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JAL123便墜落事故-真相を追う-福岡講演のご報告/犠牲者の死を悼む

今月27日、福岡で開催された2回目の講演会も無事終了しました。今回は午後2時頃から6時頃までを予定していた時間枠に全く収まらず、結局、会場が使用可能な午後9時過ぎまで、夕食を取る暇もなく、講演及びご来場の皆様との質疑応答を続けました。

このように、小休憩を挟みながら7時間以上という予定外の長時間講演にもかかわらず、ほぼご来場者全員の皆様に最後までお付き合いいただきました。27年以上も前の古い事件にもかかわらず、このように高い関心を持って私のお話をお聞きいただけたことに、感謝の念を覚えるとともに、この事件に深く関わってしまった者として、己の言説に大きな責任がある事、課せられた使命の大きさを強く再認識させられました。

福岡における2回の講演で、総勢40名程度の皆様に私のお話をお伝えすることができました。次はいよいよ、九州から東に向かい大阪での開催を予定しています。現在、5月下旬から6月上旬の土日を照準に会場を探しておりますが、日付と会場が決まり次第、前回応募をいただいた皆様にメールで連絡いたします。また、個別講演のご依頼をされた方にも近々メールで連絡をとらせていただきますので、よろしくお願い申し上げます。


 * * *


■忘れてはならない、死の真相

日々の仕事や、講演会の準備で忙しくなると、つい忘れがちになってしまうのが、何のために123便事件の真実追求を続けているのかということ。すなわち、このブログを書き始める動機となったあの頃の自分自身の「思い」です。真実を知りたいという個人的興味をはるかに凌駕する、現実世界の残酷さ、この世の虚構に対するやるせない無力感、そしてそれらは余りに理不尽な乗客乗員の死によって表現されています。

ここでは、520名(と言われている)の犠牲者の死が何であったのか、改めて画像と公的資料で振り返ってみたいと思います。私のコメントは最小に留めますので、あの日を覚えている、おそらく30代半ば以降の方は、ぜひ彼らの死がいったい何だったのかを思い出してみてください。


資料1:運輸省 事故調査報告書 結論 (4.1.9乗客乗員の死傷) から

4.1.9.1
前部胴体・中部胴体内にいた乗客・乗組員は墜落時の数百Gと考えられる強い衝撃及び前部・中部胴体構造の全面的な破壊によって、全員即死したものと考えられる。

4.1.9.2
後部胴体にいた乗客・客室乗務員のうち、前方座席の者は墜落時の100Gを超える強い衝撃で、ほとんどが即死に近い状況であったと考えられる。後方座席の者が受けた墜落時の衝撃は数十G程度の大きさであり、これによってほとんどが致命的な障害を受けたものと考えられる。(以下略)

4.1.9.3
本事故における生存者は4名であり、いずれも重傷を負った。4名とも後部胴体の後方に着座しており、数十G程度の衝撃を受けたものと考えられるが、衝突時の着座姿勢、ベルトの締め方、座席の損壊、人体に接した周囲の物体の状況等が衝撃を和らげる状況であり、胴体内部の飛散物との衝突という災害を受けることが少なかったこともあって奇跡的に生還し得たものと考えられる。

事故報告書は生存者4名を除く乗客乗員全員が、墜落時に「致命的な傷害を受けた」ということにしたいらしい。この調査報告について、現場で生存者を目撃されたM氏はきっぱりと「この調査報告書は嘘である」と断言している。詳しくは「闇夜に蠢くもの(4)」を参照してほしい。


資料2 運輸省 事故調査報告書 結論 (4.1.11捜索・救難活動) から

4.1.11.1
墜落地点は登山道がなく、落石の危険が多い山岳地域であり、夜間の捜索ということもあったため、機体の発見及び墜落地点の確認までに時間を要したことはやむを得なかったものと考えられる。

