2回に渡って鈴木眞哉氏が近著の中で拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』を「落第組」と決め付けたことへの反論を書いてきました。今回は鈴木氏の示した5つの条件の内、前回積み残した第2の条件への反証を書きます。過去2回の反論をお読みでない方は以下のページでお読みください。
★ 鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
★ 鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
まず鈴木氏の第2の条件の確認から始めましょう。
2.実行時期の見通しはどうだったのか、実行に至るまでの機密漏洩の防止策をどう立てていたのかの説明がない。
この条件は「信長が上洛する日を直前まで誰も知らなかったのだから、事前に謀反を謀議したとすると機密維持ができなかったはず」とする藤本氏・鈴木氏の論理の核になっています。
鈴木氏は要約すると次のように説明しています。
「本能寺の変が成立するには不可欠な条件があった。信長が少人数、無防備で本能寺にいなければならない。襲撃する側が公然と人数を集められねばならない。かつ、その人数を誰にも疑われずに本能寺まで動かせねばならない。現実に生じたこの状況は光秀が作ったわけでも他の誰かが作ったわけでもない。まったく偶発的に出てきたものだ。あらかじめ誰も読めなかったことだから、そんなチャンスを当てにして陰謀を企てる者などいないし、そんな危ない計画に乗る者など誰もいない」
それでは、この状況を作ったのは誰でしょうか?藤本氏は著書『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』で次のように書いています。
「この経緯を見ると、興味深いことに気付く。襲撃のお膳立てをしたのが光秀やその黒幕ではなく、信長自身だったということだ」
そうなのです!信長自身が作ったのです。拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みの方はここで思わずご自分の膝をたたいて叫ばれたことでしょう。「全く同じことを『本能寺の変 四二七年目の真実』が書いている!」
拙著は「信長が家康一行を本能寺へ呼び寄せて光秀の軍勢に打ち取らせる計画を立てて実行に移したが、光秀が逆手にとって信長を討った」と書いています。
信長の謀略の存在を前提とすれば、光秀と家康の同盟が機密漏洩など心配する必要のない固い同盟であったこと、実行日が確定していなくても同盟を結べたこと、そして直前になって実行日が6月2日と決定されても何も問題がなかったことが納得できるはずです。
家康にとって光秀は信長の謀略から自分を守ってくれる救世主でした。光秀が謀反を起こすという情報を家康が信長に漏洩するわけがないではありませんか。また、藤本氏が著書の中で強調している「家康には信長を殺す理由がない!」という論拠も吹き飛びます。自分を殺そうとする信長を家康が殺そうと考えるのは当然ではありませんか。
謀反の実行日は確定していなくても家康が堺から本能寺へ呼び出される日が信長による家康討ちの日であり、光秀の謀反決行の日とわかっていました。その日は6月早々には確実に来るし、その日に謀反も確実に実行されることを光秀も家康も確信して同盟を結ぶことができたわけです。
また、家康は本能寺に呼び出されるまでは危険がないことがわかっていたので、家康一行は安心して安土・奈良・京都・大阪・堺を遊覧できました。したがって、藤本氏が著書中で心配していたような「信長の謀略を知って緊張でビリビリして失敗をしでかす」こともなかったのです。
信長の上洛は5月29日。その直前に上洛のお触れが出されたことが『信長公記』に書かれています。同時に6月2日の家康への本能寺出頭命令、光秀への実行命令、筒井順慶・細川忠興への本能寺出頭命令が出された、と推理したことを拙著に書きました。現に、2日の朝に家康と順慶は信長に呼ばれて本能寺へ向かって出発していたことを裏付ける史料として『茶屋由緒記』『多聞院日記』の記事も示しました。
全て信長の段取り通りであったので、光秀は何も迷うことなく2日の早朝に本能寺で信長を急襲することができたのです。信長の上洛後の状況を監視する必要性もありませんでした。そのため、急遽予定を変更して上洛していた織田信忠の存在を見落としてしまったのです。そういった説明が拙著には書かれていますが、全部は書ききれないので拙著をお読みいただいてご評価をお願いしたいと思います。
以上見たように第2の条件「実行時期の見通しはどうだったのか、実行に至るまでの機密漏洩の防止策をどう立てていたのかの説明がない」も拙著には適合しません。
これで5つ全ての条件をクリアしたことになります。「これに一つでも触れれば失格ということですが、これまでに取り上げた謀略説は、一つ、二つではなく、たいていは五つ全部に抵触してしまうものが多かったといえます」という鈴木氏の指摘は拙著には全く当てはまらないのです。「落第組」のレッテルははがしたと思いますが、いかがでしょうか?
