この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-05-31 07:49:31 | Weblog
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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

1、731部隊の編成

平房特別軍事区域にある731部隊の施設は完備し、人員が多く、本部機構、各実験室、特設監獄、専用飛行場、少年隊舎、隊員家族区と教育区、娯楽区などがあり、1941年には、総数3000人に達した。

 「731部隊」編成表(近藤昭ニ氏が作成・提供)
※表に出来ないので大よそを列記します。
●部隊長:石井四郎、北野政次、石井四郎
●総務部:川島清、村上隆、今津綱幹、中留金蔵、太田澄
    ・副官室 
    ・調査課(通訳班、印刷班、撮影班、兵要地誌班、調査班、図書                             室)   
    ・人事課
    ・庶務課(労務室、庶務室、食堂、売店、学校)
    ・企画課
    ・経理課
    ・管理課(建設班、工務班、動力班、電話班)
    ・軍需課
●第1部(基礎研究:田部井和、北川正隆、菊池斎)
    ・第1課(腸チフス)
    ・第2課(コレラ)
    ・第3課(生理・捕虜管理)  吉村寿人(吉村班、宮川班、栗秋班、在田班、石井班、蓬田班、志村班、特別班)
    ・第4課(赤痢)
    ・第5課(ペスト)
    ・第6課(病理)
    ・石川班(病理)
    ・第8課(病毒)
    ・第9課(水棲昆虫)
    ・第10課(血清)
      内海班(血清)

    ・小滝班(結核菌)
    ・第11課(結核)
    ・肥之藤班【脾脱疽(ひだっそ)】
    ・桶渡班
    ・降旗班(ペスト)
    ・金沢班
    ・太田班(脾脱疽)
    ・貴宝院班(天然痘)
●第2部(実践研究:早川正敏、太田澄、村上隆、碇常重)
    ・第1課(庶務、操縦班)
    ・第2課(技術班、気象班、無線班、運輸班)
    ・田中班(昆虫)
    ・篠田班(昆虫)
    ・八木沢班(植物菌)
    ・第5課(安達実験場)
●第3部(防疫給水:今瀬一夫、江口豊潔、増田知貞)
    ・庶務課
    ・第1課(検索)
    ・第2課(毒物検知)
    ・第3課(濾水班、給水班、運輸班、焼成班、工作班)
    ・濾水機(弾筒製造窯)
●第4部(細菌製造:川島清、太田澄)
    ・第1課(培養生産)
    ・第2課(ワクチン?脾脱疽)
    ・第3課(乾燥菌・ワクチン)
    ・第4課(ワクチン)
    ・有田班(腸チフスワクチン)
    ・植村班【ガス壊疽(えそ)・脾脱疽】
●教育部(園田太郎、西俊英)
    ・庶務課
    ・教育課
    ・衛生兵
    ・炊事班
    ・診療所
    ・訓練隊
    ・少年隊
●器材部(大谷章一、紫野金吾)
    ・庶務課
    ・第1課(薬品合成)・・・山口班(細菌弾)・堀口班(ガラス)

    ・第2課(購買補給)
    ・第3課(濾水機)
    ・第4課(倉庫)
    ・第5課(兵器保管)
    ・第6課(動物飼育)
●診療部(永三太郎)
    ・伝染病棟(南棟)
    ・診療室
    ・家族診療室
●憲兵部(乙津一彦、田坂千晴、酒井○○)
    ・保機隊

●牡丹江支隊(通称643)
●林口支隊(通称162)
●孫呉支隊(通称673)
●ハイラル支隊(通称543)
●大連支隊(通称319)

※日本軍の細菌兵器研究で中心となる731部隊は、機構が膨大で、人員が多く、編成人数は3000人。その下には研究と生産担当の8部、4支隊と大連衛生研究所がある。
※名前不詳の場合は○○とする。


●日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)

関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部

華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部

華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部

華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部

南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部

関東軍第100部隊(長春)

      516部隊

   731部隊

   731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。 

   
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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中山門外の東側郊外一帯での集団虐殺

  王志福(男、61歳)の証言

(昨日の続き)日本軍は人々の群から若くて力の強いのを引きずり出し、着ている物の衿(えり)を引き裂き、手を開かせ、1人1人調べて、許老五、王立順、王志○、施仁喜、張広洞、王老巴子と任小順子など、みんな職人でしたが、一斉に引っ張って行かれ、家でどんなに頼んでも聞かれませんでした!
 それから、日本軍はまた王志標、王志生、王志中、王立江、王志木、王志成、曹応宏、任志才、王立汛、王立景、王立桂、王志龍と私とに、鶏を持たせたり、鍋を担がせたりして、東の方へ行かせたのですが、私はやっと13歳で、日本軍が略奪してきた掛け布団と敷布団とを私の肩に乗っけたので、道々私は押しつぶされそうでふらふら汗をかき通しでした。
 向前に着いて、日本軍が休憩していた時、私が年が小さいと見て、放ち帰らせました。帰ってくる道で、ずっと遠くから陳家窯や徐崗頭や長林郷などの村々から真っ黒い煙がもくもく噴き上がり、家がたくさん焼き払われるのが見えました。私が陳家窯村の前のカササギの尻尾まで行ったら、道の脇に高く盛り上がっている田に、死体が何十とごろごろ転がっているのしか見えませんでした。
 私達は引っ張られて前を走っていて、日本軍は後ろで疑わしいと見たのを対象に機関銃で掃射し、この時だけで私達中国人4,50人が撃ち殺されたのです!
 私達の村の
 王志○、許老五、王立順、施仁喜、張広洞、王老巴子と任老順子がここで撃ち殺されたのでした。
 崗下村はその頃全く惨めでした。若い人たちの死体は、見分けのつかないほど崩れていましたし、生きている人は天に叫び地を打ちたたき、嘆き悲しみ慟哭(どうこく)してやみませんでした。王志標と王志生と王志中とは、捕まって行ったきり帰って来ず、便りも杳(よう)としてありませんでした。日本軍が村にやって来て、崗下は災禍に見舞われたのです!(甘家小学校の李家坤が記録)

※○は日本の漢字に見当たらない字
 
      「Imagine9」【合同出版】より


MESSAGE(メッセージ)



