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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-31 12:30:53 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
 『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆A級戦犯となるはずの石井四郎
 個人としての石井と彼の関係者の多くが重大な戦争犯罪を犯し、有罪であることは疑問の余地がない。中将であった石井は間違いなくA級戦犯となるはずだった。彼は軍医という自分の領域では最高の地位についていた。
 731部隊長としての彼の行動は起訴状の多くの訴因について有罪である。生物兵器がほとんどの国で超法規的なものとみなされていただけでなく、石井は通例の戦争犯罪についても、その狂暴さにおいても有罪だった。彼は捕虜に対して計画的な人体実験をしたがこれは通常の戦争犯罪であり、すべての大国の戦争法規においてもずっと以前から禁じられている事柄である。彼は無辜(むこ)の一般市民についても同種の実験を行っており、これは明らかに人道に対する罪であった。石井は自分が開発した細菌兵器を実験研究室から持ち出し戦場で使用した。戦争地域における彼の生物戦部隊は自主的で独立した行動をとった。石井は部下の行動を何一つ規制しなかった。部下にしても、連合国が起訴した5570人以上のB・C級戦犯と同等の凶悪な犯罪を犯していた。石井が戦争の慣習法や、在来法に反する謀議の首謀者の1人だったことに疑問の余地はない。しかし起訴者リストの中に彼の名前はなく、A級戦犯容疑者のさらに長いリストの中にもなかった。またB・C級戦犯リストにも彼の部下の名前は一切なかった。
※マッカーサーの軍事戦略上のシナリオなのだろう!!
マッカーサーにも大きな責任があると思う!!
 731部隊関係者は一切裁判にかけられず、戦犯免責を与えられ、特に上級幹部や職員だった者は公然と戦後社会に復帰していった!!このため、医学界の戦中からの非倫理的な体質は問題が大きくなるまで変わらず、また731部隊関連のことは闇の中へ長いこと葬られた!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
王大銘(男、71歳)の証言
 1937年には、家は中華門信府河131号でした。日本軍が南京に進攻した時、上海路の難民区に身を避けて住まいました。
 日本軍が入ってきた明くる日の午前8時頃、日本兵が家へ闖入し、弟を中国兵だと言い、捕まえに行きました。その時私たち一家3世代の者たちがそろって泣くこと泣くことそれは痛ましいことでした!
 3日目の夜になって、捕まったラオパーイシン(=庶民)は万に登り、日本軍は上海路の近くで機関銃でその人たちを活きながらに掃射死させました。その時はただ機関銃が「タッタッタタ」と響くのが聞こえただけで、やがて通りに血が河となって流れるのが見られるようになり、日本軍はほんとに残忍非道でした。(曹義富と陳小敏が記録)
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-30 06:56:50 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
 『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆天皇と生物・化学戦の戦犯免罪
 オーストラリアは3月15日にやっと天皇の不起訴を了承した。ソ連政府はコミンズ・カー(東京裁判に派遣されたイギリス代表団の団長で勅撰弁護士)の執行委員会に提出する容疑者として検討する対象者リストに天皇を加えることには明らかに失敗したが、ソ連の報道陣は4月に入ってもこの問題を叫び続けた。しかし結局のところ、各々の国に同意しかねる点はあったものの、全参加国が起訴状の内容を承認した。
 コミンズ・カーが時間と戦いつつ、「共同謀議」に関する起訴状のまとめに必死になっている一方、新たな共同謀議が形を現し始めた。生物戦・化学戦による日本軍の残虐行為を示す証拠は明らかに組織的な隠ぺい工作によって国際検察局検察官から、そして東京裁判からも隠されていた。米ソ冷戦を巡る政治的駆け引きがすでに始まっていたのだ。しかし、国際検察局の中にも生物・化学戦問題を東京裁判に持ち出そうとしていた人物がいた。アメリカ人国際検察局捜査官トーマス・H・モロー大佐もその一人だった。
※マッカーサーは軍人であった。日本軍が生物化学兵器を多用していたことは戦中からよく知っていた。そして、特に生物兵器の新兵器には目が無かったようだ。いかに開発過程において、残虐行為があろうと、敵に甚大な被害を与える兵器に非常に関心があったのではないか?
