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伝単(ビラ)の中の戦争

2009-04-30 13:21:34 | Weblog

5月3日は憲法記念日ですね。今の憲法が施行された日ですね。
特に憲法9条の解釈をめぐっては、いろいろと拡大解釈が出てきて問題が多いように思います。
 どうしたら憲法9条が本当に実のあるものになるか、この3日に私たちは、よく考えるべきだと強く思います。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より


 伝単(ビラ)のなかの戦争

 
 戦場では、敵国の兵士の戦闘意欲を失わせるため、あるいは戦わないで投降(とうこう)するよう呼びかけるため、さまざまな謀略の伝単(ビラ)が作成され、敵側陣地にまかれました。それぞれのビラが何を働きかけようとしたのか、その効果も含めて考えてみましょう。

 ①日本軍が中国人に向けたビラ
 諸君はいったいどの道を選ぶのか  みよ! 匪賊(ひぞく)の道を選び、抵抗を続ければ、このように悲惨になる  みよ! 良民の道を選べば王道楽土にいたる


 ②日本軍がアメリカ兵に向けたビラ
 君の背後では、あの女たらし、あの徴兵忌避者。そうとも、悪者は金持ちでハンサムだし、勢力はあるさ。今頃は君の彼女を手に、ウィンクしながら、そう“銃後の僕たちはこの通り感謝している”と言っているぞ。


 ③中国軍が日本兵に向けたビラ(文字のビラ)
 戦線の諸君! 命を無駄にするな  苦しい生活あわれな家族を思い出せ  誰か諸君をどん底に落としたか? 目を開け! 親愛な日本の兵士よ  日支両国の兄弟よ! 連合して侵略者と圧迫者を打倒し、仲良く真正の  自由解放に進もう


 ④アメリカ軍が日本兵に向けたビラ(文字のビラ)
 犬死(いぬじに)  意義ある生涯  名誉の死とは何か
 それは確かに国家のためになる勇ましい行為をなしつつ最後を遂げることである。

 犬死とは名誉の死ではない。名誉の生とは何か。
 それは自己を保持し、国家のため最善を尽くすのである。名誉の生は名誉の死より困難であり、勇敢である。

        「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 張士栄(男)の証言 

 私は元々は国民革命軍58師の1団2営5連の兵士で、1937年には上海で「8.13」淞○抗戦に参加しましたが、11月に命を受けて撤退し、蘇州から南京の牛首山まで退き、一昼夜にわたる敵を阻止する戦闘をしてから更に中山埠頭まで退きました。
 1937年の12月13日は、非常に寒く、どんよりと曇った日でした。午後私たちが中山埠頭で筏を組んで長江を渡る準備をしていましたら、凡そ3時頃に、突然日本軍のタンクが10台余り中山埠頭にやってきて、砲撃する一方で掃射したので、たくさんの中国人が撃ち殺されました。タンクから降りて来た日本兵10数人が、私たちに怒鳴って命じ、中山埠頭の南側の大湾子に集合させました。凡そ2000人余りが捕虜になり、周りには機関銃が10数挺据え付けられましたが、やがて南からまた日本軍が30数名やってきました。4,5分して、中山埠頭にまた軍艦が一隻、「あたか号」というのがやってきて、その甲板から海軍が4人降りて来たのですが、その1人で佐藤貫一というのが、土手にいる日本兵に何かひとしきり話をしてから、私たち四川の者と湖北の者とに立ち上がって出て来いと叫びました。佐藤は続けて3度言ったのですが、私は寒くてひもじかったので、内心どうせ死ぬんなら、すぱっと早く死んだ方がいいと思いました。佐藤が2度目に叫んだ時に私と一緒に四川人18名が立って出たら、湖北人14名も立って出てきて、みんなで32人、佐藤に国民党港務処の建物まで連れて行かれ、そこに押し込められました。その晩8時頃、日本軍の機関銃が数時間も鳴り響いていました。
 2日目に、日本軍は私たちを中山埠頭の南の貧民区に連行して飯を炊く鍋を探させましたが、大湾子を通り過ぎる時に、昨日捕虜になった兵士と平民2000名余りが全部殺害されているのを見かけました。その時に10数名の日本軍が貧民区で婦女子5人を捕まえて強姦したのもこの目で見たのですが、その内の2人が懸命に反抗したので、1人は銃剣で突き殺され、1人は銃剣で陰部から裂き開かれてしまい、ほかの3人は強姦されてから下関の宝善街中山橋のイギリスの教会堂(今の下関公安局)へ連れて行かれました。
 12月16日も、どんよりとした日で、朝8時に日本軍が私たちを江辺の2号埠頭を修理させに連行しました。私は2号埠頭の倉庫のかたわらに4箇所死体がうずたかくなっているのを見かけましたが、日本軍が丁度死体にガソリンをかけて燃やしているところで、四堆の死体は凡そ1000人余りでした。
(続く)

 
 「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、


戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界を。


Imagine,


A world that instead 

 

of


preparing for war,

 

prevents war.


コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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昭和天皇の戦争責任

2009-04-29 08:18:50 | Weblog

今日は4月29日「昭和の日」ですね。いいお天気で、絶好の行楽日和ですね。多くの方が野外やいろいろな行事等でゴールデンウィークの一日を満喫されていると思います。
 でも、「昭和の日」です。昭和天皇の誕生日ですね。
これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思います。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?

 

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 昭和天皇の戦争指導

 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊はは天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。
 

      
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 郭学根(男、83歳)の証言 
 
 私は郭学根と言い、家は1900年から下関の石梁柱の岸辺でした。1937年の12月10日の午前中、私は下関の中山埠頭で荷物を運ぶ手伝いをしていましたが、日本の飛行機が下関一帯を爆撃に来て、下関の唐山路一帯の民家がたくさんやられ、同胞がたくさん死にました。国民党当局が長江封鎖を布告し、誰も江北へ行くのを許しませんでした。
 2番目の弟の郭学禮がその頃国民党の88師で兵隊をしていて、その年8月に上海で日本軍と戦い、生死不明だったので、母親は家を離れたがらず、弟が帰ってきて家族が見つからなくなるのを恐れていましたから、私も母について南京に留まり弟を待っていました。
 12月12日に南京の中国守備軍が下関の 挹江門(ゆうこうもん)から撤退し始め、情勢がにわかに緊張してきて、城南では日本軍の銃声や砲声がしきりに聞こえるので、母は私をせっついて下関三汊河の放生寺に避難させ、母が1人家に留まっていました。
 12月13日に日本軍が下関の長江沿い一帯を占領すると、中山埠頭の近くでは幾千幾万もの潰走して散りじりになった守備部隊や難を避けてよそへ逃げる同胞が長江を渡れずに、全部日本軍の捕虜になりました。日本軍はこの人たちを江辺に追い立てて、機関銃で掃射して殺しました。その時私は放生寺にいて銃声がはっきり聞こえ、日本軍が殺人を始めたんだなと分かりましたが、家が江辺から非常に近かったので、ずっと母のことが気になってなりませんでした。
 12月14日に、日本軍は中国兵を探し出すという名目で、放生寺にやってきて青壮年200人余りと若い婦女子50人余りとを引っ張っていきました。日本軍は青壮年を揚子小麦粉工廠の裏門広場に連行し、機関銃で全部殺害し、50人余りの婦女子が日本軍に集団輪姦されましたが、その内ある婦女子は強姦された後、殺害されました。私は放生寺にいて、ある友達が国際紅卍字会の腕章をくれたので幸いにも難を免れました。
 12月15日に、日本軍に捕まって人夫にされ馬に食わすよう草を刈らされました。連行されて行く道々、下関の三汊河の高鼓村一帯で見かけたのですが、石梁柱、唐山路、南通路から中山埠頭に至る周囲はどこもかしこも中国同胞の死体と日本軍に強姦されてから殺害された裸の婦女子の死体がいっぱいで、あまねく野に横たわる屍に、野犬が争って食い荒らしに群がるという、全く見るに堪えない惨状でした。
 下関の大新埠頭の近くで見たのですが、400人余りの中国の捕虜になった軍人や民衆が、日本軍にゲートルで縛られ、江辺に連行され、それから10人引きずり出され電信柱と木に縛り付けられて、生きながらの刺殺訓練用の標的とされ、すさまじい叫び声が絶え間なく挙がり、刺された鮮血を身に浴びつつ死んでいきました。それに日本の将校が1人軍刀で我が同胞を横になで斬りしたので、その同胞は真っ二つにされ、はらわたなどがみんな地に流れ出ました。日本軍は又中国の捕虜になった兵士5人に自分で穴を掘らせ、深さ1メートルまで掘ったところで、この5人を穴に突き入れ、その上から土を詰めて、胸まで埋まったら、刀で斬り殺し、それをかたわらでたくさんの日本軍が手を叩きげらげら笑うのでした。
 後に私は又日本軍に下関の南通路に草を刈りに連行された時、日本軍がちょうど鉄の釘で中国の同胞を木や電信柱に活きながら打ち付けているところを見かけました。釘付けにされた同胞の悲惨な叫びは絶えることなく、血は流れに流れて、私はもうその惨状を見ていられなくて、じっと目を閉じるしかありませんでした。
 12月16日の朝、私は日本軍に中山埠頭の電気工場へ馬に食わせに連行されましたが、それは丁度日本軍がトラックで6台捕虜になった軍人や民衆を運んできたところでした。日本軍はこの数百人を4列縦隊にして岸辺沿いにまっすぐ並ばせ、司令官の号令一下、小銃や機関銃が一斉に火を噴き、岸辺に間近な同胞は次々に弾に当たって流れに倒れ込み、流されながらもがいて叫んでいるのがいると、日本軍は又流れに手榴弾を投げ、途端に流れが血で染まり、水面には死体がたくさん漂って行くのでした。日本軍は掃射を停止してからも、銃剣で流れに倒れ込んでいない死体をむやみに刺しまくっていました。
 これはみんな自分で目撃した日本軍の極悪非道な暴虐行為で、今思い起こすと切歯扼腕させられます。(郭永柱が記録)  
 

