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●今中哲二さんも京都大学原子炉実験所を退職

2016年02月13日 00時00分22秒 | Weblog


東京新聞の記事【熊取6人衆 最後の原子力ゼミ 今中氏「定年後も福島に関わる」】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201602/CK2016021102000137.html)。

 《大阪府熊取(くまとり)町にある京都大原子炉実験所で反原発の立場を取ってきた研究者集団「熊取六人衆」の、最年少で最後の現職、今中哲二助教(65)が三月に定年退職する。十日には、六人衆が一九八〇年から開く市民向け講座が百十二回で幕を閉じた》。

 2016年3月末に、今中哲二さんも京都大学原子炉実験所を退職されます。市民に情報を発信し続け、原子力の専門家として「原発をやめるための研究」を行う「熊取6人組」の最後の御一人でした。小出裕章さんも、昨年度末に退職しておられ、いよいよ最後の今中さんもご退職です。京大原子炉実験所の行く末が心配ですが、今中さんと小出さんには、ニッポンの核発電「麻薬」患者の暴走を止めるための多大な貢献に期待しています。

   『●小出裕章さんが京都大原子炉実験所を退職

   『●熊取6人組
    「そのTV番組は「なぜ警告を続けるのか〜京大原子炉実験所・
     ”異端”の研究者たち〜」(…)です。市民に情報を発信し続け、
     原子力の専門家として「原発をやめるための研究」を行う
     「熊取6人組」(…)の一人、小出さんのような真摯な原子力研究者が
     蔑ろにされ、先の電話アンケート結果からも分かるように、
     FUKUSIMA後も状況は変わらないと思われます。
     四国電力 伊方原発の設置許可取り消し訴訟に際して
     (中国の4人組になぞらえて?)「熊取6人組」と云われる
     ようになったようです。今中哲二小出裕章小林圭二川野眞治
     海老沢徹瀬尾健さんの面々」

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201602/CK2016021102000137.html

熊取6人衆 最後の原子力ゼミ 今中氏「定年後も福島に関わる」
2016年2月11日 朝刊

     (講演する京大原子炉実験所の今中哲二助教
           =10日、大阪府熊取町の同実験所で)


 大阪府熊取(くまとり)町にある京都大原子炉実験所で反原発の立場を取ってきた研究者集団「熊取六人衆」の、最年少で最後の現職、今中哲二助教(65)が三月に定年退職する。十日には、六人衆が一九八〇年から開く市民向け講座が百十二回で幕を閉じた。

 最終回のテーマは「福島原発事故から五年」。今中さんは「地震がある国にこれだけの原発を造った。その間違いを認めることもなく、なぜまた動かすのか」と、再稼働を急ぐ国や電力会社に疑問を投げ掛けた。 今中さんは五〇年に広島市で生まれた。祖母は原爆の犠牲となり、母は被爆者だった。

 原発を疑問視するようになったのは大学院生の時。新潟県の柏崎刈羽原発の建設予定地で、住民から「国は『事故は起きない』という原発を、なぜ都会でなく田舎に造るのか」という声を聞いたことがきっかけだった。七九年の米スリーマイル島の原発事故では、六人衆の一人、瀬尾健さんと放射能放出量を評価する仕事に取り組んだ。八六年のチェルノブイリ原発事故後でも現地に入った。

 十日の講座には市民ら百五十人が詰め掛け、六人衆も九四年に亡くなった瀬尾さんを除く四人が見守った。

 今中さんは「チェルノブイリは人ごとだったが、福島では同じ日本語で気持ちが通じ合えるおじいさんや子どもらが被災した。日本が放射能汚染に五十年、百年と向かい合う時代になった」と語り「福島にはかかわっていくし、私がまだ役に立つことはあると思う」との思いを明かした。

(相坂穣)
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最終講義「原子力と付き合って47年:広島・長崎、チェルノブイリ、そして福島」 (A.S.)
2016-02-17 09:51:04
(核の神話:14)原発の影見つめた 今中助教の47年
核と人類取材センター・田井中雅人2016年2月16日15時19分

http://www.asahi.com/articles/ASJ2D6GK3J2DPTIL01Q.html?iref=comtop_list_nat_f01

・・・・・・・・・。

 まずは京大原子炉実験所(大阪府熊取町)の「熊取6人組」の最後の現役、今中哲二助教(65)による1月28日の最終講義(学術講演会)「原子力と付き合って47年:広島・長崎、チェルノブイリ、そして福島」を再現したい。出世と無縁だったが、国、電力会社、学界の「原子力ムラ」の面々が原発を推進するなか、その危険や課題を訴え続けた。

■今中哲二・京大原子炉実験所助教の最終講義(2016年1月28日)