 占領当初から731部隊関係者をかくまい、生物戦のデータを収集し、隠ぺいを図り始めた。国際検察局や裁判官にも隠ぺいを働きかけた。
 ウキペディアによると、「当時、連合国のソ連とイギリスを中心としたイギリス連邦諸国は天皇を戦犯リストの筆頭に挙げており、マッカーサーはもし天皇を処刑した場合、日本に軍政を布かなくてはならなくなり、ゲリラ戦が始まる可能性を予見していたため、それに反対し、天皇を丁重に扱うつもりだった。」と書いてある。
 東西冷戦の緊張が高まりつつあった中で、マッカーサーにとって、またアメリカにとって、日本の生物戦兵器のデータを持ち帰り、今後のアメリカの軍事戦略に活用することの方が、裁判で731部隊関係者とその最高責任者天皇を裁き、占領に多大な労力をかけるよりは、現実的な選択だったのかもしれない?
 でも、これでは本当に公平な裁判にならないではないか?BC級戦犯では、捕虜を刺殺したかどで死刑になった者もいるのに!!現実は奇なり!!
南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
陳金福(男、61歳)の証言
 1937年には私は14歳でした、冬月13日の午前10時過ぎに、私と弟が家にいた時、突然弟が日本人が1人柏さんという娘さんを追いかけているのを見て、早く逃げろと叫んだら、日本人に見つかり、日本人は銃を構えて弟を撃ち殺してしまいました。 
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-29 06:19:13 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
 『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆天皇と生物・化学戦の戦犯免罪
    当初から、日本人の生活の中で、ある1つの領域だけは足を踏み入れることを禁じられていた。天皇を戦争犯罪人として裁判にかけることは認められておらず、天皇を中心とする天皇家だけは灰色の霧に隠されたままになっていた。ポツダム宣言で連合国は日本人という民族を隷属させたり、日本という国を破滅させようとはしないと明言していた。日本人の大部分にとって天皇はいわば神聖な存在であり、まさに日本そのものであった。天皇を戦犯として位置づけることによって、日本社会が内部から崩壊する恐れがあった。中国、ソ連、オーストラリアはこの決定に強く反対したが、最終的にはイギリス、アメリカの意向に従ったのだった。
※日本がアメリカの空襲によって、もう戦力も無くなり、国民のほとんどが疲弊している中、最高戦争指導会議ではポツダム宣言を受け入れるにあたって、国体護持の確証が得られないと、回答が遅れに遅れた!!その結果、原爆2発とソ連の参戦を許してしまった。
天皇や最高戦争指導会議出席者には、国民の窮乏生活などは頭の隅にもなかったようだ!!
 日本は明治期から天皇を神格化しようと教育し始めた!!御真影(天皇の写真)や教育勅語を普及させて、天皇への忠誠を誓わせた!!その結果お上には絶対的服従が強制された。日本文化を戦中から研究していたアメリカ軍はそれを利用して敗戦後の日本をうまく支配しようとした。
 だがしかし、戦後日本人が天皇を戦犯に位置づけたとしても、本当に日本社会が内部から崩壊するだろうか?いろいろ紆余曲折はあるだろうが、まっとうな結論に達したのではないか?
 アメリカは軍事戦略上、天皇を裁判にかけず免責とした。果たしてこれが裁判の正しい姿であったのか疑問だ!!東京裁判はアメリカ中心のマッカーサー中心の裁判だった!!
 もう1つマッカーサーは戦争中、日本が本格的に細菌戦を実践していたことをつかんでいた。アメリカはこの情報を手に入れるのに懸命になったのではないか?
細菌戦のデータはアメリカが独占したけれども、戦後の細菌戦の基礎研究のほとんどが英国で行われていた。細菌戦のデータの収集にはイギリスもアメリカと連携をとっていたかもしれない!!
 アメリカは、その細菌戦データの収集と日本の戦後統治を考えると、戦争犯罪を裁くことを後退させ、731部隊員とその最高責任者の天皇を免責する方が軍事戦略上うまくいくとみていた。 マッカーサーが戦争指導の最高責任者天皇を免責にしたのは、日本人が神だと教え込まれていた天皇が裁判にかけられると日本人の間に動揺が起き、それを鎮めるのに大変な手間がかかると思っていたのではないか?
 また、731部隊員を裁判で追及するとそのデータがアメリカ一カ国だけで独占できなくなる上に、ソ連や内戦中の中国の発言が強くなり、国際情勢が混乱することを懸念したのではないか?
 マッカーサーが天皇を擁護したのは、マッカーサー自身がイギリス貴族の出身であることが影響しているのかもしれない?(フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルらとは遠戚関係にある。これは祖父のアーサー・マッカーサー卿が元々はイギリス貴族からの移民であり、祖父はサーの称号を持っており、マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であるためである。)