環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。

人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。

あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。


ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-05-30 06:31:15 | Weblog

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●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
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中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

1,平房特別軍事区域

●特別軍事区域への管理を強めるため、平房警備当局は特別軍事区域から周囲1.5キロのすべての道路口に境界札を立てた。

●当時、旅客列車が、ここ特別軍事区域を通過する際、平房駅の前の駅から窓カーテンを下ろし、外をのぞくことを禁止していた。この規定を知らずに外をのぞけば、政治的容疑で直ちに逮捕され、警察署や憲兵隊に送り込まれていた。この状態が続いたので、人々はこの平房駅の前の駅から次の駅までの約60中国里の区間を「60里国境線」と呼んだ。

●平房特別軍事区域内の住民管理は非情に厳しく、満16歳の住民は必ず偽香坊警察署配布の「居住証明書」を所持しなければならない。

●規模が大きな731部隊における労働力問題を解決するため、2000人以上の中国人労働者が雇われ、それには地元労働者と外来労働者がおり、毎日が重労働。特に外来労働者の暮らしは非常に苦しかった。

●軍隊、警察、特務たちの厳しい検査があるので、労働者達が出入りする時は必ず「労務身分証明書」を所持しなくてはならず、持っていなければ殴るなどの暴行を加えられ、ひどい時は政治的容疑で憲兵隊や警察署に送られる。

●箱床・・・刑罰用道具の一つ。体をベルトで木板に縛りつけ、頭を仰向きに箱に入れ、受刑者の口に水を流し込む。この刑罰は労働者から「潅水(かんすい)の刑」と呼ばれた。

●衛兵所が5ヶ所あり、高さ5メートルで、上部は高電圧電線と鉄条網が張られた土塀によって5つの衛兵所がつながっていた。

●731部隊の設備は整い、宿舎、実習室、食堂、倉庫、浴場、講堂と練兵場があり、庭の外には「少年隊」訓練場、馬場、そして「東郷国民学校」、神社などがある。


●日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)

関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部

華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部

華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部

華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部

南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部

関東軍第100部隊(長春)

      516部隊

   731部隊

   731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。 

   
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1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中山門外の東側郊外一帯での集団虐殺

  王志福(男、61歳)の証言

 それは民国26年冬月のことですが、どんよりと曇った日で、日本の飛行機が南京の上空でぐるぐる旋回している間中、ずっと「ブウーン」といった何とも怪しげで甲高い音を発し、やがて「ドカーン」と爆弾の炸裂した音が聞こえてきました。
 私達の村は崗下と言い、陽山のふもとに位し、その頃は人家が30戸で、ほとんどが田を耕して生業とし、職人も少しいました。日本兵が南京に攻め込んでくる前夜、職人達は南京に留まれず、次々に故郷へ戻って来ました。
 その頃は、どこも安寧ではあり得ませんでした。村の人は親戚や友達を頼って長江の向こうへ渡って行く者あり、栖霞寺に入って難民キャンプの住民となる者ありでしたが、そのほかにはと言えば、家を離れる気にもなれず、終日びくびくしていて、昼間は村外れに人を歩哨に立たせて情報を得、夜は陽山に上がって藪に隠れるのでした。
 はっきり覚えていますが、陰暦の冬月14日の日に、村のお婆さんが知らせに走って帰って来て、「日本軍が小崗子に来ちゃってるよ。焼いて、殺して、強かんして、略奪してと、何でもやってるよ。あんた達早く行きな!」と叫びました。日本軍が西から来ると言うので、私達東へ走ろうとしたところが、松山の囲みからも日本軍の一隊が行く手をさえぎってやって来たので、走るには及ばずとなり、みんな家で縮こまりました。
 日本軍が村に入って来て、村の端にも、村の中にも機関銃を据え付け、鶏はケッコケッコと追い立てられ、お酒の壷は粉々に叩き壊されて、私達みんな村の真ん中に引っ立てられ、日本軍がひとしきり銃を放ち、わらの堆に火を放つと、その日は丁度大風が吹いていて、火が東の端から西の端までなめて行って、家はすっかり焼けてしまうという状態で、誰が火を消しに行かれたでしょうか。(明日に続く)

  
       「Imagine9」【合同出版】より


はじめに


戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
 世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
 日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
 それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
 世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

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2009-05-29 08:04:59 | Weblog

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●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

1,平房特別軍事区域

 平房特別軍事区域の敷地面積は120平方キロ、「軍事基地」と4本の防衛ラインからなる。4本の防衛ラインのうち、1本は空中防衛ラインで、残り3本が陸上防衛ラインである。空中防衛ラインは軍用と民用の航空系統に軍令を発し、日本軍機を含む全ての飛行機による無断の上空飛行を禁止し、違反した飛行機が現れれば、731部隊専属の飛行機が直ちに離陸してそれを阻止し、また地上にも高射砲が設置されている。陸上防衛ラインであるが、1本目は長方形で「四方楼(しほうろう)」を囲む土塀(どべい)のことであり、高さ2メートル、長さ5キロ、土塀の上には高電圧電線が張られ、塀の東側に2つ、南、西、北にはそれぞれ1つの出入り口があり、横にいずれも衛兵所がある。2本目は1539号命令に基づき「甲」号地区の外側に張られ、その内側の縁から731部隊の中心地までは2キロから5キロほどあり、ここは特別管理区域となっている。そして3本目は「乙」号地区に張られ、ここでは2階建て以上の建物建造を一切禁止している。この地区の外側には関係者以外立入り禁止の看板が立てられた。

●四方楼・・・4つの建物からなる漢字「口」字【森村誠一著:『続・悪魔の飽食』では、(カタカナの「ロ」の字形をした通称「ロ号棟」と呼ばれる部隊本部建物)とある】のもので、731部隊の細菌兵器の研究、実験及び生産用の中心であり、「四方楼」の中央部は被験者達を収容する2つの特別監獄。

●日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)

関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部

華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部

華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部

華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部

南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部

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   731部隊

   731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。 

   
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   ハイナンネット

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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中山門外の東側郊外一帯での集団虐殺

