上の写真は、1958年「ドルイド」と呼ばれるケルトの宗教指導者の姿をした人々によりストーンヘンジで行われた夏至祭の写真を、下記の本から転載させていただいたものです。
同書には「ドルイド」の姿をしたこの人々が、ストーンヘンジで宗教的儀式を行うようになったいきさつについて書いてあります。
ストーンヘンジは誰がつくったものなのか?
この問いに、彼らは「それはケルトの聖者“ドルイド”達がつくった」と主張して、神官ドルイドの装いをして集います。
中沢新一 編著の「ケルトの宗教・ドルイディズム」という本の中の、鶴岡真弓さんの「ドルイドと創られた古代」という章より、抜粋して引用します。
*****
(引用ここから)
ギリシアやローマの著述家によって書かれた「ドルイド」(ケルトの宗教指導者)に関するテキストは、ルネサンス時代に、古典文献の復活にともない明らかになった。
それらはギリシア語やラテン語から各国語に翻訳され、印刷本で流布された。
それらの本は、古代地中海世界が見たアルプス以北世界の民族や習慣について、ヨーロッパ人に知られざる過去を紹介することになったのである。
しかし、古代文献を頼りにする以外に「ドルイド」研究に方途がないわけではない。
というのも、「ドルイド」をめぐる議論は、ギリシア世界やローマ時代が終わり、古代ケルト社会が消滅した後、中世の沈黙を経て、近世から今日まで、西欧の歴史を通して存続し、そこに示される解釈の中に、「ドルイド」は西欧の歴史概念を刻々と映し出す強力な表象として生き続けてきたからである。
近世以降のヨーロッパが「ドルイド・イメージ」の再創造に異常な情熱を示したことに、われわれは驚いてはならない。
ヨーロッパ近世以降の「ドルイド」の復元は、諸国が競うようにして立論するところの、「国家の聖書的起源論」にかかわった。
「ドルイド」とは、西欧の歴史にとって、“古代”創造の枠組みを豊かに表象する何ものかなのだ。
(引用ここまで)
*****
ドルイドとはどのような人たちだったのかについては、かなり詳しく研究されているようですが、具体的な姿を描写するには慎重さが必要とされるようです。
文字による記録が間接的なため、神秘のベールのかなたの“老賢者”といった趣きが伝わってきます。
遺物から見出されるものも、非常に複雑な性質で、即断ができないように思います。
長くなるので、続きは次の投稿にします。
*****
wikiドルイドより
ドルイド(Druid)は、ケルト人社会における祭司のこと。日本ではドゥルイドとも表記する。
ドルイドという名称の由来は、Daru-vid(「オークの賢者」の意味。
Daruがオークを、vidが知識を意味する)というケルトの言葉である。
なお、vidはサンスクリットのvedaと同源である。
ドルイドの社会的役割は単に宗教的指導者にとどまらず、政治的な指導をしたり、公私を問わず争い事を調停したりと、ケルト社会におけるさまざまな局面で重要な役割を果たしていたとされる。
しかし、ドルイドは文字で教義を記す事をしなかったため、その全容については不明な所が多い。
ガリアやブリタニアの各地に遺された遺物や、ギリシア・ラテン世界の著述家によって記された文献から、ドルイドの実態がおぼろげながら読み取れるに過ぎない。
カエサルの『ガリア戦記』によれば、ドルイドの社会的影響力はかなり大きなものだったようである。
争い事を調停あるいは裁決し、必要があれば人々に賠償や罰金を課した。
ドルイドの裁決を不服とした者は、社会的地位や信用を失った。
ドルイドはこのような大きな権力を持っていたほか、兵役や納税を免除される等、特権的地位にあった。
ドルイドの宗教上の特徴の一つは、森や木々との関係である。
ドルイドはパナケア(ヤドリギ)の巻きついたオークの木の下で儀式を執り行っていた。
ドルイドはヤドリギに特別な力があると信じていたようだ。
これについてはプリニウスが『博物誌』に記している。
また、近代になって発掘された古代ガリアの奉納物にはオークで作られた物が多い。
また、四葉のクローバー等といった希少な植物を崇拝していたという事も伝わっている。
なお、神木の概念自体はケルト人に留まらず世界中に存在する。
5世紀頃のアイルランドのドルイドは、「我がドルイドはキリストなり」と宣言し、キリスト教へ改宗したという。
そのためか、現代のアイルランドでは普通のローマ・カトリックとは一線を画したカトリックが存在していると言われる(ケルト系キリスト教)。
関連記事
画面右上の検索コーナーで、ブログ内検索にして
「ドルイド」9件
「ストーンヘンジ」11件
「ケルト」9件
あります。(重複していますが)
同書には「ドルイド」の姿をしたこの人々が、ストーンヘンジで宗教的儀式を行うようになったいきさつについて書いてあります。
ストーンヘンジは誰がつくったものなのか?