さて、このように「襲撃のお膳立てをしたのは信長自身」とする藤本・鈴木説の前提に立っても「信長自身による謀略説」は成り立ってしまうのです。残念ながら藤本・鈴木両氏はこのことに気付いていないのか、敢えて避けているのか著書の中では全く触れていません。
藤本・鈴木説と拙著は論理面で見ればある地点で右(偶発説)へ行くか左(信長謀略)へ行くかのわずかな違いだったような気がします。そして、その違いは以下のような武将に対する基本認識の違いから生まれたように思います。この違いはかなり決定的なもので越えがたい違いのように感じます。皆様はどう思われるでしょうか?
【藤本・鈴木説】
信長は無用心にも自分が光秀に討たれるような状況を作ってしまった。光秀はたまたま偶然に信長を討てる状況ができたので後先考えずにとにかく信長を討ってしまった。(武将とは考えの浅い連中だ)
【拙著】
戦国武将は一族郎党の命をあずかる重い責任を負った存在であり、生き残るために必死であらゆる手立てを講じていた。そこには現代人にははかり知れないものがあったと謙虚に考えねばならない。信長は織田家譜代の大家老・佐久間信盛を追放した。将来のため必要とあれば大家老でも同盟者でも切るときには切る。光秀は失敗すれば一族郎党が滅亡してしまう謀反に踏み切るのだから、謀反を起こさなければ一族郎党が滅亡するかもしれないという重大認識があったはずであり、謀反を絶対に成功させるという手立てと確信があったはずだ。
>>>続き(信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う)
【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
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>>>本能寺の変 四二七年目の真実
★ 鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
★ 鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
まず鈴木氏の第2の条件の確認から始めましょう。
2.実行時期の見通しはどうだったのか、実行に至るまでの機密漏洩の防止策をどう立てていたのかの説明がない。
この条件は「信長が上洛する日を直前まで誰も知らなかったのだから、事前に謀反を謀議したとすると機密維持ができなかったはず」とする藤本氏・鈴木氏の論理の核になっています。
鈴木氏は要約すると次のように説明しています。
「本能寺の変が成立するには不可欠な条件があった。信長が少人数、無防備で本能寺にいなければならない。襲撃する側が公然と人数を集められねばならない。かつ、その人数を誰にも疑われずに本能寺まで動かせねばならない。現実に生じたこの状況は光秀が作ったわけでも他の誰かが作ったわけでもない。まったく偶発的に出てきたものだ。あらかじめ誰も読めなかったことだから、そんなチャンスを当てにして陰謀を企てる者などいないし、そんな危ない計画に乗る者など誰もいない」
それでは、この状況を作ったのは誰でしょうか?藤本氏は著書『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』で次のように書いています。
「この経緯を見ると、興味深いことに気付く。襲撃のお膳立てをしたのが光秀やその黒幕ではなく、信長自身だったということだ」
そうなのです!信長自身が作ったのです。拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みの方はここで思わずご自分の膝をたたいて叫ばれたことでしょう。「全く同じことを『本能寺の変 四二七年目の真実』が書いている!」
拙著は「信長が家康一行を本能寺へ呼び寄せて光秀の軍勢に打ち取らせる計画を立てて実行に移したが、光秀が逆手にとって信長を討った」と書いています。
信長の謀略の存在を前提とすれば、光秀と家康の同盟が機密漏洩など心配する必要のない固い同盟であったこと、実行日が確定していなくても同盟を結べたこと、そして直前になって実行日が6月2日と決定されても何も問題がなかったことが納得できるはずです。
家康にとって光秀は信長の謀略から自分を守ってくれる救世主でした。光秀が謀反を起こすという情報を家康が信長に漏洩するわけがないではありませんか。また、藤本氏が著書の中で強調している「家康には信長を殺す理由がない!」という論拠も吹き飛びます。自分を殺そうとする信長を家康が殺そうと考えるのは当然ではありませんか。
謀反の実行日は確定していなくても家康が堺から本能寺へ呼び出される日が信長による家康討ちの日であり、光秀の謀反決行の日とわかっていました。その日は6月早々には確実に来るし、その日に謀反も確実に実行されることを光秀も家康も確信して同盟を結ぶことができたわけです。
また、家康は本能寺に呼び出されるまでは危険がないことがわかっていたので、家康一行は安心して安土・奈良・京都・大阪・堺を遊覧できました。したがって、藤本氏が著書中で心配していたような「信長の謀略を知って緊張でビリビリして失敗をしでかす」こともなかったのです。
信長の上洛は5月29日。その直前に上洛のお触れが出されたことが『信長公記』に書かれています。同時に6月2日の家康への本能寺出頭命令、光秀への実行命令、筒井順慶・細川忠興への本能寺出頭命令が出された、と推理したことを拙著に書きました。現に、2日の朝に家康と順慶は信長に呼ばれて本能寺へ向かって出発していたことを裏付ける史料として『茶屋由緒記』『多聞院日記』の記事も示しました。
全て信長の段取り通りであったので、光秀は何も迷うことなく2日の早朝に本能寺で信長を急襲することができたのです。信長の上洛後の状況を監視する必要性もありませんでした。そのため、急遽予定を変更して上洛していた織田信忠の存在を見落としてしまったのです。そういった説明が拙著には書かれていますが、全部は書ききれないので拙著をお読みいただいてご評価をお願いしたいと思います。
以上見たように第2の条件「実行時期の見通しはどうだったのか、実行に至るまでの機密漏洩の防止策をどう立てていたのかの説明がない」も拙著には適合しません。
これで5つ全ての条件をクリアしたことになります。「これに一つでも触れれば失格ということですが、これまでに取り上げた謀略説は、一つ、二つではなく、たいていは五つ全部に抵触してしまうものが多かったといえます」という鈴木氏の指摘は拙著には全く当てはまらないのです。「落第組」のレッテルははがしたと思いますが、いかがでしょうか?
