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マルティン・ニーメラーの詩について 反共は戦争の前夜か

2016-05-23 06:18:23 | 現代日本政治
 今年3月に、共産党を破防法の調査対象団体であるとする政府答弁書を批判するしんぶん赤旗の記事をBLOGOSで読んだ。

   「2016 とくほう・特報/「破防法」答弁書 市民が批判/時代錯誤 安倍政権/「共産党への攻撃は市民への脅し」「反共は戦争の前夜」 識者も指摘」(2016年3月26日付)

 記事の一部を引用する。

 「共産支持者ではないが、共産党に破壊(活動)防止法適用のニュースには怒りを感じる。国民の支持を受ける公党への誹(ひ)謗(ぼう)とうつる」、「自民党こそ、日本の平和を破壊しようとしている」。党本部への電話・メールやツイッターなどの投稿で、こんな批判が広がっています。

国民は分かっている

 法政大学元教授(政治学)の五十嵐仁氏は、閣議決定に対し「古色蒼然(そうぜん)です。共産党は暴力的な方法で政権転覆を考えていないし、暴力革命を方針としていないことは多くの国民はわかっています」と指摘します。

〔中略〕

 五十嵐氏は共産党へのデマによる誹謗は戦争前夜の声であると指摘します。

 「戦前日本もドイツも、戦争へと突入できるようにするために、もっとも頑強に戦争に反対した共産党を弾圧しました。ナチスは国会議事堂放火事件をでっち上げ、それを口実に共産党を弾圧し、ヒトラーの独裁体制を確立しました。やがてその弾圧は自由主義者やカトリックへと拡大し、ドイツは世界を相手に戦争をする国になっていったのです。同じように、安倍政権は、共産党を狙い撃ちにした攻撃によって戦争をする国づくりをすすめようとしています」と戦前と共通の危険性を語ります。

 まさに「反共は戦争の前夜」との指摘です。


 これは、共産党への弾圧を危険視する際によく引用されるマルティン・ニーメラーの詩を念頭に置いているのだろう。

 五十嵐氏は、自身のブログの4月29日付の記事「再びかみしめるべき「反共は戦争前夜の声」という言葉」でも、この詩を持ちだして次のように述べている。

 「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は共産主義者ではなかったから
 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
 私は社会民主主義ではなかったから
 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は労働組合員ではなかったから
 そして、彼らが私を攻撃したとき
 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」

 これは、マルティン・ニーメラー牧師の有名な詩です。今また、これと似たような状況が生まれつつあります。再び「反共は戦争前夜の声」という言葉をかみしめなければなりません。
 安倍政権は閣議決定した答弁書によって、共産党が破壊(活動)防止法の適用対象だと回答しました。普通に活動して多くの支持を得ている天下の公党に対するこのような攻撃は古色蒼然たるもので荒唐無稽ですが、まさに「ナチスの手口」に学んだものでもあります。
 戦前の日本もドイツも、戦争準備の過程で頑強な反対勢力であった共産党を弾圧しました。やがてその弾圧は自由主義者やカトリックへと拡大していきます。同じように、安倍政権は共産党を狙い撃ちにして、戦争する国づくりをすすめようとしているわけです。

 悪質なデマまで使って攻撃するのは、野党共闘の強力な推進力となった共産党を排除できなくなったからです。その力を恐れているからこそ目の敵にしているわけで、共産党が手ごわい政敵になったと自民党が太鼓判を押したようなものです。
 これは安倍政権の弱さと焦りの現れでもあります。市民から大きな声を上げて糾弾しなければなりません。「最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった」という間違いを繰り返さないために。そして、後になって「私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」という状況を生まないためにも……。


 この詩は共産党擁護によく持ち出されるので以前から知っていたが、出典は何なのだろうとふと気になった。
 ネットで検索してみると、ブログ「世に倦む日々」の4月27日付の記事「「結末を考えよ」 - ニーメラーの教訓と弱すぎる戦争への危機感」に、この詩をわが国で広く紹介したのは政治学者の丸山眞男(1914-1996)であるとの主張があった。

ニーメラーはルター派教会の牧師で、ナチスに抵抗して1937年に強制収容所に入れられ、生還後にこの悔恨の言葉を残した。ところで、今日、この言葉は政治に関心を持つ現代人の常識の範疇となっているけれど、出典は何で、どこから広く知られるようになったのだろうか。実は、この痛切な反省を日本に紹介したのは、丸山真男の『現代政治の思想と行動』である。1961年の論文「現代における人間と政治」の中に、ミルトン・マイヤーの著書からの引用として紹介されている。原文を日本語に翻訳したのは丸山真男だ。

この言葉を日本の政治学の一般知識にしたのは丸山真男である。が、このニーメラーの警句を説明するWiki情報には、なぜか丸山真男についての言及がなく、この国の政治学で最も多く読まれてきた古典的著作で紹介しているという記述がない。この事実はきわめて不審で、偶然だとすれば奇妙であり、何か動機があって悪意で丸山真男を捨象したのではないかという疑いを禁じ得ない。丸山真男の『現代政治の思想と行動』というのは万事がこんな感じで、ビートルズの名曲のように「これがあれだったのか」と既視感の衝撃を覚える発見が随所に散らばっている。アクトンの「絶対的権力は絶対的に腐敗する」の言葉(P.444)もそうだし、トクヴィルの回想録の「ひとが必要欠くべからざる制度と呼んでいるものは、しばしば習慣化した制度にすぎない」の一節(P.576)もそうだ。まさに政治学の宝石箱。


 そこで、丸山の『現代政治の思想と行動』に収録された「現代における人間と政治」という文を読んでみると、次のようにあった。

ニーメラーの次のような告白を見よ――
  「ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた」(Mayer,op.cit.,pp.168-169)
 こうした痛苦の体験からニーメラーは、「端初に抵抗せよ」(Principiis obusta)而して「結末を考えよ」(Finem respice)という二つの原則をひき出したのである。彼の述べているようなヒットラーの攻撃順序は今日周知の事実だし、その二原則も〔中略〕言葉としてはすでに何度も聞かされたことで、いささか陳腐にひびく。けれどもここで問題なのは、あの果敢な抵抗者として知られたニーメラーさえ、直接自分の畑に火がつくまでは、やはり「内側の住人」であつたということであり、しかもあの言語学者がのべたように、すべてが少しずつ変つているときには誰も変つていないとするならば、抵抗すべき「端初」の決断も、歴史的連鎖の「結末」の予想も、はじめから「外側」に身を置かないかぎり実は異常に困難だということなのである。しかもはじめから外側にある者は、まさに外側にいることによつて、内側の圧倒的多数の人間の実感とは異ならざるをえないのだ。(丸山『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1964、p.475-476、原文中の傍点は引用ではゴシック体に変更した)


 さて、では心ある国民は、五十嵐氏やしんぶん赤旗が言うように、共産党が破防法の調査対象団体とされていることを「弾圧」であり「戦争の前夜」だととらえて、安倍政権を「大きな声を上げて糾弾しなければな」らないのだろうか。
 私にはそうは思えない。
 破防法の調査対象団体とされていることは、何ら結社の自由を害するものではないということもあるが、それより何より、共産党が政権を獲得した場合、ナチスと同じことをする恐れが多分にあり、実際に共産党政権の国々ではそうしたことが行われてきた以上、共産党がこんな詩を持ち出して危険性を煽っても全く説得力を覚えないからだ。

 1917年のロシア革命では、皇帝が退位した後、臨時政府とソビエトの二重権力となった。ソビエトを基盤としたボリシェビキのレーニンは武装蜂起してケレンスキーの臨時政府を打倒し、社会革命党左派と組んでソビエト政権を樹立した。
 憲法制定会議の普通選挙が行われたが、ボリシェビキは議席の4分の1しか得られず、社会革命党が過半数を獲得した。自由主義者の政党である立憲民主党も議席を得たが、ソビエト政権により解散させられ、メンバーは逮捕されるか亡命した。憲法制定会議は開かれたが、少数派であるボリシェビキと社会革命党左派は権力をソビエトに委ねるよう求め、否決されると退場した。翌日会場は軍により封鎖され、ソビエト政権は会議の解散を命じた。監禁されていた廃帝ニコライ2世とその一家は1918年7月にソビエトの秘密警察により銃殺された。
 松田道雄は『ロシアの革命』でその後の状況を次のように描いている。

 ボリシェヴィキが権力を奪取してしばらくは、他の政党も合法的に存在していた。〔中略〕
 一九二〇年の第八回ソヴィエト大会には、社会革命党もメンシェヴィキも、その代表を公然と出席させることができた。一九二一年になると事態はかわってきた。メンシェヴィキの指導者たちは、国外に亡命しなければならなくなった。メンシェヴィキはまだ亡命できたが、社会革命党は、それさえできず、一九二二年には、指導者たちは反革命のかどで裁判され、処罰されなければならなかった。それ以後、共産主義者でないものには結社をつくる自由はなくなった。
 しかし、ボリシェヴィキ党のなかでは、反対派は自由に意見をのべることはできた。ブレスト・リトフスクの講和を受諾するかどうかでは、レーニンは数からいえば自分より多い反対派を説得しなければならなかった。
 一九二〇年の第九回党大会は、反対派がもっとも自由に発言できた最後の機会であった。〔中略〕第九回党大会は、左翼反対派の意見を反映して、ことなった意見のゆえに党員にどんな圧迫もくわえてはならないむねの宣言さえした。(松田道雄『ロシアの革命』河出文庫、1990、p.350-352)


 だが、革命軍の内部からソビエト政権に抵抗するクロンシュタットの反乱が起きると、第10回党大会で分派活動は禁止された。
 1924年にレーニンが死ぬと、後継者争いにスターリンが勝利し、敗れたトロツキーは国外追放された。1930年代にはいわゆる大粛清が行われ、多数のオールド・ボリシェヴィキが処刑された。トロツキーも1940年にメキシコで暗殺された。
 これらは政治家の話であって、一般国民に対してどれほど苛烈な弾圧が加えられたか、ここで詳述する余裕はない。

 ニーメラー、あるいは丸山に倣うなら、次のような詩も成り立つのではないだろうか。

 共産主義者が皇帝や貴族を襲ったとき、私はやや不安になった。けれども自分は皇帝でも貴族でもなかったので何もしなかった。
 それから共産主義者は富農や資本家を攻撃した。私は不安はやや増大した。けれども自分は富農でも資本家でもなかったので、やはり何もしなかった。
 それから共産主義者の攻撃の手は社会主義者やアナーキスト、さらに共産主義者内部の反対派へと伸び、私の不安はそのたびに増大したが、私は社会主義者でもアナーキストでも共産主義者内部の反対派でもなかったので、なおも何もしなかった。
 そして共産主義者の攻撃の手は彼らの政府に忠実な一般国民にまで伸びてきた。私は一般国民であったから何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。

 ソ連に限らず、中国でも北朝鮮でもベトナムでも、共産党政権の下では同じようなことが行われてきた。
 現在の日本共産党は、ソ連型の社会主義建設は行わないと主張している。しかし、元々ボリシェビキが世界革命のために設立したコミンテルンの日本支部として誕生し、マルクス=レーニン主義を理論的基礎とし(現在の日本共産党は「科学的社会主義」と称しているが、これは単なる言い換えである)、レーニンの党組織原理である民主集中制を未だ放棄していない日本共産党が、単に行わないと宣言しても、何の説得力があるだろうか。

 私は、思想・信条の自由や結社の自由は、民主制の下で何よりも尊重されなければならないと思っている。
 だから、共産主義を信奉する自由も、共産党を組織する自由も認められるべきだと思う。
 しかし、かつて武装闘争を行った結社が、破防法の調査対象とされることもまた当然だと考える。調査は結社の自由を侵すものではないし、それが「弾圧」だとも「戦争前夜」だとも思えない。
 また、「端初に抵抗せよ」と言うなら、かつて武装闘争路線を採った日本共産党に対しても、その行動を調査し、共産主義が国民への独裁である危険性を指摘することは何ら否定されるべきではないのではないか。

 反共が必ず戦争を起こすというものでもあるまい。スペインのフランコやチリのピノチェトは共産党が参加した政権を打倒し、インドネシアのスハルトは共産党によるクーデターを鎮圧してそれぞれ権力を握ったが、別に侵略戦争に手を染めたことはない。
 第二次世界大戦はナチス・ドイツとソ連が密約を交わして起こしたものだから、言わばソ連は共犯である。戦後も朝鮮戦争をはじめ共産党政権が戦争を起こすことはしばしばあったことも思い起こすべきだろう。

 なお、上で引用した丸山眞男の「現代における人間と政治」は、六〇年安保闘争を振り返ってその翌年に書かれたもののようである。
 当時はまだ民主主義の敵と言えばナチスという印象が濃厚だったのだろう。
 しかし、文化大革命やカンボジア大虐殺やソ連崩壊を経て、共産党政権の様々な害悪が広く明らかになったこんにち、未だに半世紀前と同様にニーメラーの詩でおどかす手法が通用すると思っている時代錯誤にはあきれるほかない。

 ニーメラーの詩については、以下の2つの記事が興味深い内容だった。

   はてなキーワードの「マルチン・ニーメラー」

   愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt) マルチン・ニーメラーが本当に言ったことと、リベラルな人の嘘

 また、丸山の「現代における人間と政治」については、これをドイツ文学者の西義之(1922-2008)が批判的に取りあげていたことを思い出した。私はこの批判に共感する。
 当ブログの記事
   53年前の「おどかし屋」――特定秘密保護法案騒動と60年安保騒動
を参照。
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共産党は破防法調査対象との答弁を印象操作と批判する大学教授の印象操作

2016-05-13 07:58:35 | 現代日本政治
 前回までの一連の記事で取りあげた、政府が共産党を破防法の調査対象団体としている答弁書について、朝日新聞デジタルが運営しているオピニオンサイト「WEB RONZA」に、小林正弥・千葉大学大学院人文社会科学研究科教授(政治学)による「「左翼」の共産党を「極左」に見せる印象操作」という記事が掲載されていると朝日の紙面で紹介されていた。

 何が「印象操作」なのかと不審に思って、WEB RONZAで4月13日付の当該記事を読んでみた。「共産党は破壊活動を行う政党なのか?」という副題が付いている。
 この小林教授は、共産党が野党統一候補を立てるために独自候補を取り下げる動きを歓迎しているようで、

 これはもちろん、議会政治の中の正当な戦略だ。このような画期的方針を取るのは、危機にある立憲主義を守るためだ、と共産党は説明している。これまで共産党は自党の議席や得票のために実際に当選可能性はなくとも候補者を立て、大局から見れば党利党略だと批判されることもあった。

 筆者自身も、第1次安倍政権の時には「平和への結集」という概念のもとで平和のための統一候補を実現するように主張し、当時の「護憲政党」に対してそのような批判を行った。だから逆に今の共産党の方針は、自党だけの利益よりも立憲主義や民主主義の擁護という大義を優先しているように見える。

 その意味ではこれは、こうした大義のための自己犠牲的な戦略にすら見える。民主主義や立憲主義の観点からはこの歴史的大転換を賞賛することはあっても、これを批判することは難しい。