この問いに、彼らは「それはケルトの聖者“ドルイド”達がつくった」と主張して、神官ドルイドの装いをして集います。
中沢新一 編著の「ケルトの宗教・ドルイディズム」という本の中の、鶴岡真弓さんの「ドルイドと創られた古代」という章より、抜粋して引用します。
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(引用ここから)
ギリシアやローマの著述家によって書かれた「ドルイド」(ケルトの宗教指導者)に関するテキストは、ルネサンス時代に、古典文献の復活にともない明らかになった。
それらはギリシア語やラテン語から各国語に翻訳され、印刷本で流布された。
それらの本は、古代地中海世界が見たアルプス以北世界の民族や習慣について、ヨーロッパ人に知られざる過去を紹介することになったのである。
しかし、古代文献を頼りにする以外に「ドルイド」研究に方途がないわけではない。
というのも、「ドルイド」をめぐる議論は、ギリシア世界やローマ時代が終わり、古代ケルト社会が消滅した後、中世の沈黙を経て、近世から今日まで、西欧の歴史を通して存続し、そこに示される解釈の中に、「ドルイド」は西欧の歴史概念を刻々と映し出す強力な表象として生き続けてきたからである。
近世以降のヨーロッパが「ドルイド・イメージ」の再創造に異常な情熱を示したことに、われわれは驚いてはならない。
ヨーロッパ近世以降の「ドルイド」の復元は、諸国が競うようにして立論するところの、「国家の聖書的起源論」にかかわった。
「ドルイド」とは、西欧の歴史にとって、“古代”創造の枠組みを豊かに表象する何ものかなのだ。
(引用ここまで)
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ドルイドとはどのような人たちだったのかについては、かなり詳しく研究されているようですが、具体的な姿を描写するには慎重さが必要とされるようです。
文字による記録が間接的なため、神秘のベールのかなたの“老賢者”といった趣きが伝わってきます。
遺物から見出されるものも、非常に複雑な性質で、即断ができないように思います。
長くなるので、続きは次の投稿にします。
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wikiドルイドより
ドルイド(Druid)は、ケルト人社会における祭司のこと。日本ではドゥルイドとも表記する。
ドルイドという名称の由来は、Daru-vid(「オークの賢者」の意味。
Daruがオークを、vidが知識を意味する)というケルトの言葉である。
なお、vidはサンスクリットのvedaと同源である。
ドルイドの社会的役割は単に宗教的指導者にとどまらず、政治的な指導をしたり、公私を問わず争い事を調停したりと、ケルト社会におけるさまざまな局面で重要な役割を果たしていたとされる。
しかし、ドルイドは文字で教義を記す事をしなかったため、その全容については不明な所が多い。
ガリアやブリタニアの各地に遺された遺物や、ギリシア・ラテン世界の著述家によって記された文献から、ドルイドの実態がおぼろげながら読み取れるに過ぎない。
カエサルの『ガリア戦記』によれば、ドルイドの社会的影響力はかなり大きなものだったようである。
争い事を調停あるいは裁決し、必要があれば人々に賠償や罰金を課した。
ドルイドの裁決を不服とした者は、社会的地位や信用を失った。
ドルイドはこのような大きな権力を持っていたほか、兵役や納税を免除される等、特権的地位にあった。
ドルイドの宗教上の特徴の一つは、森や木々との関係である。
ドルイドはパナケア(ヤドリギ)の巻きついたオークの木の下で儀式を執り行っていた。
ドルイドはヤドリギに特別な力があると信じていたようだ。
これについてはプリニウスが『博物誌』に記している。
また、近代になって発掘された古代ガリアの奉納物にはオークで作られた物が多い。
また、四葉のクローバー等といった希少な植物を崇拝していたという事も伝わっている。
なお、神木の概念自体はケルト人に留まらず世界中に存在する。
5世紀頃のアイルランドのドルイドは、「我がドルイドはキリストなり」と宣言し、キリスト教へ改宗したという。
そのためか、現代のアイルランドでは普通のローマ・カトリックとは一線を画したカトリックが存在していると言われる(ケルト系キリスト教)。
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「ケルト」9件
あります。(重複していますが)