『憲法と社会問題を考えるオピニオンウェブマガジン。/マガジン9』(http://www.magazine9.jp/)の鈴木耕氏によるコラム【風塵だより 鈴木耕/100 高止まりする安倍内閣支持率の謎】(http://www.magazine9.jp/article/hu-jin/31482/)。
《そこで、「もし」である。あのとき、もし自民党政権だったら、原発はどうなっていただろうか?…もっとたくさんの「?」があるだろう。だが、上記のどれひとつでも、自民党内閣だったら解決できただろうか。とてもそうは思えない。それまで「原発安全神話」を振りまいてきた当の自民党が、的確な対応策を持っていたとは、考えられないのだ。今の自民党と同じように、何が起きても責任を誰かに押しつけて、逃げの一手だったのではないか》。
『●「こういうふうにした者たち」とは誰だ?
……東京電力原発人災の自覚無き犯罪者たち』
『●「あれだけの事故を起こして被害を出して、
だれか1人でも責任とってやめたか。申し訳ないと謝罪したか」』
核発電人災等々々々々…《どれひとつでも、自民党内閣だったら解決できただろうか。とてもそうは思えない》。同感。そして、例えば、核発電人災で誰か一人でも自民党議員が責任をとったという話を聞いたことが無い。デマまで流して(アベ様による「メルマガ事件」)、当時の政権に責任を押し付ける、しかも、それを司法までが助ける。
《マスメディアによる批判が、今も多くの有権者に強烈に刷り込まれている》…上から目線な党では、自業自得である。いままで一度も投票したことは無い。それでも、究極の選択ならば、迷わず民進党に投票します。自公や「癒(着)」党には絶対に投票などしない。あ~、でも、この上から目線な党、あまりにダラシナサすぎる。
『●同感…「民主党は本気で安倍政権を
倒す気があるのか?――そう疑わざるを得ない」』
『●テイクテイク…な「民進に信用がないのを
野党で支える構造をわかっていない」「なぜ偉そうに上から目線」』
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【http://www.magazine9.jp/article/hu-jin/31482/】
2016年12月14日up
風塵だより
鈴木耕
100
高止まりする安倍内閣支持率の謎
歴史に「もし」は許されない。それを承知で言うのだが、もし、あのとき……だったら、と想像することがある。例えば、2011年3月11日、もしあのとき自民党政権だったなら……と。
先日、映画『太陽の蓋』を観た。あの未曾有の大災害のとき、民主党・菅直人首相官邸で何が起きていたかを描いた作品だ。
ある人がこの映画について「菅首相をまるでヒーローのように描いているのが興ざめだった」という感想を述べていたが、そういう見方ができないわけじゃない。
しかし、あのとき原発事故関連の情報が、ほとんど官邸に上がってこなかったのは、その後の調査でもはっきりしている。情報がない中では、いかに権力中枢の官邸であっても右往左往せざるを得ない。肝心の情報がないのだから、怒鳴り合うしか術はない。これはまさに、菅首相が怒鳴る映画である。
ではなぜ、情報が途絶したのか? それは、東京電力という、当時、絶対的な力を持っていた巨大企業の傲慢さと、それに癒着していた経産省などの官僚機構の思い上がりのせいではなかったか。
「よけいなことは知らなくていい。我々専門家に任せておけばいい」という彼らの意識。
ところが、その専門家集団は、実は他人任せ。専門知識は細分化され、自分がかかわった部分以外についてはほとんど無知。だから、全体像を把握できる「ほんとうの専門家」などはいなかったのだ。映画では、内閣府原子力安全委員長だったあの班目春樹氏らしき人物が、原子炉爆発の報に「あちゃー!」と頭を抱えてうずくまるシーンも出てくる。
連日開かれていた記者会見で、まともに質問に答えられる専門家はほとんどいなかった。「メルトダウン」を口にした担当者はすぐに更迭された。まさに情報隠蔽の典型例。「僕は東大経済学部の出身なので、詳しいことは分からない」と開き直った保安院の幹部もいた。
そんな中で、菅首相は自らヘリで原発事故の現場へ飛び、情報を出さないことに苛立って(菅氏はすぐに怒るので「イラ菅」と呼ばれていた)、東京電力本店へ自ら乗り込む。
映画はこんなストーリーだが、それは多分、かなり事実に近い流れだったと思う。これが菅首相への批判の嵐の原因になったのだが、あのとき、民主党内閣はほかに何ができただろうか?
そこで、「もし」である。あのとき、もし自民党政権だったら、原発はどうなっていただろうか?
原発事故への対応は、もっと的確にできたか?
原子炉爆発は予測できなかったのか?
原子炉冷却のための注水はスムーズに進んだか?
バッテリー不足で電源回復できなかったという事態は防げたか?
原子炉爆発を防ぐためのベントはできたか?
原子炉爆発の連鎖は想定していたか?
東京電力からの情報はきちんと届いたか?
メルトダウンを正しく発表したか?
4号機プールの危険性を認識していたか?
専門家会議は機能したか?
原発所員たちの撤退を巡るゴタゴタは防げたか?
津波想定を握りつぶした責任は?