「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、

 

女性たちが

 

平和をつくる世界を。

 

Imagine,

 

A world where

 

women create peace.


戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を果たす事ができます。(アメリカ/先住民女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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総力戦体制

2009-04-28 08:58:44 | Weblog

明日は、4月29日「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?

 

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

 4、総力戦体制

 第一次世界大戦以降、戦争は軍隊だけでなく、国家の総力をあげて戦う総力戦となりました。日本の場合、総力戦のための仕組みはどのようにつくられたのでしょうか。

 

 国民を戦争へ総動員する仕組み


 
 1940年、ナチス・ドイツの「電撃的勝利」に目を奪われた日本では、ナチスばりの一国一党の実現をめざして次々と政党が解散、10月には「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)」が発足します。これにより複数政党制を前提とする議会制度は消滅します。
 同年、政府は労働組合を解散させ、戦争協力のため「大日本産業報国会」を設立して、ストライキなどを全面的に禁止しました。
 また、この当時すでに食料、衣料、燃料その他の生活必需品は配給制となっていましたが、町内会、部落会、隣組がその配給ルートとなっていたため、国民は誰もそこから逃れることができなくなっていました。こうした生活統制組織は、国民を互いに監視させあう役割も果たすことになりました。
 雑誌や新聞、映画からラジオ、小説にいたるまで、すべての情報が検閲を受け、戦争を賛美・肯定するものだけが掲載や放送を許されました。政府は増加する戦死者を「英霊(えいれい)」としてたたえ、お国のために戦争で死ぬことは「名誉」なことだとして、新たな兵士を戦場へ送り出していきました。
 このように、天皇を頂点にした軍部の支配体制の下で、政治・経済・軍事・文化・メディア・教育・生命など、すべてが戦争のために統制・動員されていきました。こうして、日本のファシズム体制が確立したのです。



      「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 李桂芳(女、92歳)の証言 
 
 主人の杜金龍は1937年12月のある日、下関の和記洋行に避難していて、日本兵に捕まりました。そして中山埠頭まで引っ張られ、日本軍に機関銃で集団殺害されました。(陳平穏が口述により整理)

    

「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、


基地をなくして緑と海を


取りもどしていく世界を。


Imagine,

 

A world that gets rid

 

of military bases and
 

reclaims

 

the forests and the 

oceans.


森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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総力戦体制

2009-04-27 07:43:14 | Weblog

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?

 

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

 4、総力戦体制

 第一次世界大戦以降、戦争は軍隊だけでなく、国家の総力をあげて戦う総力戦となりました。日本の場合、総力戦のための仕組みはどのようにつくられたのでしょうか。

 

 「国民精神総動員」と国家総動員法


 日中全面戦争の開始から間もない1937年9月、政府は「挙国一致(国を挙げて団結する)」「尽忠報国(じんちゅうほうこく・・・忠義を尽くして国に報いる)」をスローガンに「国民精神総動員運動」に着手します。各道府県に実行委員会がつくられ、やがて町には町内会、村には部落会、さらに隣近所で隣組(となりぐみ)が組織され、それを通して貯蓄や献金、勤労奉仕などが強制的に割り当てられて行きました。
 続いて翌38年4月には国家総動員法が公布されます。この法律では、戦争遂行のために必要な「物的資源」は議会の承認なしに勅令(ちょくれい・・・天皇の命令)で統制・運用できるとされ、「人的資源」もまた物資と同様、必要に応じて動員できるとされていました。そしてその戦闘力・労働力としての「人的資源」の供給を確保するため、同年に発足した厚生省によって国民の「健康状態」も戦時体制の中に組み込まれ、管理されていったのです。

