、私を脚で2度蹴り、1度はちょうど左の目を蹴ったのですが、痛いのを堪えて動かなかったので、私が死んだと思い、身を巡らして行ってしまいました。
 暗くなり、あたりに人声がしなくなってから、私はゆっくり囲い塀の辺まで這って行きましたが、塀の外は高家巷の四聖堂に通じていて、塀の脇の大きな木の下に肥え桶が置いてあったので、私は木につかまり肥え桶の上に立って塀に這い上がり逃げ出ました。上浮橋一帯は日本軍が見張っていて、家には帰れず、水倉巷の妻の兄弟の家まで行って隠れるしかありませんでした。左の目がはれて開けられず、腿も塀を跳び越えた時に転んで悪くしてしまい、行き来に不便で、体がとても弱り、1ヶ月余りふせっていてやっと次第に回復しました。やがて上浮橋を見張っていた日本軍が撤収したと聴いて、やっと杖を突き付き家へ帰りました。私の左の目はこの時から視力が減退して、半年で失明し、一生私は1つ眼の障害者に成ったのです。(劉淑芳と梅嘉福と顧蘇寧が記録)


憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界

また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-06-25 12:37:13 | Weblog
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731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。


4、1942年に浙贛鉄道で実施した細菌戦

《井本熊男日記》731部隊遠征軍の浙贛作戦実施に関する記述から以下は大意
常徳細菌戦の実施成功後、1942年春には、規模のより大きな細菌戦の企画活動を開始。以下は攻撃目標:
1、昆明
2、麗水、玉山、桂林、衢県、南寧(沿線飛行基地)
3、濠(豪?)州の各地要所
太平洋戦争の侵略作戦が一段落した後、日本軍は中国内地の麗水、玉山、桂林、衢県、南寧など華中、華南の都市攻撃を企み、同時にアメリカのアラスカ、オーストラリアとインドをも攻撃目標として討議したが、1942年の細菌戦進行地点は中国の華中、華南にある上述の都市にすることを決めた。




日本軍は玉山撤退の際、井戸に細菌入りのオイル缶を投入すると同時に、空中から大量のノミを投じた。この井戸の水を飲んだ村民の多くは嘔吐、下痢し、間もなく死んだ。
 

南京大虐殺 
   

「この事実を・・・・」


(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺


本人の受けた害


黄広林(男、66歳)の証言


 解放前は、家が貧しく、私は1936年に父母や弟妹たちについて南京へ来て、中華門の龍泉巷7号に住み、餅や団子を造ったり飯を蒸したりして生計を立てていました。1937年には日本軍が攻め込んできて、五台山の近くの難民キャンプに移り住むよう迫られました。その時私は18歳でした。12月13日に、日本の侵略者が南京を占領しました。12月14日の午前中に、私は一緒に住まっていた丁乃成(今は溧水の孔鎮郷の人)とそのほかの青年2人(1人は今は溧水県の和風郷黄家大隊甘村の人で、もう1人は南京の人)とを誘い、中華門の家まで見に行きました。私たち4人が一緒に楊公井まで来た時に、日本兵の一隊が正面から、馬や羊を牽いて私たちの方へ来るのに出逢い、日本軍2人が前まで来たので、羊や馬を牽かせるのに私たちを引っ張ろうとするだろうと、私は思いました。ところが、この日本軍2人は私たちを縦に並ばせました。私は一番後ろに並びました。日本軍の1人が銃を持ち上げ、私たちの前の3人を1人1人撃ち殺しました。私に撃って来ようとした時に、私はいち早く駆け出し、何十メートルか遠くまで駆けていて、日本軍が私を目掛けて一発撃ちましたが、当たりませんでした。私は道端の溝につまづき倒れ込みました。直ぐに日本軍2人が来て、まず左の腰を一太刀(ひとたち)突っついたので、私が向きを変えると、又右肩の上と、右の肋間、右の腰と、背中とに四太刀突いて来ました。こうして、私は日本軍に五太刀突っつかれ、傷口が7つでき、今も傷痕が7箇所残っています。私はその時気を失いました。しばらくして、ぼんやりとながらも革靴の音が聞こえなくなったようだったので、家へ帰ろうと何とか起き上がり、街の中心まで来た時に、又日本軍2人に出くわし、私の前までやって来た2人は、私がかぶっていた帽子をつかみ下ろし、額と手とをなでて、それから、又何やらぺちゃくちゃ喋っていてから、行ってしまいました。私は全身傷が痛いのを堪えて、何とか引きずり引きずり五台山までやってきたのは、もう夕方時分でした。
 私は難民キャンプに戻ったら、父と母が私を見るなり、首を抱いて大泣きに泣き出しました。そしたら、私は身体中の力が抜けてしまって、立っていられなくなり、地べたに倒れこんでしまいました。私と一緒に街へ行った2人の奥さんたちが、日本軍に夫たちが撃ち殺されてしまっていたと知って、吠えるかのように泣く様が何とも悲惨で、何と痛ましかったことでしょう!父や母が私の衣服が血でべったり体に引っ付いているのを見て、はさみで綿入れを切り開いたら、全身に血の斑点が広がっていて、傷口の中は膿だらけでした。ぼろや綿で傷口を拭いてくれ、私を隠してくれたので、幸い寒い時で、ただれずに、2ヶ月余りも休んだら、傷がだんだん好くなって来ました。今思い出すとこの不幸なめぐり合わせは、何とも痛ましく忘れがたいことです!(姜継安が記録)


憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より


戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界


「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。

 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-06-24 05:40:38 | Weblog
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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!



731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟


4、1942年に浙贛鉄道で実施した細菌戦

1942年4月18日、日本侵略軍の上海第13軍団と武漢第11軍団は、浙贛戦役を配置し、浙贛鉄道を貫通させよとの大本営の命令を受けた。戦いは5月から始まり、日本軍は金華、衢州、玉山、広豊、麗水などの地区を相次いで占領し、浙贛鉄道沿線にある3空港を破壊した。しかし兵力不足のため、日本軍は以上地区での長期駐屯ができず、破壊した空港も再建できないため、大本営は「浙贛行動」という細菌戦の実施を731部隊に命じた。1942年8月、731部隊はまたも遠征部隊を編成し、南京の「栄」字第1644部隊と共同行動をとった。この遠征隊は120人の士官と雇用隊員で編成され、7月に汽車でハルピンを出発し、まずは南京華中派遣軍防疫給水部「栄」字第1644部隊の陣営に駐屯した。出発前、731部隊はすでに倉庫で炭疽菌、パラチフス菌とペスト菌など約130キロの細菌瓶を箱に詰め、1644部隊の専用空港に送り、そこから「給水」の標識がある飛行機で南京へと運送した。細菌投入は空中投下と地面投入の方法がとられた。作戦実施の日本軍に対する同時感染防止のため、731部隊は投下地点を住民が避難した後の無人の町や村とし、住民は帰還後に即時感染した。空中投下はのち中国側が国際社会に激しく訴えたため、一度は地面投入のみに変更された。

南京大虐殺 
   

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

呉芝生(男、72歳)の証言

 日本兵が入ってくる半月前に、私たちは元々住んでいた大丁家巷38号から難民区へ引き移り、今の華僑橋の近くに住まいました。私と弟の呉芝坤とは「仁○」と呼んでた家に一緒に住まい、母と前の妻の蔡芙蓉とは別の所に一緒に住まいました。1937年の冬月23日(「送竃」節)の午前中に、私と芝坤と一緒にドイツのシーメンス電器会社の南京事務所へ米を買いに行ったのですが、米を買う人がたくさんで、押し合いへし合いながら米を買っていた時に、不意に日本兵が2,3人やって来て、男の人を捕まえては頭を見たり、手を見たりして、「中央軍」がどうかを検査しました。私は人に文書を書き写してやる「代書屋」でしたが、やはりとても恐い気持ちでした。私は芝坤を人込みの中に押しやって、いち早く駆け出しましたが、日本兵に見られ、後頭部に狙いをつけられ一太刀やられました。途端に、首が血だらけになり、ネクタイがびっしょりになりました。私は死んだ振りをして腹ばいとなり、日本兵が一蹴りしましたが、私が動かないのを見て行ってしまいました。やがて弟と別の米を買ってた隣の人とが私を抱えて家に帰らせ、香炉の灰を傷口に塗って血を止めてくれました。その後、私は「仁○」で横たわって静養し、弟に世話してもらいました。今も後頭部の傷痕ははっきり見え、凸型になっていて、長さ2ミリ半です。
 前の妻の蔡芙蓉は、その頃23歳で、日本兵に引っ張られました。岳父があちこち人に頼んで、蒼義成という通訳を見つけて方法を考えてもらい、一月近くしてやっと娘を帰らせてもらいました。(徐朝春と董明征が記録)
 ○は漢字に変換できない字