もっとたくさんの「?」があるだろう。だが、上記のどれひとつでも、自民党内閣だったら解決できただろうか。とてもそうは思えない。それまで「原発安全神話」を振りまいてきた当の自民党が、的確な対応策を持っていたとは、考えられないのだ。今の自民党と同じように、何が起きても責任を誰かに押しつけて、逃げの一手だったのではないか。
当時の状況の中で実際に巻き起こったのは、凄まじいまでの菅首相バッシングだった。それは、菅内閣全体と民主党を巻き込んで、まるで巨大なストームのように全マスメディアを席巻した。
思い起こしてほしい。
例えば、菅首相が独断で注水中断を指示したとして、一部のメディアが激しい批判。それは後にデマだと分かった。そして、デマを振りまいたひとりが、なんと安倍晋三氏であったという事実。
また、次の野田佳彦内閣の鉢呂吉雄経産相が、原発周辺の市町村を視察して「人っ子ひとりいない、まるで死の街だ」と語ったことが不謹慎だと、異常なほどの批判を受け、退陣に追い込まれた。だれもいなくなった街を「ゴーストタウン」「死の街」と呼ぶのはありふれた表現。なぜそれが不謹慎なのか、今となってはほとんど意味が分からない。意味がよく分からないほどに、あのころのマスメディアの狂乱ぶりはひどいものだった。
菅首相を叩き民主党内閣を批判し、さらに民主党そのものをバッシングすることが、なぜかマスメディアの仕事みたいな状況になっていたのだ。
当時の自民党内部に、原発の専門家がいたとも思えない。だとすれば、もしあのとき、自民党政権だったとしても、結局はあの映画と同じように、官邸は右往左往の蜂の巣状態だったろう。
だが、ひとつだけ違うことがあったかもしれない。それは、あれほどの政権批判は起きなかったのではないか、ということだ。
自民党から民主党へ政権交代したのは2009年。それは、自民党政治の金権腐敗に憤った有権者の反乱ともいうべき民主党の地滑り的大勝利だった。なにしろ、1党としては戦後最多の308議席を獲得しての政権交代だったのだ。
しかし、慣れない政権運営に、民主党鳩山由紀夫政権は四苦八苦。特に、沖縄の米軍基地をめぐる迷走ぶりは目に余った。ぼくも強く批判した憶えがある。ところが後に鳩山氏が語ったところによれば、外務省から官邸への情報は、まさに隠蔽と歪曲。鳩山氏の判断を、結果的には大きく誤まらせることになった。
アメリカの意向を伺うことが外交だと信じ込んでいる外務省の幹部たちは、沖縄米軍基地の移設など、絶対に認めるわけにはいかなかった。「普天間飛行場は海外へ。最低でも県外」と述べた鳩山氏だったが、やがて外務官僚の教化(?)によって「学べば学ぶほど、米軍基地の県外移設は困難だということが分かった」と後退し、ついに普天間飛行場の「辺野古移設」を認めてしまう。政治の官僚支配である。
それが長い間、自民党政権にベッタリと寄り添ってきた官僚たちのやり方だったのだ。あの狂乱怒涛の菅首相バッシング報道は、そんな官僚たちが仕掛けたものだったのではないか。
官僚機構とマスメディアの癒着は、自民党時代にほぼ完成していた。つまり官僚たちは、いずれ自民党が復活すると考え、民主党政権には面従腹背、表面的には従うふりをしつつ、腹の中では舌を出していた。政権馴れしていない民主党は、官僚機構とその裏にいる自民党に手もなく捻られたわけだ。
あのときの民主党に対する「だらしない」「任せておけない」「何も決められない」「無責任」「お坊ちゃま集団」「国の方向を歪める」などというマスメディアによる批判が、今も多くの有権者に強烈に刷り込まれている。それらの情報の出どころは、多くが中央官庁だったのだ。
安倍内閣の支持率は、依然として50%を上回って高止まりしていると、各マスメディアの「世論調査」は伝えている。だが個別の項目を見てみると、決して安倍内閣の政策が支持されているわけではないことがよく分かる。
秘密保護法には反対が多く、
安保関連法にも反対が多く、
憲法「9条」改定にも反対が多く、
原発再稼働路線にも反対が多く、
アベノミクスは崩壊し、
日銀の金融の異次元緩和路線は失敗し、
物価の2%上昇は実現せず、
景気は上向かず、
そのために消費税10%を先送りし、
TPPはトランプ氏によって崩壊したにもかかわらず強行採決し、
反対の多い原発輸出や武器輸出を解禁し、
それらを成長戦略の柱と位置づけ、
沖縄では何度選挙で負けても米軍基地強化を推進し、
辺野古や高江の反対運動を力で圧殺し、
駆けつけ警護では自衛隊員の命を危険にさらし、
安倍構想の中国包囲網は霧散し、
フィリピンのドゥテルテ大統領にははしごを外され、
トランプ氏にいち早くご機嫌伺いに駆けつけて失笑され、
外交の失敗を各国へのカネのばら撒きで覆い隠そうとし、
反対多数のカジノ解禁を強引に推し進め、
年金法案にも反対多数で、
にもかかわらず国会では強行採決を繰り返す……
これらが、現在の安倍政権の動向なのだが、支持率は依然高止まり。だが、世論調査で面白いのは、安倍内閣支持の理由のトップが常に「ほかによさそうな人がいないから」「ほかに任せられる党がないから」であることだ。