【個人的なこと】

 私が原子炉実験所に助手として着任したのは1976年のことでしたから、この4月で丸40年になります。原子力発電が日本で本格的に始まったのは、70年3月に運転を開始した敦賀1号。敦賀原発からの電気が、大阪万博の開催に合わせて千里の万博会場に送られたというニュースを大阪大原子力工学科の学生として誇らしく感じました。以来、原子力屋の端くれとして、日本の原発の「盛衰」を50年近く眺めてきたことになります。

 日本の原子力開発のありように疑問を持ち始めたのは東工大の大学院生時代。当時、日本中で原発建設が進められていたと同時に、ほとんどすべての原発予定地で強い反対運動が起きていました。反対運動を支援しているグループと一緒に現地へ行く機会があり、地元の人と交流する機会がありました。建設に反対している人々から「国や電力会社は『どんなことがあっても事故は起きません』『原発ができたら地元におカネが入るし、仕事も増える』と言っている。では、何でそんなに結構なものを都会のまわりにつくらず、伊方や柏崎といった田舎につくるのか」という問題提起を受けました。そうした問題提起や反対運動をカネと力で押しつぶしながら原発が増え続け、最後には福島原発事故に至ってしまいました。

 私の学生時代は大学騒動やベトナム戦争反対運動など学生運動まっ盛りの時代でした。いわゆる活動家だったことはありませんが、若いなりに社会に向き合い、社会全体を客観化し、自分がどのような生き方を選択するのかが問われた時代でした。まずは「大手企業に就職して日本の中枢を支えている部分を眺めてみよう」と思っていたのですが、折からの第1次石油ショックで求人が冷え込んでいたところに、知り合いから「京大原子炉で助手を公募しているので受けてみたら」と声がかかりました。軽い気持ちで応募したら、筆記試験と面接があって、どういうわけか採用された。という次第で、原子力開発のありように疑問を抱き、研究者を志していたわけでもなかった原子力工学の大学院生が、なりゆきで原子炉実験所の助手になってしまった、というのどかな時代でした。

 伊方原発裁判は、四国電力伊方原発の設置許可取り消しを求めた日本で最初の原発裁判で、私が原子炉実験所に入所したとき、海老澤徹、小林圭二、瀬尾健、川野真治、小出裕章の5人の助手が、原発安全性の技術的問題に関する原告住民側の助っ人として裁判に関わっていました。私もグループに加わって裁判を手伝いました。私にとって、伊方裁判を手伝い傍聴した経験は、原発の技術的問題をはじめ、原発がもっている社会的問題、さらには国の原発安全審査に関わっていた先生方の専門的レベル、そもそも裁判の社会的役割に至るまで、いろいろ勉強になりました。

 一方、原子炉実験所の助手になったものの、研究者としてはしばらくは「暗中模索」の状態でした。転機となったのは、79年に米国で起きたスリーマイル島原発事故。それまでの日本の原発安全性の議論は机の上での議論でしたが、この事故は原発というものが破局的な事故に至る可能性を抱えていることを事実で示しました。

 スリーマイル島原発事故を調べ、勉強する中で、原発に対する私のスタンスは「その安全性に疑問を持つ」から「もともと危険なもので、下手をしたら大災害が本当に起きてしまう」というものに変わりました。この事故による放射能放出量評価の仕事を瀬尾さん(94年逝去)と一緒にやった経験が、研究者としてのその後の私のベースになったと思っています。

【広島・長崎】

 広島・長崎の原爆放射線量問題の勉強を始めたのは、80年ごろでした。広島・長崎の被爆生存者追跡調査のために当時使われていたT65D線量が間違っているという記事がScience誌に出たのをきっかけに、原子力資料情報室の高木仁三郎さん(2000年逝去)の提案で勉強会を始めました。その会で、放射線輸送計算を私が担当することになり、いろいろな方の手ほどきを受け、新しい原爆放射線量DS86の検証計算をしました。

 その後、DS86に基づく計算値と測定値が合わないという問題が浮上し、広島大の葉佐井博巳さんから「今中さん、計算できるんなら手伝えや」と誘われ、広島グループとの共同研究が始まりました。原爆線量問題は葉佐井さんが日本側の責任者として日米合同ワーキンググループとして問題解決にあたることになり、私も手伝うことになりました。曲折はあったものの、新たな原爆線量評価システムとしてDS02が2004年に採択されました。

 DS02で扱っているのは原爆炸裂(さくれつ)時の初期放射線のみで、中性子誘導放射能や放射性降下物といった、いわゆる残留放射能については、初期放射線に比べて寄与が小さいということで扱っていない。DS02以降は残留放射能にともなう被曝量を見積もっておく作業をやってきました。