 そのため、理性的に政治的現実を見れば、今の共産党が「破壊活動」を行って虎視眈々と「暴力革命」を狙っているなどと想像することはできないし、そんなことを言ったら妄想だと一蹴されるだろう。


と述べているが、「印象操作」についての説明は、無料で読める記事前半部にはなかった。有料である後半部にはあるのかもしれないが、購読する意欲をそそられなかった。
 もしかすると、「印象操作」の語はWEB RONZAの編集者が付けたのかもしれない。

 しかし、小林教授の記事には

政府は鈴木貴子衆議院議員(無所属)の質問趣意書に答えて、政府は共産党を「警察庁としては『暴力革命の方針』に変化はないと認識している」という答弁書を閣議決定した(3月22日)。共産党は今でも破壊活動防止法の調査対象団体であり、「共産党が(合法化した)1945年以降、国内で暴力主義的破壊活動を行った疑いがある」と記したという。

 当然ながら、共産党はこれに対して強く反発した。


とあるが、鈴木議員の質問中のこれに関連する箇所は、

四 昭和五十七年四月二十日、第九十六回国会、衆議院地方行政委員会に於いて、警察庁は「ただいまお尋ねの日本共産党につきましては、民青を含めまして、いわゆる敵の出方論に立ちました暴力革命の方針を捨て切っていないと私ども判断しておりますので、警察としましては、警察法に規定されます「公共の安全と秩序を維持する」そういう責務を果たす観点から、日本共産党の動向について重大な関心を払っている」旨答弁されているが、現在も警察庁は、日本共産党は暴力革命の方針を捨て切っていないと認識されているか、見解を求める。

五 昭和二十年八月十五日以後、いわゆる戦後、日本共産党が合法政党となって以降、日本共産党及び関連団体が、日本国内に於いて暴力主義的破壊活動を行った事案があるか確認を求める。(太字は引用者による)


であり、これに対する政府の答弁は、

四について
 警察庁としては、現在においても、御指摘の日本共産党の「いわゆる敵の出方論」に立った「暴力革命の方針」に変更はないものと認識している。

五について
 お尋ねのうち、「関連団体」については、その具体的な範囲が必ずしも明らかではないため、お答えすることは困難であるが、政府としては、日本共産党が、昭和二十年八月十五日以降、日本国内において暴力主義的破壊活動を行った疑いがあるものと認識している。


であるから、四については、従来からの政府見解に変更はないと述べているだけで、「今の共産党が「破壊活動」を行って虎視眈々と「暴力革命」を狙っている」などとは述べていない。
 また、五についても、共産党がかつて暴力主義的破壊活動を行ったことは歴史的事実ではないのだろうか。
 
 小林教授の記事には、

ネガティブ・キャンペーン?

 多くの平和志向の市民たちが安保法「成立」の後で野党共闘の成立を願ったにもかかわらず、民主党―民進党は共産党との連携に消極的で、支持率も上がらなかったから、共産党が「他の野党が国民連合政権構想に同意しないなら独自候補を擁立する」というスタンスをとれば、幅広い野党共闘は実現せず、参院選(ないし衆参同日選)は与党が大勝することになっただろう。

 ところが、驚いたことに共産党は自主的に独自候補擁立を止めて野党統一候補の実現に努めたので、参院一人区でも野党統一候補が勝利する可能性が生じてきた。

 自民党はこれに警戒感を強めており、この時期にあえてこのような異例の閣議決定を行ったのは、共産党に対するネガティブ・キャンペーンの一環だろうとも言われている。


ともあるが、政府がこの答弁書を閣議決定したのは、鈴木貴子衆議院議員から質問主意書の提出があったからだ。
 議員からの質問に対して、従来からの政府見解に変更がなければ、その旨を答弁するのは当然であり、政府の義務でもあろう。何が「異例」で「ネガティブ・キャンペーン」なのか私にはわからない。

 小林教授が、鈴木議員も政府答弁書も述べていない「今の共産党が「破壊活動」を行って虎視眈々と「暴力革命」を狙っているなど」という主張を勝手に「想像」して、それを「妄想だと一蹴」するのは自由だが、政府答弁書の内容がおかしい、共産党が破防法の調査対象団体とされているのは不当であると言うのなら、まずはその理由を具体的に説明すべきではないのだろうか。
 共産党がかつて暴力主義的破壊活動を行ったこと、現在でも暴力革命を否定していないこと、民主集中制をとり続けている以上指導部が暴力革命の方針に転じれば下部組織はそれに無条件で従うようになっていることは、私が前回までの一連の記事で述べたとおりである。
 例えば、現在の共産党はもはや暴力革命とは無縁であるというなら、共産党が綱領や規約のどこでそんなことを述べているのか挙げてもらいたいものだ。

 私は、ネットで多用されるこの「印象操作」という語が嫌いである。定義がよくわからないし、何も「操作」などしていない、単なる主張自体を批判する際にも用いられることがあるからだ。
 しかし、政府答弁書のどこがどうおかしいのかを具体的に指摘せず、共産党がかつて暴力主義的破壊活動を行ったことや現在でも暴力革命を否定していないことに触れずに、選挙目当てのネガティブ・キャンペーンの一環であると断じるこの小林教授の記事の方が、「印象操作」の名にふさわしいのではないかとの読後感を持った。
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共産党の破防法調査対象への抗議を読んで思ったこと(下) 問題は民主集中制にある

2016-05-10 08:35:56 | 日本近現代史
承前

 この一連の記事の「(中) 「敵の出方論」について」で引用したように、政府は、鈴木貴子衆議院議員の質問主意書に対する答弁書で、こう述べている。

 警察庁としては、現在においても、御指摘の日本共産党の「いわゆる敵の出方論」に立った「暴力革命の方針」に変更はないものと認識している。


 そして、共産党が暴力革命を否定していないことは、これまでの記事で説明したとおりである。

 では、仮に共産党が「いわゆる敵の出方論」を否定すれば、共産党は破防法の調査団体ではなくなるのだろうか。
 共産党が、「敵の出方」がどうであれ、一切の暴力を否定し、議会による民主制を堅持すると宣言すれば、公安調査庁は共産党への監視を中止するのだろうか。

 私には、共産党が「敵の出方論」を採るから監視しているというのは、ある種の方便ではないかと思える。
 仮に、共産党が「敵の出方論」の放棄を宣言したとしても、おそらく公安調査庁は共産党への監視をやめないだろうし、やめるべきではないと私は思う。
 その理由は三つある。
 まず、かつて武装闘争を行ったというれっきとした前歴がある以上、その団体が監視対象とされるのは当然だということ。
 次に、共産党が理論的基礎としているマルクス・レーニン主義(近年の彼らは科学的社会主義と呼んでいるが、これは単なる言い換えである)は、元々暴力革命を肯定していること。
 そして、共産党特有の組織原理である民主集中制には、何ら変化が見られないことだ。

 民主集中制とは、ロシア革命を成功させたレーニンが打ち出した共産党の組織原理である。
 コトバンクで「民主集中制」を引くと出てくる、日本大百科全書(ニッポニカ)の加藤哲郎氏による解説中に、次のようにある(引用文中の太字は引用者による。以下同じ)。

共産主義政党および社会主義諸国家において公式の組織原理とされたもので、民主主義的中央集権制ともいう。自由主義的分散主義と官僚主義的集権主義の双方と異なり、民主主義の原則と中央集権主義の原則とを統一したと称される論争的概念。典型的には、スターリン時代の1934年にソ連共産党規約に明記され、各国共産党規約に採用された、〔1〕党の上から下まですべての指導機関の選挙制、〔2〕党組織に対する党機関の定期的報告義務制、〔3〕厳格な党規律と少数者の多数者への服従、〔4〕下級機関および全党員にとっての上級機関の決定の無条件的拘束性、の原則をいうが、その実際の運用にあたっては、「党内民主主義」を制限し、共産主義政党の国民に対する閉鎖性・抑圧性を印象づける現実的機能をも果たした。そのため1989年東欧革命前後に、イタリア、フランス、スペインなどの共産党は民主集中制を放棄して変身をはかった。


 現在の日本共産党規約(2000年11月24日改定)には次のようにある。

第三条 党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織の原則とする。その基本は、つぎのとおりである。
 (一) 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める
 (二) 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である。
 (三) すべての指導機関は、選挙によってつくられる。
 (四) 党内に派閥・分派はつくらない
 (五) 意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。


 これだけを読むと、(四)を除けば、組織としてごく当たり前のことを述べているにすぎないように見える。
 しかし、規約の次の条文を合わせて読んでみると、どうだろうか。

第五条 党員の権利と義務は、つぎのとおりである。
 (一) 市民道徳と社会的道義をまもり、社会にたいする責任をはたす。
 (二) 党の統一と団結に努力し、党に敵対する行為はおこなわない
 (三) 党内で選挙し、選挙される権利がある。
 (四) 党の会議で、党の政策、方針について討論し、提案することができる。
 (五) 党の諸決定を自覚的に実行する。決定に同意できない場合は、自分の意見を保留することができる。その場合も、その決定を実行する。党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない
 (六) 党の会議で、党のいかなる組織や個人にたいしても批判することができる。また、中央委員会にいたるどの機関にたいしても、質問し、意見をのべ、回答をもとめることができる。
 (七) 党大会、中央委員会の決定をすみやかに読了し、党の綱領路線と科学的社会主義の理論の学習につとめる。
 (八) 党の内部問題は、党内で解決する
 (九) 党歴や部署のいかんにかかわらず、党の規約をまもる。
 (十) 自分にたいして処分の決定がなされる場合には、その会議に出席し、意見をのべることができる。


 何やら実に息苦しいものを感じる。
(なお、第五条の(一)で「市民道徳と社会的道義をまも」るとあるが、法律を守るとしていない点が興味深い)

 一見、党外はともかく、党内であれば、党の決定に反対する意見を述べる自由や、その意見を保留する自由が認められており、反対意見を理由に排除されることはないように読める。
 だが、実際にはどうか。

 この一連の記事の「中の3」で述べたように、現在の日本共産党綱領の原型は、宮本顕治書記長の下、1961年の第8回党大会で決定された党綱領である。
 1958年の第7回党大会で、宮本らは綱領と規約を一体化した「党章」の決定を図ったが、党中央に春日庄次郎(1903-1976)ら少数の反対派がおり、大会でも代議員の3分の2以上の賛成が得られなかったため、規約のみを決定し、綱領については持ち越しとなった。
 党内の綱領論争は続いたが、宮本ら主流派が大勢を制し、第8回党大会では綱領反対派の意見表明もなされずに綱領が決定される見通しとなった。
 戦前からの非転向の党幹部である春日庄次郎は、大会を前に離党した。共産党は離党を認めず春日を反党行為者として除名した。

 離党に当たって春日が発表した「日本共産党を離れるにあたっての声明」の中に、民主集中制の問題点をわかりやすく説明していると思われる箇所があるので、引用する(〔〕内は引用者による註)。

三、この誤った路線〔第8回党大会で決定される予定の宮本書記長らの綱領の路線〕にたいする幹部の異常な執着は、党内外の批判・反対をおさえるために党内民主主義を破壊し、いま、第八回党大会を前にして、みずから規約をふみにじり、反対意見の代議員の選出を組織的に排除し、少数意見の中央委員の意見書も発表させず、代議員権の獲得もさまたげ、一方的なやり方で大会を開こうとしています。このような度はずれの幹部独裁は、「下級は上級に無条件に服従し、決定は忠実に実践する」という「組織原則」に、誠実、献身的な党員大衆をしばりつけることによって保証されています。それは幹部が自己の政策・方針をつねに「基本的に正しい」といえば、末端まで「基本的に正しい」とシュプレヒコールする自動連動装置であります。幹部会の方針に批判を加えたり、反対したりするものは、すべて自由主義、分散主義、修正主義、反中央、反党分子として排除されます。これは、いかなる失敗があっても「基本的に正しい」といわせられる、上から下までの自己瞞着、政治的腐敗の体系であります。何月何日までに党員倍加達成、アカハタ何部の拡大、責任買取り制が、下部でどのような危険と困難をよびおこしていようと、幹部会はこの「基本的に正しい」「偉大な成果」の上に自己の権威を高めようとしています。
四、こういう状態の中では、党内民主主義に依拠して、原則的な党内闘争によって事態を改善してゆく余地はほとんどありません。真面目な党員、批判力をもった党員は、上級の圧力によって漸次、面従腹背の二重人格においやられています。だんだん党員は無気力になります。上向きの出世主義がはびこります。「いかなる分派の存在も許さぬ一枚岩の党」の圧力に耐えられないものは脱出します。〔中略〕
五、私は熟慮の結果、離党の道を選びました。現職の統制監査委員会議長が離党を決意するということは非常なことです。私は四十年近い自分の革命経歴の重味におしまかされて、安易につくべきではないと決断しました。私は自己瞞着の体系を破って全党員諸君と共に大胆、卒直〔原文ママ〕に語り合う自由をえたいのです。(日本出版センター編『日本共産党史 -私の証言』日本出版センター、1970、p.327-328)


 民主集中制の「民主」の実態は、こんなものなのだろう。
 春日に限らず、宮本体制確立後、執行部への反対派が党にとどまっているという事例は聞いたことがない。

 共産党は、党員による党首の普通選挙を行ったことがない。自民党の総裁選や、旧民主党の代表選のように、複数の候補者が公然と党首の座を争ったことがない。
 規約第3条に「すべての指導機関は、選挙によってつくられる。」とあるように、選挙は行われている。
 まず、党の最高機関とされている党大会が中央委員会を選出する。中央委員会は幹部会委員と幹部会委員長(党首)、書記局長などを選出する。
 ではその党大会の代議員はどうやって選出されるのかというと、これは中央委員会が決めるのである。
 つまりは、中央の意に沿う人間しか代議員に選出されない。第7回党大会前後のように党中央に反対派がいればいざしらず、党中央が一枚岩であれば満場一致で中央の決定を追認するだけである。
 かつてのソ連共産党、現在の中国共産党、朝鮮労働党が行ってきたことと同じである。

 宮本は1970年に書記長に代わって新設の幹部会委員長(党首)に就任した。新設の書記局長に40歳の不破哲三氏が起用された。不破氏は宮本の後継者と目された。
 1982年には宮本は野坂参三に代わって名誉職的な中央委員会議長に選出され(野坂は新設の名誉議長に就任)、幹部会委員長は不破氏が継いだ。書記局長には労働者出身の金子満広(1924-2016)が就いたが、1990年に党職員で35歳の志位和夫氏に代わった。志位氏は不破氏の後継者と目された。
 2000年に志位氏は幹部会委員長に就任し、不破氏は老齢の宮本を引退させて議長に就いた。2006年には議長も引退し たが常任幹部会にはとどまっている。志位氏はその後現在まで幹部会委員長を務めている。
 この間党勢は様々に推移した。しかし、党勢が低迷した時期に、党内で宮本や不破氏や志位氏の責任が問われることは全くなかった。何故、経験豊富な他の幹部ではなく、若手の不破氏や志位氏が後継者候補なのか、その説明もなかった。
 同じ左翼政党であり、衰退が著しい社民党ですら、福島瑞穂の党首辞任に際しては選挙が行われた。
 わが国の政党で、党首の人事がブラックボックスと化しているのは共産党と公明党ぐらいのものである。