ここが、あのころの民主党政権と違うところなのだ。徹底的な官僚(省庁)の抵抗にあって、ろくに政策(例えば「コンクリートから人へ」)を実行できずに崩壊した民主党政権の残滓が、マスメディアによって、いまも有権者の頭に刷り込まれたままだからだ。
最近の国会議員選挙での自民党の得票数は、まるで増えてはいない。にもかかわらず圧勝する。なぜか? 単純な計算だ。
かつて民主党へ投票した約3千万人(2009年衆院選)のうち、2千万人もが投票所へ足を運ばなくなったからだ(2012年衆院選)。自民党が勝っているのではない。野党がコケているのだ。
その大きな原因のひとつが「民進党(民主)はだらしない。信用できない。任せておけない」というマスメディアによって刷り込まれた有権者の感覚。それが今や、SNSを通じて一般にも広がってしまった。
「アイツが悪い」と言う人に「どこが悪い?」と問い返しても、あまり大した答えは返ってこない。「じゃあ、コイツはいいの?」と訊けば「アイツよりはいい」。ほとんど中身がない。
ぼくは、民進党の支持者ではない。民進党の蓮舫代表・野田佳彦幹事長の路線には、そうとうな拒否感がある。しかしそれ以上に、現在の安倍政権にはまったく賛成できない。理由は、明確に上の項目で述べたとおりだ。
またしても1月解散説がささやかれている。きちんと野党共闘路線を構築して、安倍政権へ一矢報いなければ、と思う。
と、ここまで書いてきたとき(12月13日)、参院内閣委員会で「カジノ法案」が自民や維新の賛成多数で可決されたとの報が入ってきた。ん?
民進党の難波奨二議員が委員長を務める委員会だから、徹底的に抵抗するものと思っていたのだが、自民の修正案を受け入れて、あっさり採決に同意してしまったのだ。なんだ、こりゃ?
蓮舫代表は「廃案に追い込む」と言っていたはずではなかったか。こんな、カネまみれの法案の採決を容認してしまうとは、いったいどういう野党なのだろう。民進党内には「IR推進議連」に属している議員が34人もいるという。だから、こんなみっともない結果になったのか。
民進党は、もう分裂したほうがいい。そう思うしかない……。
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古い9月14日のものですが、東京新聞の社説(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2011091402000061.html)。それから約2カ月、酷い現実・・・。
財界にしか目が向いていない。どこが「攻めの姿勢で脱原発を」なのか? 「攻めの姿勢で原発維持・原発再開・原発推進」であり、「攻めの姿勢で財界擁護を」である。ついでに、TPPでも財界や業界の金儲けに手を貸し、農業や市民の生活を破壊する新自由主義への道うをひた走り、原発輸出でも金儲けさせてあげようということ。政治家も癒着する訳だ。それを是正できない司法のだらしなさ。とどめは消費税増税。最初から期待はしていなかったけれども、民主党政権も自民党時代と何も変わらず、いやむしろその上を行っているかも。民主党政権に止まるも地獄、自民党政権に戻るも地獄。こんな政権にしか投票しない市民も、いい加減に目を覚ました方がよいのでは? 東京都や大阪〝ト〟など、地方行政もどうにかならないものか。(元大阪〝ト〟知事が新大阪〝シ(死の街)〟長におそらくなるのでしょう、哀しいことに・・・。)
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【http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2011091402000061.html】
エネルギー政策 攻めの姿勢で脱原発を
2011年9月14日
原発依存度を引き下げ、停止中の原発は安全を確認し再稼働するという野田佳彦首相の所信表明は微温的に過ぎる。節電や自然エネルギーなどの知恵を広く集め、攻めの姿勢で脱原発を急ぐべきだ。
菅直人前首相は東京電力福島第一原発周辺の住民に避難を強いる悲惨な事故を受け、脱原発に意欲を見せた。野田首相も引き継いだはずだが「脱原発」と「推進」という二項対立でとらえるのは不毛と言い切った。
首相は中庸を理念に掲げているが、脱原発なのか、推進なのか、その判断を覆い隠す玉虫色に映る。首相のいう中庸とは、激論しても歩み寄りを図りながら対立を収めるという意味ではないのか。
福島の事故を境に全国の原発の多くは定期点検後も地元の理解が得られず、停止したままだ。経団連の米倉弘昌会長らから「再稼働しないと電力不足で工場を海外移転せざるを得なくなる」などと脅しともとれる不満が漏れてくる。
経団連は経済界の声を聞かず浜岡原発の停止を進めた菅政権との関係が冷えきった。野田首相はそれが気がかりだったのか、米倉会長らと会い、脱原発の議論を差しおいて関係修復を優先させた。