      「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 黄張氏(女、90歳)の証言 

 私の家は1937年は下関の宝塔橋の城壁に引っ付いた所でした。その年に日本兵が入ってくる前に、私たちの村の近くの人たちが、宋さんの家の土手に穴を1つ掘りました。日本兵が入ってきてから、私たちみんなで40人余りが穴に入りました。私たちが入ってすぐ、一群の日本兵に見つかり、みんな出て来いと日本軍が怒鳴りました。その時、私は真っ先に走り出てきて、地にひざまずいて泣きついてから、大急ぎで逃げ出しました。遠くまで走らないうちに、銃声が聞こえて、駆け出て来なかった人たちが、みんな日本軍に機関銃で掃射され死んでしまいました。その後、私は逃げていく道で、又日本兵に捕まり、他に捕まった人たちと一緒に、宝塔橋の方へ銃殺に連行されました。その道で見ましたが、どこもかしこも日本軍に撃ち殺された死体ばかりでした。宝塔橋の和記洋行(今の下関肉聯廠)の入口脇の河辺まで連行された時、そこには既に何千人もの捕まえられて来た人たちがいました。その時、日本兵はもう河辺に機関銃を据え付けていて、人の群に掃射した途端に、私たちみんな倒れました。私は死体に押さえつけられていて、傷を受けていませんでした。日本兵が行ってしまうのを待って、私は死体の堆から這い出し、あるよく知っている人の家まで逃げて行って避難し、やっとのことで生き残って来られたのでした。(陳平穏が口述により整理)
 
   

「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、

 

武器を使わせない世界を。

 

Imagine,

 

A world that doesn’t

 

let weapons be used.


憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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総力戦体制

2009-04-26 13:40:10 | Weblog

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?

 

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

 4、総力戦体制

 第一次世界大戦以降、戦争は軍隊だけでなく、国家の総力をあげて戦う総力戦となりました。日本の場合、総力戦のための仕組みはどのようにつくられたのでしょうか。


 
 
テロリズムから軍部独裁へ

 「満州事変」の後、日本の国内では陸海軍の青年将校を中心にテロリズムが荒れ狂うようになりました。1932年5月15日、海軍の青年将校らが首相官邸などを襲撃、首相を暗殺しました(5.15事件)。その後も陸軍の中堅将校の策動が続きますが、36年2月26日にはついに陸軍の青年将校たちが約1500人の兵を動かしてクーデターを決行しました。反乱兵たちは首相官邸や陸軍省、警視庁などを占拠して大蔵大臣など要人3名を殺害しました(2.26事件)。
 当時、陸軍内部では、クーデターで軍部の独裁政権を樹立して国家改造=「昭和維新」を断行しようとする皇道派(こうどうは=急進派)と、既成の政治勢力も巻き込んで軍の主導で総力戦体制をつくろうとする統制派とが激しい派閥抗争を続けていました。皇道派の反乱は、統制派によって3日間で鎮圧されましたが、これ以後、武力による威嚇効果を背景に、統制派は政治への影響力を決定的に強め、翌年には軍事費を約3倍に激増させます。そして37年7月、盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに中国に対する全面侵略戦争へと突き進んでいくのです。


     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 (昨日の続き)紅い家から出かけて、九龍橋を過ぎ光華門外の飛行場にまっすぐ着いたと思ったら、この日本軍は飛行場に駐留するよう命令を受けていたのでした。飛行場に1ヵ月余りほど駐留したのですが、日本軍が又人夫を1人捕まえてきたので、私たち分担して飯を作り、家畜に食わせ、給養を受け取りました。毎週1回、夫子廟の六華春酒楼にある兵站部に給養を取りに行くのですが、日本軍が1人私たちを連れて行くのに、驢馬1匹と、自転車を1台引っ張っていきました。「民心を安定させる」こと1ヵ月余りで、街に人が多くなったので、私たち走って逃げようと相談しました。私が驢馬をひき、もう1人が自転車を押し、城内に入ったこの時とばかりに、人が多く混乱した機に乗じて、私たち上海路の難民区に逃げて行き、あちこち尋ね歩き、分かれて3ヶ月余り会えずにいた親族の者を2人とも探し出せて、本当に悲喜こもごもでした。
 以上が私の南京大虐殺の時にこの目で目撃し生き残ってこられた体験と経緯で、50何年か前に南京が侵略された事実を青年たちに知ってもらおうと書き出したものです。(段月萍が1987年来の手紙に依って整理)


   

「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、

 

おたがいに戦争しないと

 

約束した世界を。


Imagine,

 

A world that promises

 

not to fight wars

 

with each other.


戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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「大東亜共栄圏」のまぼろし

2009-04-25 06:45:40 | Weblog

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?