 春日が言うように、「下級は上級に無条件に服従し、決定は忠実に実践する」のが民主集中制の本質である。
 だから、米軍占領下での平和革命が可能だなどという珍論を執行部が唱えれば下級党員はそれに従う。
 そして、執行部より「上級」のコミンフォルムから平和革命論を批判されれば、執行部はそれに従い、下級党員もまたそれに従う。
 朝鮮戦争が始まり、執行部の主流派が地下に潜行して武装闘争路線を採ると、下級党員もまたそれに従う。
 執行部の主流派と反主流派が逆転して、武装闘争は戦術的誤りだったと批判すると、下級はこれまた従う。
 新たな主流派となった宮本らが新綱領を定めると、それにも従う。
 やがて執行部がソフト路線に転じて、「自由と民主主義の宣言」を打ち出したり、天皇制や自衛隊の廃止を明言しなくなったりしても、それに従う。
 「上級」から何を言われても、「下級」はただただそれに従う。それが共産党である。そうでない人間は排除されてきた。
 個々の議員が議会政治を前提に結成し、離合集散を経てきた、自民党や民進党といった諸政党とは異質な存在なのである(公明党は、共産党に類似している。ただ、公明党に武装闘争の前歴はない)。

 ならば 執行部が再び武装闘争を実行する条件が整ったと判断すれば、執行部はそれを指示し、下級党員はやはり無条件にそれに従うのではないか。
 この疑念が、日本共産党が現在でも破防法における監視対象とされている最大の理由だろう。

 レーニンが民主集中制を採用したのは、帝政ロシアを打倒し、白衛軍との内戦を経て共産党政権を建設するためには、徹底した上意下達に基づいた軍事的な党組織が必要だったからだろう。暴力革命を前提としていたからだろう。
 しかし、前回の記事でも述べたとおり、日本共産党はこんにち「議会の多数を得て社会変革を進める」と標榜している。
 ならば、民主集中制に固執する必要はないはずである。

 上で引用した日本大百科全書の記事にあるように、イタリア、フランス、スペインの共産党は、既に民主集中制を放棄している。
 この3国の共産党は、1970年代に、ソ連型の社会主義建設を批判し、議会主義による社会主義への移行や複数政党制の容認などを主張し、その動きは 「ユーロコミュニズム」と呼ばれた。
 70年代に民主連合政府構想や「自由と民主主義の宣言」を打ち出した日本共産党もこれに類するものだとして、「ユーロ・ニッポ・コミュニズム」という呼称もあった。

 それから40年ほど経つというのに、未だに日本共産党だけが民主集中制に固執している。何故だろうか。
 ソ連や東欧の共産党政権崩壊後も、中国や北朝鮮、ベトナムにまだ共産党政権が残っていることに象徴されるように、アジア的な後進性の現れなのだろうかとさえ思える。

 イタリア共産党は、西欧諸国の中では特に有力な共産党であったが、冷戦期には政権から排除されていた。トリアッティ書記長の下でいわゆる構造改革路線を採用し、早くからソ連型社会主義と異なる独自の立場をとっていた。
 1989年に民主集中制を放棄したが、さらに1991年には党を解散し、主流派は「左翼民主党」を、左派は「共産主義再建党」を結成した。両党は1996年の総選挙でプロディ元産業復興公社総裁率いる中道左派連合「オリーブの木」に参加し、勝利した。左翼民主党のダレーマ書記長は1998年プロディに代わって首相に就き、約1年半務めた。
 左翼民主党は1998年に「左翼民主主義者」と改称し、さらに2007年、中道左派政党「マルゲリータ」(旧キリスト教民主党左派の流れをくむ)と共に新党「民主党」を結成した。
 民主党は中道左派連合の中核となり、2013年の総選挙で勝利し、民主党のレッタ、続いてレンツィが首相に就任した。現在のレンツィ内閣の閣僚をウィキペディアで確認したところ、国防相(女性)や司法相は元々共産党出身のようである。

 今、イタリア共産党の歴史を確認してみて、彼我の違いに愕然とした。
 イタリアとわが国では政治の歴史も選挙制度も政党の構成もまるで違うので、イタリアで成功したからといってわが国でも民主集中制を放棄すれば連合政権を樹立できるなどと言うつもりはない。やはり民主集中制を放棄したフランスやスペインの共産党は低迷しているようであるし。
 しかし、半世紀以上も前に決定された綱領の路線を後生大事に抱えつづけ、「確かな野党」の座に安住しつづける政党に、未来があるとも思えない。
 そして、日本共産党がそうした集団であり続けることは、わが国の一党優位体制を補完しているという点で、わが国にとって不幸なことだと思う。

(完)
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共産党の破防法調査対象への抗議を読んで思ったこと(中の4) 「議会の多数を得ての革命」は明確か

2016-04-18 08:40:30 | Weblog
承前

 先日の、共産党は破防法の調査対象であると述べた政府の答弁書を批判したしんぶん赤旗の記事「「議会の多数を得ての革命」の路線は明瞭/政府の「暴力革命」答弁書は悪質なデマ 」にはこうあった(太字は引用者による。以下同じ)。

 
日本共産党の綱領には、「『国民が主人公』を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する」こと、さらに将来の社会主義的変革についても、「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」をつくるのをはじめ、「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」ことを明らかにしています。

 「議会の多数を得て社会変革を進める」――これが日本共産党の一貫した方針であり、「暴力革命」など縁もゆかりもないことは、わが党の綱領や方針をまじめに読めばあまりに明瞭なことです。

〔中略〕

 日本共産党が綱領路線を確立した1961年の第8回党大会では、日本の社会と政治のどのような変革も、「国会で安定した過半数」を得て実現することをめざすことを綱領上も明確にしました。これは外国の干渉者たちが押しつけてきた武装闘争方針を排除したことを綱領上はっきり表明したものでした。


 では、綱領を真面目に読んでみるとしよう。
 前回も述べたとおり、宮本顕治書記長の下、1961年の第8回党大会で、綱領草案が満場一致で決定された。ここではこれを仮に61年綱領と呼ぶが、この路線が基本的には現在まで続いている。ただ、社会情勢の変化に応じて何度か改定されており、現在の綱領は2004年の第23回党大会で改定されたものである。これを以下現綱領と呼ぶ。

 現綱領では、「社会変革」はどのように進めるとされているだろうか。
 
四、民主主義革命と民主連合政府

 (一一)現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破―日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。それらは、資本主義の枠内で可能な民主的改革であるが、日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる。この民主的改革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開くものである。


 いわゆる二段階革命論である。
 マルクス=レーニン主義では、絶対王政をブルジョア民主主義革命が打倒してブルジョア階級を支配階級とする資本主義体制が打ち立てられ、さらに労働者階級(プロレタリア)がこれをプロレタリア社会主義革命によって打倒して社会主義体制をうち立てるとされた。
 1920年代から30年代にかけて、わが国のマルクス主義者の間で、わが国の現状規定と目指すべき革命の在り方をめぐって、日本資本主義論争と呼ばれる論争があった。天皇制を絶対王政とみなして、これを打倒するブルジョア民主主義革命がまず必要だとする立場が二段階革命論、天皇制の下でも既にわが国は資本主義体制であり、必要なのは社会主義革命であるとするのが一段階革命論である。前者はコミンテルンから指令された日本共産党の理論でもあり、後者は山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄ら、初期の日本共産党には参加したが後に袂を分かったマルクス主義者が提唱し、戦後に社会党左派に継承された。
 それから90年ほど経ち、わが国がいわゆる先進国入りして半世紀が経つというのに、未だに二段階革命論を後生大事に抱え込んでいる。

 (一二)現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容は、次のとおりである。

〔中略〕

 〔憲法と民主主義の分野で〕

1 現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす。

2 国会を名実ともに最高機関とする議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する。


 「国会を名実ともに最高機関とする」と聞いて私が連想するのは、かつてのソ連のソビエト制度である。
 ソビエトとは会議の意味であり、ソ連では市や村から州、地方、共和国にそれぞれソビエトが設けられ、トップに連邦の最高ソビエトがあったが、これは西側諸国のような単なる議会ではなく、全ての権力がソビエトに集中するとされた。最高ソビエトは閣僚会議(内閣)メンバーを選出し、また最高裁判所の長官や裁判官を選出した。最高ソビエトは年に2回、二三日しか開かれないため、常設の最高ソビエト幹部会が事実上の最高機関であり、その幹部会議長が対外的には国家元首として扱われた。
 しかし、真の権力は共産党にあり、ソビエトは共産党の決定を追認する形式的な存在でしかなかった。
 現在の中国でも全国人民代表大会が、北朝鮮でも最高人民会議が、それぞれ憲法で最高機関とされている。これらもまた最高ソビエトと同様の存在であることは言うまでもない。

 複数政党制を認めるとあるが、中国や北朝鮮でも複数政党は認められている。ただ、共産党(北朝鮮では労働党)の指導の下では、何ら実質的には政治に関与することができないだけである。
 政権交代制も当然堅持するとしているが、制度として存在することと実質的に機能することとは異なる。中国や北朝鮮のように、政権党以外の政党が選挙で多数を占めることが実情として有り得ない場合でも、制度としては政権交代が可能とされているということにはならないか。

 (一三)民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって、実現される。統一戦線は、反動的党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。

 日本共産党は、国民的な共同と団結をめざすこの運動で、先頭にたって推進する役割を果たさなければならない。日本共産党が、高い政治的、理論的な力量と、労働者をはじめ国民諸階層と広く深く結びついた強大な組織力をもって発展することは、統一戦線の発展のための決定的な条件となる。

 日本共産党と統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席を占め、国会外の運動と結びついてたたかうことは、国民の要求の実現にとっても、また変革の事業の前進にとっても、重要である

 日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。日本共産党は、「国民が主人公」を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する

 統一戦線の発展の過程では、民主的改革の内容の主要点のすべてではないが、いくつかの目標では一致し、その一致点にもとづく統一戦線の条件が生まれるという場合も起こりうる。党は、その場合でも、その共同が国民の利益にこたえ、現在の反動支配を打破してゆくのに役立つかぎり、さしあたって一致できる目標の範囲で統一戦線を形成し、統一戦線の政府をつくるために力をつくす。

 また、全国各地で革新・民主の自治体を確立することは、その地方・地域の住民の要求実現の柱となると同時に、国政における民主的革新的な流れを前進させるうえでも、重要な力となる。

 民主連合政府の樹立は、国民多数の支持にもとづき、独占資本主義と対米従属の体制を代表する支配勢力の妨害や抵抗を打ち破るたたかいを通じて達成できる。対日支配の存続に固執するアメリカの支配勢力の妨害の動きも、もちろん、軽視することはできない。

 このたたかいは、政府の樹立をもって終わるものではない。引き続く前進のなかで、民主勢力の統一と国民的なたたかいを基礎に、統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手となることが、重要な意義をもってくる。

 民主連合政府は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など国民諸階層・諸団体の民主連合に基盤をおき、日本の真の独立の回復と民主主義的変革を実行することによって、日本の新しい進路を開く任務をもった政権である。


「日本共産党は、国民的な共同と団結をめざすこの運動で、先頭にたって推進する役割を果たさなければならない」
 これは、いわゆる革命の前衛ということである。平易な言葉に書き直しているが、実質的な意味は変わっていない。

「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。日本共産党は、「国民が主人公」を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する。」
 なるほど議会主義を主張している。
 国会で安定した過半数を占める「ならば」、確かに民主連合政府をつくることができるだろう。
 しかし、この道しかないとは言っていない。あくまで、こういう手段もあるという主張である。
 その前には「国会外の運動と結びついてたたかうこと」も「重要」だとしている。
 「国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占め」られないときはどうするのか、何も語っていない。常に国会で安定した過半数を占めるよう努力するとは言わない。
 何故なら、前回の記事でも述べたように、「敵の出方論」とは、そもそも自らの手をしばる必要はないという主張だからだ。
 暴力の行使も含めた、フリーハンドを保持しておくべきだということだからだ。

 そして、現綱領は
「このたたかいは、政府の樹立をもって終わるものではない」
とし、
「統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手となることが、重要な意義をもってくる」
としている。 
 これはつまり、行政の諸機構の革命化を指しているのではないだろうか。
 その時その時の政府に行政機構が従うのではなく、行政機構自体が共産党の意向に従ったものに作り変えられるということではないだろうか。

 「日本共産党と統一戦線」の勢力が、「国会で安定した過半数を占め」れば、民主連合政府が成立するのだろう。
 しかし、その勢力が国会で過半数を失い、他の勢力が過半数を占めた場合、「日本共産党と統一戦線」はおとなしく政権を譲り渡すのだろうか。綱領には何も記されていない。
 先に、複数政党制や政権交代制は当然堅持するとしている箇所を挙げたが、これは「現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容」の一つにすぎない。
 「統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手とな」ってからも、こんにちのような複数政党制や政権交代制が堅持されるのか、私には非常に疑問だ。
 中国や北朝鮮にも複数の政党があり、国民の圧倒的多数の「支持」により現政権が維持されていることを思い起こしていただきたい。

 なお、61年綱領では、統一戦線の政府について次のように書かれている。

党と労働者階級の指導的役割が十分に発揮されて、アメリカ帝国主義と日本独占資本に反対する強大な民族民主統一戦線が発展し、反民族的・反人民的勢力を敗北させるならば、そのうえにたつ民族民主統一戦線政府は革命の政府となり、わが国の独占貿本を中心とする売国的反動支配をたおし、わが国からアメリカ帝国主義をおいはらって、主権を回復し人民の手に権力をにぎることができる。労働者、農民を中心とする人民の民主連合独裁の性格をもつこの権力は、世界の平和、民主主義、社会主義の勢力と連帯して独立と民主主義の任務をなしとげ、独占資本の政治的経済的支配の復活を阻止し、君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して人民共和国をつくり名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する

 独立・民主・平和日本の建設によって、日本人民の歴史は根本的に転換する。日本人民は、アメリカ帝国主義と日本独占資本の抑圧、戦争政策、収奪から解放され、はじめて国の主人となる。あたらしい人民の民主主義とその制度は、労働者階級をはじめ農民、一般勤労者、祖国の自主的発展と平和、人民の自由をねがうすべての人びとが、国の政治に積極的に参加する道を保障する。民族の威信と自由は回復され、日本は侵略戦争の温床であることをやめ、アジアと世界の平和の強固ないしずえの一つとなる。日本の経済と文化は、各国との平等・互恵の交流をつうじて繁栄し、人民の生活は向上する。

 独占資本主義の段階にあるわが国の当面の革命はそれ自体社会主義的変革への移行の基礎をきりひらく任務をもつものであり、それは、資本主義制度の全体的な廃止をめざす社会主義的変革に急速にひきつづき発展させなくてはならない。すなわちそれは、独立と民主主義の任務を中心とする革命から連続的に社会主義革命に発展する必然性をもっている