  陳光秀(女、67歳)の証言

 私は江寧の湯山鎮許巷村に生まれました。1937年の12月に、日本軍の先頭の部隊が私の住んでいた地の近くから街道沿いに南京へ進んで行きました。農暦の冬月8日に、父親の陳智松が家にいた時に、日本の通信兵が電線の回収をしていて、たまたま父が脱穀場にわらを運んで牛に食べさせようとして、日本軍に撃たれて死んでしまいました。冬月14日に、村に突然いっぱい日本兵が現れました。そのころ村にはみんなで200戸くらいの人家があったのですが、日本兵は村中から100人以上の若い人を、稲を打つ場所に集めて来て、全員に胸を大きく開かせ、銃剣で1人1人刺し殺しました。私の実の弟の陳光東もその中にいました。時大林というのが、日本兵が見て回った時に、まだ死んでいないと分かって、何度も突き刺されました。刺されるたびに、「お母さん!」と叫ぶのが聞こえてくるという、そんな悲惨な死に方でした。思い出すと、ほんとに心がうずきます!それから劉応志と時先の2人は、何度か刺されたのが、急所には達しなくて、後から家の人たちに救い出され、傷口を布で包帯し、しばらくして傷がよくなりました。湖山炭鉱の労働者の崔義財は、機転を利かせて、日本兵が刺しまくっていた時に、その流れに沿ってうまく死体の中に倒れ込み、幸い難を免れたのでした。この当時の生き残り3人も何年か前に世を去りました。
 日本兵は残忍さが習い性となって、焼き払い、殺害し、姦淫し、かすめ奪い、およそやらない悪事は無い状態でした。その頃村にいた艾さんの家の4兄弟が、艾紅来、艾根来、艾義生、艾仁義と4人とも日本兵に捕まって、麻袋を投げ棄てるかのように、生きながらにして殴り殺されたのです。それに何人かよその土地から日本兵に捕まえられてきてクーリーをさせられていた人たちも、後になって日本兵に銃剣で五臓六腑をみんなえぐり出されたのです。近隣の村里にいた方老ニと呼ばれていた人は、日本兵に刀で全く2つに斬られてしまい、半分は大場崗に捨てられ、一方は六畝口に放り投げられたのでした。それから劉さんとこの5番目のが、日本兵に門から突入して来るなり、刀で頭からぶった切られて、半身は門の外に、もう一方は門の内にということになりました。日本兵は殺人のほかに、婦女の強かんもし、蘇仁発の奥さんがその頃40過ぎくらいでしたが、日本兵に私の家のベッドに押さえつけられて強かんされましたし、蘇仁発の家には息子のために幼い時から育ててきた嫁がいて、やっと15,6だったのが、3,4人の日本兵に時魏官の家に引っ張って行かれて輪かんされ、局部が紅くはれ上がり、出血が止まらずに、歩くのも困難でした。
 日本軍が許巷村を血で染めた犯罪行為は、とても忘れられません。私の家は父親と弟が殺された他に、兄嫁が日本軍に見つからないよう、外の大山の上で子どもを産んだために、産後の肥立ちが悪く病気になって、間もなく死んでしまいましたし、母も夫や子どもが殺されたため、塞ぎこんで死にましたから、一家の内私達姉妹3人と甥が2人残っただけでした。(郭立言が記録)

 
     「Imagine9」【合同出版】より


考えてみよう、


日本の憲法9条のこれから。


日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
 2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。

 また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
 そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平
和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

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2009-05-28 11:07:56 | Weblog

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。今でもその被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

1938年6月、日本関東軍の第1539号命令に基づき、「石井部隊」は正式にハルピンから20キロ離れた平房地区に移転し、「満州第731部隊」と改称し、平房地区の120平方キロを特別軍事区域にした。中心地域の敷地面積は6.1平方キロ。この広い特別軍事区では、部隊の定員編成、敷地面積、そして細菌生産量などがいずれも最大限に拡大され、第二次世界大戦では世界最大規模の細菌の生体実験と生産基地になった。

●日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)

関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部

華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部

華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部

華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部

南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部

関東軍第100部隊(長春)

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   731部隊

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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  陳金和(女、76歳)の証言
 1937年の冬月11日に、私達の家族は母と兄と妹と私の4人でしたが、下関の五所村から逃げて山西路の小学校に避難しました。ある日、日本兵の一群が銃を水平にかざして学校に闖入して来て、その頃そこで難を逃れていた私達5、600(五・六百)人を、全部運動場に駆り立てて、男を一方に、女をもう一方に並ばせました。その時私の兄が日本兵に中国兵だと疑われたのですが、後で母が確かに息子だと確認して引き取ったので、釈放されました。そのほかの身元を確認して引き取れる年寄りのいない青年達は、日本軍が中国軍だったとみなして、全部車で引っ張って行きました。みんなで六,7台の車で、500人余りくらいが山西路の後ろの樹林子里の尼姑庵の近くまで引っ張って行かれて、機関銃で射殺され、傷ついてまだ死ななかった者は日本軍にまた銃剣で突っつき殺されました。明くる日私は水のある所へ菜っ葉を洗いに行って、樹林子の近く一面に難にあった人たちの死体が横たわっているのをこの目で見たのです。
 このほかに、その年の冬月のある日、私たち娘4人で一緒に浦口で飴を売るのと黒慈姑(くろぐわい)を煮るのとの商売をしていましたら、日本兵の何人かに見つかり、野獣のように跳びかかって来られて、私一人逃げたのですが、後で分かったことには、ほかの3人は日本軍に強かんされてしまったのでした。(陳平穏が口述により整理)


   「Imagine9」【合同出版】より


考えてみよう、


日本の憲法9条のこれから。

「日本の憲法9条をあたりまえのものだとどうか思わないでください。それは、ある日突然なくなってしまうかも知れません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし、憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人々が救われています。9条がなければ、皆さんはアメリカが第二次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです。 これは、アメリカの元海兵隊員で、今では世界的に平和活動を行っているアレン・ネルソンさんの言葉です。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-05-27 09:42:49 | Weblog
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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  中国東北に設立された秘密実験機構

