阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

御頭祭(おんとうさい)は、毎年4月15日に行われている諏訪大社のお祭です。

2020年04月15日 | 諏訪便り
一 部引用・・・御頭祭の歴史はと成り立ちは?
御頭祭(上社例大祭)は、長野県諏訪市の諏訪大社で鎌倉時代から続くとされている豊穣祈願のお祭になります。上社は「本宮」と「前宮」の二つに分かれていますが、中世まで祭政を行った政庁の場が前宮であったことから、古くから行われてきた神事は、今でも本宮ではなく、前宮の「十間廊(じっけんろう)」で執り行われています。上社の年中行事の中ではもっとも重要とされている御頭祭ですが、歴史の流れの中で形式が変わり、現代のかたちになりました。ではどの点が変化したのでしょうか?
御頭祭の昔と今で変わった点1
前宮の十間廊では現代でも、野菜や果物、肉などをお供えします。また、その供物の中に鹿の頭が含まれていることが、このお祭が「御頭祭」と呼ばれている所以です。ところでこのお供え物の鹿は現在は剥製ですが、かつては、七十五頭の本物の鹿が献じられたこともあるそうです。その中に必ず耳の裂けた鹿があって「高野の耳裂鹿」と言われ、「諏訪大社七不思議」の一つと言われています。
御頭祭の昔と今で変わった点2
かつて御頭祭は、大祝(おおほうり:生き神として大社の神職にまで到達した人)の代理である「神使(おこう)」が、地域を巡って豊作祈願するために、大社から出立する時の儀式とされていました。当時の御頭祭では大祝が十間廊の上段に着座して神事を行っていましたが、明治の「神官世襲制度の廃止」により、大祝や神長官(じんちょうかん)の神職が廃止されてしまいました。そのため、現代の大祝の代役として本宮の御霊代(みたましろ)を前宮に御渡して神事を行うようになったそうです。
御頭祭のみどころ
古式に則って行われているお祭なので、歴史の重みを感じさせるものになります。特に、御霊代を神輿に移して行列になって前宮に向かう際は、雅楽が奏でられ行列になって進みます。その行列は、関係者だけではなく、観光客も加わるため、長さが200メートルほどの人の波は“圧巻”の一言です。
2020年の開催は、4月15日(水)ですが、GWと時期をずらして出掛けることで混雑が回避できますね。首都圏からなら日帰りも可能ですので、興味深い「御頭祭」に合わせて出掛けてみてはいかがでしょうか。」

日本の宗教の中で、唯一獣肉を食することを許す御札を出していた諏訪大社にはこういう祭りがあります。
やはり狩猟と採集で生きた縄文系民族の神が諏訪大社のルーツなんだろうと思います。