 1945年8月6日の広島原爆投下後の黒い雨や残留放射能の問題について、9月の枕崎台風で全部流れちゃったという専門家の方もいらっしゃるんですけれども、そんなことはない。この間、雨がほとんど降っていませんから。最大でバックグラウンドの6倍から7倍の(放射線量率の)数値が出ています。

【チェルノブイリ原発事故】

 「チェルノブイリ」という聞き慣れない言葉を耳にしたのは1986年4月29日、当時の天皇誕生日の朝でした。その3日前にソ連の原発で重大事故が起きてスウェーデンでも放射能が検出された、というニュースだったと思います。事故の詳細は分からないが、日本まで放射能が飛んでくるかもしれないというので、小出さんとモニタリングの準備を始めました。チェルノブイリからの放射能を熊取で検出したのは5月3日に降った雨の中のヨウ素131でした。5月5日のエアサンプリングでは1立方メートルあたり0.5ベクレルのヨウ素131を検出しました。

 私たちのグループは、事故直後から瀬尾さんを中心に世界規模での放射能汚染評価を試みていましたが、ソ連国内のデータが全くといっていいほど出てきませんでした。状況に変化が起きたのは事故から3年たった1989年春のことで、ゴルバチョフの民主化政策によってソ連共産党の独裁体制が崩れ始め、チェルノブイリ周辺の汚染地図がようやく公開されました。ベラルーシ科学アカデミーの研究者と交流が始まり、90年8月に初めて瀬尾さんとチェルノブイリに行きました。これまで23回チェルノブイリに行き、最初は共同研究でもしようかと思っていたんですが、ソ連・ロシアの連中がほとんどやるべきことはやっていた。ただ、西側に情報が出てこない。当時、向こうの研究者はほとんど英語で論文を書きませんでしたから、行って会って話をして、おもしろい研究があったらそれをリポートにしてもらって、それを英語と日本語でパブリッシュをするということをやっていました。それなりにいい仕事ができたんじゃないかと思っています。

 情報が出てこなかった3年間の間に埋もれてしまったものもいっぱいある。91年にソ連がつぶれて92年にソ連共産党の秘密文書が出てくる。(チェルノブイリ原発事故で)何百人もの一般人が病院に収容されていた、と。これは、オーソリティーあたりの間では、いまだに全く無視されている話です。

 「原発で最悪の事態が起きたらどのような被害が周辺にもたらされるか」という問題意識でチェルノブイリのことを調べてきました。20年以上にわたるチェルノブイリ通いをして得た教訓は次の二つです。

(1)原発で大事故が起きると周辺の人々が突然に家を追われ、村や町がなくなり地域社会が丸ごと消滅する。

(2)原子力の専門家として私に解明できることは事故被害全体のほんの一側面にすぎず、解明できないことの方が圧倒的に大きい。

 今、事故を起こしたチェルノブイリの原子炉に石棺をつくろうとしている。見に行ったときに「あと何年持つねん?」と聞いてみたら、「100年は持ちます」という。「そのあとは?」「わからん」ということです。

【福島原発事故】

 2011年3月までの私は、「日本でも54基の原発が運転されており、下手をしたらチェルノブイリのようなことが起きる可能性がある」と警告を発していればよかったのです。3月11日の地震・津波によって福島第一原発で全交流電源が失われ、翌12日の午後に1号機で爆発が発生。その映像を繰り返し眺め、原子炉建屋天井は吹っ飛んだものの格納容器が破壊されていないのを確認して私はほっとしました。14日には3号機建屋も爆発しましたが、「福島がチェルノブイリのようになってしまった」と私が確信したのは、3月15日午前11時の記者会見で当時の枝野官房長官が「2号機の格納容器が壊れたもよう」と発表したときでした。実際、その日の午後、北西方向への風によって、浪江町、飯舘村、福島市の方へ流れたプルームが、雨や雪と重なって地表に大量に沈着し、「北西方向高汚染帯」が形成されました。当時の状況から考えて、福島第一原発周辺では広範囲に汚染が生じているのは明らかでしたが、どういうわけか汚染に関する情報が全くといっていいほど発表されませんでした。私たちが飯舘村の調査に入ったのは、汚染が起きてから2週間後の3月29日。南部の長泥地区で最大30マイクロシーベルトの線量率を測定しました。土壌汚染核種濃度から逆算すると、3月15日の夜は150~200マイクロシーベルトありました。地元の人によると、「3月15日の夜、白装束の男たちがやってきて測定して帰ったが、値は教えてくれなかった」そうです。どうも福島の原子炉と同じく、当時、日本の原子力防災システムもメルトダウンしていたようです。

・・・・・・・・・。

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