 こちらが彼らの本音なのではないだろうか。

 そして、民主主義革命に続く社会主義革命について、現綱領は次のように述べている。

五、社会主義・共産主義の社会をめざして

 (一五)日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革が、課題となる。これまでの世界では、資本主義時代の高度な経済的・社会的な達成を踏まえて、社会主義的変革に本格的に取り組んだ経験はなかった。発達した資本主義の国での社会主義・共産主義への前進をめざす取り組みは、二一世紀の新しい世界史的な課題である。

 社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される。

 生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす。

 生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の構成員の物質的精神的な生活の発展に移し、経済の計画的な運営によって、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする。

 生産手段の社会化は、経済を利潤第一主義の狭い枠組から解放することによって、人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的な発展の条件をつくりだす。

 社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。「搾取の自由」は制限され、改革の前進のなかで廃止をめざす。搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、「国民が主人公」という民主主義の理念は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、社会的な現実となる。

 さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。「社会主義」の名のもとに、特定の政党に「指導」政党としての特権を与えたり、特定の世界観を「国定の哲学」と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけられる。

 社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる。

 人類は、こうして、本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる。


 「生産手段の社会化」によって様々な問題が解決され、人間社会は新たな段階に発展するらしい。まるで魔法のステッキのようだ。
 ではその「生産手段の社会化」とは具体的に何を指すのか。旧ソ連や現北朝鮮の国営企業や協同農場とどう違うのか。現綱領ではまるで明らかではない。

 61年綱領を見てみると、社会主義社会は次のように描かれている。

日本人民の真の自由と幸福は、社会主義の建設をつうじてのみ実現される。資本主義制度にもとづくいっさいの搾取からの解放、まずしさからの最後的な解放を保障するものは、労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立、生産手段の社会化、生産力のゆたかな発展をもたらす社会主義的な計画経済である。党は、社会主義建設の方向を支持するすべての党派や人びとと協力し、勤労農民および都市勤労市民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ納得をつうじ、かれらを社会主義社会へみちびくように努力する。


・プロレタリアート独裁の確立
・生産手段の社会化
・社会主義的な計画経済
こそが社会主義であるとしている。ソ連が宇宙開発競争で米国に先行し、まだ社会主義体制の優位性にそれほど疑問が持たれていなかった1961年という時代を考えれば、当然の規定だろう。
 しかしその後、プロレタリアート独裁とはただの共産党幹部による独裁であり、計画経済も市場経済に劣ることが広く明らかになったため、これらを目指すとはさすがに言えなくなった。
 そこで、「生産手段の社会化」だけが残ったということではないのか。

 (一六)社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程である。

 その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる。

 日本共産党は、社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する統一戦線政策を堅持し、勤労市民、農漁民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ、社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進むよう努力する

 日本における社会主義への道は、多くの新しい諸問題を、日本国民の英知と創意によって解決しながら進む新たな挑戦と開拓の過程となる。日本共産党は、そのなかで、次の諸点にとくに注意を向け、その立場をまもりぬく。

 (1)生産手段の社会化は、その所有・管理・運営が、情勢と条件に応じて多様な形態をとりうるものであり、日本社会にふさわしい独自の形態の探究が重要であるが、生産者が主役という社会主義の原則を踏みはずしてはならない。「国有化」や「集団化」の看板で、生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない

 (2)市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。社会主義的改革の推進にあたっては、計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営、農漁業・中小商工業など私的な発意の尊重などの努力と探究が重要である。国民の消費生活を統制したり画一化したりするいわゆる「統制経済」は、社会主義・共産主義の日本の経済生活では全面的に否定される


 「生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない」と言うが、再現させないためにはどうするのか。
 それなしに、単に再現させてはならないとだけ語ったところで、何の保証になるだろうか。
 武装闘争路線を放棄すると言わずに、六全協で「極左冒険主義」と手を切ると宣言したから解決済みだとする姿勢と同じである。

 「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である」とも言うが、中国が社会主義的市場経済と言いだしてから20年以上経ち、その間の経済成長には著しいものがあったが、かの国で社会主義的改革が推進されていると日本共産党は見るのだろうか。

 それから、
「日本共産党は、社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する統一戦線政策を堅持し、勤労市民、農漁民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ、社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進むよう努力する
とあるが、「努力する」とはどういう言い草だろうか。何故「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」と明言しないのか。
 それは、「努力」したけれども「社会の多数の人びとの納得と支持」が得られなかった場合、それらを欠いての「社会主義的改革の道を進む」ことが有り得るからではないか。
 何とも不気味な文章である。
 なお、冒頭で引用したしんぶん赤旗の記事は、この箇所を

「さらに将来の社会主義的変革についても、「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」をつくるのをはじめ、「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」ことを明らかにしています。」

と「よう努力する」をカットして引用している。
 まあ、共産党のやることなんて、こんなもんですよ。

 ちなみにこの箇所は、61年綱領では次のようになっている。

党は、社会主義建設の方向を支持するすべての党派や人びとと協力し、勤労農民および都市勤労市民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ納得をつうじ、かれらを社会主義社会へみちびくように努力する。


 元々は「納得」は「勤労農民および都市勤労市民、中小企業家」に要求されるものだった。それが「社会の多数の人びとの納得と支持」に変えられたのは、おそらくは共産党が一方的に「納得」を強いるのではないと強調したかったのだろうが、かえって恐ろしい表現になっている。

 さて、現綱領は
「社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程」
と言うが、
「その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる」
とあるから、「国会の安定した過半数」は「出発点」でしかない。
 そしてまた「社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成」とあるから、読みようによっては、社会主義・共産主義への前進を支持しない国民を排除した上で、支持する国民を多数派として合意を形成するとも読める。

 その後も社会主義的変革の「すべての段階で、国民の合意が前提となる」と言うが、それが国会の過半数を意味するのかどうかは明確でない。議会制度を維持するのかどうかすらわからない。暴力革命であってもそれが「国民の合意」であればかまわないということではないか。

 また、仮に国会の過半数であれば民主的なのだろうか。
 かつてのソ連の最高ソビエト、現在の中国の全人代や北朝鮮の最高人民会議でも、さまざまな事柄が当然過半数の賛成で決定された。
 統一戦線下の国会の過半数が、今の過半数と同じものである保証はどこにもない。
 行政機構を「新しい国民的な諸政策の担い手」として変革するのであるから、それが反対派の国民への弾圧の道具として用いられることはないのか。

 本記事の冒頭で引用したしんぷん赤旗の記事には、

 
日本共産党の綱領には、「『国民が主人公』を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する」こと、さらに将来の社会主義的変革についても、「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」をつくるのをはじめ、「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」ことを明らかにしています。

 「議会の多数を得て社会変革を進める」――これが日本共産党の一貫した方針であり、「暴力革命」など縁もゆかりもないことは、わが党の綱領や方針をまじめに読めばあまりに明瞭なことです。


とあったが、確かに現綱領には
「国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する」
とはあるが、それのみが民主主義革命の方策であるとは述べていない、つまり暴力革命を否定していないし、将来の社会主義的変革についても、
「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」
をつくるとはあるが、それは「出発点」であって、その後の変革については
「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」
とあるだけで、国会はどうなるのか、「納得と支持」とは実際の共産党政権の国々とどう異なるのか、全く明らかでない。
 したがって、
「「議会の多数を得て社会変革を進める」――これが日本共産党の一貫した方針であり、「暴力革命」など縁もゆかりもない」
とはまるで言えないだろう。

 また、同じしんぶん赤旗の記事には、

 1961年の第8回党大会では、日本の社会と政治のどのような変革も、「国会で安定した過半数」を得て実現することをめざすことを綱領上も明確にしました。これは外国の干渉者たちが押しつけてきた武装闘争方針を排除したことを綱領上はっきり表明したものでした。


ともあったが、61年綱領を見てみると、「国会」が出てくるのは次の5箇所で、

 この闘争において党と労働者階級の指導する民族民主統一戦線勢力が積極的に国会の議席をしめ、国会外の大衆闘争とむすびついてたたかうことは、重要である。国会で安定した過半数をしめることができるならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ、革命の条件をさらに有利にすることができる。

〔中略〕

 党と労働者階級の指導的役割が十分に発揮されて、アメリカ帝国主義と日本独占資本に反対する強大な民族民主統一戦線が発展し、反民族的・反人民的勢力を敗北させるならば、そのうえにたつ民族民主統一戦線政府は革命の政府となり、わが国の独占貿本を中心とする売国的反動支配をたおし、わが国からアメリカ帝国主義をおいはらって、主権を回復し人民の手に権力をにぎることができる。労働者、農民を中心とする人民の民主連合独裁の性格をもつこの権力は、世界の平和、民主主義、社会主義の勢力と連帯して独立と民主主義の任務をなしとげ、独占資本の政治的経済的支配の復活を阻止し、君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して人民共和国をつくり、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する。


現綱領と同様、「国会で安定した過半数をしめることができるならば、……革命の条件をさらに有利にすることができる」
というだけで、
「どのような変革も、「国会で安定した過半数」を得て実現することをめざす」
なんて全く言っていない。

 いったい、「悪質なデマ」を飛ばしているのは誰なのだろうか。

 しんぶん赤旗の記事は

「議会の多数を得て社会変革を進める」――これが日本共産党の一貫した方針であり、「暴力革命」など縁もゆかりもないことは、わが党の綱領や方針をまじめに読めばあまりに明瞭なことです。


と述べていたが、綱領を真面目に読んでみて、「議会の多数を得て社会変革を進める」が日本共産党の一貫した方針とはとても思えないし、「暴力革命」を未だ否定していないのは「あまりに明瞭なこと」だとよくわかった。

続く
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共産党の破防法調査対象への抗議を読んで思ったこと(中の3) 武装闘争路線は「きっぱり否定された」か

2016-04-11 08:52:09 | 日本近現代史
承前

 前回述べたとおり、日本共産党の六全協(第6回全国協議会)の決議は、「極左冒険主義」を「戦術上の」誤りとし、「はっきり手をきる」としたが、武装闘争路線を導いた51年綱領については、否定するどころか「すべての規定が、完全に正しい」とし、この綱領を実現することが党の任務だとするものだった。

 ところで、先日の、共産党は破防法の調査対象であると述べた政府の答弁書を批判したしんぶん赤旗の記事「「議会の多数を得ての革命」の路線は明瞭/政府の「暴力革命」答弁書は悪質なデマ 」にはこうあった(太字は引用者による。以下同じ)。

 1950年から55年にかけて、徳田球一、野坂参三らによって日本共産党中央委員会が解体され党が分裂した時代に、中国に亡命した徳田・野坂派が、旧ソ連や中国の言いなりになって外国仕込みの武装闘争路線を日本に持ち込んだことがあります

 しかし、それは党が分裂した時期の一方の側の行動であって、1958年の第7回党大会で党が統一を回復したさいに明確に批判され、きっぱり否定された問題です。


 では、六全協から3年後の1958年に開かれた第7回党大会では、武装闘争路線は「明確に批判され、きっぱり否定された」のだろうか。

 第7回党大会に関する文書を確認してみた。

 「日本共産党第7回大会にたいする中央委員会の政治報告」という文書がある。報告者は野坂参三第一書記であるが、「中央委員会の政治報告」とあるから中央委員会で承認されたものだし、この報告は党大会で採択されたので、「党が統一を回復したさい」の党の正式な見解である。

 この報告は、いわゆる50年分裂後の情勢について、次のように説明している(〔 〕内は引用者による註。以下同じ)。

 一九五〇年一月初めに、「恒久平和のために、人民民主主義のために」紙〔コミンフォルム――ソ連とヨーロッパの共産党の国際組織――の機関紙〕上に「日本の情勢について」という論評が発表された。それはこれまでのわが党の指導方針のなかにあった右翼日和見主義的傾向にたいする適切な批評であり、助言であった〔共産党幹部野坂参三の、米軍を解放軍とし、占領下における平和革命を可能とする見方を批判した〕。「論評」を契機として、党は、全党の意志の統一と固い団結のもとに、党の戦略方針を正しく確立する重大な任務に直面した。
 このもっとも重要な期間に、党内の意見の対立が表面化し党の団結を保証することに失敗した。
 一月十二日政治局は『日本の情勢について』にかんする「所感」を発表した。その内容は、国際批判の提起している問題点を戦略上の問題として正しく理解せず、誤りを犯す結果になった〔野坂の主張に誤りはあったが実践で克服済みだと反論した〕。その際、二名の政治局員〔志賀義雄と宮本顕治〕が「所感」に反対し、ついで三名の書記局員〔亀山幸三、春日庄次郎、袴田里見〕が反対した。「論評」をめぐる論争のなかで「所感」に反対するものが増加した〔人民日報も「論評」に同調したため、まだソ連や中共の影響下にあった党は動揺した〕。
〔中略〕
 「所感」は撤回される結果となったが、「所感」の処理についての明確な決定と率直な自己批判がなされなかったために、「論評」と「所感」にたいする基本的態度の問題をめぐって党内の対立が拡大した。〔中略〕
 四月末にひらかれた第十九回中央委員会総会は、〔中略〕アメリカ帝国主義が党を非合法化する意図が明らかになった事態に対処して、全政治局員をはじめ全党員が一致団結してこれとたたかうことを決意した。
 ところがその直後、政治局の多数は十九中総の決定と党の規約を無視して、「所感」に反対する同志たちを除外して、非合法体制の準備をすすめた。〔中略〕
 六月六日、わが党の中央委員にたいするマッカーサーの公職追放令がだされた。翌七日にはアカハタ編集部員十七名が追放された。この弾圧にたいして政治局の多数は、この命令の執行には二十日の猶余があったにもかかわらず、その間に政治局や中央委員会を開き意志の統一によって、これと断固としてたたかう処置をとらずに、意見を異にする七人の中央委員を排除して、一方的に非合法体制に移行した。六月七日に臨時中央指導部が任命され、「中央委員の追放にともない、中央委員会の機能は実質上停止のやむなきにいたった」との声明がだされた。これによって第六回大会で選出された中央委員会は統一的機能を失い、事実上解体されてしまった。このことは重大な誤りである。
 〔中略〕七名の中央委員は、このような事態にあたって、中央委員としての責任において、中央委員会および全党の原則的統一のためにたたかうという基本的な立場から事態を収集〔原文ママ〕するために協議した。その結果、〔中略〕十余の府県組織といくつかの大衆団体グループをその指導下に結集し、公然機関として全国統一委員会をつくった。
 九月三日、中国共産党機関紙「人民日報」は、「今こそ団結して敵に当るべきときである」という社説を発表した。九月十一日、全国統一委員会は、臨中〔臨時中央指導部〕に統一を申し入れた。十月三十日には、統一委員会は、中央委員会を統一するという原則に立って統一の実現を促進するという配慮のもとに、みずからその組織を解消する措置をとった。そして、中央委員会、政治局の機能の回復をかさねて提案したが、臨中側は、中央委員会の解体その他の既成事実の承認という建前からこれを拒否した。
 〔中略〕分裂状態のもとで、一九五一年二月、第四回全国協議会がひらかれた。四全協は〔中略〕極左冒険主義的政策をうちだすとともに「スパイ分派の粉砕」、「中道派との闘争」として、統一を主張していた同志たちへの闘争を強調した。四全協は、党が組織的に分裂している状態のもとで一方的にひらかれたもので、正常なものではなかった。それは〔中略〕党の分裂状態を決定的に固定化した。統一を主張していた中央委員たちは〔中略〕公然機関を再建して全国統一会議を組織する方向にすすんだ。こうして〔中略〕両者のあいだにはげしい批判と攻撃がつづけられた。
〔中略〕二つの組織が公然と対立抗争する党の分裂状態は、大衆の不信と批判をうけ、党勢力は急速に減退した。
 このような事態のもとで、四全協指導部の間に従来からの戦略や指導上の誤りが自己批判されはじめた。これらのことが分裂した双方のなかに統一への機運をつくりだし、両者の統一のための話し合いもすすんでいった。八月十四日のモスクワ放送〔コミンフォルムが徳田書記長ら主流派を支持〕を契機として、全国統一会議の結成を準備していた中央委員たちは下部組織を解体して、臨中のもとに統一する方向にすすんだ。
 だが、四全協指導部は、これらの組織に属していた人びとに、分派としての自己批判を要求し、そのため復帰も順調に進まなかった。このような態度は基本的には六全協にいたるまで克服されず、党内問題の解決をおくらせる主要な原因となった。
 一九五一年十月にひらかれた第五回全国協議会も、党の分裂状態を実質的に解決していない状態のなかでひらかれたもので不正常なものであることをまぬがれなかったが、ともかくも一本化された党の会議であった。(思想運動研究所編『日本共産党事典(資料編)』全貌社、1978、p.449-452)