 

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

 3、「大東亜共栄圏」のまぼろし

 アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。

 
 
「大東亜共栄圏」の実態

 しかし、日本が「大東亜戦争」を開始した本当の目的は、政府が決定した「南方占領地行政実施要領」(1941年11月20日)に述べられているように、「占領地に対しては差し当たり軍政を実施して、治安を回復し、重要国防資源を急いで獲得し、作戦軍が自活できるようにする」ところにありました。重要国防資源とは石油、錫(すず)、タングステン、ゴムなどであると書かれています。「自活する」とは、日本軍が占領した現地で、食糧をはじめ軍の維持・活動に必要な物資を手に入れるということです。
 大東亜会議の開催を決めた1943年5月の御前会議(天皇の出席した重要会議)で決定した「大東亜政略指導大綱」では、「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定、重要資源の供給地として開発し、民心を把握するように務める」と定められました。
 以上に見たように、欧米列強に取って代わった日本の占領地支配は、「大東亜共栄圏」とは名ばかりで、戦争遂行のための資源、資材、労働力の調達を目的にしたものでした。東南アジアの占領地では、鉄道建設や軍用道路建設、飛行場建設などの土木工事や鉱山労働に多くの現地住民が強制動員されました。シンガポールやマレーシアでは、多数の華僑(中国系住民)が反日活動の疑いをかけられて虐殺されました。やがてインドネシアやフィリピン等日本軍の占領地で組織的な抗日運動が展開されるようになります。


    「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 (昨日の続き)12月20日頃のある日、朝早く邁皋橋を出て、通りに沿って城内に向かい、和平門を入り鼓楼を通って新街口まで来て、中山東路の方へ曲がり大安宮や太平路に来ました。道沿いの家屋は焼かれたのが多く、特に太平路は、大小の商店がみんな焼き尽くされていて、私の居た太平路54号も、焼け落ちて一面の瓦礫となっていました。楊公井まで来たら、中華書局とその向かいの中正書局はまだ焼かれていませんでしたが、ガラスの棚は打ち壊され、いろんな書籍が街いっぱいに放り出されていました。白下路を通り、内橋から中華路まで来たら、中華路にあった大小の商店は、みんな焼き尽くされ、一番大きな三履靴屋と何軒かの大きい呉服屋とは、どこもただ骨組みが何本か残っているだけか灰塵の堆になっているかで、正に一面の焦土、満身創痍(そうい)でした。
 中華門を出ると、又もや一面のむごたらしい場景で、道路にはいろんな風に惨殺された死体がいっぱいごろごろしていて、2日前に降った雪も、まだこれらの屍に覆いをかけられずにいました。道路の真ん中は、軍の車やタンクに轢(ひ)かれてぺしゃんこになった胴体や、圧しつぶされた頭が、雪で紅に染まり、泥水と脳味噌とが、見分けられないほどぐしゃぐしゃになっていました。南門(中華門)のすぐ外の大橋のそばに、4,50歳くらいの婦人が、ズボンをはぎ取られ、股の内側に木の棒が1本差し込まれている、何とも見るに忍びないものでした。それなのに道を行く日本軍の一隊は、これを見てかか大笑したのです。
 更に前へ行って、掃帚巷に入ると、又も一面の焦土で、塀は壊れ壁は崩れていて、雪が降った後なのに、まだ煙が出ているところもあるのです。掃帚巷から洋炮局を抜け養虎巷を通って、まっすぐ通済門の方向へ向かいました。まもなく通済門だという所に、ある平民の住宅があり、煉瓦も紅く瓦も紅いために、住民が紅い家と呼んでいたのですが、部隊はそこで休憩しました。ここの住民はほとんどみんな難を逃れて行ってしまっていましたが、ある理髪師1軒だけがまだ行っていなくて、この理髪師の若い奥さんが日本軍に発見されてから、輪姦されてしまいました。この日本軍の一隊が出て行く時に理髪師をぶち殺したばかりか、この若い婦人の陰部に強力な花火の「天地響」を差し込んで、その場で爆死させてしまいました。(続く)


   

「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、


武器をつくったり


売ったりしない世界を。


Imagine,


A world that doesn't


make or sell weapons.


紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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「大東亜共栄圏」のまぼろし

2009-04-24 07:14:25 | Weblog

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?