 アメリカ国内では天皇の戦争責任を追及する声の方が圧倒的に多かったが、マッカーサーはそれを覆した!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
楊義蘭(女、68歳)の証言 
 1937年に日本軍が南京を爆撃したので、私と夫は六合の田舎に避難しました。年老いた舅の朱再興は南京の太平路で林園浴室をやっていましたが、日本軍が南京を占領した時、店をまもってよそへは行きませんでした。日本軍が入ってきた明くる日の朝、日本兵が来て門を開けろと怒鳴り、舅が門を開けに行きましたが、何と門が開くや、一言も言わずに、胸を一太刀突っついて来て、舅はその場で死んでしまいました。叔父の朱再祥が、兄の門を開けて戻って来ないのを見て、洗面器を両手に持ち上げつつ門の所まで見に行きました。叔父は日本兵を見かけるや、向きを変えて逃げ戻ろうとしましたが、日本軍に追いつかれ、後ろから一太刀刺されて、刺し殺されてしまいました。同時に突っつき殺されたのにはほかに三助さん(下男)をしていたのが3人いました。叔父が死んだ後、5歳から7歳の子供が3人残され、とっても悲惨でした。(劉君が記録)  
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-28 08:21:10 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
 『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆細菌戦部隊の最後
  かつて無敵を誇った生物兵器開発部隊の哀れな末路は、何千というペストネズミを平房近郊に放すことくらいだったが、1946(昭和21)年までペストが流行し、多くの罪もない住民たちの命が奪われた。100部隊では、日本が降伏した後、ペストに感染した馬を放したりした。大連支部では大学や各学部の図書館にある定期刊行物、雑誌などから生物兵器に関連したあらゆる記事を組織的に破りとった。日本国内では、防疫研究室の記録書類や備品などが秋田と新潟の軍医関係機関に移されたと考えられている。
新宿の陸軍軍医学校はB29の空襲でほとんど跡形も無く破壊されたが、一説によると何百という人体標本は8月10日から9月15日までの間に石井の防疫研究室のすぐ脇の医学教育部の部員が掘った縦横10メートル×15メートルほどの穴に捨てられたと言う。
第4部長の川島清少将、その部下だった柄沢十三夫少佐、教育部長だった西俊英軍医中佐、関東軍司令官山田乙三大将、梶塚隆二軍医中将、高橋隆篤獣医中将らは孫呉(ソンゴ)と海拉爾(ハイラル)の隊員らと共にロシアの捕虜となった。
日本に逃げ帰った石井とその部下たちは占領軍の処置を固唾(かたず)を飲んで待っていた。東条は自決に失敗し、東京裁判を受けた。石井のパトロンだった元厚生大臣小泉親彦は、東条内閣崩壊後間もない1944(昭和19)年7月18日、大臣を辞任した。戦後GHQから呼び出しがきた時、遺書も残さず割腹自殺した。
※1989年に新宿区戸山の工事現場から人骨が出てきた。これについて詳しく書いてある記事があるので紹介します!!
The Human Skulls Discovered in 1989
1989年7月、厚生省の予防衛生研究所の建設現場で人の骨が大量に発見された。この場所には1929年から1945年まで陸軍軍医学校が存在していた。当初の警察の発表で35体分、その後1992年に公表された専門家、佐倉朔(Sakura Hajime)の鑑定で、100体分以上と判明した [15]。その鑑定によると、発見された骨はアジア系の人間のものだが、単一の人種ではない、複数の人種の骨が混在している。さらに骨が地中にあったのは100年以上ではないし、15年未満でもないことも明らかにされた。
このデータが示しているのは、89年の人骨はその場所に軍医学校があった時代に埋められた、アジア系の外国人の骨だ、ということだ。埋められたのは埋葬されたわけではなく、捨てられたのだった。あるいは捨てたというより、証拠隠滅のために埋められた可能性が高い。これは敗戦時に731部隊で殺害された被験者と同じ処理方法だ。
これら人骨を最初に警察が鑑定したのは、これらがいわば死体であり、その死因や事件性について判断する上で当然のことだった。発見から1週間ほどで発表になった警察の鑑定結果は、骨に事件性は見出せなかったし、たとえ犯罪の被害者のものとしても15年以上地中にあったことは確実で時効が成立している、というものだった。その結果、通常の行き倒れとして処理すべきという結論を導き出した。
実際は違っていた。佐倉の鑑定は次の点を明らかにした [16]。

