阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。あちこちでShootする写真日記。お遊びもあり。

夕日を見送る               

2022年12月31日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

犬のタロウも一緒に一年を見送る一家。1986年当時、茨城県北相馬郡藤代町にて。

今年もご訪問ありがとうございました。皆様にとって来年がいいお年でありますように。

画© M・M

                  2006年12月31日掲載

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昭和50年代の海外あちこち記   その7      ニューオーリンズ篇  アメリカへ初めての水平引き込み式クレーンの輸出

2022年12月31日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1978年と1980年の2回 アメリカのニューオーリンズに行きました。

 ミシシッピイ川河口で、上流からハシケで運ばれるカオリン(お白粉などの原料)を本船に積み替えるのに旋回式水平引込みバケットクレーンが最適ということで、

色々な経緯がありましたが受注が決まり、河口の真ん中に基礎を打ち、その上に日本製のクレーンが設置されることになりました。

水平引き込み式クレーンのアメリカへの輸出はこれが初めてでした。

☟(富山県伏木港へ納入された同型の旋回式水平引込み式クレーン。 アメリカ納入機には車輪はなく固定式で、ロープの先端に大型バケットをつけた。

(旋回式クレーンは上部全体が360度旋回する。

 愛媛県の工場の岸壁から 上部と下部に分けて組み立てしたクレーンを台船に乗せ、高馬力の曳船で太平洋を渡り、パナマ運河を通り、

メキシコ湾に入りサイトの近くまで辿り着いたとき、折あしくハリケーンが近付きタンパ港へ緊急避難するなど紆余曲折がありましたが、

無事クレーンを載せた 曳船に引かれた台船は太平洋を押し渡りミッシッピー河口に到着しました。

そして吊上げ工事も完了し、うまく所期の機能を発揮しお客さんに喜ばれました。

 以下の体験は海上輸送や現地工事の前の、注文が決まった前後の時期のことです。

発注内示後の契約条件の交渉をする場所は、お客さんの本社があるニューオーリンズでした。

  ニューオーリンズの街

 街はミシシッピー河口に位置するせいか、市中はかなり湿度が高く、空港について冷房の効いた飛行機から機外に出ると、

あっというまに眼鏡が白く曇り何もみえなくなりました。 湿度が高い上にホテルの冷房の具合も悪く、下着を洗濯して部屋に吊るしても殆ど乾かず、まいりました。

 郊外に車で出ると木々のどの枝にも高温高湿のせいで地衣類が着き、長い毛をたらしていて何となく不気味でした。

昭和30年代の始め頃、この町に来たことがある亡父の アメリカ土産の中にあった絵葉書を見て、気味が悪かったので覚えており、

その地衣類の実物を自分の目でもみることになり、親子2代でニューオーリンズに来ることになったのも不思議なことでした。

「欲望という名の電車」という芝居の舞台となった町で、当時も路面電車が走っており昔フランスの植民地だった頃の

コロニアル形式の今はペンキも剥げかけた木造の家並みが、森の中にけだるく幽霊のように立っていました。繁栄時から時が経ち、時代に取り残された町がここにもありました。


 ジャズとフレンチクオーターとナマズ料理

 ニューオーリンズと言えばジャズです。もちろん土曜日、日曜日は出張チームのみんなでフレンチクオーターに繰り出し、遅くまでジャズを楽しみました。

 

そして名物料理はナマズ料理と言う話です。夜が来るのが楽しみでした。

まあ刺し身は無理としても焼き物、煮物などどういうふうにやっつけてくれるのか。土地で有名なレストランに入り、

バドワイザーを飲みながら待つこと暫し、出てきたのはナマズのフィッシュボールの揚げ物が皿にどさりでした。

 

 やはりそこはアメリカでした。フライドボールの山を前にして一人ため息をつきました。おいしかったけど「洗鱠」や「鯉こくならぬ鯰こく」を想像したのが間違いでした。

期待が大きかっただけに落胆の度合いが大きかったです。

 南部という土地柄を感じた

あのじとっとした空気の中で北部のニューヨークと違って、何となく去勢されたような黒人が遠慮がちに町を歩いていました。

本屋でもプレイボーイなどの雑誌が置いてある一角にはロープが張ってあり黒人は入れないようにしてありました。

白人女性のヌード写真は彼らには見せないということだったのでしょう。

 

先日テレビの深夜放送で、シドニーポワチエが主演した「夜の熱気の中で」という映画を20数年ぶりに懐かしく見ました。

南部の町に別件捜査に来たNYの黒人刑事が殺人事件に巻き込まれ、偏見の目の中で地元の署長にも反発されながら、

事件を解決して去っていくという流れ者ヒーロー西部劇を当時の南部に置き換えた映画です。つい終わりまで見てしまいながら、

南部と北部での黒人系の人達の意識の差や白人系住民の彼らの扱いの差を、通り過ぎのよそ者ながら感じたことを、あのニューオリンズの出張の記憶と共に思い出しました。

 頭では、差別はよくないと思っていても、夜 ニューヨークで(当時  ニューヨークの今は崩壊してなくなったOneワールドトレードセンタービルに

会社のニューヨーク支店があり、アメリカ出張の時には必ず寄っていた)一人で飯を食いに行きホテルまで帰る道すがら、

ビルの間で目だけが白く光って見える黒人にじっと見られた時の気味の悪さは、理屈ではなく体がすくみました。

アメリカという国は日本と違って大変な幅の人間を含んで成り立っているんだなと、その大変さをつくづく思います。

それと同時に、映画や小説に出てくる少数民族の扱いが変わって来ているように、少なくとも表向きは公平性を拡大していることにも凄い連中やなあとも思います。

 (2002年頃メールで友人知人に発信)    (画像は全てネットから借用。当時、阿智胡地亭が撮影した写真ではありません。)

 

 

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ハイビジョン特集 日本のいちばん長い夏 NHK・BShi 2010年7月31日を見た。

2022年12月31日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2010年07月31日(土) 「阿智胡地亭の非日乗」掲載

NHKのサイトから引用。

ハイビジョン特集 日本のいちばん長い夏
NHK・BShi 7月31日(土) 午後8:00~9:50

東京オリンピックを翌年に控え、高度経済成長のただ中にあった昭和38年、東京銀座の料亭に28人が集まった。終戦を語る座談会が開かれたのである。

集まったのは、終戦当時、政府の中枢にいた迫水久常、鈴木一、松本俊一、池田純久、ソ連大使・佐藤尚武、スウェーデン公使・岡本季正、海軍の富岡定俊

、陸軍の今村均、荒尾興功、一兵卒だった大岡昇平、扇谷正造、岡部冬彦、会田雄次、池部良、そして徳川夢声などそうそうたるメンバーだった。

彼らの話から、ポツダム宣言発表後もソ連仲介の和平工作に期待をかけた中枢、本土決戦の完遂を主張し続けた陸軍、空襲下の市民生活や飢餓にあえぐ前線、

「聖断」による終戦など、昭和20年の“長い夏”が多面的に浮かび上がってくる。

番組では、この座談会を企画した作家・半藤一利氏(当時「文藝春秋」編集者)の証言なども交えて、この座談会をドラマ化する。

演じるのは、田原総一朗、鳥越俊太郎、市川森一、島田雅彦、山本益博、林望、青島健太、湯浅卓、中村伊知哉、富野由悠季、江川達也、立川らく朝、松平定知など現代の文化人。

座談会で出席者それぞれが語った生々しい発言を再現し、戦争体験を語り継ぐことの大切さを伝える。

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12月30日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年12月31日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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