4.1.11.2
救難活動は困難を極めたが、活動に参加した各機関の協力によって最善を尽くして行われたものと認められる。

装備無しのM氏は、当日登山道なき道を現場に向かっている。S氏などは何度も夜を徹して墜落現場周囲の山中を歩き回って調査している。「夜間の山岳地帯=危険=到達困難」というのは明らかに現場を知らない見解。私も月夜ではない深夜の現地山中を歩いてみたが、思いのほか明るく目が慣れてくれば急斜面でも歩ける。この地が首都東京から100km圏内の山地であり、山の頂などからは埼玉・東京方面の街明かりが眩しいほどに見える。また、この辺が当時の航空幕僚が語るような未開の「日本のチベット」でないことは、画像4を見れば一目瞭然である。


画像1:自衛隊員に抱きかかえられる少年


ネットでも話題になった写真。この少年は生きているのではないのか?私の知り合いの医療関係者は、筋肉の張り方など自力で腕を上げていると観察され、この時点では明らかに生きているだろうと語っている。私の元へは少年の生存情報(施設に収容)も入ってくるが真偽は定かでない。


画像2:手が大きく腫れている犠牲者


医療関係者によると、手の腫れは墜落後にも血液の循環があったことを示しており、少なくとも即死はしていないと語っている。生存者の一人、川上さんが、墜落直後に家族と会話をした、子供の声を聞いたという証言は多くの123便関連著書に貴重な証言として書き残されている。


画像3:焼き殺された子供の遺体


写真雑誌フォーカスから。あまりに凄惨な写真なので、遺体にはモザイクをかけています。ジェット燃料は高くて1400℃に到達するというが、それは灯油の1100℃とたいして変らない。実体はほとんど灯油と同じと考えてよい。写真の子供は頭部の輪郭が崩れる程激しく燃えており、ジェット燃料(灯油)が原因ならば、まとまった燃料が本人にかかり燃えた、あるいは近くで激しく燃えていたことになる。しかし、子供の遺体に寄り添うように生えた木立にはほとんど焦げ跡がない。しかも雑誌の文面には「紙幣や書類が周囲に散乱していた」と記載されている。ジェット燃料はこの子だけをめがけ飛び散り、この子だけを燃やして火は収まったというのだろうか?この不自然な状況を説明する理由を私はこう考える、「この子はごく間近から火炎放射器で焼かれたのだ」と。


火炎放射器


画像4:林業用トロッコ列車の軌道


群馬県上野村の墜落現場(スゲノ沢)へ向かう林道沿いには、1900年代半ば、かつて当地で林業が盛んだった時代の名残である、トロッコ列車の軌道の一部が撤去されず朽ち果てるままにされている。この周辺は事件発生以前から人が出入りしている場所だったのは明らか。墜落現場は林道終点からわずか2~3kmほど先でしかなく、この明白な事実を突き付けられても、関係者はここが「日本のチベットだった」、「危険で近づけなかった」と強弁し続けるのだろうか?そんな恥ずかしい嘘をつくことが彼らの仕事であるならば、まさに哀れの極みだ。


 * * *


今回掲載した画像には、当時、現地を取材した報道カメラマンの方から提供されたものが含まれています。資料提供ありがとうございます。


INSUPER FILIOS IUDA ET HIERUSALEM VULTIS VOBIS SUBICERE IN SERVOS ET ANCILLAS QUOD NEQUAQUAM FACTO OPUS EST PECCATIS ENIM SUPER HOC DOMINO DEO VESTRO SED AUDITE CONSILIUM MEUM ET REDUCITE CAPTIVOS QUOS ADDUXISTIS DE FRATRIBUS VESTRIS QUIA MAGNUS FUROR DOMINI INMINET VOBIS
しかし今、あなたたちはユダとエルサレムの人々を服従させ、自分たちの男女の奴隷にしようと思っている。しかし、あなたたち自身はあなたたちの神、主によって罪に問われずに済むだろうか。今、わたしの言うことを聞き、兄弟の国から連れて来た捕虜を帰しなさい。主はあなたたちに対して激しく怒っておられる。
(歴代誌下 第28章10,11節)

遠つ御霊の始りの地より
管理者 日月土
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