電力不足を乗り切るため、東電と東北電力管内の家庭や企業などに求めた節電は驚異的だった。全国五十四の原発のうち三十基以上が停止する脱原発に近い状態にありながら、節電は目標の前年比15%削減を超える21%に達した。
電力不足は関西電力など西日本にも及んだが、電力会社が互いに支え合う融通も奏功し停電は回避されている。エネルギー政策の立案は国民や経済界などが一体となった論議から逃げては、中庸は看板にすぎなくなる。野田首相は節電の総括などを基に、脱原発への道筋を語るべきだ。
鉢呂吉雄氏の後任、枝野幸男経済産業相は「省エネや再生可能エネルギー開発を進め、原発がなくても成り立つ状況を早くつくる責任がある」と語った。枝野氏はかつて事業仕分けを主導している。
原発に偏った一兆円近いエネルギー対策特別会計の無駄を大胆に削り、太陽光や風力など、再生エネの分野に振り向ける手腕を見せてほしい。
複数の原発新設が計画されていた米国では住民の反対で滞っている。十二日にはフランスで放射性廃棄物の処理施設が爆発した。野田首相は世界一、二位の原子力大国で起きている現実も見据え、脱原発を明確に宣言するときだ。
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(つづき)
次に、東京新聞社説(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2011092002000054.html)および筆洗(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2011092002000039.html)。
映像資料「2011年9月15日[5 /6]「原発とメディア」シンポジウム 第1部」(http://www.youtube.com/watch?v=_ihUFBCn1u8&NR=1)の上杉隆氏や森達也さん、高田昌幸氏(司会は篠田博之さん)の関連したコメントも是非聞いてみてください。被害住民・被爆住民になり代わっての過剰な反応、被害住民・被爆住民の気持ちの過剰な忖度、その部分は死刑制度の議論に似ていると思った。(このシンポに関しては、『創』出版のhttp://www.tsukuru.co.jp/tsukuru_blog/2011/09/15-2.html。また、鎌仲ひとみ氏や雨宮処凛さん、鈴木邦男さん、山本太郎氏の第2部http://www.youtube.com/watch?v=wXuTvHAV0Mg&feature=relatedもどうぞ。)
それにしても、小皇帝 都知事の真に差別的言質は大して問題にもされず、都民は平気で選挙も通すし、マスコミは全くバカ騒ぎすることがない。東京電力 福島第一原発人災というFUKUSIMA直後も「東京に原発を」とまで言う訳ですから、原発推進派であり、虎の尾を踏んだ訳ではいないからでしょうね。マスコミの挙動、全く不思議です。
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【http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2011092002000054.html】
【社説】
メディアと政治を考える 自由な言葉あってこそ
2011年9月20日
政治家の発言をメディアが報じることで現実の政治が動く。そんな事例が相次いでいる。分かりやすい結末を追い求める落とし穴にはまっていないか。
鉢呂吉雄前経済産業相が一連の「問題発言」の責任をとる形で大臣を辞任したのは、就任わずか九日目だった。
問題とされた発言は二つある。まず九日の会見で福島第一原発周辺の地域を「人っ子一人いない。まさに死の町」と呼んだ件。次いで、同日夕から翌朝にかけて一斉に報じられた「放射能をうつしてやる」という記者への発言だ。
◆しゃくし定規の息苦しさ
後者の放射能発言は鉢呂氏が原発周辺の自治体視察から東京・赤坂の議員宿舎に帰ったとき、宿舎のエントランスで記者団に囲まれた際に語った発言である。
鉢呂氏は記者との懇談を非公式なものと認識しており「発言内容自体も正確には覚えていない」と釈明している。録音記録も残っていないようだ。
いずれの発言も大臣として不適切な発言として批判を浴びて、当初は説明を尽くす考えだったが、放射能発言が報じられた十日夜になって結局、辞任を表明した。
たしかにテレビカメラも入った会見で「死の町」という表現は適切とは言えない。ただ、絶対に許されないほど不穏当だったかと言えば、議論の余地は残る。
後に明らかになったことだが、細川律夫前厚生労働相も五月の参院行政監視委員会で民主党議員の質問に答えて「町全体が本当に死の町のような印象を受けました」と語っている。
本紙を含めて新聞も「ゴーストタウン」という表現を使ってきた。「死の町」はだめだが「ゴーストタウン」ならいい。そんなしゃくし定規な議論が広がるようになっては、なんとも息苦しい。
◆言葉狩りのメカニズム
