エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

精神分析の不思議な場 顔を見ないことの意味

2013-08-17 02:29:02 | エリクソンの発達臨床心理

 

 精神分析、いや、心理療法の役割がハッキリ示されました。無意識の記憶にべっとりくっ付いている「憎悪」と「激しい怒り」を、「共に見る」中で、光に変えていくのです。しかし、それは、私どもがそうするのではありません。私どもは「共に見る」だけで、光に変えるのは、その「憎悪」や「激しい怒り」を抱えているクライアント本人です

 

 

 

 しかし、もし、視覚が、私どもが見てきたように、感覚的な世界を根源的に秩序付けるものならば、あるいは、1人の人がもう1人の人と顔と顔を合わせるとが、やり取りしている感じの土台であるならば、古典的な精神分析の治療場面それ自体は、それが見事なほどできない経験です。フロイトがこの座り方を作ったのは、フロイトが見られるのを嫌ったからでした。つまり、患者がセラピストの顔の反応を見たいと願う熱心な願いが、フロイトが反応する前に考えたいという精神分析理論を作った人の願いを邪魔する、ということです。視覚の穴を作ることによって、患者の「自由な」声の連想を体系的に呼び覚まそうとすることが、まさにこの臨床上に工夫の特色です。視覚の穴が、癒しのやり取りを求める古いイメージがパッと現れるのを招くのです。特に、この場が、いわゆる転移、つまり、目には見えない聞き手に、過去の重要な人物たち、特にお母さんを投影することを強めるのに役立つわけです。その投影には、見捨てられることに対する恐怖無視されていることに対する激しい怒りを伴うことが多いのです。もちろん、こういったことはすべてが役立つのは、「そこに横になる」ことが、「ずっと前」から取りこぼしていることであり、深く、また、他を持って代えがたいほど、治療的である場合です。しかしながら、私どもが知っているのは、古典的な精神分析は、そもそも比較的健康であって、しかも、内省する力と言語化する力という、この特に禁欲的な取り合わせのある患者のための治療である、ということです。そして、遅かれ早かれ、あらゆる分野が、その基本的な手続きが観察対象の本性に影響を与える方法に気が付かなければならないように、私どもは、自分たちの文脈で、この古典的な手続きにおいて、視覚の運命を追跡調査することにしましょう。

 

 

 

 

 アメリカの映画などで、精神分析を受けている場面を見たことはありませんか? カウチ(ソファ)に患者が寝かされていて、精神分析家が、患者の背後から、いろいろ質問する場面です。患者も精神分析家も顔と表情を見ることはできません。エリクソンは、そのような「視覚の穴」を作ることが、赤ちゃんの時の癒しのやり取りをすることを求めた相手を、精神分析家に投影することを促すものだ、といいます。面白いですね。しかし、ここで注意しなくてはならないことは、前回にも申し上げましたように、その投影には、見捨てられていることに対する恐怖無視されていることに対する激しい怒りを伴う、ということです。

 今後の展開が楽しみです。

 

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