 

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より


女性たちが

平和をつくる世界


ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
 この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
 国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。

 

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】


1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-06-23 06:23:37 | Weblog

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社


●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟

3、1941年に湖南常徳で実施した細菌戦

 常徳は中国湖南省にあり、ここは四省の相接地であることから重要な交通要地である。抗日戦争時代は中国の重要な糧食備蓄基地であった。その重要な役割の破壊と食糧の供給阻止のため、731部隊は日本関東軍司令部から「中国軍隊占領下の重要中枢区常徳及び鉄道道路沿線地区を破壊すべし」との命令に基づき、第2次遠征隊を派遣した。第2部部長太田澄大佐が100人以上の部下を率いて、1941年の年始と年末の2回にわたり常徳地区で、大量のペスト菌で汚染されたノミ、米、綿を空中投下したため、常徳県県庁所在地及びその郊外農村でペスト病の大規模な流行を引き起こした。

《井本熊男日記》の731部隊による常徳作戦から:以下は大意

 11月4日、目的地は天気良好との知らせを受け、増田美保少佐が97式小型爆撃機を操縦し。5:30出発。6:50に目的地上空に到達。濃霧のため、飛行高度を下げて投下地点探索。地上800メートルの上空で群雲発生したため、1000メートル以下の投下を決定。(投下中に投下物を入れた箱が十分開かなかったため、最後は投下物を洞庭湖に投下。投下物はペスト・ノミ36kgとその他の予定穀物。)
 11月6日、常徳付近にて中毒事件発生(日本軍の一飛行機が常徳付近で投下し、投下物に接触した人はいずれも強い中毒反応が起きた。)
 11月20日、ペストが大流行。各戦区で。衛生防疫材料を全面的に収集。



南京大虐殺 
   

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

沙官朝(男、77歳)の証言

(昨日の続き)日本兵が見るなり、後ろから追って来ました。私は人力車をひいていましたから、脚で走るのは速いし、大きな通り小さな横丁とよく知っていたしで、日本兵が力いっぱい追っても追い付かず、私に向けて発砲射撃してきて、一発が肩に当たりました。2人は満足したみたいで、かか大笑いして去って行きました。私は隣6人が腹ばいに地に倒れ、どれもこれも日本軍の蛮刀の下に惨死しているのを目にし、自分自身も又何太刀かと一発食らい、刀傷と銃傷とを受けて、悔やむ想いと急く想いとで、狂わんばかりに懸命に走り、人里離れた路を何本か近道し、木料市や小王府園一帯に沿って難民区までまっすぐ走って行きました。難民区に帰ってからは、傷口が痛くてたまらなく、妻が見るなり気をもんで、私に手を貸して鼓楼医院に連れて行き、医者が見て入院させてくれました。11日入院しましたが、寝ていたのは267号ベッドだったと覚えています。そこに寝泊りしていても平穏だったわけではないのは、日本軍がしょっちゅう医院に調べに来ようとするからでした。医者が私に、日本兵に刺されたと言っては駄目で、爆撃で受けた傷だと言うようにと、言い含めてくれました。果たせるかなある日の夕方日本兵が病院に来て、私の布団をまくって聞いてきたので、私は医者に言われていた通りに話したのですが、暗くなっててはっきり見えなかったこともあってか、うまくごまかすことができたのでした。傷口がだいぶよくなって、退院して家に帰り、中国の薬草で続けて治療し、長い時間かかって治り、傷口がやっと癒えてだんだん着いてくるようになり、やがて健康が回復しました。(戦国利と楊正元が記録)

 
憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より


女性たちが

平和をつくる世界

 戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。


 

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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