アートハウス

マンション管理のお仕事

アーバン社長「わが夢」 2007年2月 ~中国新聞

2008年08月16日 | 大京

不動産メーカー 需要想定 建物造り込む

■バブル崩壊後の長引く地価下落の中にあって、急成長を続けるアーバンコーポレイション(広島市中区)。マンションの企画販売から自社分譲、中古ビルを改装して売却・貸与する流動化事業と、中核事業の枠を広げながら発展してきた。創業者の房園(ぼうぞの)博行社長(44)は土地、建物の価値を創造する「不動産メーカー」を旗印に、さらなる進化を目指している。
流動化事業を象徴するプロジェクト「アーバン北青山ビル」が、東京都港区に間もなく完成します。損保会社の再編で売りに出された築三十九年、十階建てのオフィスビルを購入。一、二階を商業施設に改装し、オフィス部分も天井を一部抜いて最新のデザインを取り入れた。  

中古物件再生に力注ぐ

都心の一等地で、多くの大手企業が再開発に名乗りを上げた。会社の規模で劣りながら落札できたのは、建物を壊さずに改装する手法を採ったから。他社は一度壊して新築する構想だったのでしょう。  今、力を入れているのが、こういった中古物件の再生です。オフィスビルをホテルや住宅、倉庫に造り替えることもある。既存の建物に手を加えれば、低コストで価値を高められる。建物を手術して、立地に応じた潜在力を引き出すイメージですね。当社にはその高いノウハウがある。今は首都圏が中心だが、今後は広島など地方都市でもニーズが高まってくるとみている。  私がやりたいのは、不動産価値の創造です。ニーズを想定し、建物を造り込んで提供する。車や家電などのメーカーに近い考え方であり、私は「不動産メーカー」だと思っている。  戦後、長く地価上昇が続いた日本では、不動産の価値を高める文化が育たなかった。持っている物件を貸すだけです。今後は不動産も本格的に国際化するでしょう。すると必ず、メーカーとしての力が問われてくる。

独立心が挑戦の原動力   

メーカーの仕事を支えるのは、多彩な人材です。不動産だけでなく、銀行や商社、ゼネコン、広告会社、外資系投資会社、流通業など幅広い分野から「不動産でものづくりをしたい」と考える同志が集まってきた。一九九〇年代後半に企業のリストラや倒産が相次ぎ、人を集めやすい環境も追い風になった。  私が新たなビジネスに挑戦する原動力は、生来の強い独立心にあるようです。既に学生時代から事業への関心が芽生え、活動を始めていました。


学生実業家 借金背負い不動産業へ

■私は一九六二年、鹿児島県南さつま市に生まれました。山口県内の高専に入ったが、けんかで退学。別の高校を卒業して当時、呉市の近畿大工学部に進んだ。ただ、勉強は全くせず、ビジネスに夢中になりました。 八〇年代初頭は、「カペラ」「サバンナRX―7」などマツダ車の輸出が好調な時期でした。アルバイト先の飲み屋で、出荷を請け負う運送会社の人が「積み荷の日だけ多くの人を集めるのが大変だ」と漏らしたのを聞いて、そこで手を挙げて人材派遣を始めた。
 
クラブや飲食店を経営

最初は友人を四、五人紹介するだけでしたが、輸出用の新車を工場で運転する作業は大学生には楽しいもの。次第に広がり、多い日には百―二百人にもなった。仕事は急に入り、回数は少ないけれど、賃金は一人一万五千円と高かった。私は五千円のマージンを取り、百人の日は五十万円もの収入になった。それを基に、呉市や広島市でクラブや天ぷら屋を開店。雑貨の輸入も始めた。 大学卒業後も事業を続けようと思っていたが、輸入で大失敗した。ある時、多額の小切手を渡したのに品物が来なかった。悪いことは続くもので、マツダの仕事も減り飲食店もうまくいかなくなった。一気に二千万円近い借金を背負った。 就職したくても、多くの企業は採用を終えていた。経営していたクラブの常連にマンション分譲大手の大京(東京)の広島支店長がいて、経緯を話すと「うちに面接に来いよ」と拾ってもらった。これが不動産業との出合いでした。 大京には五年間、広島支店でお世話になりました。入社三年で売り上げ全国トップになり、五年目には課長として課の成績を一番にした。 なぜ売れたか。それはまず、働く時間です。朝七時から深夜二時まで、年に十日も休まなかった。苦労して頑張ったというより、仕事が面白かった。支店長の期待にも応えたかった。