①頭蓋骨の多くには頭蓋骨をメスや鋸で切除して行われる脳外科手術の練習・実験台となったと思われる跡がある。人骨が地中にあったのは50年以上だが、当時(1940年代)の日本では未だ頭蓋骨の一部を切除する脳外科手術は行われていなかった。
②いくつかの頭蓋骨には刀による切創があり、またピストルで射抜かれたものもある。

佐倉の鑑定の①の指摘は、これら頭蓋骨が脳外科手術の実験台、あるいは練習台、となったことを示している。②の指摘は、これらが犯罪の被害者のものであることを示唆している。
こうした実験あるいは犯罪行為は731部隊と直接結びつくものではない。むしろこれらの骨が示しているのは、731部隊での蛮行が決して日本の軍医たちの間で突出していたわけではないということだ。これらの骨は日本軍の軍医たちが戦場で、あるいは軍医学校に関係する医学者が軍医学校で、脳外科手術の練習・実験をしたものであり、それを証拠隠滅の意味もありそこに埋めたのだと推測できる。
この推測の根拠は、元軍医の湯浅謙(Yuasa Ken)の証言に基づいている [17]。
湯浅の証言によれば、本来内科医としての訓練を受けていた医者を、戦場で大量に必要な外科医に手早く仕立てるために、数ヶ月に一度現地の軍医を集め「手術演習」と称した残虐行為が、中国の戦場で行われていた。住民を捕らえ、その大腿部に弾丸を撃ち込み、どの程度の時間で弾丸の摘出手術が完了するかとか、凍傷にして、その部分の切断手術などの練習を行っていた。
この手術演習は一部の地域に限られていたわけではなく広く行われていた。多くの場合憲兵が犠牲者となる現地の人々を逮捕し、軍医部に提供していた。こうした状況は「手術演習」が個人的なきっかけによってではなく、軍医部や憲兵隊など陸軍全体として組織的に行われたことを示している。「手術演習」で得られた頭蓋骨が集められ、それが軍医の元締めである軍医学校に送られていた、と考えても不思議ではない。このように考えた場合、集められた頭蓋骨はまさに戦争犯罪の犠牲者のものということになる。(『731部隊と1989年の人骨』より)
※もしアジア太平洋戦争が「アジアの解放」を目指したものであったならば、自殺未遂した東条や自殺した小泉元厚相などは東京裁判であの戦争の正当性を主張すべきであったと思う!!しかしあまりにもアジアで日本軍は残虐なことをしてきたものだから、正当性を主張することは難しいだろう!!
●南京大虐   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
陳祖有(男、73歳)の証言
 1937年には私は26歳で、家は六合臬葛塘区中山郷湯徐村陳墩でした。確かその年の12月末のある日の午前9時頃だったと思います。日本軍が三四人吊湾徐の方向から来るのが私には見えたのです。村の人たちは日本軍が来たと聞いて、みんな恐がって外へ外へと逃げましたが、その時弟の陳祖興は陳墩の前の○溝辺に隠れていましたが、少しして、弟がちょっと様子を見ようと頭を伸ばしたら、日本軍に気付かれてしまい、日本軍が私たち陳墩の方へ発砲してきたために、弟は○溝辺で撃ち殺されたのですが、一発が弟の腹に当たったので、弟が22歳の時でした。日本軍が行ってしまってから、私と村の人たちとで弟を○溝辺から抱えて帰ってきて埋めてやったのです。(呉大興と章歩錦が記録)○は日本の漢字に変換できない字
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-27 11:55:07 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
 『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆細菌戦部隊の最後
 2000人を隊員や家族を乗せた15両の貨車は平房を後にして新京へ向かった。8月15日、天皇が日本の敗北と降伏を放送した。石井は日本がよもや降伏しようとは思いもよらなかった。あまりのショックにすっかり意気消沈して、呆然としていた石井の姿が関東軍司令部本部で目撃されている。
同日の午後遅く731部隊を出た帰国列車が新京に着いた。そこでその翌日の夜、石井は彼の元部隊を前に最後の演説をした。彼は隊員たちに残りの人生を、“日蔭者”として生きるよう誓わせた。ゆらゆらするろうそくの光の中で、石井は彼らに軍人としての経歴を決して口外しないよう、決して公職につかないように、お互いに連絡を取り合わないよう命令した。今日でもその約束を守り続けている者もいる。
※戦後アメリカやソ連の追及により、細菌戦の実態が明らかになる過程でアメリカは非人道的な人体実験のことは棚に上げて、軍事戦略を優先し、細菌戦データを25万円(当時)という安い費用で買い取り、その代わり細菌戦に携わった隊員に戦犯免責を与え細菌戦のデータを収集した。そのため、追及の始まる当初から、多くの上級隊員が石井の演説を無視し、相互に連絡を取り合い、また免責が確実になると公職に就く者もたくさんいた。石井の演説をかたくなに守ろうとしたのは、こうしたアメリカの動きも何も知らない、下級隊員がほとんどであった!!下級隊員の中には軍歴を隠すあまり職に就くにも苦労した者が多かった。また、恩給の申請をできない者もいた。家族との会話もなく、家庭崩壊をするような家族もあったという。
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
張道富(男、80歳)の証言
 解放前は、私は南京魚市街の福和醤園店で手伝いをしていました。1937年の暮れに、日本の侵略者が南京を占領し、私たちは金陵女子大学の難民区に避難しましたが、福和醤園店の主人の余学其と私の本家の弟で福和店の店員だった張道金も一緒に住まいました。1938年の2月、春節(=旧正月)が過ぎたばかりの頃に、日本兵が難民区に人を捕まえに来て、男と見ると、頭に帽子のあとがあるかどうか、手にたこができているかどうかを検査し、もしもあったら兵隊だったとみなして、捕まえて行って殺してしまいました。その時大勢の人が捕まって行ったのですが、店の主人の余学其と私の弟の張道金も頭に帽子のたががあって捕まって行き、五台山の上まで連行されて機関銃で掃射されたのです。その時、万を上回る人たちが殺害されました。(戦国利が記録) 
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-26 08:26:16 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
 『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆細菌戦部隊の最後 
  8月11日午後3時には、ほとんどの隊員の家族が、部隊の引き込み線から中庭に入っていた無蓋(むがい)の貨車に乗り込んだ。石井春海(石井四郎部隊長の長女)もその中にいた。

