「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
1995年8月15日
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
南京大虐殺
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
731部隊
ニュース257号
1946年にピューリッツァー賞を受賞したこの本により、アメリカが隠蔽しようとした事実が慎重に、そして確実に、世に公表されました。
※本記事は「Esquire」UK版のコンテンツディレクター、ウィル・ハーシーが寄稿した記事を抄訳したものです。
史上最も偉大なジャーナリズム、
『ヒロシマ』に記された衝撃とは?
広島滞在中のハーシー氏は常に恐怖を感じていた
さらなる攻撃や米国当局からの摘発に対する恐怖ではありません。それは、たった1つの爆弾によってすべての荒廃が引き起こされたことに対する、本能的な悲惨さをともなった恐怖です。宣教師の息子であるハーシー氏は、教会で最初の取材相手を見つけました。ドイツ人宣教師のウィルヘルム・クラインゾルゲ神父です。そこからさらに50人をインタビューし、アメリカに戻ってから書く作品の主人公となる6人を選定しました。
医師の藤井正和さんは、あぐらをかいて朝刊を読んでいたところに爆弾が落ちました。20歳の事務員である佐々木とし子さんは、オフィスで隣のデスクの女の子に話しかけようと顔を向けたところで大混乱が起こりました。ハーシー氏は次のように書いています。「核時代の最初の瞬間、トタン工場で人が本に押しつぶされました」
日航123便の怪(1985年8月12日)
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?
精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
雑報2号(23巻、1939年)
加藤源三君卒去
本所兼任技師加藤源三氏は1月3日狭心症で急逝された。
小川政敏君応召
小川政敏君は1月18日名誉の応召をされた。
学術集談会
1、チャバネゴキブリ(油虫)と食虫毒菌との関係(予報) 森下哲夫君、八田貞義君
2、肺炎双球菌溶血毒素について(第2報) 新井三九雄君
3、瓦斯壊疽予防に関する実験的研究(第3報) 小田通男君、新井三九雄君、宮崎正之助
松兼正司君、須藤正君
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第3部 陛下の戦争
第7章 満州事変
1931年10月1日、事件後、2週間が経過し、日本人のほとんどが軍部を支持し始めていた。天皇はこの事件が計画的なものであることを知っていた。誰が立案し、誰が命令し、誰が実行したのかを知っていたのである。天皇の許可なく管轄区域外へ部隊派遣を命じることは、1908年制定の陸軍刑法に違反していることも十分に承知していた。それにもかかわらず、天皇は参謀総長と関東軍司令官に軽微な懲戒を命じようとしたにすぎなかった。奈良侍従武官長の日記はそのことを明示している。