背蔭河(はいいんが)の日本軍細菌工場(中馬城)には被験者となる多くの中国の抗日人士や捕虜が収容されていた。1933年の中秋節にはここで脱獄事件が起こり、王子揚さんをはじめ30数名の収容者が看守の不意をつき行動を始め、停電に乗じて10数人が脱獄に成功した。これらの脱獄者は近くの村民達に助けられ「中馬城」を離れた。これら脱獄者の一部はその後抗日戦争に参加している。この事件があってから、731部隊は平房地区に移された。

●付連挙、男、1918年生まれ。本籍は黒龍江省五常県背蔭河鎮富有村発屯。1933年の夏、付連挙さんは兄付連曾さんと共に脱獄者の足かせを叩き壊し、逃走に協力した。

     516部隊
  731部隊

   731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。 

   
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「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  黄碧如(女、82歳)の証言
 1937年には家は鳩子橋泥馬巷46号でした。民国26年の陰暦11月8日に、日本兵が南京に入ってきたのですが、私達はもう莫干路の難民区へ逃げこんでいました。難民区にかかっていたのはアメリカの国旗で、私は25歳でした。ある日の午前9時か10時に、陰陽営の角の近くで、中国の青年が100人か200人縄で一緒にくくられ、何列かに立たされて、それを日本兵が機関銃で掃射しているのを、この目で見ました。後で国際紅十字会の人がこの時遭難した人たちの屍を鼓楼の二条巷一帯に運んで埋めました。○という叔父で、その頃餃子やわら麦の店をやっていたのが、手にたこが出来ていて、頭も剃っていたために、日本兵に中国兵だと言われ、難民区から捕まえられて行き、やはり陰陽営の路上での大虐殺で死んだのですが、難に遭ったのはまだ30歳足らずの時でした。
(陳平穏が口述により整理) 
 ○は日本語に見当たらない漢字。

 「Imagine9」【合同出版】より


世界は、


9条をえらび始めた。


・平和を探ることが人類の進化だと思います。
私たちが本気になって平和を模索しなければ、いろいろな問題は改善されるどころか、悪化してしまいます。
(アメリカ、40代・女性)

・日本が軍隊を持たないという約束を破ろうとしているのではないかと、私はとても心配しています。日本政府が憲法9条を守り。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という決断を決して変えることがないことを願っています。(ベルギー、40代・男性)

・日本の皆さんが9条を世界に広げようとしている大義を、私たち、ケララ州コーチンの市民は、心から支持し、その取り組みに全面的に協力と支援をいたします。
(インド、50代・女性)

・私の地域では、たえまない暴力が解決のめどもつかないまま50年間続いています。戦争は、プレイステーションのゲームではなく、マンガでもありません。あなたの愛する人の現実の死なのです。日本が戦争を放棄したことの意味を、もう一度見つめてください。(レバノン、20代・女性)

・武器や核兵器による絶え間ない脅威は、世界の病というべきものです。私の国、コスタリカは武器をもたない国であり、世界のほかの国々も同じようにあるべきだと思います。現在の日本の憲法9条は非常に素晴らしいものであり、いかなる権力によってもこれは変えられるべきではないと思います。日本は永遠に平和な国として存在するべきです。
(コスタリカ、60代・男性)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-05-26 08:23:01 | Weblog

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  中国東北に設立された秘密実験機構


 宮武 剛(編集)
『将軍の遺言ー遠藤三郎日記』より

昭和8年(1933年)の秋、遠藤は石井四郎軍医正の生体実験を視察する。場所はハルビンと吉林の中間、背蔭河という寒村であった。
 【11月16日(木) 快晴
「午前8時半、安達大佐、立花中佐と共に交通中隊内試験場に行き試験の実状を視察す。
第2班、毒ガス、毒液の試験、第1班、電気の試験等にわかれ各○○匪賊2(人)につき実験す。ホスゲンによる5分間のガス室試験のものは肺炎を起こし重体なるも昨日よりなお、生存しあり。青酸15ミリグラム注射のものは約20分間にて意識を失いたり。
 2万ボルト電流による電圧は数回実施せるも死に至らず、最後に注射により殺し第2人目は5000ボルト電流による試験を数回に及ぶも死に至らず。最後に連続数分文の電流通過により焼死せしむ。
 午後1時半の列車にて帰京す。
 夜、塚田大佐と午後11時半まで話し床につきしも安眠し得ず」】
 ホスゲンは塩化カルボニウムの別称、染料やポリ炭酸エステルの合成等に適するが毒ガスにも使われる。青酸カリ(シアン化カリウム)は15ミリグラムがちょうど致死量とされる。
 感情を押し殺すように事務的な表現ー。しかし明け方うなされて起き上がり書き加えたのだろうか、末尾の「安眠し得ず」に遠藤の衝撃がうかがえる。
 遠藤は自著や毎日新聞記者によるインタビュー(昭和56年)などで、この実験の概要は証言している。実験場は醤油工場を改造した木造平屋でハルビン監獄の死刑囚を送り込んでいた。「東郷部隊」と呼ばれ、隊員は日本名を禁止され内地の家族との文通も偽名で関東軍司令部経由。実験場の壁には高圧電線を張りめぐらし、遠藤も感電を避けるため軍刀のつかに外とうを巻き、それで門の扉を押した。
 この部隊こそ「関東軍第731部隊」の前身だった。
 遠藤の上司、岡村寧次参謀副長も「下働きの大部分は石井の郷村(千葉県山武郡)から選抜してきた青年」で「一切の外出禁止」「モルモットの代わりに、どうせ去りゆくものとはいえ本物の人命を使用するのであるから効果の挙るのは当然」(岡村大将資料)と書き残す。
 遠藤は、石井を「精力的によく仕事をする男だった。時には暴走するが」と評した。健康体に食べ物を与え水を与えなかったり、その逆を試しているのを聞き、興味本位の研究なら中止させる、と石井に言い渡したともいう。
 8年暮れには、空路、雪を突いてー。
【12月8日(金) 降雪
 「(略)拉林着、石井及び伊達氏に迎えられ背蔭河の細菌試験所を視察す。600メートル平方の大兵営にして一見、要塞を見るが如く一同の努力の跡、歴然たり。20数万円の経費またやむを得ざりしか(略)」】



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   731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。  

   
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「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  劉鳳英(女、1986年に59歳)の証言