 
 五全協を、分裂状態が実質的に解決していないとしながらも、「ともかくも一本化された党の会議であった」と評価している。
 私はこれまで、前回の記事で引用した不破哲三氏の発言のように、四全協も五全協も共に「分裂した一方の側の会議」だと思っていたが、どうも違うようだ。
 調べてみると、この1951年には、四全協後に「国際派」の志賀義雄が自己批判して主流派に復帰したり、「所感派」である北京の徳田球一や臨中議長の椎野悦朗が自己批判したり、「国際派」が分裂したり、徳田(所感派)と袴田里見(国際派)がモスクワに赴き、スターリンが徳田を支持して袴田は自己批判し主流派入りするといったさまざまな出来事があり、単純な分裂ではなく、複雑な状態であったらしい。
 特に、政治報告も触れているモスクワ放送でソ連の徳田支持が明確になってからは、「国際派」は腰砕けとなり、主流派への復帰への動きが進んだらしい。
 だから、五全協を「ともかくも一本化された党の会議であった」と表現しているのだろう。
 ならば、五全協で決定された51年綱領に基づく武装闘争路線については、「分裂した時期の一方の側の行動」として切り捨ててはいられないはずだが……。

 前回の記事でも述べたように、平成元年2月18日の衆議院予算委員会での石山陽・公安調査庁長官の答弁には、

昭和二十六年に四全協、五全協という当時の党大会にかわるべき執行部機関による会合が行われて、有名な軍事方針が決定され、それが五全協、六全協へと引き継がれてまいりましたが、六全協でいわゆる極左冒険主義の反省が行われたわけであります。その際に、当時の決定によりますれば、五全協の軍事方針の決定については、一応、極左冒険主義はいかぬけれども、全体としては、これは当時の主流派、反主流派によって十分意見の統一によって行われたものだ、簡単に申し上げますれば、そのような趣旨が行われておりますので、単純な分派活動による一部のはね上がりだけがやったというふうな認定を実は私どもはしておらないわけでございます。


とあり、不破氏に否定されているのだが、この「全体としては、これは当時の主流派、反主流派によって十分意見の統一によって行われたもの」というのは、もしかすると、この第7回党大会の政治報告と六全協の決議を混同していたのかもしれない。

 さて、中央委員会の政治報告はこう続く。

 五全協で「日本共産党の当面の要求――新綱領」〔51年綱領〕が採択され発表された。〔中略〕この綱領には若干の重要な問題についてあやまりをふくんでいたが、しかし、多くの人びとに深い感銘をあたえ、かれらのたたかいを鼓舞し、激励した。
 この方針にもとづいて、党は、アメリカ帝国主義と日本の反動勢力にたいするたたかいを積極的にすすめた。〔中略〕
 以上にのべたような党活動における積極的な面はあるが、しかし、六全協にいたるこの期間に、党は、極左日和見主義とセクト主義の方針と戦術をとるという重大なあやまりをおかした。(前掲『日本共産党事典(資料編)』、p.452)


 続いて、誤りの原因を多々並べ立て、中でも徳田球一による家父長的個人指導を強調し、伊藤律、志田重男、椎野悦朗といった指導者を名指しで批判している。
 しかし、その誤りの具体的な内容には触れていない。軍事方針や武装闘争、山村工作隊や中核自衛隊、火炎びん闘争といった言葉は全く出てこない。

 そして、51年綱領については、

 六全協の決議は、全体として党の前進に積極的な役割を果たしたにもかかわらず、五一年綱領が完全に正しいと規定した。しかし、その後の党活動によって、五一年綱領にあやまりのあることが明らかになった。中央委員会はすでにその主要点を発表したが、そのあやまりから生まれた党の政治方針の不正確さは、党活動にいろいろな矛盾や動揺、停滞を生んだ。したがって、党中央委員会は、この綱領の改訂を提案する。これが本大会の主要議題の一つである。
〔中略〕
 過去十年の間、党は曲折のある道を歩んできた。とくに、六全協前の数年間には、党の分裂、極左冒険主義等々の重大な誤りをおかした。六全協によって党は、これらの誤りの根本原因を明らかにし、党内の家父長的個人中心主義をのぞきさり、党の団結の基礎をつくり、大衆との結びつきの強化に一歩前進した。しかし、〔中略〕その成果はまだ十分ではない。
 この政治報告では、新しい情勢にもとづく党活動の方針を確立するという任務とともに、党内にある主要な弱点や欠陥を明らかにし、その克服のための具体的方策を提起した。〔中略〕
 第一に、不正確と誤りをもっていた「五一綱領」をあらためて、全党員の積極的な参加のもとに、日本の現実に適応した正しい戦略と戦術の基準を規定した「党章」草案を、われわれはつくりあげている。この草案をめぐる討論の成果を生かして全党の意志を統一し、全党が確信をもって前進することのできるような綱領をつくりあげよう。(前掲『日本共産党事典(資料編)』、p.458及びp.472)


と、六全協とはうってかわって誤りがあったことを認め、これに変わる「党章」草案を呈示するとしている。

 この「党章」とは、綱領と規約を合わせたもので、この第7回党大会後に書記長に選出される宮本顕治の主導により草案が作成され、既に前年に公表されていた。
 宮本らは、この党大会での採択を図ったが、中央に春日庄次郎ら少数の反対派がおり、大会でも代議員の3分の2以上の賛成が得られなかったため、規約のみを決定し、綱領については持ち越しとなった。
 
 では、この大会で 宮本は 51年綱領についてどう述べていたのだろうか。
 先の文書の引用元である『日本共産党事典(資料編)』には、この大会での宮本による綱領問題についての報告も収録されているのだが、一部しか収録されていない。
 ネットで検索してみると、「日本共産党資料館」なるサイト(党内異論派のサイト「さざ波通信」と関係があるようだ)に、この宮本による報告の大部分が掲載されていた。
 「綱領問題についての中央委員会の報告(1)」というページから引用する。

 1947年にひらかれた第6回党大会で、わが党は新しい行動綱領を採択した。同時に大会の決議で次期大会に提出する綱領の起草委員会を任命した。1950年の第18回中央委員会総会は、わが党内にあったアメリカ帝国主義への正しくない見解を克服するうえで重要な意義をもった。その後第19回中央委員会総会は綱領問題についての下案(政治局の多数案として提出されたもので、正式原案以前のもの)を検討して、それについての全党的な討議が開始されることとなった。討議の問題点は戦後の情勢、階級関係の変化とそれにもとづく革命の展望にあった。しかるに、この討議は正しく発展されなかった。当時、党を支配していた家父長的個人中心指導は、討議を正しく民主的に発展させなかったばかりか、下案について、ことなった意見をもつものを、組織的に圧迫し排除する方向を強めた。第19回中央委員会総会は、政治局をふくむ全中央委員が一致団結して、党の統一を確保して闘争に進むことを声明した。しかるに6・6弾圧をきっかけに党中央委員会の解体、党の分裂という事態が表面化、そのような事態によって綱領問題の全党的な正しい検討の討議は妨げられた(これらの事情についてのより詳細な分析と評価は、中央委員会の1950年問題についての報告によってあつかわれる予定である)

 「いわゆる1951年綱領」(「綱領―日本共産党の当面の要求」)は、このような党の分裂状態が正しく解決されない時期につくられた

〔中略〕

 51年綱領は、アメリカ帝国主義の日本にたいする占領支配への闘争とそれからの解放を革命の課題として強調した。

 またアメリカのたくらんだ単独講和の道が、ソ連邦、中国との戦争準備の道であること、「アメリカ帝国主義は、アジアにおけるかれらの支配を日本人の手と血で獲得するために、日本を新らしい侵略戦争にひき入れようとしている」ことを指摘して平和愛好諸国との平和と協力の道を呼びかけた。

 こうして、アメリカ帝国主義との闘争を強調したことは、第6回大会後、党内外で提起されつつあったアメリカ帝国主義との闘争課題に一つの重要な定式化を与えたものであった。

 51年綱領は「民主日本の自由と繁栄のために闘っているいっさいの進歩的な勢力の民族解放民主統一戦線」の組織を革命の力として決定的に重視した。

 1948年3月、わが党中央委員会は「光栄ある民主日本を建設するために、民主主義の徹底、働く人民の生活の安定と向上、日本の完全な独立」を基本目標とする民主民族戦線の結成を提起したが、この統一戦線の課題を革命闘争前進の中心任務として規定したことは、重要な積極的意義をもっていた

 しかし当時は、独立のための闘争課題の過小評価とともにこの統一戦線の意義を理論的にも実践的にも軽視する傾向が党の指導にも根強かった。

 この数年間、わが国人民の闘争は独立と平和のための闘争において大きな前進を示したが、それには戦後――とくに第6回大会後わが党の陣列のなかでアメリカ帝国主義の日本支配と新らしい戦争準備への闘争課題が討議され、強調されてきたことも、少なからぬ役割を果たしてきた。51年綱領はこの方向に一つの重要な歴史的な役割を果した。この綱領はアメリカ帝国主義が日本を「目したの同盟者」として戦争にひきいれようとしていること、「吉田政府はアメリカ占領当局のツイタテと支柱になることに賛成している」というような米日反動の利害の一致等について正しく問題を提起した

 それにもかかわらず、この綱領はつぎのような誤りと欠陥をもっていた。戦後の内外情勢の変化、日本資本主義の現段階および農村の生産関係の変化およびそれと関連した日本の反動勢力の実体――とくに絶対主義的天皇制と寄生地主的土地所有制の変化から生まれたものを正しくとらえることができなかった。そのため綱領は誤った規定と一面化を内包するものとなった。

 この綱領は、以上のような弱点のほか、それがつくられた1951年8月いらい内外惰勢がすでに変化したため、今日では個々の命題や記述だけでなく、全体の叙述も、不適当なものになっている。

 6全協決議が「新しい綱領が採用されてからのちに起ったいろいろのできごとと、党の経験は、綱領に示されているすべての規定が、完全に正しいことを実際に証明している」と書いているのは正しくなかった

 これらの問題点の若干については、すでに6全協後、7中総、8中総の決議がその検討を呼びかけてきた。われわれはこれにもとづいて51年綱領を全体として検討した結果、新しい綱領の方向を提示するとともに、つぎの諸点を明らかにする必要があると考える。

 51年綱領は、アメリカ帝国主義の日本支配という戦後日本の重大な特質を分析するにさいして、アメリカ帝国主義の対日支配が、民族的主権への抑圧と日本を新しい侵略戦争へひきこむことにあると強調しているが、その中には、「かれらは日本工業にとどめをさそうとしている」というような単純すぎる叙述がある。

〔中略〕

 「土地を買う金のない大部分の農民にとっては、この『農地改革』がなにも与えなかったことは明らかである」「現在日本農民に土地が少いのは最良の土地が寄生地主その他大きな土地を所有しているものに占められているからである」という土地問題、農地改革についての評価は、再検討の結果にてらせば、事実を正しく反映していない。

 51年綱領は、日本の「反民族的反動勢力」として「天皇、旧反動軍閥、特権官僚、寄生地主、独占資本、つまり日本国民を搾取し、あるいはこの搾取を激励するいっさいのもの」であると規定している。これは戦後の階級関係の変化の結果を当時においても正しく反映していない。

 51年綱領は新らしい民族解放民主政府が、妨害なしに平和的な方法で自然に生まれると考えたり、あるいは反動的な吉田政府が、新らしい民主政府に自分の地位をゆずるために、抵抗しないでみずから進んで政権をなげだすと考えるのは重大な誤りである」「日本の解放と民主的変革を平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とのべている。

 たしかに、反民族的反人民的政府がやすやすとその政権をなげだすと考えることは、今日でも正しくない。しかし根本的に変化した国際情勢とサンフランシスコ条約以後の日本の情勢において、われわれが革命を平和の手段によって達成する可能性はあり得ないと断定し、自らの手をしばりつけることは、再検討を必要としている

 51年綱領はさきにあげた歴史的成果にもかかわらず、これらの点で再検討が必要である。それは第7回および第8回中央委員会総会で提起された51年綱領の二つの問題点の再検討だけにとどまることはできない。今日の革命運動のむかうべき基本的進路を定めるために必要な問題――戦後の内外情勢と階級関係の変化、および解放闘争の主体的条件の基本点についての新らしい探究によってこそ、包括的な解明に近づくことができる。


 51年綱領は「一つの重要な歴史的な役割を果した」と評価しながらも「誤りと欠陥をもっていた」から「再検討が必要であ」り、「新しい綱領の方向を提示」するとしている。
 ここでも「誤りと欠陥」によって何がもたらされたかには触れていない。
 軍事方針とか武装闘争路線といった言葉も出てこない。

 では、言葉にしないまでも、失敗に終わった武装闘争路線はもう採らず、議会で多数派を得て平和革命を目指すのか。
 宮本はそうは言わない。
 この報告の中に、次のような記述がある。

 革命への道すじに関していくつかの重要な問題がある。

 (1)その一つは、過渡期のよりましな政府と、統一戦線の政府と革命の政府の問題である。

 わが党は、強大な統一戦線を結集し、その基礎のうえに統一戦線の政府をつくるために奮闘する。これは、アメリカ帝国主義と日本の反動勢力のあらゆる妨害に抗しての闘争である。この統一戦線政府の樹立が革命の政府となるかどうかは、それを支える統一戦線の力の成長の程度にかかっている。統一戦線が一応人民の支持をうることに成功しても、敵の力にたいしてまだ十分強くないときには不安定な過渡期状態で民主的政府が成立することもありうる