 私は部隊長の娘だから、子供と若者の一団を統率するように言われました。
ドラマがいっぱいありましたよ・・・貨車の中で赤ん坊が生まれたのよ、男の子だったけれど、母親は産み終わって死んでしまった。途中の駅で止まった時、飲み水を支給されたのですが、毒が入っているかもしれないというので、飲んではいけないと命令されました。・・・

 8月13日と14日には、最後の後始末のために残留する少人数は除いて、全隊員が操車場の広場に集まった。隊員すべてには毒薬の小瓶が配られた。石井は初め支部も含めた全隊員と東郷村に住む全家族に自決を求めたが、この提案は部隊の細菌研究部長であった菊池斉少将の強烈な反対にあった。しかし石井からの命令が出なくとも命を絶つ者もいた。

※731部隊の最後は隊員にとっても大変なことであった!!人道に反することをたくさんやってきたのだから、隊長は部隊員に自決を求め、部隊員幹部からは猛反対があった。それを経ての列車による逃亡劇である!!自ら自決する者もいた。また、誤って菌に感染して、731部隊の専用の病院で入院療養していた者は、青酸カリを渡され、殺された!!これも悲惨である!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
孫育才(男、56歳)の証言
 1937年以前は、私の家は雨花台の西洋巷で、その頃はそこの住民は多くなく、私たちは牛の放し飼いで生計を立てていて、暮らしは貧困でした。
 1937年の陰暦冬月8日の晩、「中央軍」の傷病者たちがいっぱい退いてきました。冬月10日に、日本兵が西洋巷一帯を占領しました。ラオパーイシン(=庶民)は東に隠れ西に身を隠しで、ある騾馬(ラバ)小屋の穴に、27人隠れたのですが、家では父と母と姉に弟に私がみんな穴の中に隠れました。冬月10日の午後5時過ぎに、日本軍が穴の入口を見つけ、煙で私たちをくすぶり出しました。父が見つけて、みんなに言いました。「急いで上がって行け。上がって行かないと活きながらむせ殺されてしまうぞ」。そこでみんな泣きながら這い上がって行きました。日本軍はみんなを並ばせ、銃剣で1人1人刺し殺しました。5歳の弟が恐がって大泣きし、日本兵の1人につまみ上げられて地に投げつけられ、活きながら墜落死させられました。父は頭と肩とを突っつかれ、地にひっくり返りました。姉も脇の下に一太刀見舞われました。私は家族がみんな地に刺し倒されるのを見て、恐くてやはり倒されてしまい、それで一死を免れました。母は家の人たちがみんな死んでしまったと思い、家の方へ逃げ、日本軍が追いつき、一太刀で顔の左を斬り、斬られた筋肉がだらりと顔に垂れ下がり、歯も何本か斬り落とされました。夜、父が家の者に早く逃げろと命じました。私たちは野菜畑を走り抜けた後、一家の者が別々に逃げ、私と姉が一緒に、両親が共にいて、明くる日の朝また出会って1つになりました。沙洲圩まで逃げて、そこに住まいました。
 隠れていた27人は、我が家の4人ともう1人が命拾いしたほかは、その他の22人がみんな殺されてしまいました。2番目の叔父も悪辣な手にかかったのでした。(殷冬梅と於鳳林が記録)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-25 09:27:09 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
 『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆細菌戦部隊の最後 
 広島と長崎に原爆が投下され、日本の敗北は明白となった。関東軍は恐怖に駆られて、ロシア側に捕らわれた場合は青酸カリで自殺して秘密を守るよう関係者に厳命した。生物戦研究の証拠となるようなものはすべて破壊するように命令が出された。平房では使役に駆り出されていた600人におよぶ満人や中国人が機関銃で殺されたとも言われている。また、全囚人が毒ガス、機関銃、毒薬などで始末された。死体は焼却するか松花江に捨てられた。ノミやバクテリヤ、石井が開発した宇治式爆弾などはすべて焼却するか廃棄された。本部研究棟は工兵隊が3日もかけて取り壊した。頑丈に作られたコンクリートの建物はダイナマイトでも壊れなかったと言う。最後は新品のフォードのトラック80台に50キロ爆弾を積んで建物めがけてぶつけたと言う。
※関東軍にも戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」の通り、捕虜になるぐらいだったら自殺しろと命令が出された。日本軍はどの戦場でも捕虜になることを恥だと叩き込んだ!!日本軍は人間の命を本当に軽く扱った。大元帥天皇の股肱となれと教えていた!!
ところが、その命令を出した上層部はほとんど自決などしないで捕虜になってしまった。自決したのは、下級兵士や住民たちだった。これも悲惨な出来事だ!!住民の自決は沖縄でもあったし、満州の開拓団でもあった!!
 また、731部隊で働かされていた中国人なども殺されたという。それにマルタと呼ばれていた全囚人が始末された。何とむごいことか!!
軍上層部の判断で731部隊の建物が工兵隊を使って、徹底的に壊されたのは、証拠隠滅を図ったのである。もし731部隊で行っていた残虐な行為が全世界に知れ渡ったならば、天皇はじめ軍の責任が厳しく問われることを恐れたからである!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
史慧芝(女、68歳)の証言
 南京が陥落する前は、家は応府街90号でしたが、日本が南京を侵略した時、上海路の難民区に引き移って避難しました。
 1937年の12月13日に日本軍が南京を占領した明くる日、日本兵が家に突っ込んで来て、兄の趙有黄を見かけ、その時30歳で、とても大きくたくましかったので、どうしても中国兵だと言い、捕まえて行き、その後帰ってきていません。
 婦人はあの時みんな髪を切り頭にものをかぶり、顔に真っ黒いすすを塗り、お婆さんの衣服を着たりして、日本軍に注意されないようにしました。あの時私には叔母の喬劉氏がいたのですが、その時40歳で、やはり難民区に住まっていて、日本軍に捕まって行き強姦されてしまいました。一晩して戻ってきてから、一日泣き通しに泣いて、夜になったら首をくくって死にました。(井昇安と丁亜慶が記録)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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原告側の賠償請求を棄却 中国・チチハル毒ガス事故訴訟 

2010-05-25 08:17:15 | Weblog

この地裁の判決をどう読んだらいいのか?旧日本軍が確かに毒ガスを中国に捨てて行った!!その毒ガスで被害あわれた人には同情する!!肉体的精神的にも大変でしょう!!住民に被害は及ぶことは日本政府は予見できた!!でも、日本政府には責任がない?賠償はできない!!
 私にはよく分からない?ただ思うに、日本が過去のアジア・太平洋戦争に対して、真剣に考えるとその最終的な責任が天皇まで当然及ぶので、裁判所は棄却し、また被害者一人一人に賠償していくと、今でさえ、借金漬けの日本の財政状況からして、国家が破綻してしまうから、こんな判決になるのではないのかと思ってしまう。この問題どうしたらいいのでしょう?