放射能発言も気になる点がある。発言があったのは八日夜だが、同夜も翌朝もメディアは一行も報じていない。ところが、九日の「死の町」発言が明らかになった後の同日夕からテレビ、新聞が大きく報じ始めた。
そこには「批判スパイラル」とも呼ぶべきメディアの特性がある。いったん批判の標的を見つけると、さらなる批判の材料を追い求め、スパイラル(らせん)状の軌道に乗ったかのように一斉に標的を追い詰めていくのだ。
メディア各社はみな激しく競争している。一社が書けば、他社が後追いする。そこには多少の疑問があっても一応、批判の輪に加わらなければ、それ自体が意図的な報道回避と受け取られかねないという懸念も働いている。
発言があった日から一日遅れになった今回の放射能発言報道は、そんなメディア全体の電子回路にスイッチが入ってしまったような展開だったのではないか。
どんなタイミングでどんな内容を報じるかは、メディアの裁量である。たとえ非公式なオフレコ発言であったとしても「報じるに値するかどうか」の判断はメディア自身に任されるべきだ。それは言論報道の自由と不可分である。
その点を指摘したうえで、多くのメディアが「批判スパイラル」一色に染まっていく状況を恐れる。それは言論や価値判断の多様性という社会の根幹をむしばむ事態につながりかねないからだ。
それぞれのメディアが自由に判断した結果、同じような報道のトーン、価値判断に陥っていくとすれば、なおさらである。「批判スパイラル」が実は「同調の言葉狩り」になってしまう。それは多様性の尊重とは真逆の事態と言ってもいい。
批判スパイラルを加速させた背景には「問題はいずれ国会で大騒ぎになる」という判断がある。そういう見通しを織り込んだ記事もあった。メディアだけにとどまらない。鉢呂氏自身も辞任に際して、その点を考慮しただろう。
ともに「国会で問題になる」という見通しを前提にして、メディアは記事を書き、政治家は身の処し方を考える。結果があっけない大臣辞任という幕切れだった。
問題発言で大臣が辞めたのは、菅直人政権で二〇一〇年十一月に辞任した柳田稔元法相、ことし七月に辞任した松本龍前復興相に続いて三人目だ。輿石東幹事長は放置できないとみて、情報管理を徹底する方針を打ち出した。
◆不自由さが自殺行為に
問題発言がメディアで批判され、国会紛糾を恐れるあまり、大火事になる前に先手を打って大臣を辞める。そんな展開が当たり前のようになってきた。
自戒を込めて書く。メディアも政治家も少し冷静になろう。考える時間が必要だ。言葉で仕事をしているメディアや政治家が、言葉に不自由になってしまうようでは自殺行為ではないか。
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【http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2011092002000039.html】
【コラム】
筆洗
2011年9月20日
福島第一原発の事故で、亡くなった人は一人もいないじゃないか-。原発推進派には、こんな発言をする人もいる。慣れない避難所生活の中、持病を悪化させて亡くなったお年寄りや、将来を悲観して自らの命を絶った農家や酪農家の姿は見えないのだろうか▼そんなことを考えている時、哲学者である内山節さんの近著『文明の災禍』を読んだ。原発事故が奪ったのは住民の未来の時間であるという。「人間の営みが未来の時間を破壊した。日本では、おそらくはじめて」。その思想の射程の深さに共感した▼殺人は被害者の未来の時間を破壊する。原発の事故は地域の未来の時間を丸ごと破壊する。「未来の時間を破壊することが平気な社会、それは恐怖に満ちた社会である」という哲学者の問い掛けは重い▼未来の時間を奪われた土地は「死の町」そのものである。前経済産業相の発言も長期間、人が住むことができない福島の厳しい現実を直視する契機になれば、意味があったのかもしれない▼きのうも全国で脱原発を求める行動があった。作家の大江健三郎さんらの呼び掛けで東京で開かれた集会には、過去最大の六万人が参加した。うねるようなにぎやかな人の流れが、ゆっくりと繁華街を通りすぎる▼先頭を歩いたのは、福島の人たちだった。二度と私たちの未来を奪わないで。そんな心の叫びが聞こえてきた。
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最後に、videonews.comの映像資料(http://www.videonews.com/news-commentary/0001_3/002066.php)。東京新聞論説委員の重要な証言。やはり「原子力癒着ムラ」の官僚の人事という大虎の尾を踏んでしまった、というのが裏の真相だったようです。こんなことやってて(経産省の官僚にこんなことやられてて)、民主党は本当に大丈夫か!? 映像の中で指摘されているが、枝野経産相に本件(原発推進反対派が委員会のメンツに居ない旧人事のままであれば)を突き付ける度胸のあるマスコミ記者がいるかどうか? 案外、経産省が墓穴を掘ったのかも??