 また統一戦線における指導権がまだ労働者階級に確保されない場合には、それは革命の課題を確実に遂行する保証をもちえない。しかし、統一戦線が人民の絶対的多数の土台に成立し、また、この統一戦線のうえにおける労働者階級と前衛党の比重がたしかなものになったような条件で、新しい政府が樹立されるならば、それは革命の課題を遂行しうる政府となるだろう。

 統一戦線政府が樹立されるまでの過程で、よりましな政府の可能性の問題について無関心であってはならない。階級諸勢力の相互矛盾の関係に変化が生じた場合、統一戦線の政府ではないが、米日反動の支配を部分的にも一時的に妨げうるような政府ができる場合には、一定の条件のもとで、それを支持することを避けるべきではない

 そのさい、統一戦線とその政府の役割の重要性についての強調をおこたってはならない。また党はより反動的な政府ができることにたいして闘わなければならないが、そのさい誤って、本質的には米日支配層の利益を代表する政府を支持するような態度におちいってはならない。

 (2)革命が非流血的な方法で遂行されることはのぞましいことである。

 世界の社会主義と平和・独立の勢力が画期的に大きく成長した世界情勢のもとで、アメリカ占領軍の全面的な占領支配が今日のような支配形態となり、サンフランシスコ体制によって制約されているとはいえ、今日の憲法が一応政治社会生活を規制する法制上の基準とされている情勢では大衆闘争を基礎にして、国会を独占資本の支配の武器から人民の支配の武器に転化さすという可能性が生じている。

 しかし反動勢力が弾圧機関を武器として人民闘争の非流血的な前進を不可能にする措置に出た場合には、それにたいする闘争も避けることができないのは当然である。支配階級がその権力をやすやすと手ばなすもので決してないということは、歴史の教訓の示すところである。

 われわれは反動勢力が日本人民の多数の意志にさからって、無益な流血的な弾圧の道に出ないように、人民の力を強めるべきであるが、同時に最後的には反革命勢力の出方によって決定される性質の問題であるということもつねに忘れるべきではない。

 1956年6月の7中総の決議がこの問題について、51年綱領の再検討を呼びかけたことは、当然の根拠があった。この決議の問題提起にたいしては、その後いくつかの種類の意見が出されてきた。

 一つは、平和革命必然論の観点に立つべきであるのに、決議はそうなっていないという意見である。

 一つは、非流血的方法による革命の可能性がサンフランシスコ体制後生じたのではなく戦後からあったのだという意見である。

 一つは、この決議が平和革命必然論になっているものとみなしてそれは正しくないという意見である。

 一つは、暴力革命必然論の立場からの反対である。

 一つは、この決議が、革命政府が「内戦をともなうことなしに『平和的』に成立しうる可能性がある」条件としてあげているものは今日のところ抽象的な可能性であるから、そのような可能性をうんぬんすべきではない。現実的な可能性があるときのみに「可能性」をうんぬんすべきであるという意見である。

 われわれは、これらの意見に賛成することはできない

 7中総の決議は内外の情勢の変化をあげ、国際的には世界の社会主義と平和・独立勢力の画期的な発展、国内的にはサンフランシスコ体制以後の情勢変化について示している。そして言論・集会・結社の自由、民主的な選挙法と国会の民主的運営、民族解放民主統一戦線の発展と労働者階級の前衛党の強大化という三つの条件があるとき、民主的な党派が国会において多数をしめ、その政府をつくりうること、「このような政府は、その国民との結合、国民からの支持および政府を構成する民主党派の指導性や統一行動の確固さに応じて――内外の力関係に応じた進歩的、革命的な政策を実行できる」という可能性をあげている。

 このような条件と可能性は今日の内外情勢において空想的なものではなく、歴史的・理論的な可能性をもっている。このことは、この決議の発表された直後の選挙の結果においても確かめられている。

 そして、51年綱領が「日本の解放の民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」という断定をおこなって、そのような変革の歴史的・理論的可能性のいっさいを思想としても否定して、いわば暴力革命不可避論でみずからの手を一方的にしばりつけているのは、明らかに、今日の事態に適合しないものとなっている。したがって、7中総の決議は、どういう手段で革命が達成できるかは、最後的には敵の出方によって決まることであるから、一方的にみずからの手をしばるべきではないという基本的な見地に立っておこなわれた必要な問題提起であった。

 平和的手段による移行の歴史的・理論的可能性をうんぬんできる条件が敗戦直後からではなく、サンフランシスコ条約以後に限定したのは、それ以前のアメリカ軍の「全一的支配」と異なって、サンフランシスコ条約以後は、サンフランシスコ体制の内部矛盾によって現在の憲法による民主的権利、国会運営、政府の成立の条件を米日支配層も、一応たてまえとしては認めざるをえないところにおかれているからである。だから、米日支配層は憲法や選挙法の改悪を熱望せざるをえないのである。

 この矛盾に注目せず、単に米軍の半占領体制、米日反動の強力な軍事機関の存在というだけの理由で、暴力革命不可避論によってみずからの手をしばる態度を固執することは、この数年間の内外情勢の変化を創造的なマルクス・レーニン主義で分析しない保守的な誤りをおかすものである。

 また、7中総の決議は、平和革命必然論の立場をとっていないしとるべきではないという見地に立っている。したがって敵の出方が平和的な手段による革命達成を不可能にする場合を歴史的な可能性として考察することをおこたってはいけないのである。

 「このような政府の樹立の前後、あるいは新政府による内外の転換、実施にたいして、米日反動勢力が非道な挑発、暴力的な手段をもって抵抗する可能性もある。また、革命運動の発展を未然におさえるために、民主勢力がまだ強大にならないうちに、暴圧を加える可能性のあることも見失ってはならない。

 このような暴力的な弾圧や抵抗を米日反動がおこなうとしてもとうてい成功しないように、つねに内外の民主的世論をたかめ、平和・独立・民主勢力の団結力を強大にしておくことが、解放運動にとってきわめて重要である。

 独立と平和の勢力があくまでも国民の権利と自由を維持して進むならば、反動勢力の出方によってどのような道をとろうとも、もっとも犠牲の少ない方法で反動の暴力から革命運動と新しい政府を効果的に防衛し、勝利の道を確実にすることができる。」(7中総決議)

 7中総の決議は、まさに「反動勢力の出方によってどのような道をとろうとも」革命運動を効果的に防衛するには、内外の平和・独立・民主勢力の団結の強大化、人民の既得権の防衛が重大であることを指摘しているのである。

 また、平和的な手段による革命の可能性の問題をいわば無条件的な必然性として定式化する「平和革命必然論」は、今日の反動勢力の武力装置を過小評価して、反動勢力の出方がこの問題でしめる重要性について原則的な評価を怠っている一種の修正主義的な誤りにおちいるものである。


 暴力革命不可避論も正しくないが、平和革命必然論もまた正しくないとしている。
 これが、今回の政府答弁書でも問題となった、いわゆる「敵の出方論」のルーツである。
 「敵の出方論」とは元々このようなものであり、暴力のみを否定し、平和的手段のみをも否定する折衷的な見解であって、以前引用した国会質問で不破氏が述べていたような、反共クーデターといった事態のみを想定したものではない。

「反動勢力が弾圧機関を武器として人民闘争の非流血的な前進を不可能にする措置に出た場合」
「米日反動勢力が非道な挑発、暴力的な手段をもって抵抗する可能性」
「民主勢力がまだ強大にならないうちに、暴圧を加える可能性」
というが、「措置」「挑発」「暴力的な手段」「暴圧」とは具体的に何を意味するのか、明確でない。
 例えば、共産党が非合法活動を行っていて、それに対して警察が動いたり、管轄する行政当局が指導を行ったりすることも、「措置」「挑発」「暴圧」に当たると判断されたりはしないだろうか。
 今回問題になった、公安調査庁が共産党を調査対象としていることはどうか。
 「敵の出方」は共産党側の「出方」によっても左右されるはずだが、共産党側がまずは常に合法的活動の枠内にとどまると宣言していないのは何故だろうか。

 そして、しんぶん赤旗の記事が述べていたように、これで武装闘争路線を「第7回党大会で党が統一を回復したさいに明確に批判され、きっぱり否定された問題」だと言えるのだろうか。
 軍事方針とか武装闘争路線といった言葉を用いていないのに、何を明確に批判しきっぱり否定したというのだろうか。
 51年綱領自体についても、意義を認めているではないか。
 51年綱領を「分裂した時期の一方の側の行動」だとして全否定するのは、宮本体制が確立したもっと後のことではないか。
 なのに、しんぶん赤旗の記事は、第7回党大会から一貫して全否定しているかのように語っている。
 以前にも述べたが、「歴史の事実を歪曲」しているのは誰なのだろうか。

 なお、綱領論争はこの第7回党大会後も続き、結局春日庄次郎ら綱領反対派は排除され、1961年の第8回党大会では綱領草案は満場一致で決定された。
 この時の綱領が、基本的には現在まで続いている。

続く

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共産党の破防法調査対象への抗議を読んで思ったこと(中の2) 六全協は軍事方針を否定したか

2016-04-08 08:37:59 | 日本近現代史
承前

 前回取りあげた平成元年2月18日の衆議院予算委員会の審議で、日本共産党が破防法の調査対象とされている経緯について、石山陽・公安調査庁長官はこう答弁している。

昭和二十六年に四全協、五全協という当時の党大会にかわるべき執行部機関による会合が行われて、有名な軍事方針が決定され、それが五全協、六全協へと引き継がれてまいりましたが、六全協でいわゆる極左冒険主義の反省が行われたわけであります。その際に、当時の決定によりますれば、五全協の軍事方針の決定については、一応、極左冒険主義はいかぬけれども、全体としては、これは当時の主流派、反主流派によって十分意見の統一によって行われたものだ、簡単に申し上げますれば、そのような趣旨が行われておりますので、単純な分派活動による一部のはね上がりだけがやったというふうな認定を実は私どもはしておらないわけでございます


 これに対して共産党の不破哲三副議長はこう反駁している。

「六全協のどこを調べても、過去の軍事方針については統一したものだからといって肯定したなんという文書はどこにもないですよ。そして、四全協、五全協というのはまさに分裂時代だというのは、中央委員会から排除された現在の宮本議長とか、排除された人々がだれも参加しないでやられた会議ですから、我々は分裂した一方の側の会議だと言っているわけで、それで六全協では、あなたが言うような軍事方針などの言及は全くなしに、それを含めた極左冒険主義をきっぱり廃棄したのが特徴なんです


 不破氏の言うように、六全協での決定には、五全協の軍事方針の決定について「当時の主流派、反主流派によって十分意見の統一によって行われたものだ」といった言及はなかったのだろうか。

 私は六全協の文書を確認してみた。そしてかなり驚いた。

 私はこれまでじかに六全協の文書を読んだことはなかった。しかし、六全協(第6回全国協議会)と言えば、いわゆる50年分裂で所感派と国際派その他に分裂していた日本共産党が再統一した会議だというぐらいの知識はあったし、その際、徳田・野坂ら主流派が進めた武装闘争路線を放棄したものだと理解していた。
 コトバンクで「六全協」を引くと出てくるブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説にも、

共産党が,それまでの極左軍事冒険主義を転換し,今日の先進国型平和革命路線に踏出す,歴史的意味をもつ会議とされる。


とあるし、今回の鈴木議員の質問主意書に対する答弁書が問題にされた頃、twitterで「六全協」を検索してみても、

「共産党って、1955年の六全協の時点で暴力革命を放棄してるよね」
「日本共産党は歴史上「六全協」として知られている1955年の第6回全国協議会で武力闘争路線を放棄して現在に至ってます」
「1955年の六全協までは暴力革命のための山村工作隊や中核自衛隊があったんだよね。で、六全協で平和革命路線に転じたようだけど、公安当局はそうは思っていないという認識のズレ」
「1955年六全協で共産党は武力革命路線を変更。その折り切り捨てたんがニューレフトとなった」

といったツイートが見られたので、そのように理解している方は多いのだと思う。

 ところが、六全協で議長団代表を務めた志賀義雄(1901-1989。徳田球一と共に「獄中十八年」で知られる戦前からの党幹部。50年分裂では国際派に属した。宮本体制確立後の1964年に党を除名され、親ソ連の分派を率いた)の「開会のことば」には、

 「新綱領」〔引用者註:1951年の五全協で決定された51年綱領。軍事方針を規定〕のもつ画期的意義と特徴につきましては、すでに徳田書記長が〔中略〕日本の革命の性格を、従属国の革命とし、民族解放民主革命と規定して、従来の方針の不明確さを一掃したことにある、と指摘しているとおりであり、真にわが党と国民が進みゆくべき道を、かがやかしくてらしだしているものであります。事実、この綱領を手にして以来、まさに三年九カ月、わが党は確信と勇気にみちて、新綱領の実現にむかって、国民大衆とともに、全党をあげて奮闘してきました。〔中略〕
 このようなたたかいと努力の中でわが党が多くの貴重な経験をつみかさね、ある程度の成果をあげてきたことは事実であります。しかしながら、それと同時に、わが党が、その思想的弱さ、理論的低さ、さらにまた経験の浅さのために、幾多の重大なあやまちをおかしてきたこともあきらかな事実であります。そのことは、新綱領がいまだに不十分にしか国民大衆の中にしみとおっておらず、したがって、またわが党と国民の結合がいまだによわく、民族解放民主統一戦線の発展もいまだ遅々たるものであるという冷厳な事実の中に、具体的にあらわれていると思うのであります。
 このような現実を、厳粛に、ありのままに、直視するとき、われわれは今日までのわれわれのたたかいと諸経験を十分に検討し、総括すること、そして、それにもとづいて、よいところは発展させ、あやまちや欠陥は十分に正し、わが党の活動を正確な政治路線と組織路線にのせることは、今後における党と国民のたたかいの発展にとって、きわめて重大な意義をもつものであると考えている次第であります。
 新綱領が採択された当時と今日の国際、国内情勢のあいだには、かなりの変化と発展があり、したがって、わが党が現在の国防、国内情勢の発展の方向にそって、新綱領にもとづいて正確な路線を具体化することは、きわめて重大な意義をもつものであると考えるものであります。〔中略〕これが今回の全国協議会がひらかれるにいたった大きな理由の一つであります。(思想運動研究所編『日本共産党事典(資料編)』全貌社、1978、p.338-339。太字は引用者による。以下同じ)


とあり、武装闘争路線を導いた51年綱領を肯定している。

 そして、協議会の決議「党活動の総括と当面の任務」は、冒頭で、

 新しい綱領〔引用者註:51年綱領〕が採用されてから後に起こったいろいろのできごとと、党の経験は、綱領に示されているすべての規定が、完全に正しいことを実際に証明している
 一九五一年九月に、ソヴェト社会主義共和国同盟・中華人民共和国・インドその他の国家を除いて結ばれたサンフランシスコの単独講和条約の締結と占領制度の形式的な廃止は日本民族の独立を回復しなかった。
 わが国はあいかわらずアメリカ軍の占領下にある。アメリカ帝国主義は、わが国の産業、農業、財政、貿易を管理し統制して、わが国民を搾取し略奪している。