原告側の賠償請求を棄却 中国・チチハル毒ガス事故訴訟 朝日新聞
TKY201005240317.jpg
判決後に会見する原告の丁樹文さん。左はヒョウ・カエンさん=24日午後、東京・霞が関、川村直子撮影

中国・チチハル市で2003年、旧日本軍が捨てたり埋めたりした毒ガス兵器により死傷した被害者と遺族計48人が、日本政府に約14億3400万円の損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁は24日、原告側の請求を棄却する判決を言い渡した。山田俊雄裁判長は、兵器の遺棄は違法だったと認めたが、「日本政府の法的責任は認めがたい」と述べた。原告側は控訴する方針。

 判決は、旧日本軍が毒ガス兵器を遺棄した行為について「一般人の生命・身体に重大な危険を生じさせた」と違法性を認定し、「被害は甚大で、精神的、肉体的苦痛は極めて大きい」と被害者らに理解を示した。さらに、チチハル市が旧日本軍の活動拠点だったことなどから、周辺に毒ガス兵器が遺棄され、住民に危険が及ぶことを日本政府は予見できたと指摘した。

 しかし、毒ガスはチチハル市以外にも広範囲にわたり川や古井戸に投棄されたり地中に埋められたりしていたと指摘。「今回の事故前にすべて調査するのは極めて困難で、廃棄する義務があったとは認められない」と結論付けた。

 同様の事故をめぐっては、96年に1次訴訟、97年に2次訴訟が同地裁に起こされたが、いずれも二審・東京高裁の原告敗訴判決が確定している。

遺棄毒ガス、国の責任否定 中国人被害者ら48人敗訴 共同通信
2010年5月24日(月)16:40
 中国黒竜江省チチハル市で03年、旧日本軍の遺棄したドラム缶から漏れた毒ガスに触れるなどして死傷した中国人被害者と遺族計48人が、日本政府に計約14億3千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で東京地裁は24日、「法的責任は認めがたい」として請求を棄却した。原告側によると、日本も批准した化学兵器禁止条約の発効(1997年)以降、中国で起きた旧日本軍の毒ガス被害をめぐる初の司法判断。