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【http://www.videonews.com/news-commentary/0001_3/002066.php】
ニュース・コメンタリー (2011年09月17日)
鉢呂大臣の辞任は脱原発人事の発動直前だった
インタビュー:長谷川幸洋氏(東京新聞論説委員)
「死の街」、「放射能をつけちゃうぞ」などの発言の責任を取り、就任9日目の9月11日に辞任した鉢呂吉雄前経産相は、脱原発政策を実行に移すための人事を発表する直前だったことが、東京新聞論説委員の長谷川幸洋氏の取材でわかった。
長谷川氏は、鉢呂氏が辞任した翌日の12日に鉢呂氏に単独でインタビュー取材した。鉢呂氏はこれからの日本のエネルギー政策を決める総合資源エネルギー調査会(経産相の諮問機関)の委員に多数の脱原発派を送り込むことを決め、既に事務方に指示していたことを明かしたという。 長谷川氏によると、鉢呂氏は現在の委員構成が15人のうち12人が原発推進派で占められていたため、これでは福島後の議論は期待できないと考え、新たに9~10人の反原発・脱原発派の委員を追加任命する意向だった。その委員候補リストまで事務方に渡していたという。
長谷川氏は「人事は官僚にとって最大の権力の源泉。そこに介入されることは、官僚がもっともいやがること」「鉢呂氏は虎の尾を踏んだ」と経産官僚による辞任工作あったとの見方を示すが、具体的にどのような経緯で辞任に至ったかについては、取材中という。
長谷川氏はまた、鉢呂氏には「放射能をつけちゃうぞ発言」をした覚えはなく、その時の映像や録音テープも存在しないとみられることから、かなりの歪曲があった可能性もあると指摘している。
政治と官僚の関係を長年ウオッチしてきた東京新聞の長谷川幸洋氏に、鉢呂氏辞任の裏面を聞いた。
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CML(http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-September/011753.html)で気づいた論考(http://news.livedoor.com/article/detail/5863443/、http://news.livedoor.com/article/detail/5863443/?p=2)。
第一報を聞いて、「死の町」にした者が悪いのではないか、人災で「死の町」化させてしまった者こそが批判されるべきではないのか? そう思ったのですが、この鈴木氏の論考に大きく頷かされました。「原子力ムラ」と云う虎の尾を踏んでしまった、というのが辞任の裏事情だったのでしょう。怖いものですし、マスメディアも「原子力ムラ」と一体化していることが理解できます。
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【http://news.livedoor.com/article/detail/5863443/、http://news.livedoor.com/article/detail/5863443/?p=2】
自滅する国家 自壊するマスメディア - 鈴木耕
2011年09月14日19時17分
9月11日、大震災からちょうど半年。そして原発が荒れ狂い始めてから6ヵ月。この国は、何が変わったか? なんだか、何も変わっていないような気がするんだ、僕には。いっとき息をひそめていた連中がゾンビの如く甦り、また思いどおりに国を動かし始めた。違う?
新聞を開けばまたしても「大臣辞任」。テレビは「なでしこジャパン」で大フィーバー(古い表現!)。「なでしこ狂想曲(放送局)」とでも駄洒落で名前を変えたらいかがかと思う僕は、ただの臍曲がり。
むろん、なでしこたちの健闘ぶりは素敵だし、それを祝う気持ちは僕にもあるけれど、これでいいのか、と立ち止まってしまう自分がいることも確かだ。
ツイッターを見ていたら、こんな呟きが目に留まった。
@kentaro666 竹熊健太郎さん。
「国家の自滅」なんて滅多に見られるものじゃない。
歴史上、戦争もせずに自滅した国家なんてありましたか?
ドキリとした。そのとおりじゃないか。僕らの国は、すでに崩壊過程に入っているのかもしれない。しかも最悪なことに、それを必死に押しとどめようとする気配が、政治にも文化にも感じられない。政治は放射能汚染になす術もない。子どもたちの被曝への不安は母親たちを独自の動きに走らせている。政治が機能しないからだ。
原発の“安全神話”など、とうの昔に崩れ去った。もはや誰がそんなものを信じるか。効果を失くした古証文などさっさと捨てればいいものを、まだ後生大事に拝み続ける輩。
またしても“黒塗り”の事故対応マニュアルとやらを国会の委員会へ提出し、恬として恥じない東京電力。黒塗りではなく“恥の上塗り”。
東京電力という会社は、「東電を潰すことはできまい。やれるもんならやってみろ!」と開き直ったとしか思えない。
電力会社の地域独占体制を解体し、発送電分離による一層の電力自由化を実現しなければ、この国のエネルギー政策、つまり原子力政策を抜本的に改革することはできない。だが、それを阻止するために蠢きだした者たちがいる。春でもないのに、啓蟄よろしく、潜り込んで隠れていた泥の中から、ジュルジュルと姿を現し始めた。
新しい未来図を描けない政治家や、金のことしか頭にない財界人、自身の保身のみを考える電力会社の経営者たち。こんな人たちが…。それこそ「戦争もせずに自滅する国家」への道か。
そこからはみ出ようとする者は潰される。