 と、やはり51年綱領を全面的に肯定した上で、次のように続けている。

〔中略〕
 党は、新しい綱領にもとづいて、党の政治的・組織的統一を回復し、同時に、この綱領によって、党を強め、党員の学習を普及し、闘争のなかで鍛えられた労働者出身の新しい幹部を抜擢するようになった。また、スパイ伊藤律を放逐し、党の純化に着手した。
 このようにして、党は、新しい綱領にもとづいて、これまで存在してきた党の混乱と不統一を克服し、党の政治的・組織的統一と団結の基礎をきずき、国民大衆と広く結びつく方向へ歩みはじめた。
 これらの実践は貴重でありまた、積極的な意義をもっている。ここに今後、党のたたかいを発展させる基礎がある。それにもかかわらず、党の当面している重大な任務からみれば、これらの成果はまだきわめて小さい。情勢の発展にくらべれば、党ははるかに立ちおくれている。
 第一にあげなければならない誤りは、党の団結に関する問題である。党は、第五回全国協議会で、新しい綱領を採用した際に、これまでの党の混乱と不統一に終止符を打ち新綱領を認め、党の統一を求めるすべての同志にたいして無条件の支持を与えることを決議した。それにもかかわらず、党中央は、この決議に、きわめて不忠実であったことを、おごそかに認めなければならない。
 そのため、熱心に党綱領を支持し、党への復帰と党の統一を求める多くの誠実な同志たちを、不遇の状態におきざりにした。このことは党中央の重大な責任である。
 第二に重要な問題は、党は戦術上でいくつかの大きな誤りを犯した。これらの誤りは、大衆のなかでの党の権威を傷つけ、また国民のすべての力を、民族解放民主統一戦線に結集する事業に、大きな損害を与えた。誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である
 この誤りは、党が国内の政治情勢を評価するにあたって、自分自身の力を過大に評価し、敵の力を過小に評価したことにもとづいている。
 〔中略〕その結果、党はそのおもな力と注意を誤った方向へ向けた。党は革命のための力を結集し、労働者階級の多数を思想的にかくとくし、農村における党の影響を決定的に強め、民族解放民主統一戦線をうち立てるという、革命の勝利のために第一に必要なことをおろそかにした。
 党は、一九五四年以来、情勢にたいする誤った評価をしだいに克服し、国民の要求を支持して、国民の政治的自覚をたかめ、党と国民大衆との結びつきを強め、民主勢力を統一する地道に活動にむかって一歩をふみだした。
〔中略〕
 党中央はすでにこの一月、極左冒険主義的な戦術と闘争形態からはっきり手をきる決意をあきらかにした。党は今日の日本には、まだ切迫した革命的情勢のないことを確認し、広範な大衆を共産党の側に組織するために、民族解放民主統一戦線をきずきあげるために、ますます深く広く大衆のなかへ入り、ねばり強い不屈のたたかいをつづけることをあらためて強調する。
 第三の欠陥は、増大する大衆の不満を新しい綱領の方向にむかって正しく余すところなく組織し、党と大衆との結合をつよめることができなかったことである。それは、党の活動の中に根強く存在しているセクト主義に原因している。党は大衆を組織するにあたって、大衆の要求にもとづいて、それを内部からたかめて行くという方法をとらないで、外部から実情に合わない要求や、高度な政治的要求をおしつける傾向を克服しきってはいない。そのため、党が大衆からうき上がり孤立するという状態をまねいている。
〔中略〕
 以上に述べた誤りと欠陥は、現在、党のもっている主な弱さである。しかもこれらの弱さをもたらした諸条件は、偶然に生じたものではない。革命は数百万大衆によって行なわれる。これに反して革命を安易に考え、革命をせっかちな方法でなしとげようと考えるのは、小ブルジョア的なあせりである。
〔中略〕
 上に述べたような情勢のもとで、わが党の基本方針は依然として新らしい綱領にもとづいて、日本民族の独立と平和を愛する民主日本を実現するために、すべての国民を団結させてたたかうことである。
〔中略〕
 党は当面の情勢のなかで実践すべき闘争を指ししめし、そのたたかいのなかで綱領を具体的に説明宣伝し、それによって大衆を思想的にかくとくしなければならない。
 党の任務は、綱領を実現するために、労働者階級の多数を思想的にかくとくし、階級的統一を行い、農民のなかに党の指導をうちたて、労農同盟をかため、これを基礎にすべての愛国的進歩的勢力を民族解放民主統一戦線に結集することである。そして、わが党を民族の利益を代表してたたかう大衆的な労働者階級の党としてきずきあげることである。
〔中略〕
 いまわが日本共産党は、民族解放民主統一戦線運動を成功にみちびく多くの条件をもっている。国際的な平和勢力が戦争勢力よりも強くなっており、国内では国民大衆の平和と独立への自覚のたかまりがある。党は正しい綱領をもっており、綱領の基礎のうえに、党の隊列の統一と団結はつよまっている。〔中略〕
 わが党がたゆむことなく、マルクス・レーニン主義の理論によって全党を武装し、相互批判と自己批判を正しく行い、あやまちをあらため、欠陥をとりのぞき、集団指導の原則を厳格に守り、党員の積極性を高めるならば、党は遠くない将来に、労働者階級の真の大衆党となることができるであう。そして党は、わが国のすべての健全な進歩的な愛国勢力を民族解放民主統一戦線に結集させることができるであろう。日本共産党第六回全国協議会はここに輝かしい見通しと確信をもって全党の固い団結を宣言する。
    付帯決議
 今後の党活動は、綱領とこの決議にもとづいて指導される。したがって、過去に行われた諸決定のうち、この決議に反するものは廃棄される。
(前掲『日本共産党事典(資料編)』、p.341-359)


 確かに、不破氏の言うように、この決議には「過去の軍事方針については統一したものだからといって肯定した」などとは書かれていない。
 しかし、この決議は、武装闘争路線を導いた51年綱領については、決して否定していない。それどころか、強く肯定している。

 「極左冒険主義」は確かに批判されている。「はっきり手をきる」とされている。
 しかしそれは、第一、第二、第三の大きな誤りのうちの一部でしかない。第二の「戦術上で」の「いくつかの大きな誤り」のうちの「もっとも大きなもの」でしかない。
 戦術上の誤りということは、現実への適用の仕方を誤っただけで、戦略上、つまり綱領の方針そのものは正しいということだ。
 共産主義者や社会主義者によく見られる論法である。

「極左冒険主義をきっぱり廃棄したのが特徴なんです」
と不破氏は誇らしげに語っているが、それは当たり前のことである。
 何故なら、極左冒険主義とは、共産主義者特有の用語だが、要は、客観的な情勢が熟していないのに早まって武装蜂起を行って失敗したことを後から批判したり、あるいはどう見ても失敗しそうな武装闘争路線を批判する際に用いられる言葉だからである。
 批判のための用語であって、「我々は極左冒険主義を実行するぞ!」と叫んで武装闘争を実行する者はいない。
 極左冒険主義を批判したとしても、軍事方針がそのままでは、いつまた武装闘争に転じるか知れたものではない。
 「まだ切迫した革命的情勢のないことを確認」して極左冒険主義から手を切るというのだから、革命的情勢が切迫すれば、再び武装闘争に戻るということだろう。

 もっとも、決議の末尾の「付帯決議」に
「今後の党活動は、綱領とこの決議にもとづいて指導される。したがって、過去に行われた諸決定のうち、この決議に反するものは廃棄される」
とあるから、51年綱領は正しいとしながらも、実際には、それに基づいて出された軍事方針の諸決定は廃棄されるという扱いになったのだろう。
 「分裂した一方の側」の顔を立てた、何ともあいまいな決着ではないか。

 六全協の決議は、確かに「過去の軍事方針については統一したものだからといって肯定し」てはいない。しかし、否定してもいない。否定しているのは「極左冒険主義」などの「戦術上」の誤りにすぎない。
 不破氏はその点をごまかして、六全協で武装闘争路線そのものが否定されたかのように語っている。
 共産党の発言や文章にはよくよく注意が必要だと再認識した。

(続く)
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共産党の破防法調査対象への抗議を読んで思ったこと(中) 「敵の出方論」について

2016-04-06 08:29:20 | 日本近現代史
承前

 鈴木貴子衆院議員が提出した「日本共産党と「破壊活動防止法」に関する質問主意書」中に、次のようにある。

四 昭和五十七年四月二十日、第九十六回国会、衆議院地方行政委員会に於いて、警察庁は「ただいまお尋ねの日本共産党につきましては、民青を含めまして、いわゆる敵の出方論に立ちました暴力革命の方針を捨て切っていないと私ども判断しておりますので、警察としましては、警察法に規定されます「公共の安全と秩序を維持する」そういう責務を果たす観点から、日本共産党の動向について重大な関心を払っている」旨答弁されているが、現在も警察庁は、日本共産党は暴力革命の方針を捨て切っていないと認識されているか、見解を求める。


 これに対し、政府はこう答弁している

四について
 警察庁としては、現在においても、御指摘の日本共産党の「いわゆる敵の出方論」に立った「暴力革命の方針」に変更はないものと認識している。


 これについて、BLOGOSに転載された、しんぶん赤旗の「「議会の多数を得ての革命」の路線は明瞭/政府の「暴力革命」答弁書は悪質なデマ」という記事は次のように反論している(太字は引用者による。以下同じ)。

「敵の出方論」=「暴力革命」が成り立たないことははるか前に決着ずみ

「敵の出方論」をもちだして「暴力革命」の根拠とする議論が成り立たないことは、政府答弁が引用している〔引用者註:質問主意書の項目の六に対する答弁で引用〕1989年2月18日の衆議院予算委員会における不破哲三副議長(当時)と石山陽公安調査庁長官(当時)との論戦でも決着ずみのものです。

 同委員会で不破氏は、国民多数の支持のもとに政権を目指す日本共産党の綱領路線を説明し、「敵の出方論」について、日本共産党など統一戦線勢力が選挙で勝って政権についたとき、これに従わない勢力が暴挙に出た場合に、政府が取り締まることは憲法に基づく当然の権利であることを解明しました。これに対し、石山長官は、「政権を確立した後に、不穏分子が反乱的な行動に出てこれを鎮圧するというのは、たとえどの政権であろうとも、当然行われるべき治安維持活動です」と答えざるをえませんでした。

 その一方で、石山長官は、「敵の出方論」について、「民主主義の政権ができる前にこれを抑えようという形で、不穏分子をたたきつけてやろうという問題」もあると答弁しました。

 これに対しても、不破氏は、1970年の第11回党大会決議の「人民の政府ができる以前に、反動勢力が民主主義を暴力的に破壊し、運動の発展に非平和的な障害をつくりだす場合には、広範な民主勢力と民主的世論を結集してこのようなファッショ的攻撃を封殺することが当然の課題となる」との文言を読み上げ、反論しています。

 日本共産党が、かつての一連の決定で「敵の出方」を警戒する必要性を強調していたのは、反動勢力を政治的に包囲して、あれこれの暴力的策動を未然に防止し、社会進歩の事業を平和的な道で進めるためであって、これをもって「暴力革命」の根拠とするのは、あまりに幼稚なこじつけであり、成り立つものではありません。それは、国会の質疑でもはるか前に決着ずみのことです。


 それは初耳だ。
 本当に決着済みの話だったのだろうか
 国会会議録検索システムで平成元年2月18日の衆議院予算委員会の会議録を確認してみた(いい時代になったものだなあ)。
 興味深い主張が見られるので、かなり長くなるが省略せずに引用する。

○不破委員 〔中略〕次に進みますが、一体、公安調査庁が我が党に対してそれを調査団体とする根拠を今度は伺いたいと思うのです。
 破防法には、明確に二つの要件が要るとしています。一つは、過去の問題です。「団体の活動として暴力主義的破壊活動を行った団体」。もう一つは、将来の問題です。そして「当該団体が継続又は反覆して将来さらに団体の活動として暴力主義的破壊活動を行う明らかなおそれがあると認めるに足りる十分な理由があるとき」と、つまりこの二つの条件がセットになって破防法の対象になるというのがあなた方の論理ですね、法律の。
 まず、最初の方から伺いましょう。我が党を過去に破壊活動を行った団体と認定する根拠はどこにあるのですか。

○石山政府委員 平たい言い方で申し上げますが、破防法が制定されました当時はそのような社会的事情があり、それに共産党が大きくかかわっていたというふうに考え、過去に破壊活動的な暴力活動があったという認定をしているわけでございます。

○不破委員 破防法制定当時といいますと、我が党が分裂していた時期でした。破防法が成立したのは一九五二年で、それで我が党は、一九五〇年から一九五五年まで分裂期でした。分裂した側の一方が、我が党はそのとき極左冒険主義と言って非難していますが、今日の我々にとっても肯定し得ない活動や方針をとったことは確かにあります。しかし、それは分裂した時期の分裂した一方の側の行動、路線であって、党が統一して後に明確に批判され、きっぱり廃棄された問題です。だからそれを今日の、今日といいますか、分裂を克服した後の日本共産党の根拠として扱うのは極めて不当だと思います。
 さらに、それに加えて聞きたいのは、そのことを理由にして日本共産党が破壊活動を行った団体だという認定は、公安調査庁が行ったものですか、それとも公安審査委員会が行ったものですか。

○石山政府委員 御存じのとおり共産党におきましては、昭和二十六年に四全協、五全協という当時の党大会にかわるべき執行部機関による会合が行われて、有名な軍事方針が決定され、それが五全協、六全協へと引き継がれてまいりましたが、六全協でいわゆる極左冒険主義の反省が行われたわけであります。その際に、当時の決定によりますれば、五全協の軍事方針の決定については、一応、極左冒険主義はいかぬけれども、全体としては、これは当時の主流派、反主流派によって十分意見の統一によって行われたものだ、簡単に申し上げますれば、そのような趣旨が行われておりますので、単純な分派活動による一部のはね上がりだけがやったというふうな認定を実は私どもはしておらないわけでございます。

○不破委員 もう少し公安調査庁の長官なら、共産党の文献もそれを専ら研究しているんですから調べてほしいのですが、六全協のどこを調べても、過去の軍事方針については統一したものだからといって肯定したなんという文書はどこにもないですよ。そして、四全協、五全協というのはまさに分裂時代だというのは、中央委員会から排除された現在の宮本議長とか、排除された人々がだれも参加しないでやられた会議ですから、我々は分裂した一方の側の会議だと言っているわけで、それで六全協では、あなたが言うような軍事方針などの言及は全くなしに、それを含めた極左冒険主義をきっぱり廃棄したのが特徴なんです。その点ぐらいは明確に勉強して過去のことについても対処してほしい。
 じゃ、将来のことを聞きましょう。将来、我が党がそういう危険があるとあなた方が考える根拠はどこにあるのですか。