※シャープの電子辞書パピルスの「日本史辞典」に「毒ガス戦」について次のような記述があった。
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。
日本政府は考えてください!!
日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
化学兵器被害解決ネットワークからのお知らせ!!
※以下、化学兵器被害解決ネットワークのリーフレットより転載!!
今こそ「解決」を!
~65年前の化学兵器で傷つけられた人々のために~
●遺棄化学兵器問題とは?
化学兵器の製造と遺棄
 1929(昭和4)年に日本軍により製造が開始された化学兵器(マスタードガスなどの毒ガス)は、日中戦争の際、中国各地で使用されました。敗戦時、日本軍は国際法違反の化学兵器を隠ぺいするために、各部隊にそれらの遺棄隠匿(いきいんとく)を命じました。日本軍が遺棄した化学兵器は、日本政府が認めただけでも40万発あります。化学兵器禁止条約に基づき、日本政府は2012年までに廃棄事業を終了させることが義務付けられていますが、10年以上経過した今も遅々として進んでいません。
今も被害をもたらしている遺棄化学兵器
 毒ガスは液体の状態で砲弾やドラム缶に詰められていました。地中や川底に遺棄された毒ガス砲弾・毒ガス剤入りドラム缶が、開発工事などで掘り返され、工事現場や遊び場で、戦後つつましく暮らしてきた人々の日常を破壊しました。その被害は今も続いています。
●化学兵器被害の苦しみ
 事故直後、皮膚がただれ、目は腫れ上がり、嘔吐、頭痛、激しい咳に襲われます。急性期症状が治まってからも気管支炎が治らず、一晩中続く咳に苦しむ人もいます。異常発汗や頻尿、性機能障害、免疫力低下の多くの被害者に見られます。
 また、「力が入らない」・「集中力が続かない」・「疲れやすい」など、他人には理解されにくい症状が彼らの社会復帰を阻んでおり、民間団体が行った検診の結果、自律神経・短期記憶・高次脳機能などの障害が指摘されました。
・于景芝さんはチチハル市郊外で農業を営んでいました。2003年8月4日、庭の整地用に購入した土が毒ガスで汚染されており、被害に遭いました。ふくよかだった于さんはひどく痩せてしまい、咳の発作のため、一日中横になっています。検診では高次脳機能障害も指摘されました。子どもたちが出稼ぎをし、収入のほとんどを仕送りしていますが、彼女の医療費には足りません。
・チチハルに住む陳紫薇ちゃんは、外で遊ぶのが大好きな女の子でした。2003年8月4日、当時10歳だった紫薇ちゃんは、土山に登って遊びました。その土が毒ガスに汚染されていたのです。事故後、人一倍努力しましたが、学校の成績は落ち、得意だったスポーツもできなくなり、彼女の夢は失われました。
 お父さんの陳栄喜さんは、土の積み下ろし作業をしていて被害に遭いました。事故後、仕事に復帰しようと試みましたが、体力がついていきませんでした。定職に就くことが出来ず、十分な治療も受けられません。父子が毒ガスの被害に遭ってから、仲むつまじかった一家の幸せは、精神的にも経済的にも、破綻してしまいました。
●裁判で問われているものは?
 現在裁判を闘っているのは、2003年8月に中国黒竜江省チチハル市で発生した事故の44名の被害者たち(うち1名死亡)と、2004年7月に吉林省敦化で発生した事故の2名の被害者たちです。
 裁判の中で原告(被害者)は、国(日本政府)が、自ら製造して中国に持ち込んだ大量の化学兵器が中国に遺棄されていることを知っていたにも関わらず、戦後約60年もの間放置して被害を発生させた責任を追及しています。これに対して国は、兵士が個々の判断で勝手に捨てたものであり、どこに捨てたのか分からないので捜せなかった、などと主張しています。
 しかし、今裁判で争われている事件の現場であるチチハル市や敦化は、戦争中に化学兵器が集中的に持ち込まれた場所で、遺棄されている危険性の高い地域です。金属探査技術も急速に発達しており、捜し出すことはできたはずです。国は、人々の命と生活を守る責任を免れようとしています。
●遺棄化学兵器被害の解決のために
 旧日本軍が遺棄した化学兵器による被害者は、現在裁判を闘っている原告たちのみではありません。中国にはまだ数多くの被害者がいます。また、日本国内でも被害者が繰り返し発生しており、被害者たちが救済を求めています。
 「もう2度と健康は取り戻せない。でもせめて安心して医療を受けられ、生活できるようにしてほしい。」―被害者たちの共通の願いです。私たちは、裁判で化学兵器を遺棄し放置し続けた日本政府の責任を明らかにするとともに、裁判を契機として、日本政府が、日中両国の被害者の救済のため、医療保障・生活保障の政策を作ることを求めます。
●解決のためのアクション!
ACTION 1 5万人署名へのご協力をお願いします 
 早期解決を求め、5万人を目標として、内閣総理大臣宛の署名に取り組んでいます。ぜひご協力を下さい!(署名用紙の請求は下記の連絡先まで。HPからもダウンロードできます。)
 第1次集約 4月3日(土) 第2次集約 5月24日(月)
ACTION 2 リーフレットの配布にご協力下さい 
 このリーフレットを置かせて頂けるお店・配布してくださる集会をぜひご紹介ください。
ACTION 3  学習会・パネル展示を開きませんか? 
 中国の被害者は、「戦争が終わって65年経った今も被害者がいることを、日本の皆さんに知らせて欲しい」と言います。まずはご家族やお友達に話してください。ミニ学習会、講師派遣、ミニパネル展示なども出来ます。お気軽にお問い合わせください。チチハルやハルビンへ行くスタディー・ツアーの企画にもご協力いたします。
ACTION 4 遺棄化学兵器被害者の裁判を支援してください 
 2010年5月24日13時10分 チチハル遺棄毒ガス被害事件の判決が、東京地方裁判所103号法廷で言い渡されます。裁判所に公正な判決を求める声を寄せて下さい。
 ハガキや手紙の書き方は、チチハル裁判支援ブログに載っています。
ACTION 5 カンパのお願い
 被害者来日や署名活動、集会などに取り組みますが、運営・渡航・滞在費用は全て皆さんからのカンパで賄います。少額でも結構です。よろしくお願いいたします。
●連絡先●
東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3階
化学兵器被害解決ネットワーク
TEL 03-5379-2607 FAX 03-5379-2608
e-mail suopei@tky.3web.ne.jp
http://cweapon.sakura.ne.jp/mt/youcan/
●カンパ振込口座
郵便振替口座:00170-0-650194
加入者名:チチハル8・4被害者を支援する会
(通信欄に「ネットワークカンパ」とお書き下さい)
            以上転載終了!
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中国人被害者が敗訴=チチハルの旧日本軍毒ガス事故

2010-05-24 21:04:42 | Weblog

私たちはこの問題にどのように向き合えばいいのだろうか?
国と裁判所は、あの戦争にからむいろいろな事案で今まで一貫して戦争責任を認めていない!!
国体護持を堅持したいため、天皇の戦争責任には全く触れようとしない!!
 被害者はたまったものではない!!2010年の現在、60有余年前の戦争の影響が中国の各地で起きている!!

