ばあやの文箱

お手紙のように仲間にメッセージ

沖縄慰霊の日に思うこと

2012-06-24 10:07:35 | Weblog





6月23日 沖縄慰霊の日

一度だけ同じ6月に沖縄に行ったことがあります
ひめゆりの塔を訪れる貸し切りバスの中からは
森山良子さんの歌そのままに丈の高いさとうきびの畑が続いてました

その沖縄の土は赤い土でした
遠くに見える美しい青い海原 ゆれる緑の豊かなさとうきび
でもその水平線を真っ黒に染めるかに見えたという
太平洋戦争米軍の戦艦の数を思いました

赤い土の色は10万人を超える民間人が流した
悲しみの血の色にも思え
こらえてもこらえても涙があふれてきました

皆さんは楽しそうに車窓からの景色を楽しんでいる
私一人ただただ胸が痛くて下をむいて
涙をふいたことを思い出します



米軍は54万人が上陸
当時の沖縄には現地招集者をふくむ戦闘員は11万人
60万人近い武器を持たない多くの一般人が攻撃にさらされ
3ヶ月間の戦闘で18万人が亡くなりました
沖縄では4人に1人が戦いの犠牲になっています

ひめゆり部隊の犠牲者の写真も現地で見ました
10代の女学校の生徒の方の名前と享年と亡くなった原因も
「銃撃により即死」「手瑠弾による集団自決」母や叔母たちと同世代の方たちでした

沖縄は戦争中で日本の捨石にされたとも言われます
悲惨なのは日本軍から集団自決をせまられ
亡くなった民間人も多かったのです

もし本土決戦があったなら地獄と呼ばれたという
沖縄戦と同じ猛攻撃を受けて犠牲はとどまらなかったでしょう

父がよく「沖縄はかわいそうだった」と言っていました
私の友人は叔父様が沖縄で戦死
遺骨も戻らず 戦後沖縄の砂を持って帰り埋葬したといいました

「胆苦しい チムグルサン」という沖縄の言葉があります
「心まで痛むこと 腹の底から相手のことを思うと
 自分の心まで痛くて苦しいこと」

母たちのように生きていれば皆がオババと呼ばれる世代となり
子も孫もいる笑顔がすてきな沖縄の女の人であったろうと
志願して逝った尊いひめゆり学徒隊(正式名称)の方たちを思います

私の学生時代は沖縄は日本ではなかった
押しつけられた基地問題 でもそれに依存しなくてはいけない
沖縄の経済事情もあります 沖縄の歴史を思う1日でした



沖縄戦で亡くなれた多くのみたまやすかれ



PS

沖縄守備軍最高指揮官の第32軍司令官
牛島満中将と参謀長・長勇中将が、摩文仁の軍司令部で自決したのが
6月23日 この日をもって沖縄戦は米軍の勝利となり
慰霊の日も決められたのだと思います

写真は沖縄のだちびん(抱き瓶)
やわらくカーブを帯びており元々は酒瓶
腰につけるようになっているものです

実家にあったものを持ってきて花瓶にしています
今日は白い紫陽花をさしてささやかな慰霊の気持といたしました
額の紅型(びんがた)は沖縄の手ぬ花(ていぬはな)のひとつ

そしてひめゆり部隊の女学生たち
志願した240名のうち136名が亡くなりました


「歴史の女神はベールをかぶらないといけない」
そんな言葉もあるけれど 戦争の歴史は風化させてはいけない
今の日本の平和の礎えにある尊い数多くの犠牲を思うのです










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