 私は幼い頃に両親が亡くなり、お婆さんが私と兄2人とを面倒見ながら暮らしを立てていて、家は南京市の柳葉街大膠巷でした。兄は2人ともわら麦を造ったりシャオピン(焼餅)を焼いたりする腕がありました。
 日本軍が南京に攻めてきたあの年には、私はもう10歳でした。私達一家4人で、上海路の難民区に引き移り避難しました。日本軍が入って来て何日かして、ある日の晩、日本兵が難民区に捜査にきて、もう眠っていた兄2人を捕まえて行きました。(上の兄は劉光栄で、21歳、下の兄は劉光華で、19歳でした)。2人の手にたこが出来ているから、兵隊だったというのです。一緒に住まっていた難民で9人が捕まって行きました。お婆さんがあきらめられずにぴったりと付いて行ったので、9人が大方巷の外に鉄柵のある家に閉じ込められたのを、見届けました。その日の夜、その辺りから機関銃の音が響いてきて、随分長い時間響いていました。明くる日お婆さんが捜しにその家に行ったら、中はもぬけの殻でした。3日目になって、閉じ込められた人がみんな近くの3つの大きな沼で殺されたとやっと分かりました。沼の辺に行ってみると、沼の中に死体がいっぱいうずたかくなっていて、沼の水が紅く染まっていました。春になる頃に、やっと慈善団体が屍を片付けに出ました。お婆さんは私を連れて見に行きましたが、もう兄2人の屍は見分けられませんでした。
 大虐殺の後、私とお婆さんとは家へ越して住まいました。ある日、柳葉街を歩いていると、真正面から酔っ払った日本軍が1人ゴム輪の人力車に乗っているのに出会いました。日本刀を抜いて斬りかかってきましたが、幸いに私がさっと身をかわしたので、難を逃れたのでした。兄が2人日本軍に殺されてからは、私とお婆さんの暮らしはとっても大変で、親戚の援助に頼ったり物乞いをしたりして過ごしました。16歳の時にお嫁に行ったのです。(許亜州が記録)
       

「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。


・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)

・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)

・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)

・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)

・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】


1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-05-25 18:57:59 | Weblog

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昨日は失礼しました。僕のパソコンがインターネットに接続できなかったので(理由は分からない)更新できませんでした。
 ・韓国のノムヒョン前大統領が自殺しましたね!!どんなことをしていたかは僕にはよく分かりませんが、韓国では悪いことをしていたら、大統領経験者でもよく逮捕されるのは驚きです!!陰謀かどうかは分かりませんが?
 日本では、悪いとことしてもうやむやになる場合が特に多くありませんか?特に日本の政治家や皇室の偉い方は!!

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●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  中国東北に設立された秘密実験機構

「9.18事変」以後、日本侵略軍は中国東北に傀儡政権「満州国」を設立し、日本の中国での植民地支配を実施する「国の中の国」とした。この時期は日本の細菌研究も大規模な実験段階に入り、自由に使用できる実験材料ー健康な人間の体を大量に入手するため、彼らは中国東北に秘密の実験機構を設立し、陸軍軍医学校防疫研究室の研究に協力していた。1932年7月から8月にかけて、日本軍は黒龍江省の五常県背蔭河鎮(ごじょうけんはいいんがちん)にて「中馬城」と呼ばれる細菌工場を建て、また1933年8月にハルピン市南崗区の宣化街と文廟街の間に実質上の細菌研究所である「石井部隊」をつくり、表向きは「関東軍防疫給水部」とし、また「加茂部隊」、「東郷部隊」といった別称があったが、これが731部隊の前進である。

 ●関東軍副参謀長の遠藤三郎は普段から日記をつける習慣があった。1933年、石井四郎による細菌実験の成果を調べるため、遠藤三郎は自ら背蔭河の細菌実験工場に赴き、当時の実験過程と試験状況を日記に詳しく記述した。これら日記は戦後日本で発見された。

 宮武 剛(編集)

『将軍の遺言ー遠藤三郎日記』


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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  唐順山(男、1906年生まれ)の証言

(昨日の続き)女工の1人が、いらない布切れを4枚手にしてはばかりに行ったところ、この男に調べられ日本刀で首を斬り落とされました。金という少年工が、ほんのちょっとこいつの靴を借りてはいただけで、電信柱に縛り付けられ滅多打ちされた上に犬を放たれ噛み殺されました。それに一度、こいつは中国人労働者の1人が自分のシャツを盗んだと言い立てて、その人を電信柱にくくり付け、日本人何人かでその人を標的に石を投げつけて、生きたまま石で撃ち殺し、犬に食わせたのです。これを見て私は、工場では仕事していけなくなり、工場の門のところで私の前からの本業である靴直しをやりました。ある日、8月頃かに、靴を直してもらいにやってきた日本軍の通訳(中国人だった)がたまたま私に、工場内の大きな穴に埋めた中国人には、「楊伯達」に殺害されたのがたくさんいる、と言ったのを聞きました。新たな仇への怒りと前からの恨みとが一気に胸に湧き上がり、自ずと大きな穴へ痛ましく死んだ人のことが想われ、自分の命も今にも失われようとしていることが思われ、「楊伯達」にやられた被服工場労働者の何人かの死に際のすさまじさが目に浮かび・・・して、この殺人をものともしない悪魔を亡き者にして、災難にも死んでいった同胞達の仇を討とう、と私は決心しました。じっとひそかに観察していて、こいつは毎日午後に工場内のあの大きなため池で行水するんだと分かりました。私は自分では泳げないもので、水に強い友達2人(あだ名で「大きい和尚」「小さい和尚」と呼んでいる2人とも私の相弟子)に頼んで手を下してもらい、「楊伯達」を水につけて窒息死させ、縄で石を体に縛り付けて、池の底に沈めてやりました。うまくやってから私達3人とも南京から逃げ出しました。3人別々になってから、私は徐州へ行って靴直しをやり、それから妻と息子を徐州に迎えました。
 その後また将軍の遺言済南へ行って生計の道を図りました。1949年に解放されてから、私達一家はやっと南京に帰ってきました。私は3521工場に入って仕事しました。1976年に隠退し、今はこの市の四条巷康楽村3楼24号に住んでいます。(許亜州が記録)