鉢呂吉雄氏が、どこへ向かおうとしていたのかは、何もやれずに去ってしまった今となっては定かではない。だが、彼の経産相辞任劇は、僕にはどうも納得できない。確かに、「放射能つけちゃうぞ」とほんとうに言ってしまったとしたら、それはやはり大臣にふさわしくない、と批判されても仕方ない。だが、そう言われたという当の「毎日新聞記者」は、なぜか自分の言葉でその時の状況を正確に説明しようとしない。不可解。
朝日新聞(9月13日付)が、この問題をやや詳しく取り上げている。それによれば、新聞各社の鉢呂氏発言は微妙に違う。
「放射能をつけちゃうぞ」朝日、「ほら、放射能」読売、「放射能をつけたぞ」毎日、「放射能をつけてやろうか」日経、「放射能をうつしてやる」東京、「放射能をうつしてやる」産経、「放射能をうつしてやる」共同、「放射能を付けたぞ」時事…
各社とも、「…との趣旨の発言をした」と逃げているが、これだけバラバラだと、その信憑性が疑われて当然だろう。
もし、これらの記事を書いた記者が自分の耳で聞いていたのなら、こんなに多様な言葉が出てくるはずがない。つまり、きちんとした録音やメモをとってはおらず、“どこかのメディア”が発信したために「乗り遅れるな」とばかりに、あやふやな記憶や伝聞に頼って一斉に報じたとしか考えられない。しかも論調は「鉢呂、大臣失格」の大合唱。「右へならえ」の一斉報道ならば、メディアの独立性などないに等しい。
では、どこが最初に発信したか。朝日の記事によれば「『放射能』発言を最初に報じたのはフジテレビとみられる」ということだ。
各メディアによって言い回しがみな違うということは、つまり、ほんとうは鉢呂氏がどう言ったのか、どのメディアも正確には掴んでいなかったことになる。
鉢呂氏自身も「そう言ったかどうか記憶が定かではない」と会見で語っている。ならば、当の言われたという毎日新聞の記者自身が、正確に鉢呂氏が発したとされる言葉とその時の状況やニュアンスを明らかにするべきではないか。その“言葉”によって、ひとりの大臣の首が飛んだのだ。それは報道者としての当然の責務だろう。
なぜ、隠すのか? どうも、怪しげな臭いがする。
同じ朝日の記事によれば、こうだ。
(略)毎日新聞は「毎日新聞記者に近寄り、防災服をすりつけるしぐさをしながら『放射能を付けたぞ』という趣旨の発言をした」と報道。9日に報じなかった理由は「経緯についてはお話ししかねる」(社長室広報担当)という。
妙な話だ。鉢呂氏の発言は8日の午後11時20分ごろ。それをフジテレビが報じたのが、なぜか翌日(9日)の午後6時50分過ぎ。なぜこんなに時間がたってからの報道だったか。さらに、新聞各社が報じたのは10日朝刊。どうもおかしい。
しかも、ネタモトの毎日新聞は「…という趣旨の発言」と、妙に奥歯に物の挟まったような表現で、その上「経緯は話せない」と言う。いったいなんなんだ、これは。自社の記者への発言だったのなら、正確に伝えればいい。なぜ隠す必要があるのか。なぜこんなにも報道が遅れたのか。裏にどんな事情があったのか。
ここまで調べて書いた朝日だが、自分のところのこととなると、とたんに歯切れが悪くなる。同記事の末尾に、こんなふうに付け加えている。
朝日新聞の渡辺勉・政治エディターは「8日夜の議員宿舎での発言の後、鉢呂氏は9日午前の記者会見で『死の町』とも発言。閣僚の資質に関わる重大な問題と判断して10日付朝刊(最終版)で掲載した」と話す。
おかしくないか? なぜ10日の朝刊最終版だったのか。9日午前の「死の町」が問題になったといっても、「放射能」は8日夜のことだった。ならば、9日夕刊には十分間に合う。それがなぜ10日のしかも最終版になったのか。まるで説明になっていない。
「『死の町』発言が閣僚の資質に関わる重大な問題なのかどうかを、果たして社内できちんと判断したのか」という疑問はさておいても、「他社に遅れてはならない」の横並び意識、そこには「これをどう報じるべきか」の逡巡も迷いも疑問も自らへの問いかけも再調査への意識も問題化すべきかどうかの判断も、ここにはまるでないではないか。
朝日が、この問題に目をつぶらなかった姿勢だけは認めるにしても、それならば自らの姿勢もきちんと問うべきではなかったか。
よってたかっての「鉢呂おろし」。少し前の「菅おろし」の、あの凄まじいメディア・スクラム報道とどこが違うのだろう。こういう一色に染まった報道が人々の不信を買い、マス“ゴミ”(僕は嫌いな言葉なので使わないが)とネット上などで吐き捨てられるようになりつつあることに、なぜ、当のマスメディア内部の人たちが気づかないのか。
鉢呂氏の「脱原発」志向と今回の“鉢呂おろし”は、果たして無関係だったか。もし、まったく関係なかったのだとすれば、なぜこんな一斉報道が巻き起こったのか。それを検証する義務が、マスメディアにはあるのではないか。
もうひとつの辞任理由の「死の町」発言については、なぜそれがこんな大問題になるのか、僕にはよく分からない。チェルノブイリのルポなどで「死の町」とか「ゴーストタウン」などという表現は、これまでに何度も目にした。新聞や雑誌で読んだし、テレビのリポーターがそう言うのを耳にしたことも、何度もある。外国への表現はなんでもなくて、日本国内での言い回しであれば問題化される。どうにも納得いかない。
これについて、的確に呟いてくれている方がいた。
@tako ashi 小田嶋隆さん。
「死の町」という描写は被災者の心を傷つけた。だから大臣は辞任した。
ということはつまり、被災地を描写するにあたって「被災者を傷つけない言葉」を
見つけることができなかった人間は、被災について言及することが許されない。
実質的な言論タブーの成立ですよ。