 

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

 3、「大東亜共栄圏」のまぼろし

 アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
 


 
「大東亜会議」の招集

  1943年11月、東條英機首相は、アジアに新しい秩序が形成されたことを誇示(こじ)するために「大東亜共栄圏」の代表を塔橋に集め、大東亜会議を開きました。
 招集されたのは、日本軍が占領しているところにつくられた傀儡(かいらい)政府、すなわち「満州国」、中国・南京の汪精衛(おうせいえい)政権、タイ、ビルマ、フィリピン、「自由インド仮政府」の代表たちでした。会議では次のような大東亜共同宣言を採択、発表しました。

 ■米英は自国の繁栄のために、他民族を抑圧し、大東亜に対しては侵略、搾取(さくしゅ)を行ない、大東亜を隷属化(れいぞくか)し、安定をくつがえそうとした。これが大東亜戦争の原因である。大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の束縛から解放して、共存共栄、自主独立、人種的差別のない共栄圏を建設し、世界平和の確立に役立てようとするものである。(要約)


  「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 (昨日の続き)12月15日の晩は霜が降りました。夜が明けないうちに、朝ご飯を食べ出発しました。侵略者たち10数人は、馬を一匹ひいた私を加え、長江沿いに上元門の方へ進んで行きました。至るところ死体ばかりで、そのほか、江辺には軍用の糧食や被服が山のように積まれていて、それに庶民が捨てていった箱や篭や行李に、小さな車、大きなトラック、戸板をはずされた店の品物が至る所に放り出されているの等でいっぱいでした。更に前へ進むと、銃器や弾薬が、山のように積まれているのが見えました。上元門まで行って、老虎山のふもとから、引き続き邁皋橋の方向へ行くと、道沿いのおよそ村で建物のある所では、どこも昨日挹江門(ゆうこうもん)の内側で見かけた状況と同様に、家々の入口には年寄りや子どもが座っていて、そこから遠くないところに、その家の青壮年の死体が1つか2つ転がっているのでした。人々は泣きもせず、話もせず、間が抜けて、感覚もなしに、くり返しくり返し「掃蕩(そうとう)」にやってくる侵略者に捜査されるに任せ、家中のちょっとでも銭になるものは洗いざらい持っていかれ、かめや壷や缶などまでも門の外に持ち出され、落として粉々にされてしまい、鶏や豚などの家畜は、言うに及ばずでした。
 この日本軍10数人は、邁皋橋の通りのかたわらのある農家の家に落ち着きました。彼らは自分たちの欲しがる金目の物、金銀首飾りなどを捜索して略奪したほか、人を捕まえて虐殺しました。2,3日で、無辜(むこ)の農民を13人捕まえ、その中に軍人で変装したのがいたのかも知れませんが、とにかくその13人を閉じ込め縛り付けました。3日目に、その人たちは日本軍に家の後ろの小さな沼に連れて行かれ、1対1で「射撃練習」の的にされて銃殺されました。私の任務は毎日米を研いで飯をつくることで、毎日夜が明けないうちに、池で米を洗わなければならず、この惨死した13の死体を一目見て、身の毛がよだってしまったのですが、それでも米を研ぎに行かなければいけなかったのです。ここに5日ほど泊まっていて、一度雪が降ったので、何とか死体に覆いをかぶせた恰好(かっこう)になりました。(続く)


   

  
「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、

 

軍隊のお金をみんなの


暮らしのために使う世界を。

 

Imagine,


A world that spends
 

money


not on armies,


but on people's lives.


アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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「大東亜共栄圏」のまぼろし

2009-04-23 05:31:49 | Weblog

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?

 

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

 3、「大東亜共栄圏」のまぼろし

 アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
 


 
「大東亜新秩序の建設」

 今度の対米英戦は、支那事変(日中戦争)をも含め大東亜(だいとうあ)戦争と呼称(こしょう)する。
大東亜戦争と称するのは、大東亜の新秩序建設を目的とする戦争であることを意味するもので、戦争地域を大東亜のみに限定する意味ではない。(要約)

 「大東亜の新秩序建設」というのは、1940年7月に近衛文麿(このえふみまろ)内閣によって発表、宣伝された構想です。日本がドイツ、イタリアと同盟して欧米列強の世界支配を崩壊させ、欧米勢力の植民地支配から「アジアを解放」して、「八紘一宇(はっこういちう・・・世界を天皇のもとに1つの家とする)」の「大精神」のもとにアジア諸民族がともに栄える「大東亜共栄圏」を実現させる、というものでした。
 日本は占領した先ざきで神社を建て、神道(しんとう)を強制して天皇を現人神(あらひとがみ・・・人の姿となってこの世に現れた神)として崇拝させようとし、学校教育その他の場で日本語を「東亜の共通語」として学ばせようとしました。
 