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世界は、


9条をえらび始めた。


・平和が武器によってつくられるものではないということに世界中の国が気づき、すべての国が憲法9条をもつようになることを願ってます。(オーストラリア、20代・女性)

・このグローバル9条キャンペーンに非常に感動しました。憲法9条を維持しようというこの草の根運動には、日本がアジアとの関係に誠意を持って向かっている姿勢がうかがえます。このキャンペーンに多くの日本人が賛同し、成功することを望みます。がんばってください!(韓国、30代・男性)

・憲法9条に賛同します。このような憲法があることで、私たちは、戦争のもついかなる攻撃性に対して共に、立ち上がるような地域社会の結びつきを強くしていくことができると思います。私たち一人ひとりのの協力こそが、最高の平和の武器だと思います。(ベルギー、50代・男性)

・日本のような歴史を持つ国が、憲法9条を広めようという行動をとることは、世界のほかの国々にとっての模範です。ほかの国々もそれに続くことを祈って。私たちに必要なことは平和への挑戦です。
(コスタリカ、20代・女性)

・日本国憲法第9条の改定に反対です。(ロシア、20代・男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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2009-05-23 06:21:10 | Weblog
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  細菌戦の企画

 陸軍本部の支持の下に、石井四郎の細菌戦構想の実施として陸軍軍医学校に「防疫研究室」が設置された。この研究室には、京都と東京の帝国大学から一部の医学専門家が集まり、ここは日本の細菌戦研究の核心的機構となった。


 石井四郎

 1892年6月25日に日本千葉県山武郡千代田村に生まれ、1921年に京都帝国大学を卒業後に服役。入隊当時の階級は少尉。
 1922年の夏、東京第一陸軍病院に転勤。
 1924年に京都帝国大学にて細菌研究を命じられる。
 1928年~1930年の2年間、ヨーロッパの20以上の国を訪れ、細菌兵器の研究資料を大量に収集。帰国後細菌戦の必要性を極力強調し、細菌兵器は、製造ではコストと資源を節約できる上に想像に絶する威力を持ち、その実施は経済危機と鋼鉄不足に直面している日本にとっては一石二鳥だと主張した。これは当時の陸軍大臣荒木貞夫をはじめ多くの軍部要員から評価され、その後細菌戦の研究計画が実施された。
 1932年8月、日本陸軍軍医学校にて石井四郎を始めとする防疫研究室が設立され、同時に7月から8月にかけて中国黒龍江省の五常県蔭河鎮にて細菌実験工場が建てられた。また、1933年8月にはハルビン市の宣化街と文廟町周辺にて石井細菌研究所(石井部隊)を発足させ、裏では「加茂部隊」と称し、石井四郎がその所長を務めた。
 1935年に平房地域で、より大きな規模の細菌戦研究を行なう実験基地が建てられ、これが731部隊である。石井四郎は12年にわたって細菌兵器の研究と生体実験を行ない、数多くの細菌戦を指揮した。第二次世界大戦終了後、石井四郎は日本に逃げ戻り、戦犯免責となるため、大量の細菌研究史料をすべて米軍に提出し、それ以後はずっと東京新宿区若松町に隠居。1959年10月9日に咽頭ガンで死去する。

 ●永田鉄山
 元日本陸軍省軍務局長の永田鉄山は石井四郎の細菌研究計画を終始賞賛し支持した。石井四郎にとっては頼りうる上司の1人。永田鉄山はかつて細菌兵器の情報収集のため石井四郎をヨーロッパに派遣し、のち石井四郎の細菌戦計画を日本軍部に推薦した。

 ●1932年、日本陸軍の上層人物の支持により、日本陸軍軍医学校にて石井四郎を始めとする防疫研究室が設立され細菌戦研究が始まった。日本軍部は絶えず命令を下し、研究室も絶えず拡大し、名称も「防疫研究所」に変わり、実際には日本軍による細菌戦実施での初期の研究センターとなった。


 ●腸チフス、赤痢、ペスト、コレラなど諸細菌を大量生産するため、防疫研究室には培養基が用意された。

                  
      
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  「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  唐順山(男、1906年生まれ)の証言

(昨日の続き)死者はほとんど全部首を斬られていて、体を斬られたのも少しありました。日本軍は私たちの一群を4組に分けて、大きな穴の四隅に立たせ、殺人競争をやりました。日本軍のある者は刀で首を斬り落とし、ある者は首を受け取って数字を付けました。妊婦が1人、一太刀で胎児をほじくり出され、へその緒が長く長く引きずられました。なんと酷いんでしょう!何十人もを殺したのを私は目撃しました。私の前の1人をころす番になって、死体が私の体に倒れてきたので、その機に乗じて私も倒れました。それからまた死体が幾つか私の体の上に倒れて来て、私の上にすっぽりかぶさりました。最後に、日本軍が銃剣でまだ息の絶えていない人に追撃をかけ、闇雲に一突きして回ったので、私も体を何箇所か刺されました、左ももに三太刀、長さ一寸くらいと、背の左上に、長さ一寸余りほどで、この4箇所に、今でも傷痕が残っています。そのほか、頭の皮膚にも軽い傷が1箇所あります。暗くなって、日本軍が行ってしまってから、私の友達の車学財と車学富との2人(2人とも従兄弟)が、ふたのある下水溝の1本を虐殺現場まではって来て、まだ生きている人を尋ね探してくれました。2人がある死体の堆の下に身動きしている人がいるのを見つけて、死体をかき分け、私を引っ張り出し、顔の血痕を擦り落として初めて、それが私だと分かったのでした。2人は私を救い出し、校門のところのお隣のお婆さんの家に寝かせてくれました。そのお婆さんが水で傷口を洗ってくれて、とても長い時間かかってやっと治ったのでした。
 日本軍が南京を進撃して以来、私は妻子との連絡を失ってしまいました。私が傷を負ってからも、消息を知らせられませんでした。翌年の7,8月になって、偽の傀儡政権が山西路に救済委員会の病院を1つ作って、負傷した者を無料で治療したので、私も傷の治療に行きました。傷はまだ完全には好くなりませんでしたが、口過ぎのために、私が九死に一生を得た被服廠のところで手伝いをしました。その頃日本人が中国人労働者を募集してそこで廃墟を片付けさせていましたが、それからはその工場も日本人の軍用被服廠になり、名称も「田中友(音訳)部隊」と呼ばれました。工場には日本人の職長「楊伯達」(音訳)がいて、この上ない残虐さでした。(明日の続く)