突然の毒ガス…少女の夢奪う 
中国遺棄事故、24日判決


TKY201005200209.jpg
遺棄化学兵器による被害救済を求めて署名を集める馮佳縁さん=東京・吉祥寺の公園で
TKY201005200208.jpg
 少女は突然、戦争の被害者となった。旧日本軍が遺棄した毒ガスで2003年に中国・チチハル市で1人が死亡、43人が負傷した事故。当時10歳の馮佳縁さん(17)は汚染された土で遊び、被害にあった。負傷者全員と遺族計48人が日本政府に損害賠償を求めた訴訟の判決は24日、東京地裁で言い渡される。
 5月初旬、東京・吉祥寺の公園に、被害者救済を求めて署名を募る馮さんの姿があった。外見では遺棄兵器の被害者とは分からない。だが、後遺症で体力が低下し、長く動いてはいられない。
 事故があった03年8月、馮さんは小学3年生。整地のために運ばれた土で遊び、帰宅した後、足に激しい痛みを覚えた。皮膚がただれていた。目は赤く腫れて開けられず、のどに激しい刺激を感じた。
 学年で一番の俊足だった。スピードスケートの選手だった父の影響で、自分は陸上選手になる夢があった。しかし、事故後は、すぐ息が切れて胸が苦しくなる。成績も良かったのに、記憶力や集中力が途切れがちになり、普通高校への進学をあきらめた。
 いずれも毒ガス被害者によくみられる健康被害だった。そのうえ「あの子に近づいては駄目」といわれのない差別を受け、住まいも替えた。
 なぜ、こんな目に遭わなければならないのか――。中国と日本の間で戦争があったことは知っていたが、遺棄化学兵器は全く知らず、チチハルに埋まっていたことは知るよしもなかった。「日本の化学兵器のせいだと知った時、激しい怒りと恨みを感じた」。同時に戦争の悲惨さ、恐ろしさも身をもって感じた。
 日本政府は09年度までに約4万7千発の遺棄化学兵器を回収したが、大部分が埋まっているとされる吉林省のハルバ嶺(れい)だけでもまだ30万~40万発あると推計される。
 訴訟を通じ、馮さんは日本に自分を支援してくれる人たちがいると知った。「二度と同じような被害者が出て欲しくない」。そんな思いで判決の日を迎えようとしている。(向井宏樹)

中国人被害者が敗訴
=チチハルの旧日本軍毒ガス事故
-東京地裁
 
 中国黒竜江省チチハル市で2003年、旧日本軍の遺棄した毒ガス兵器で中国人が死傷した事故をめぐり、被害者と遺族の計48人が日本政府に約14億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が24日、東京地裁であった。山田俊雄裁判長は「被害は甚大だが、国の法的責任は認めがたい」として、請求を棄却した。
 判決で山田裁判長は、旧日本軍が駐屯したチチハル市で毒ガス事故が起きることを、日本政府は予見できたと指摘。その一方で「遺棄は中国本土の広範囲にわたり、可能性のある地域すべてを調査するのは困難だった」と判断した。
 事故は03年8月に発生。建設現場で掘り出されたドラム缶から毒ガスが漏れるなどし、1人が死亡した。原告弁護団によると、負傷した43人は筋力や記憶力が低下し、職を失うなどした。(2010/05/24-17:59)
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-24 07:00:11 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
 『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆細菌戦部隊の最後 
 6月に入り、ドイツは降伏し、沖縄は陥落した。石井は9月までには決戦の時が来ることを予測して、ペスト、チフス、コレラ、炭疽病などの細菌兵器の生産を進めた。もしうまく散布されれば地球全面積の半分を汚染することができる量だと言われている。これらの生物兵器を各地に配布するために80台のトラックが新たに購入された。施設や備品の一部は平房から朝鮮や満州の安全な場所に移された。終戦間近には囚人暴動が起こった。手錠を壊した囚人が昼食を運んで来た看守を襲い、別房の囚人たちを解放して反逆を図ったのだ。この囚人たちは全員毒ガスで殺された。一説には殺されたのは60人で、ホスゲンガスが使われたと言われている。この後、また新たな囚人が送り込まれて来た。
※1945年3月10日の帝都東京の大空襲を体験した石井四郎は、軍上層部から細菌戦の本格的な実施に向けての準備を命じられたのではないか?東京にいた石井が家族を伴って、又ハルピンの地に731部隊長として赴いた。そして、全力で細菌戦の準備をした。細菌戦のためにアメリカ製のトラックを80台も購入した。ところが戦局がなかなか好転せず、5月に同盟国ドイツの降伏、6月には9万余の犠牲者を出して沖縄が陥落し大変なことになった。天皇は常々「最後の一撃を」と周囲に漏らしていたようだが、この機に至っては細菌戦で戦況を変えるとは信じがたい状況になっていたのだろう!!アメリカの報復も恐い!!それにしても、敵国アメリカ製のトラック80台を物資が無い中よくもまあ購入したものだ!!どのようなルートで手に入れたのだろうか?
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
梅広全(男、62歳)の証言
 1937年の冬月に、日本人が十何人か私たち前石村に来て、至る所で物をかすめました。気晴らしに、私の家の門の所に材木を積み上げ、兄を中に入れ火を放って焼きました。火が燃えてから、日本兵が行ってしまったので、私たち家の者たちが急いで出て来て、兄を火の塊から救い出したのです。その時は全身水ぶくれになりましたが、幸い救出が間に合ったので、一死を免れました。
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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