 「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 (昨日の続き)この日本軍一個小隊の人馬は、命令で戦場を掃蕩しに出てきたもので、海軍部から薩家湾へ向かう街路を行ってから、城壁に懸かる側へと曲がりました。そこはほとんどが城内の野菜農家で、どこの家の小屋のかたわらにも、年寄りや子どもが、戸口にぼんやり座っていましたが、どの家からも遠くないところに銃殺された青壮年の男の死体が1つか2つ転がっていました。その人たちはいわゆる戦場掃除の日本軍に2度、3度と捜索されて、家に入って行かれなかった人たちだったのです。
 この方向を、ぐるっと一巡りしてから、又挹江門を出て、まっすぐ中山埠頭に突き当たりました。その道は江辺と同じように、どこも銃殺された死体がいっぱいで、人が死体の上を歩き、車が死体の上を転がって、平たく押しつぶされた頭や腹、脳みその飛び散ったのと、見るも無惨なありさまでした。
 この10数人の日本軍が、中山埠頭の左側にある家屋に泊まって夜を過ごすことになり、赤々と火を焚いて、私に兵隊たち皆の飯ごうに米を入れさせ、手探りで岸まで洗いに行かせ、それから火に掛けて飯を炊かせました。この晩に私が一生忘れられないことが2つ起こりました。1つは、歩哨を置いたのが海軍の陸戦隊で、歩哨に立った水兵もしょっちゅう家に入って来て火に当たるのですが、入ってきてからいつも小銃の先っぽの剣に付いた血をぬぐうのです。それは大概昼間生き残ったのが夜になって逃げようとして、銃剣の下に死んだものでしょうが、と言うのは日本軍が家に入ってくるときは、いつも叫び声が聞こえてきてから、入って来て銃剣の血をぬぐうのだからです。2つ目は、私を捕まえてきた日本軍が食べ終わってから、私を引っ張り出したので、私はてっきり私を殺そうとするのだと思いました。出てから真っ暗闇の真夜中に、私を引っ張ってあっちを手探り、こっちを撫で回しで、触れるのは死人ばかり、固くなったのもあり、刺し殺されたばかりのもあり、探るたびに血がべったり付くのです。最後に手に触れたのが小さい乗用車2台で、その車からソファのマットを引っ張り出して初めて、眠るのに使うのだと分かりました。(続く)


   

  
「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん


世界から戦争のなくなった


平和な世界を。

 

Imagine,

 

A peaceful world 

 

without war.

 


でも、どうやったら


そんな世界がやってくるのか


一つひとつ考えてみよう。


But,how can such a 


world be made?


let's think about it.



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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アジア太平洋戦争

2009-04-22 11:20:59 | Weblog

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?

 

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

2、アジア太平洋戦争

 日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。


 第二次世界大戦の一環となる

 
 日本に続いてドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告したので、戦争は文字通り第二次世界大戦となりました。
 長期にわたり戦争を計画、準備してきた日本軍は、イギリス軍やアメリカ軍がヨーロッパの戦争を優先して戦闘準備が整っていなかったため、両国の軍隊を次々と攻撃して撤退させ、開戦後半年のうちに、イギリス領のマレー半島・香港・シンガポール・ビルマ(現ミャンマー)、オランダ領東インド(現インドネシア)、アメリカ領のフィリピンなど、東南アジア、南太平洋の一帯を占領して軍事支配化に置きました。


 

 「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 (昨日の続き)私が日本軍にくっついて和記洋行から出て、煤炭港の汽車を渡す船の埠頭を抜けて行くと、銃器や弾薬、軍用の糧食に被服、民間の財物などが山と積まれていて、誰も関与する者がいないのでした。煤炭港の渡し船埠頭を通り越した途端、全く驚かされたことには、死体があちらにもこちらにもごろごろしていて、首が斬られてぶら下がっているものもあり、身2つになっているのもあり、腕を切られたり腿を切られたりしているのもありで、死人が死人を押し付けているのでした。煤炭港から駅の方へ行くと、敵軍が9人軍刀で人を斬っているところで、2人の人の頚が斬られて2つになっているのを、日本の将校がハッハッハと大笑いしているのでした。下関駅の近くの広場でも、殺された人は似たように状態で、何十匹もの軍馬も難を免れてはいませんでした。私はこんなにも凄惨な場景を見て、すごく恐くなりました。夢中でくっついて行き、下関駅を抜けて、挹江門外のある湖の辺りの小学校の中まで行きました。この3人の日本軍は全く附いてなくて、ここに日本軍が10人足らず泊まっていて、3人が来たら出発しようと待っていたのですが、門から入ったところで上官に出くわし、3人とも2つずつ物すごい横びんたをなぐられ、又くどくど何か話した後、出発となりました。私はこの様子を見たので、馬を3人に渡して、又和記洋行に帰ろうとしたところが、何と1人1人に打たれ、腹いせが私の頭上にかかってきて、3度も物すごく横びんたをなぐられ、付いて行かされてしまいました。
 10何人かの日本軍が、私というこの馬をひいた子どもを連れて、学校から出、挹江門の方向へ前進しました。道路はどこも昨日虐殺された死体ばっかしで、血がまだ地上に流れていたり、崩れて頭だかなんだか分からなくなっているのがあったりで、そんなのがごろごろ転がっていました。挹江門まで来た時、城門の高殿はもう焼かれてしまっていながら、城壁の上からは死体が幾つか縄で吊り下げられているのが見えました。挹江門を入ると、道に沿って少なくない死体があり、海軍部の門まで来たら、又もや一面の死体で、血が流れ流れて、道路が真っ赤に染まっていました。その日私は江辺で列にもぐり込んだ時に拾った白力士(パイレックス)の靴を履いていたのですが、たちまちの内に赤力士の靴になってしまいました。(続く)