       「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。(中国、40代・男性)

 

・9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。(モンゴル、60代・男性)

 

・9条は、日本が多くの残虐行為をおこし、侵略戦争を行った反省から制定されたものです。その9条をなくすことに賛成できません。(韓国、60代・女性)

 

・9条の平和主義は、私たちの世代だけでなく、次の、その次の世代の平和にも重要です。(中国、40代・男性)

 

・すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。(イギリス、20代・男性)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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731部隊・南京大虐殺

2009-05-22 05:23:53 | Weblog

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 「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!
●頭のいい人も「お国のため」と言われながら、不本意なことをしなければならなかったのか?それとも自分自身で何とか合理化して積極的にやったのか?それとも、初めから強い国をつくる為には、良心の呵責も無く、積極的に推進したのか?731の実験は本当に非情・冷酷なものである。


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  細菌戦の企画

 陸軍本部の支持の下に、石井四郎の細菌戦構想の実施として陸軍軍医学校に「防疫研究室」が設置された。この研究室には、京都と東京の帝国大学から一部の医学専門家が集まり、ここは日本の細菌戦研究の核心的機構となった。


 防疫研究室及び石井の731部隊に関係する医学者

永田鉄山・・・陸軍軍務局長。細菌戦の構想を立てることに尽力し、かつては世界各国の細菌戦の準備状況視察のため、石井四郎をヨーロッパに派遣。「濾水器(ろすいき)汚職事件」で石井四郎を助けたことから石井に「一生の恩人」と呼ばれる。

小泉親彦・・・陸軍省医務局長。かつて厚生大臣をつとめ、石井四郎の毒ガス戦と細菌戦の防疫研究作業を積極的に支持した。日本敗戦後に自害。

石井四郎・・・731部隊部隊長。細菌戦構想を打ち出し、陸軍軍医学校に防疫研究室を設立。その母校である京都帝国大学の医学部から多くの医学者を731部隊に集めて細菌研究を行なわせる。

北野政次・・・731部隊第二代部隊長。東京帝国大学医学部を卒業。戦後「緑十字会」を企画しこれに参加。第一期の南極特別委員会の委員であり、「文部省百日咳研究会」にも参加している。

内藤良一・・・石井四郎が731部隊の部隊長であった期間に陸軍軍医学校での研究作業を仕切る。戦後「緑十字会」を設立。

金子順一・・・東京帝国大学を卒業、陸軍軍医学校の防疫作業室の中堅的人物。731部隊と陸軍軍医学校の間を頻繁に行き来していた。戦後は国立予防衛生研究所に勤務。

増田知貞・・・元は陸軍軍医学校にいたが、やがて731部隊支部隊長を担当し、石井四郎から「右腕」と称される。戦後は千葉県にて自営業を始め、まもなく事故死。

田宮猛雄・・・東京帝国大学伝染病研究所の所長。かつて陸軍軍医学校で兼職し、自分の生徒を万満州に派遣した。戦後は日本医師会会長、日本公衆衛生協会会長、国立癌センターの初代総長代理とつとめる。日本医学会の大御所。

宮川米次・・・東京帝国大学伝染病研究所所長と同仁会会長をつとめ、かつては北野政次など多くの生徒を731部隊に送り込んでいる。同時に南京の1644部隊と細菌学の共同研究も行なった。戦後は防疫研究所新潟分所につとめ、のち東芝生物化学研究所の初代所長代理を担当した。

戸田正三・・・京都帝国大学教授。かつては陸軍軍医学校防疫研究所で兼職し、731部隊の医学専門家機構の創設に尽力。戦後は第一期から第三期の学術会議会員、第一期南極特別委員会委員と金沢大学の学長など職につく。

清野謙次・・・京都帝国大学教授。石井四郎の指導教官として彼に大きな影響を与えた。

木村廉・・・京都帝国大学教授で石井四郎の師。かつて陸軍軍医学校防疫研究室で兼職。自分の生徒を731部隊に積極的に送り込んだ。戦後は第一期から第四期の学術会議会員、また日本医学会副会長、名古屋市立医科大学の学長をつとめた。

正路倫之助・・・京都帝国大学教授。かつては若い医学者たちを積極的に731部隊に送り込んでいた。戦後は第一期の学術会議会員。

                  
      
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   731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。 

   
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「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  唐順山(男、1906年生まれ)の証言

 私は唐順山といい、男で、1906年に生まれました。本籍地は江蘇省の六合です。小さい時から六合の東門外姚頭荘のお婆さん(母方の祖母)の家で牛を飼っていました。15歳の年に、南京の評事街にある「達源順」革靴店の見習いになり、修行が終わってからもこの店でずっと1937年の末まで働いていました。28歳の年に結婚して一家を構えました。妻は息子を連れて六合の東門外の呉家窯村に住んでいて、私は城内の靴屋に住んでいました。
 日本軍が南京を攻めてきたとき、私は三牌楼の校門のところに身を避けて、友達の車学財の家に泊まりました。彼は年が私と同じくらいなのです。日本軍が攻め込んできた何日かは、銃声が絶えませんでした。4日目の午後になって、外の状況を見に出かけたら、街ではいたるところに中国人の死体が見られるだけでしたが、日本軍の一隊が中国人何千人かを連行して下関の方へ行くのを見ました。と突然、私は日本軍がもう一群の中国人を連行して私のいる方へやってくるのを発見し、私ともう1人知らない人とで大急ぎで道端にあったゴミ箱の中にもぐりこみました。けれどもその人が恐くて全身震えが止まらずに、箱をがたがたさせ、日本軍に気が付かれてしまいました。日本軍が日本刀を持って、一太刀でその人の首を斬りおとし、続いてその血のしたたる首をぶら下げ、私の方に真正面から撃ちかかって来て、私は顔中血だらけになりましたが、日本軍はまだ私に身振り手振りで、何とかかんとか日本語で言って来て、私は恐くて立ちすくんでしまいました。その時日本軍の通訳が1人走ってきて、私を起こし、その人の群の中に加えました。私はその群に行ってみて、その人たちが日本軍にこの近く一帯で捜査され捕まってきたのだと分かりました。男あり、女あり、年寄りあり若いのありで、私の仕事仲間も何人か(その姓名はもう覚えていません)中にいて、みんなで200人余りでした。日本軍はその群を連行して国民党軍の被服廠(今の3503工廠)に入れました。工場の門を入って何歩も歩かないで、右へ曲がってまた何百メートルか行くと、工事場や、倉庫や、臨時の仕事小屋が見え、中には誰一人おらず、路面はほとんど破壊されていて、家も爆破されていました。最後に、大きな池を通り、小さな丘を登って、掘ったばかりの大きな穴のそばまできたら、穴のかたわらに高く高く新しい土が積んでありました。穴の縁まで来て、たまげてしまったのには、穴の中に屍が1000くらいもあって、死人に死人が重なり、針金で縛られたのあり、縄で縛られたのありで、縛ってないのもありました(私たちの一群は縛っていない)。(明日に続く)