購入の動機付けを重視   

営業手法では、買う動機付け、いかにネックを見つけて解消するか、です。例えば収入が足りない夫婦の場合、専業主婦の奥さんに一日三時間、楽に働ける割の良いアルバイトを紹介する。これでネックを一つ解消できる。この積み重ねです。課長になってからは団結を心掛けました。五人のスタッフと三度の食事を共にし、退社後も誰かの家で仕事を続け、しばしば泊まり込みました。 チームで仕事をするうちに独立への思いが強まった。「限られた自社物件では顧客の要望に応えきれない」との思いも強まりました。同僚ら四人で会社を辞め、九〇年五月に設立したのが今の会社です



創業の苦難と成長 不況で商機 営業に奔走

■当社は一九九〇年、マンションの企画、販売を代行する事業でスタートした。マンションは通常、メーカー自身か系列会社が売るもの。しかし、家電の主役がメーカー系列の電器店から量販店に移ったように、マンションもメーカーの仕切りではなくなると思っていました。バブル崩壊で不動産業は厳しい時代を迎えようとしていたが、既存の会社に比べ「資産はないが負債もない」と前向きに考えた。 ただ、当時は二十七歳と若く、会社を設立したばかり。実績も信用もない。頭を下げて回っても、販売を任せてもらえない。経営を安定させようと、パン店を運営した時期もあります。朝から晩まで不動産の仕事をして、夜からパンを作って朝、店に並べる、といった毎日でした。
 
多様な物件の受け皿に

新興企業にとって、業況が良い時より悪い時の方がビジネスの可能性は大きいものです。マンションに売れ残りが目立ち始め「試しに売らせてみよう」となった。私たちには営業力があった。実績が上がるにつれて、売る物件も増えた。景気が良いままだったら、参入する余地がなかったかもしれません。 住宅は一生を左右する買い物。買い手は、最初から一つのメーカーだけに任せにくい。多様なメーカーの物件を扱う私たちがその受け皿になった。創業三年目には、広島都市圏でのマンション販売シェアは過半を占めるようになりました。 メーカーからは企画、販売に加え、次第に設計、顧客サポート、金融対策なども請け負うようになり、「フィー(手数料)ビジネスの塊」のような会社になった。そこで、自社分譲を考え始めた。ただ、それまでお客さまだったメーカーとの関係が一転、競争相手になる。「誰がここまで育ててやったのか」と厳しい声も浴びせられた。けれども、自社ブランドへの強い思いを形にしていきました。

6年目で株式店頭公開

6年目で株式公開した。当時、史上二番目のスピード公開だったそうです。不動産業に必要な人、モノ、金を集める力が高まるため「これでやっとスタートできる」と感じた。しかし、実際は人や資金が集まる以上に仕事を広げてしまうから、いつも足りない。それは今も同じです。成長は苦しさを伴う。安定志向になれば楽になれるのでしょうが、そうはしたくない。 株式公開後、首都圏で広がりつつあった流動化事業に参入しようと考えた。そこで、それまでのマンション事業の集大成として着手したのが、中四国地方で最高層の「アーバンビューグランドタワー」(広島市中区)です。



グランドタワー 資金調達 苦労の連続

■地上四十三階、高さ百六十六メートル。中国、四国地方で最高層のビルが、商業施設を備えた複合型マンション「アーバンビューグランドタワー」(広島市中区)です。一九九七年に主な土地を取得し、七年がかりで完成。創業からのマンション事業の集大成と、将来に向けた試金石としての挑戦でした。
 