この文意に、僕は賛同する。僕も文章を書いている。むろん、読んでくれる方たちに“不快の念”を与えないように、それなりに注意を払って書いているつもりだ。しかし、それでも「不快だ」という方が時折反論や批判を寄せてくる。それは仕方ない。
だが、当事者に成り代わって「当事者はきっと不快に思うだろう。だからお前の言葉はおかしい」と、なぜマスメディアが鬼の首を取ったように騒ぎ立てるのか。大きな影響力を持つ新聞やテレビが騒ぎ立てれば、まずある種の政治勢力が喚き始め、それをさらにマスメディアが増幅する。報道に煽られた当事者たちも、やがて「どうも、不快に思わないといけないらしい」という心理に陥る…。そういう図式ではないだろうか。
被災者に対し「あの『死の町』発言をどう思われますか」と記者が問いかければ、「あまり気持ちのいい言葉ではない」「愉快ではないよね」「不快です」という答えが返ってくるのは自明だろう。だが「確かにもう帰れないかもしれない。『死の町』かもしれないなあ」と感じている被災者だっているだろう。だが、そこは取り上げられない。そして「被災者のみなさんは、不快感を露わにしました」という報道一色になる。そこからは「そんな言葉を発した鉢呂氏は、大臣にふさわしくない」という結論が、否応なく導き出される。
今回の報道が、(最初に報じたテレビ局の意図はわからないが)ある同じ意図で一斉に行われた、とまで僕も言うつもりはない。だが結果として起きた現象は、まさにそういうことだ。不気味な現象。
「脱原発」の記事や放送を、事故以前は(原発マネーで飼い馴らされて)ほとんどできなかったマスメディアが、少しは“原発安全神話”への疑問を報じ始めたと思っていたが、やはりその本質は変わっていなかった、ということなのか。
「死の町」発言を被災者たちが不快に感じた、というよりは、その一斉報道ぶりを不快に感じた、というのがほんとうのところではないか。まともな食料も入手できなかった被災者が、テレビ各局が大好きな「グルメ番組」を観てどう感じたか、聞いて回ってみるがいい。「グルメ番組、楽しいですか?」と。「不快なのはどちらですか?」と。
「死の町」発言をほんとうに「不快だ」と感じたのは、実は被災者の方々などではなく、「死の町」を造りだしてしまった政治家・電力会社・財界・学者、そして当のマスメディアの人々だったのだ。だから、これほどまでに過剰反応したのだ。これは正しい。僕は断言する。
郷原信郎(弁護士、名城大学教授)氏が、ご自身のブログ(9月11日)に「鉢呂経済産業大臣辞任の不可解」というタイトルで、次のように書いている。
(略)どうして、このようなことで、経済産業大臣という重要閣僚が、しかも就任直後に、
辞任しなければならないのだろうか。しかも、発言の事実関係や意図・動機等は
ほとんど明らかにならないまま、あっという間に辞任会見が行われた。
全く不可解というほかない。
まず①の言動(注・「放射能つけちゃうぞ」発言)は、確かに子供じみたものではあるし、
原発事故被災者が知れば不快に思う軽率な行動と言えるだろう。(略)その行動が、
どれだけの悪意によるものか、或いは、鉢呂氏本人の「放射能」への無神経さを
表すものなのかは、前後の状況、発言時の本人の態度等を明らかにしないと
判断できないはずだ。(略)一方、鉢呂氏からそのようなことをされた相手の記者の
具体的な証言は全く出て来ないし、そもそも、その記者が一体誰なのかもよくわからない。
②の発言(注・「死の町」発言)も、私には、それがなぜ問題なのか、よくわからない。
原発周辺の市街地が「死の町」であることは客観的事実だ。我々は、今後も、
容易には「生きた町」に復活させられるとは思えない「死の町」を作ってしまったことを
真摯に反省し、被災者への賠償、事故の再発防止対策を行い、今後の原発をめぐる論議を
行っていかなければならない。そういう意味では、「死の町」というのは現実であり、
それを視察した大臣が、その通りに発言することが、どうしてそんなに悪いことなのだろうか。
(略)
原発事故で被災した町を「死の町」と表現するかどうかではなく、その現実を受け止め、
今後、そういう事故を二度と起こさないためにどうしようとするのかが、
問題なのではないのか。(略)
これが当たり前の感覚だと、僕も思う。ことはあまりに不可解だ。もっとも、だからといって郷原さんは「鉢呂氏を擁護する気は全くない」と続ける。事実関係のろくな説明もなしに辞任するのは、閣僚の責任感欠如だし、「その程度の人物なのであれば、経産大臣を続けていても、ろくな仕事はできなかったであろう」と辛口で締めくくっている。
僕には、鉢呂氏の資質を云々するだけの知識はないが、郷原さんの言うことは納得がいく。
今回の「死の町」騒動での、自民党の石破茂政調会長や石原伸晃幹事長のような大はしゃぎの鉢呂批判は、おのれの吐いたツバが自分の頭に降りかかる典型例だろう。「死の町」を造ったのは、まさに、旧来の自民党政権の原子力政策そのものだったではないか。自分たちの蒔いたタネが、いま「死の町」として福島に噴き出た。どこに、批判できる資格があるというのか。
マスメディアも、言葉尻で「死の町」騒ぎを演ずる前に、その「死の町」を造った者たちの責任を追及するのが筋ではないのか。でも、そのマスメディアも原発マネーに汚染された「原子力ムラ・ペンタゴン」の一角であったことを考えれば、そんなことを言っても虚しいか。
あの「朝日がん大賞」受賞のミスター100ミリシーベルトこと山下俊一福島県立医大副学長を、朝日新聞「ひと欄」(9月1日)が褒め称えたことを、僕は忘れてはいないよ。
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