 
      「Imagine9」【合同出版】より


9条がゆきわたった世界


「武力によらずに平和をつくる」という日本国憲法9条の考え方は、国家や人種、民族の壁を越えて「地球市民」として生きていくための共通の鍵となります。
 「世界中の国が憲法9条をもてば、すべての国は戦争ができなくなる」、それは無理なのでしょうか。いいえ。奴隷制に苦しんだ黒人の人々が、人間として生きる権利を獲得したように、長いあいだ社会から排除されてきた女性たちが参政権を得たように、戦争も、私たちが働きかければなくせるものなのです。
 第2次世界大戦を経験した人類は、「もう2度と悲惨な戦争を繰り返してはならない」という思いで、国連をつくりました。国連憲章は、「武力行使をしない」「軍事費は最小限にする」ことを定めました。しかしその国連憲章がつくられたあとに、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。そして、日本の憲法9条が生まれました。
 国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。
同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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731部隊・南京大虐殺

2009-05-21 06:41:18 | Weblog

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂

『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  細菌戦の企画

20世紀の20年代の末、日本はかつてない経済危機に陥り、国内の矛盾から抜け出すため、日本当局は海外侵略に賭けた。田中義一をはじめとする日本内閣は「満蒙分離政策」という中国解体の国策を策定し、日本の軍部がこれに積極的に呼応した。国土が狭く、資源が乏しいという日本の実情から、多くの日本軍人が資源やエネルギーを節約できる新兵器の開発を考え始めた。当時は軍医少佐だった石井四郎が細菌学の軍事的使用と細菌戦計画の実施を主張したのである。「9・18事変」以後
、石井四郎は軍部の支持の下に、日本陸軍軍医学校内に「防疫研究室」を創立し、細菌戦計画を本格的に実施し始めた。1933年から、石井四郎は関東軍の中国東北占領という機を利用し、主な研究活動を日本から中国の東北に移し、731部隊をつくり、中国侵略戦争で細菌戦実施の準備に入った。

 ●1927年の6月から7月にかけて、当時の日本首相である田中義一は「東方会議」を開いた。会議では'積極的な’対中国政策が決定され、「満蒙」(中国の東北3省及びモンゴル地区)は日本に対して、国防及び国民の生存に重要な利害関係を持つとし、日本側の「満蒙」における「特殊利益」が損害を受ければ、日本は断固たる自衛政策をとり、それを守ることを決定した。

 ●1931年9月18日の夜の10時20分、日本関東軍は中国の瀋陽北部柳条湖付近の鉄道を爆破し、中国軍隊にその罪を着せ、瀋陽にいる中国軍隊駐屯地の本営を奇襲して瀋陽城を砲撃し、内外を揺るがす「9・18事変」を引き起こした。
 
     
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「この事実を・・・・」


(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  林秀珍(女、56歳)の証言
 1937年には、わが家は御史廊で、野菜作りを生業としていました。その年の冬、私は両親に付いて難民区に避難し、金陵大学(今の南京大学)に住まいました。
 1937年の冬、日本兵が入って来て間もなく、ある晴れた日に、突然日本兵が2,30人来て、難民区にいた中国人何百人かを大きな内庭に追い立て、男の青年をつかみ出し、3列にして、麻縄で縛り上げ、4,50人ずつ五台山の方へ、みんなで100人余り連れて行きました。その人たちは五台山まで連れて行かれみんな機銃掃射で殺されたのです。その時私は日本軍が難民を縛るのを見かけ、恐くてずうっと震えていました。
 日本兵はまだ誰か家に隠れていないかと、難民のすまっている所に捜しに来ては、箱を銃剣で突っつき開け、衣服を放り投げ、金目の物は全部持って行きました。その時私のお母さんが隅でご飯をこしらえていたのを、日本軍が銃剣で頭をたたいたり、足でけったりして、お母さんにお父さんを出させようとしましたが、お母さんはおどされて声が出ませんでした。そんな風に恐いのとやきもきしたのとで、明くる日、べっとり血を吐きました。
 私たちは難民区で年を越し、外が安定してから、やっと御史廊の家に帰りました。その時私はやっと9歳でした。ある時大人の人に付いて太平門外まで行って見かけたのですが、東側も西側も斜面になっている所で、紅卍字会の小さな旗を手に持った人たちが、日本軍に殺害された中国人の屍を、麻袋に積み重ねるようにうずたかく積み上げ、その上を土でたっぷりおおったので、遠くから見ると2つの小さな泥と土の家みたいで、2つの塊それぞれが20数立方メートルもあり、上にそれぞれ長さ5尺ほど、幅4,5寸くらいの木の札をさし、その上には墨で字が書いてありましたが、何と書いてあったか今はもう覚えていません。けれどもその場景は、私はっきり覚えています。本当にすさまじかったです。
 私たちが家に帰って間もなく、家の人について出てきて浮き橋まで来たら、屍が7つ麻縄で縛って河に漬けられているのを見ましたが、紅卍字会(こうまんじかい)が片付けた屍でした。こうした数々の血の負債1つ1つを、私たち永遠に忘れる事ができません。(劉銘慧が記録)

 
      「Imagine9」【合同出版】より


9条がゆきわたった世界


みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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