バランスシート負担大

敷地は、かつて地元財界が誘致に尽力した戦後初の本格ホテル跡。好立地で東京、大阪資本が関心を示していたが、地元企業が手掛けるべきだと思った。ゼネコンも地元発祥の五洋建設(東京)にお願いし「やるなら超高層を」と意気込みました。  しかし、当時の売上高は六十億円程度、利益は数億円。総事業費二百億円のプロジェクトに臨んで、資金面では苦労しました。バランスシートの負担はかなり大きく、失敗すれば会社が傾くかもしれなかった。  しかも、貸し渋りが社会問題になるような、金融恐慌に近い状況。金融機関に企画の説明を続けて納得してもらいましたが、他の事業の資金繰りは一層苦しくなった。「グランドタワーが無事終わるまで金は出せない」というわけです。時間との勝負でした。にもかかわらず、建設に必要な周辺の土地取得に、さらに二年を費やす苦労もありました。  ただ、建物のコンセプトには自信があった。ビルの高さや立地だけでなく、入居者のコミュニティーを重視しました。マンションは普通、縦に同じ間取りの部屋を置くため、似た生活スタイルの人が同じ階にそろいにくい。そこで、横に同じ間取りを並べた。フロアによってファミリー、老夫婦、共働き夫婦、単身者などが集まるようにしたのです。単に三百戸を分譲するのではない。二、三十戸の街を縦に重ねていく考え方でした。

入居者の交流促す工夫   

「住めば都」という言葉は、近隣の人との良い付き合いが基にあると思います。「マンションは近所付き合いが面倒くさくなくて良い」という意見もあるが、隣人の顔も知らないようでは家の機能が欠落する。だからこそ、コンシェルジェには入居者が一緒に楽しめるイベント企画の役割も課した。分譲は順調に進み、思ったような反響を得られました。  最近は国などに大規模な都市開発を提案することがありますが、過去の実績は非常に重要。業界が一番苦しかった時期にグランドタワーを成功させたことは、大いに信用を高めてくれた。電波障害や日照権への対応、風の通り道に合わせた設計など、高層ビルならではのノウハウも蓄積できた。この時の経験が、その後の成長の土台になったのです。



【写真説明】グランドタワーの起工式で、当時の広島商工会議所会頭の池内浩一氏(左)や広島銀行頭取の宇田誠氏(右)と懇談する房園氏(2000年) 


海外展開 アジアの成長 取り込む

■昨年春、初の海外事務所を韓国ソウルとシンガポールに構えた。今後、本格化するであろう不動産業の国際化に向け、先手を打つ狙いです。今月、ソウルの物流センターに初の投資を実施し、海外事業のスタートを切った。  不動産業の国際化を促しているのは、金融との融合です。不動産の証券化や投資市場が活発になり、海外の資本が急に入ってきた。土地や建物は海外に運べないが、証券なら簡単に持ち運べるわけです。  国際的なビジネスルールも整ってきた。今後は日本企業も海外の土地や建物をめぐって世界と激しく競争するようになるでしょう。今、海外展開を加速しておかねば、将来のリスクになります。  ソウルは日本と制度が似ているので進出しやすかった。シンガポールはASEAN(東南アジア諸国連合)の拠点としてカンボジアやベトナム、インドまで見ていく。
 
失敗のリスクを恐れず

それぞれ二人の所員を置き、この一年間はターゲットにする地域を選ぶ市場調査を実施。同時に、現地の事業パートナーとなる銀行、設計事務所、建設会社などのネットワークづくりに力を注いだ。これから要員をどんどん増やし、場合によっては事務所も増やしたい。アジアの成長力を取り込んでいきます。  海外ビジネスの可能性は非常に大きく、十年以内に国内と同じ売り上げ規模になり得ると思う。新規事業を始めるのでなく、今までと同じ仕事を海外でするだけなので、そう難しくはない。通用する自信はある。質の面でも、日本には世界で最先端の建築技術や精密さがあります。  創業から十七年。バブル崩壊の逆風の中で挑戦を続けてきた。今後の成長にも、挑戦は欠かせない。挑戦によって得られる経験は、メーカーの研究開発に相当する。たとえうまくいかなくても、ノウハウが会社に残ればいい。だから、失敗のリスクを許容できる態勢が重要だと考えています。

世界リードする街創造   

これまで、ずっと仕事に没頭してきた。今でも土、日曜ばかりか、元日から会社に出てしまう。会社には誰もいないし、特に仕事もないのに。家族には文句も言われるが、それが習慣になってしまった。  言葉に出すと平凡だけれど、私は街を創造したい。単に効率や利益を集めた街ではなく、都市部でありながら豊かなコミュニケーションが生まれるような街、世界に参考にされるような街をつくりたい。そんな思いが、仕事に向かう原動力になっているのでしょう。(漆原毅)




【写真説明】今月上旬、カンボジアのプノンペン市を訪れた房園氏(中) 


漆原毅

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