【梶原得三郎・新木安利編、『松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』】
しろうと歌人・しろうと運動家としての居直り。「だが、しろうとにもしろうとなりの判断基準がある。・・・一人の人間を一党の情報で裁断する前に、自分の目と耳での判断にかけたいと決めた。/・・・/ふと私は、そこにしろうと歌壇のあの清新でなまなましい息吹と、くろうと歌壇の整いすぎた技巧・・・対比を思って奇妙な気がするのだ。運動と歌壇という突飛なまでに懸隔した両者の内側で、なにやら〝しろうと〟と〝くろうと〟の対比だけは相似ている気がして不思議なのだ。/・・・/だが、もはやしろうとであることに居直る覚悟の私は、そのような批判によって揺らぎはしない。なぜ心情的発言が、政治理論や経済理論の下位に著しくおとしめられねばならぬのか、その根拠をこそ逆問したいのである。砂浜に残るかそかな水鳥の足跡をこよなくいとおしむ心情的発言は、政治や経済の側からの発言で、あっけなく圧殺され続けてきた。その結果が、救い難い環境破壊であり、なおも政治や経済の論を優位させる限り、その加速は誰しも予知するところであろう。それを制止できるのは、もはやしろうとの心情的発言の復権にしかないのではないか」(pp.162-163)。
当書籍の副題の主軸部分。「「たった四日半の調査で、豊前平野の年間気象をうんぬん出来るのか!」/・・・/「それが科学というものですよ」という一言は、恐らく全国各地でしろうと住民を沈黙させる権威的発言として機能してきたに違いない。専門家の口から、それが科学だといわれれば、科学のしろうとは恐れ入るしかなかったのである。だが、そのような権威によって保証されたはずの安全開発地域で予測を超えた公害が噴出するに至って、もはやしろうととて科学に疑い深くなっているのである(否、科学そのものとはいわぬ。それを操作する者に対して)」(p.165)。
「七十三年八月二十一日、私たちしろうと市民七人、豊前火力建設差止請求訴訟を提起したのである。いわゆる環境権訴訟である。/「国民はすべて健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法二十五条)を有し、「幸福を追求する権利は尊重される」(憲法十三条)のであってみれば、それを充足するためのよりよい環境に住む権利は基本的人権であり、それはだれからも侵害されない―――〈環境権〉とは、端的にいえばこのような法理であり、まこと私たちしろうとに理解されやすく、共感は濃い。/もっといえば、海の問題でこの法律はきわ立って来る。従来、海を埋め立てるには当該海域の漁業者が漁業権放棄をすませれば全手続きは完了した。背後地住民に海への権利はなく、一片の発言も認められない。だが〈環境権〉は、海に対する住民の権利を鋭く主張する。なぜなら、海は万人共有のものであり、環境の主要因子だからである」(p.166)。「・・・法理などはクソクラエとしか思っていないのであり、こんな当たり前な権利が法理で鎧われなくとも認められて当然ではないかと、・・・」(p.265)。「環境権とは「・・・元来大気や水・日照・通風・自然の環境等という自然の資源は、人間の生活にとって欠くことのできないものであり、不動産の所有権とは関係なく、すべての自然人に公平に分配されるべき資源である。・・・それは当然に万人の共有に属すべき財産」・・・」(p.281)。
戦略的アセスのハシリ。「人が死んだり病床に呻吟してからの救済などありえないのだという痛切な反省から、ではそこまで行く前に阻止手段はないのかという発想で始まったのが環境権の主張であったはずだ。いい換えれば、〈生命〉や〈生活〉が直接におかされる数歩前で侵害行為を食い止めようということなのだ」(p.323)。
横田耕一さん(p.325)。ユージン・スミス(p.219)。
「国立岡山療養所の重症結核患者朝日茂氏が、国の生活扶助費では到底療養所生活は出来ず、これは憲法第二十五条一項に違反するとして厚生大臣を訴えた〈朝日訴訟〉・・・」(p.286)。
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