「御頭祭」の詳細はこちら
画像はいずれもネットから借用。




2006年04月14日(金)掲載
御頭祭(おんとうさい)その2・
「神長官守矢資料館のしおり」から。
書いたのは守矢家の当主です。 
■洩矢神からの生命のつらなり
 諏訪盆地には「古事記」に書かれた出雲の国の国譲神話とは別にもう一つの国譲神話が言い伝えられています。そのことは、室町時代初期に編まれました「諏訪大明神絵詞」などに記されています。
 それによりますと、大和朝廷による日本統一以前の話になりますが、出雲系の稲作民族を率いた建御名方命がこの盆地に侵入しました時、この地に以前から暮らしていた洩矢神を長とする先住民族が、天竜川河口に陣取って迎えうちました。建御名方命は手に藤の蔓を、洩矢神は手に鉄の輪を掲げて戦い、結局、洩矢神は負けてしまいました。その時の両方の陣地の跡には今の藤島明神(岡谷市三沢)と洩矢大明神(岡谷市川岸区橋原)が、天竜川を挟んで対岸に祭られており、藤島明神の藤の木はその時の藤蔓が根付いたものといいますし、洩矢大明神の祠は、現在、守矢家の氏神様の祠ということになっています。
 一子相伝で先々代の守矢実久まで口伝えされ、実久が始めて文字化した「神長守矢氏系譜」によりますと、この洩矢神が守矢家の祖先神と伝えられ、私でもって七十八代の生命のつらなりとなっております。今でも洩矢神の息づかいが聞こえてくるようにさえ思われます。
 口碑によりますと、そのころ、稲作以前の諏訪盆地には、洩矢の長者の他に、蟹河原の長者、佐久良の長者、須賀の長者、五十集の長者、武居の長者、武居会美酒、武居大友主などが住んでいたそうです。
 さて、出雲から侵入した建御名方命は諏訪大明神となり、ここに現在の諏訪大社のはじまりがあります。このようにして諏訪の地は中央とつながり稲作以後の新しい時代を生きていくことになりましたが、しかし、先住民である洩矢の人々はけっして新しく来た出雲系の人々にしいたげられたりしたわけではありませんでした。このことは諏訪大社の体制をみればよく解ります。建御名方命の子孫である諏訪氏が大祝という生神の位に就き、洩矢神の子孫の守矢氏が神長(のち神長官ともいう)という筆頭神官の位に就いたのです。
  
御頭祭(おんとうさい)その1・気になる#1
「御頭祭」と云う祀りを知りました。
日本列島に住む日本人は皆が元々「農耕民族」で、「単一民族」と言われていますが、この祀りを知ると、そのような認識は明治以降の概念と言って良いのではないかと思うようになりました。
☆ユーラシア大陸の西に位置するブリテン諸島にはアングロ人やサクソン人が移住する前から、それらの島国にケルト族が住み着いていたように、ユーラシア大陸の東に位置する日本列島にも大陸から稲作を持ち込んだ人達が移住する前から住み着いていた人たちがいました。
彼らは木の実や果物、猪や鹿、熊などを狩猟して長い期間列島に暮らしていました。いわば、狩猟を主として生活していた狩猟民族と言われる人達です。
世界の狩猟民族は獲物を天からの聖なる頂き物とみなし、獲物を仕留めたあとはその感謝の気持ちを天に伝え、また次なる獲物をお願いするための祭祀をなんらかの形で続けてきました。
☆ここにご紹介する「御頭祭」はその一つのようです。
毎年4月15日に3000年ほど続いてきたのではないかと言われている「御頭祭」と云う祀りが諏訪湖のほとり、八ヶ岳の麓にある社で行われます。
その祀りの資料館があります。
それは「神長官守矢資料館」と言います。
この資料館は写真の通りとてもユニークな形をしています。壁は内外とも特別調合の壁土で、縄文土器を思わせ、また、屋根には鉄平石が使われています。
館内に入ると右側壁面にイノシシと鹿の剥製が飾ってあり、まず圧倒されます。
 資料館の館内には諏訪大社の祭祀をつかさどってきた守矢家に伝わる古文書、毎年4月に行われる「御頭祭(おんとうさい)」の江戸時代でのお供え、飾り付けを復元して展示しています。
 守矢家は縄文文化が栄えていた古代において、「洩矢(もりや)の神」と呼ばれ、諏訪大社の祭祀を司ってきました。洩矢の祭祀の中心的なお祭りは「御頭祭(おんとうさい)」といい、いろいろな食べ物、物品が供えられました。供え物の中には75頭の鹿、鮒(ふな)、雉、ウサギなども供えられました。日本に仏教が入って、このお祭りは殺生の戒めから廃れますが、鷹狩をしていた関係から江戸時代まで続きます。この資料館では、江戸時代のお祭りの様子をスケッチした当時の民俗研究家菅江真澄の絵に基づき、飾り付けを復元展示しています。
この資料館の設計は資料館が建てられた地に生まれ、守矢家先代に「照信」という名前をつけてもらった建築史家の藤森照信さんです。
藤森さんは茅野の実家の敷地に「高過庵」と云うこの茶室を建てたことでも知られています。

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