9月24日の論壇時評のタイトルは「2015年「安保」のことば 「わたし」が主語になった」でした。
私は「私」という言葉が大好きです。特に主語の「私」が好きなんですね。でも、それは私が自己中心だからではありません。日本では「無私」で「会社のため」「アメリカのため」と言ってる人が、一番のジコチュー自己中であることは、皆さんもよくよくお分かりのことと思います。
高橋源一郎さんによれば、敗戦後、「安保」絡みのデモは、3回あったってんですね。前2回と比べて、今年のデモの特色の第1は「非暴力」だった、という訳です。それから、もう1つの新しさがあると感じると高橋源一郎さんは言いますね。それは「内面」「価値観」だと言います。
「私」「非暴力」「内面」・「価値観」と並べると、私は、エリクソンを思い出します。この3つは、深く結びついていることを思います。どういうことだと思いますか?
エリクソンは「私」=「本当の自分」の発達を、具体的な人間関係の中で、自分も実験台にしながら、試行錯誤、考え、臨床で役立てた人なんですね。「組織のため」を装って、我慢して生きて、結局は我利我利亡者になってる人とは対極的。「私」を生きると、その「私」がいかに大事かが分かるから、他者の「私」も大事にせずにはおけません。当然その関わりは「非暴力」になりますね。エリクソンは、ガンディーやイエス・キリストを研究してますが、それは非暴力研究でもありましたね。
それから、「内面」「価値観」との結びつき。エリクソンは、「価値」「ヴィジョン」「オリエンテーション」「エートス・人品」と言いますね。それは、ですから、単なる「内面」ではなくて、雰囲気、立ち居振る舞い、態度、行動になって現れる「内面」「価値」になります。大江健三郎さんや、フラナリー・オコーナーの言葉で言えば「人生の習慣」「生き方」the habit of beingになります。同じことです。
このように考えますと、今回の国会前のデモは、新たなヴィジョンを、私どもにもたらしてくれているのだと感じますね。それを今後の私どもの生活の中で、ハッキリした形で具体化し、さらに、それを言葉にして、人々に伝えていくこと、それが、この新しいヴィジョンを展開させていくうえで、非常に大事だ、と私は考えます。
実りの秋…