さて、このように「襲撃のお膳立てをしたのは信長自身」とする藤本・鈴木説の前提に立っても「信長自身による謀略説」は成り立ってしまうのです。残念ながら藤本・鈴木両氏はこのことに気付いていないのか、敢えて避けているのか著書の中では全く触れていません。
藤本・鈴木説と拙著は論理面で見ればある地点で右(偶発説)へ行くか左(信長謀略)へ行くかのわずかな違いだったような気がします。そして、その違いは以下のような武将に対する基本認識の違いから生まれたように思います。この違いはかなり決定的なもので越えがたい違いのように感じます。皆様はどう思われるでしょうか?
【藤本・鈴木説】
信長は無用心にも自分が光秀に討たれるような状況を作ってしまった。光秀はたまたま偶然に信長を討てる状況ができたので後先考えずにとにかく信長を討ってしまった。(武将とは考えの浅い連中だ)
【拙著】
戦国武将は一族郎党の命をあずかる重い責任を負った存在であり、生き残るために必死であらゆる手立てを講じていた。そこには現代人にははかり知れないものがあったと謙虚に考えねばならない。信長は織田家譜代の大家老・佐久間信盛を追放した。将来のため必要とあれば大家老でも同盟者でも切るときには切る。光秀は失敗すれば一族郎党が滅亡してしまう謀反に踏み切るのだから、謀反を起こさなければ一族郎党が滅亡するかもしれないという重大認識があったはずであり、謀反を絶対に成功させるという手立てと確信があったはずだ。
>>>続き(信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う)
【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
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明智さんが広めつつあるこの真実追求を否定することで、自論がそれよりも優位に立とうということなんでしょうが、論理性に欠けるので、同じ真実追求の視点から本能寺の変を捉えている人には、浅はかなこの作戦は看破されてしまいますね。
気になる点が二つあります。
どうして光秀は一族と家康を助けるためにやったと公言しなかったのか?
なぜ細川藤考は光秀を裏切ったのか?
上記の二点が私の疑問です。 二つ目はかつての自分の中間が天下人になり自分がその部下になるのが嫌だったということでしょうか?それ以外に訳が思いつきませんが。
その前提で回答すれば、光秀は一族や家康を助けるためと公言してみても何も利益がないと認識していた、藤孝は光秀に味方しても勝てないと読んだ、という回答になります。
おそらく、当時は誰もが一族の生き残りのために総智総力を尽くしていたので、「一族のため」という理由は当たり前だったでしょう。円弧にゃ野望は秀吉が作った理由であって、当時の武将は誰もそんあことは考えていなかったと思います。
各武将にとっては「家康を救うため」という道義などは意味がなく、「勝つか負けるか」が問題だったのでしょう。戦国時代の武将は生き残ることに極めて合理的だったというのが私の歴史を学んで得た歴史観です。
小説家も歴史学者も信長の行動の理由を彼の性格に求めますが、私は彼の政治的・軍事的合理性に求めます。
拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みいただいて、ご確認いただけると幸いです。
勝つためには軍事力のある武将を味方につけるしかなく、一般人の理解など何の役にもたちません。朝廷の後ろ盾は必要なのでしかるべく説明したでしょう。拙著にも書いた通りです。状況判断は武将ひとりひとり自分自らが行ったわけで、光秀と藤孝が同じ判断結果とならなくて当たり前です。
『太平記』を読んでも武将の論理が軟なものではないことがよくわかります。もちろん、拙著をお読みくださればよく理解いただけると思います。「戦国武将のゲーム理論『太平記』のページ」http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/445c0125826175c5dfaf7086ce71335e
ただ、織田家に仕えていた尾張や美濃の武将に「家康と組んでいる」という口約束レベルの話がどれだけ説得力をもったでしょうか。当然、現実の動きを見ての判断を誰もが優先したわけです。