2010年1月24日(日) 17:00開演
ごく初期のCDを好んできいていた私には、現在の中丸さんの声は、明らかに
変わっていて、この日はピッチも少し低く感じましたが、その音楽性の深さに
感動しました。
ドヴォルザーク 「ルサンカ」 ブラヴァ!でした。
日本の作品も非常に魅力的に歌われていて、すばらしかった。
私が、数あるオペラアリアのなかで1番大好きなトスカ「歌に生き恋に生き」
よく声が伸び、しびれます。本当に深く、そして自身の著書にもあるとおり、
ブレスの長い方です。
アンコールのシャルパンティエのルイーズは、マリアカラスコンクールの最終で
歌われた曲。著書の内容と重なり、胸がいっぱいになり、涙、涙・・・
最後のショパンの別れの曲は、イタリア語で歌われましたが、最後の心情を
すべて結集した感情の限りを尽くされた歌い方で、もう涙で舞台が見えません
でした・・・
演奏家の舞台というものは、その人の人生が全部現われるものだと、
思いますが、この日の中丸さんは本当にまさにそのとおりの舞台でした。
上の写真が1991年に出版された中丸さんの著書。
この本は、当時実は、友人が「中丸さんのまっすぐなところがよしこがそっくり!」
とプレゼントしてくれた本で、何度も何度も読み返した本です。
コンクール前の緊張で頭痛や不眠に悩まされる様子や、周到すぎるほどに
曲の準備をされて、コンクールに臨む様子が、鮮明に書かれていて、
国際コンクールで優勝することとはこんなにすごいことなんだと、痛いほどに
感じるすばらしい著書です。
私はコンサートのチラシ・プログラム・前後の新聞記事・チケットを全部ファイルに整理し
ているので、OEKの定期も全部保存してあり、その量はすさまじいのですが(笑)
1993年11月の'サンデー毎日’の小宮さんとの対談と、その頃の確か朝日新聞の
切抜きで中丸さんの記事もとってあったので、サイン会には、それを持って並んで
いました。中丸さんの前に立ったら、なぜか突然しゃべりだしてしまって、
「同年代です。ずっとピアノを弾き続けていましたけど、ようやく40過ぎてから、
人前で引く機会がふえてきて・・・」というようなことを言い、本を見せたら、
中丸さんはじーっと私の目を真っ直ぐに見られて、「お名前は何とおっしゃいますか?」
と、きかれました。
そして、著書の開いたところに「a cara Yoshiko」と私だけ漢字でサインを
書いて下さいました。a cara...はイタリア語で '親愛なる’とか’愛する’という
意味です。そして私が記事を見せると、非常に喜んでくださって、
「私はいつも日本で取材を受けても、イタリアにトンボ帰りで、実際の記事に
なったのを見たのは初めてです!」とおっしゃったので、
「すぐにコピーしましょうか」と友達親子と4人で、近くのローソンに走りこみ(笑)
記事をコピーしました。いつも朝4時ごろから、大量のコピーをして楽譜作りを
している私なのに、なんだかこの時は、指がふるえてしまい、
間違えて8枚もコピーしちゃったり
また4人で走って会場に戻ると、ちょうどサイン会も終わったところで、
中丸さんは、本当に喜んでくださり、「記念撮影をしましょう」と写した写真が
これです。
友人の携帯の調節ができてなくて、私はコンサート会場に携帯をいつも
持ち込まないので、なんだか背後霊のようになってしまった・・・
このサンデー毎日の記事には、小宮のえっちゃんも非常に若いです
が、「日本のテレビにに出ている女性キャスターの方は、どうしてみんな髪が
短くて、やせているのか」とか「イタリアでは女性は男性に気にいられようと
思っていない。皆、自信があり、男性が女性を褒め称える」みたいな事を、
軽快にポンポンとお話なさっていて、それはそれは読んでいても痛快な
対談です。
コピーした紙をもっての写真撮影となりましたが、普段から物や人の波動に
敏感な私は、中丸さんのお顔の真横にいましたが、本当に、腹が据わった人で、
身体の中心がドーンとしていてぶれていない。真横にいても、ざわざわした波動が
’無’の状態で、改めてものすごい方だと思いました。
コンサートの中で「もうすぐマリアカラスコンクールからちょうど20年になりますが、
この20年はあッという言葉もないほど、短い時間で、数々の仕事をしてきて、
多すぎて思い出せないことも多々ある。でも私は、過去のことはすぐに忘れて、
常に進歩ということを考えて生きている。今年も皆さんにとってもいい年になり
なりますように」と言われて、ああ、やっぱり私の人生哲学と一緒だとうれしくなり、
「また金沢にいらして下さいね」といったら、真っ直ぐに私の目を見られて、
「次回、是非!」とおっしゃいました。
私は、30歳のときにヨーロッパに初めて勉強に行き、そのあと、結婚、出産と
続いたので、娘がちゃんと物心つくまでは、演奏活動も、しないし、
コンサートにも出かけない、と決めて、「40歳で演奏活動ができたらいい」と
思っていたのが、もたもたして、結局42歳で演奏活動を再開した変わった経歴(笑)
のママピアニストです。
それで、ずっと以前にサインしていただいたり、コンサートをきかせていただいたり
した方と現在、直接お話できるという機会が増えているのですが、
本当にありがたいことだと思っています。
中村紘子さんにいただいたサインは、今、ショパンを弾く会場に必ずもって行って、
お守りにしています
また私の大切な大切な宝物が増えました。
また金沢でお会いするのを楽しみに、私も精進します。