   

  
「Imagine9」【合同出版】より


MESSAGE(メッセージ)


環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。

人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。

あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。


ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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アジア太平洋戦争

2009-04-21 14:26:12 | Weblog

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?

 

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 日本の侵略戦争

2、アジア太平洋戦争

 日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。


 マレー半島上陸と真珠湾攻撃

 
 日本が東南アジア侵略へ動き始めると、アメリカは日本への鉄鋼、くず鉄の輸出をストップし、ついで石油の輸出も止めました。イギリス、オランダもこれに同調して日本に対する経済封鎖を強めると、日本の軍部は危機感をつのらせ、「ABCD(America,Britain,China,Dutch)包囲陣」の圧迫をはね返すには戦争以外に道はないと、日本国民に宣伝するようになりました。
 1941年12月8日未明、日本の陸軍はイギリスの植民地であるマレー半島上陸作戦を行ない、イギリス軍に奇襲攻撃をかけました。続いて、海軍航空隊がハワイ真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊に奇襲攻撃をかけた後、日本はアメリカ・イギリスに宣戦布告を行ない、アジア太平洋戦争が始まりました。


 

 「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 (昨日の続き)私たち9人も、かき集めて筏を1つ組み終わり、午後4時過ぎに、筏に乗って正に岸辺を離れようとしていた時に、軍人が1人やってきて、自分を連れて行かせようとし、筏に乗った途端に、筏が沈みそうになりました。これを見てこの軍人は、銃に弾をカチャッと詰めて、強引に私たち何人かを降ろし、自分を先に行かせようとしました。私ともう2人とが降りるしかなく、そいつが後の6人と一緒に長江が流れるままに漂って行きました。それが何と私が今日まで生きてこれることにつながったのですが、と言うのは、その日既に敵の海軍が燕子磯の川面を封鎖していて、凡そ長江を漂って行った船なり筏なりは、大きな船や小さな船やで長江を渡った軍人や民衆を含め、ほとんど日本軍に掃射されて死に、沈没した筏もありで、1つとして生きて帰ったのは無かったからです。
 午後5時以後は、敵軍はもう小河を過ぎ、江辺にひしめいている軍人や民衆へと迫っていました。6時頃に、煤炭埠頭を過ぎ、もうじき和記洋行に来ようという時、人が益々いっぱいで堪らなくなりました。その時、和記洋行のイギリス人が出てきて、軍人に武器を差し出し、洋行の区域内に避難するようにと、大声で怒鳴ったので、銃を持っていた軍人たちが次々に銃や弾薬を放り出し、私たちもひしめいている軍人や民衆にくっついて和記洋行の大きな内庭に避難しました。
 12月14日は、どんより曇り寒かったです。午前中に、私たちは江辺へ行って鉄兜を1つ拾い、薪と米とを少し見つけて来て、何か食べるものを作り、一日も何も食べずにいたすきっ腹に詰め込もうとしたのですが、お粥がまで煮えないうちに、日本軍が何人かやってきて、1人1人身体検査をされました。その数人が行ってしまうと、何人かがまたやってくる、といった調子で引きもきらず、若い婦女子は連れて行かれ、みんなが持っていたお金や物を取られる、といった具合に避難していた軍人や民衆がやられ、みんないっそのこと外套のボタンをはずしっぱなしにするほどでした。午後5時頃に、私たちが丁度お粥を食べようとしていたら、又もや日本軍が3人、馬を一匹ひいてやってきて、身体中を探してから、日本軍の1人が私に「その子ども、来いや」と言うので、おとなしく言いなりになりましたら、馬をひかされ、醤油の小さな桶とかますに入れたなつめの蜜漬けとを持たされて、付いて行かされました。ああ何と、私は2日も食べてなくて、今度のお粥もまた食べられなかったのです。(続く)


   

  
「Imagine9」【合同出版】より


はじめに


戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
 世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
 日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
 それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
 世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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