○石山政府委員 昭和三十六年の発表されました党の綱領の中に、いわゆる将来に向けて共産党の指針ともいうべき政治方針が示されておりますが、それと並びまして、その当時いろいろ発表されました党の文献等の中にいわゆる敵の出方論ということがございます。その敵の出方論ということが、いわゆる民主社会主義に基づいてあくまで議会主義を貫いて平和的な革命を行われるという政治志向を持っておられるのか、あるいは時と場所により敵の出方、つまり権力側の出方によっては非平和的な手段にも訴えることがあるのか、この辺が十分に解明できておりませんし、二十年、三十年の問題ではなくて、遠い将来共産党が政権近しと思われる時分になりましたらばどういう方向に出られるかがなお疑念でございますので、調査を継続しているわけでございます。

○不破委員 これは全くこっけいな話でして、敵の出方論というのは、別にあなた方が陰へ行って探さないでも、堂々と我が党の大会の決定に明記されていますよ。
 というのは、我が党が綱領にも書いてあるように、政権につくときは選挙で多数を得て政権につく、大方針です、これは。現在では福岡と埼玉で我々は与党ですけれども、選挙によって与党になったのです。東京でもかつて与党でしたが、選挙に勝って与党になったのです。それと同じように、国の政治でも国会の多数を得て政権につくというのは我が党の綱領に明記した方針です。それに対して、政権についたときにその共産党の入った政権なるがゆえに従わないという勢力が出た場合、そういう勢力がさまざまな暴挙に出た場合、それに対して黙っているわけにはいかない、そういうのは力をもってでも取り締まるのが当たり前だ、これは憲法に基づく政府の当然の権利でしょう。そういうことについて我々は綱領に明記しているわけです。そういうことについて心配だという人がいるならば、私は一つの話を紹介したいと思うのです。
 というのは、共産党がこの綱領をつくった前後ですが、防衛庁に防衛研修所という研修所がありますね。そこの教官がある雑誌に、共産党が政権についたときに自衛隊は国家公務員としてその政権に従う義務があるかないかという問題を、大変興味ある問題ですが取り上げて、やはり国家公務員だから従うべきだという論文を発表したんです。そのときにそれが右翼の攻撃の的になり、自衛隊内部でもさんざん議論の的になり、その右翼が抗議をしてきたのに対して、当時の防衛庁長官は志賀さんでしたが、あなた方の抗議はもっともだ、そういうようなことを言う教官は粛清しましょうということで、教官は左遷されました。それで、同じ雑誌に、当時の防衛研修所の所長が論文を書いて、共産党が入るような政権ができたら自衛隊は従う義務なし、こういうのを書いたんですよ、研修所長の名前で。
 それで、これから先は私自身の経験ですが、私はそのことを一九六九年の二月でしたか、毎日新聞社が主催した各党の安全保障の討論会というのがありました。その安全保障の討論会で、自民党の番のときに、私は宮本議長と一緒に共産党、野党として出たわけですが、その話を出して、一体あなた方は共産党が入る政権ができたら、この論争について、自衛隊は従う義務があると考えるかと、議会制民主主義に立つ政党ならそういうことは従うのが当然のルールだろうという質問をしました。実は、おもしろいことには、その席には防衛庁長官の経験者である船田中さん、江崎さん、西村さん、それからその後で防衛庁長官になった増原さん、四人の防衛庁関係者がおられましたよ。だれ一人として肯定的返事はしませんでした。共産党の入る政権が議会制民主主義のルールについてできても、それについて国家公務員として自衛隊が従う義務があるかどうかという質問に対して、義務があると明確に答えた人は一人もいませんでした。全部が答え返しました。
 そういう事実があるから我々は、我々が堂々と議会制民主主義の常道にのっとった選挙で多数を得て政権をとっても、一部にはその政権に従わないというような不行き届きな者があり得ることをやはり警戒する必要がある。そういう点はちゃんとしっかり警戒をして、それに対して民主主義のルールに従った対処をしようというのが敵の出方論です。
 一体あなた方は、その敵の出方論に基づいて我が党が何かあなた方が懸念する破壊活動なるものを行った例を、あなたが今引用した一九六一年の綱領決定以後にあれだけの調査をやって何か発見したことがありますか。

○石山政府委員 委員仰せのように、昭和三十六年のいわゆる綱領発表以降、共産党は議会制民主主義のもとで党勢の拡大を図るという方向で着々と党勢拡大を遂げられつつあることはお示しのとおりでございます。
 ただ問題は、それは政治的な最終目標であるのかあるいは戦略または戦術の手段であるのかということの問題でございます。私どもはそれらに対しまして、今冷静な立場でもって敵の出方論何かにつきましても調査研究を進めておる段階でございまして、今のところその結果として直ちに公党である共産党に対し規制請求すべき段階に立ち入っているとは思わないから請求もしていないということであります。
 なお、敵の出方論について今御教示を賜りましたが、一つだけ私からも申し上げておきたいことがございます
 御存じのとおり、政権確立した後に不穏分子が反乱的な行動に出て、これを鎮圧するというのは、たとえどなたの政権であろうとも当然に行われるべき治安維持活動でございます。ところが敵の出方論という中には、党の文献等を拝見しておりますると、簡単に申しますと、三つの出方がございます。一つは、民主主義の政権ができる前にこれを抑えようという形で、不穏分子をたたきつけてやろうという問題であります。それから第一には、民主主義政権は一応確立された後に、その不満分子が反乱を起こす場合。三番目は、委員御指摘のような事態であります。
 ですから、それらにつきまして一部をおっしゃっておりますけれども、その全部について敵の出方論があり得るということを私は申し上げておるわけでございます。

○大野委員長〔引用者註:大野明。自民党〕 時間が参りましたので……。

○不破委員 一言だけ。今あなたは我が党が三つの場合に言っていないと言いましたが、一つだけ言っておきましょう。
 これは党の大会の一九七〇年の決定です。「人民の政府ができる以前に、反動勢力が民主主義を暴力的に破壊し、運動の発展に非平和的な障害をつくりだす場合には、」まあチリみたいなことですね。「広範な民主勢力と民主的世論を結集してこのようなファッショ的攻撃を封殺することが当然の課題となる。」これが敵の出方論のこのケースでの具体化だと大会で明記しているのですよ。
 それで結局、だからあなた方が幾らそう言って我が党の破壊活動を探そうとしても、三十六年かかろうが、何千億のお金を使おうが、何千の調査官を動員しようが、何千のスパイイコール協力者を養成しようが、見つかるはずがない。それはあなた方も十分御承知のはずなんです。

○大野委員長 不破君、約束の時間が参りましたので、質疑を打ち切ってください。

○不破委員 それであるにもかかわらず、我が党に対して不当に結社の自由を侵害する、これは絶対許されないということを申し上げて、質問を終わります。

○大野委員長 これにて不破君の質疑は終了しました。


 これは、決着がついたというより、単に不破氏が自己の主張を述べただけではないのか。
 しかも時間切れになっている。

 「敵の出方論」の前に、まず五全協の軍事方針と六全協におけるその評価をめぐるやりとりがある。
 これは非常に重要な点だと思うが、論ずると長くなりそうなので次回に回す。

 「敵の出方論」について、石山公安調査庁長官は、日本共産党の文献等によると、次の三つの出方があると言っている。
1.共産党が参加する民主的政権ができる前にこれを抑えようと叩き付ける場合
2.共産党が参加する民主的政権が一応確立された後に、それに対する不満分子が反乱を起こす場合
3.不破氏が例示した、共産党が参加する民主的政権が成立しても、一部(例えば自衛隊)がそれに従わないという場合

 私には、2と3の違いがよくわからないのだが、これは、反乱を起こす場合と、反乱までには至らないが不服従があった場合の違いということだろうか。

 これに対して不破副議長は、3については自衛隊であれ何であれ政権に従うのは当然であり、1についても、1973年にチリのアジェンデ人民連合政権がピノチェト将軍のクーデターで打倒された例を挙げて、こうした場合には抵抗するのが当然だとしている。
 アジェンデ政権は1970年に既に成立していたのであるから、これは2の場合に当たるはずで、「人民の政府ができる以前に」という例えに用いるのはおかしいと思うが、要は共産党の政権参加を阻止するためのクーデターがあれば、それに暴力をもって抵抗するのは当然だということだろう。

 しかし、1の場合とは、果たしてそうしたクーデターのような事態だけなのだろうか。
 ナチスが国会議事堂放火事件を利用して共産党を弾圧したように、共産党が何らかの事件を口実に、あるいはクーデター計画をでっち上げるなどして、暴力を行使することはないのだろうか。
 共産党が党内反対派に対して行ってきたことを考えれば、あながち根拠のない妄想とも言えないと思うが。

 また、「敵」が暴力的に弾圧してきた場合、暴力をもって抵抗することは正当なのだろうか。
 例えば戦前のように共産党が非合法化されたり、占領期のレッドパージのようなことがあれば、再び武装闘争路線に舞い戻るということなのだろうか。
 かつての西ドイツでは共産党が禁止されていたし、韓国では現在もそうだが、こうした状況下では共産党が武装闘争を行うことが許されると考えているのだろうか。

 そして、暴力には暴力をもって抵抗するのが正当な権利だというなら、何故わが国の共産党以外の国政政党は「敵の出方論」を唱えないのか。
 例えば、自民党が、共産主義者による暴力革命を恐れて、彼らの出方次第では、代議制を停止し、独裁を行い、共産主義者を弾圧すると主張しないのは何故だろうか。
 先般発足した民進党が、自民党が速やかに政権交代に応じず暴力をもって弾圧する場合を想定して、自民党の出方次第では暴力の行使も辞さないと主張しないのは何故だろうか。
 公明党の支持母体である創価学会は、戦前に国家権力により弾圧された歴史をもつ。しかし、公明党が、戦後に武装闘争を行ったり、政権参加に際して「敵の出方論」を唱えたとは聞かない。何故だろうか。
 それは、共産党の理論的支柱であるマルクス・レーニン主義が、元々暴力革命を前提としたものであるからだろう。
 議会で多数派を得ることにより政権を獲得できるのならそれにこしたことはないが、その場合でも将来的には社会主義社会、さらに共産主義社会に移行するのだから、こんにちのような議会制度が永続的に維持されるものではなく、その移行に際しては暴力が必要となる場合も有り得ることを、彼ら自身がよく自覚しているからだろう。
 こんにちのような議会制度を前提とした諸政党とは異質の存在だということだろう。

続く
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共産党の破防法調査対象への抗議を読んで思ったこと(上) その論法への不信

2016-04-03 23:35:56 | 日本近現代史
 2週間ほど前、twitterのタイムラインで、政府が、日本共産党は破防法の調査対象団体であると回答したことが話題になっていた。
 そんなのずっと昔からのことで、今さら何を騒ぎ立てているのかと思ったら、民主党を離党した鈴木貴子衆院議員が「日本共産党と「破壊活動防止法」に関する質問主意書」を3月14日に提出し、その答弁書が3月22日に決定されたためだと知った。

 この問題についてのしんぶん赤旗の記事がBLOGOSに転載されていたのでいくつか読んでみた。
 「「議会の多数を得ての革命」の路線は明瞭/政府の「暴力革命」答弁書は悪質なデマ 」という記事にはこうある(太字は引用者による。以下同じ)。

 日本共産党の綱領には、「『国民が主人公』を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する」こと、さらに将来の社会主義的変革についても、「国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力」をつくるのをはじめ、「社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進む」ことを明らかにしています。

 「議会の多数を得て社会変革を進める」――これが日本共産党の一貫した方針であり、「暴力革命」など縁もゆかりもないことは、わが党の綱領や方針をまじめに読めばあまりに明瞭なことです。

党の正規の方針として「暴力革命の方針」をとったことは一度もない

 政府答弁書では、日本共産党が「暴力主義的破壊活動を行った疑いがある」と述べています。

 1950年から55年にかけて、徳田球一、野坂参三らによって日本共産党中央委員会が解体され党が分裂した時代に、中国に亡命した徳田・野坂派が、旧ソ連や中国の言いなりになって外国仕込みの武装闘争路線を日本に持ち込んだことがあります

 しかし、それは党が分裂した時期の一方の側の行動であって、1958年の第7回党大会で党が統一を回復したさいに明確に批判され、きっぱり否定された問題です

 日本共産党が綱領路線を確立した1961年の第8回党大会では、日本の社会と政治のどのような変革も、「国会で安定した過半数」を得て実現することをめざすことを綱領上も明確にしました。これは外国の干渉者たちが押しつけてきた武装闘争方針を排除したことを綱領上はっきり表明したものでした。

 日本共産党は、戦前も戦後も党の正規の方針として「暴力革命の方針」をとったことは一度もありません。歴史の事実を歪曲した攻撃は成り立ちません。


 日本共産党の創立は1922年だが、戦前は非合法団体であり、公然とは活動できなかった。 
 「議会の多数を得て社会変革を進める」もへったくれもなかったと思うのだが。
 戦前の綱領的文書である27年テーゼや32年テーゼをざっと見てみたが どこにもそんなことは書かれていないようだが。
 まあ現在の共産党からすれば、コミンテルンから下されたこれらテーゼは「党の正規の方針」ではないのかもしれない。しかし、当時の共産党でこれらが「党の正規の方針」として扱われていたことは歴史的事実だ。
 「歴史の事実を歪曲」しているのは誰なのだろうか。

 それはさておき、
「党が分裂した時期の一方の側の行動であって、……党が統一を回復したさいに明確に批判され、きっぱり否定された問題」
だから現在の党を調査対象とするのは不当だとは、不思議な論法だと思う。
 現在の党が、武装闘争路線を採らなかった一派が分離独立して結成した新党だというなら、わからないでもない。
 しかし、「第7回党大会で党が統一を回復した」のだから、武装闘争を行った側も合流して、現在に至るのだろう。
 「徳田・野坂派」のうち、戦後に再建された党で書記長を務めた徳田球一は1953年に北京で客死したが、野坂参三(1892-1993)は帰国して、1955年の六全協(第6回全国協議会。一般にはここで党が統一を回復したとされる)で党幹部の筆頭である第一書記に選出された。1958年の第7回党大会後に宮本顕治が書記長に就任すると名誉職的な中央委員会議長に棚上げされ、1982年には議長を宮本に譲って名誉議長に就任した。ソ連崩壊後、スターリン時代のソ連における日本共産党員の粛清に関与していたことが明らかとなり、党から除名されたが、それまでは党創立時からの唯一の党幹部であり、党史の証言者としての役割を果たし続けていた。
 ほかにも「徳田・野坂派」から「統一を回復した」党で要職を務めた幹部は多数いる。下級党員ならなおさらだろう。

 戦前からの党員で、戦後党中央委員や衆議院議員を務め、1964年に除名された神山茂夫(1905-1974)は、1972年の著書でこう書いている(彼は「徳田・野坂派」には加わらなかった)。

あれ〔引用者註:武装闘争路線〕は党の決定、すなわち六全協の決議で〔中略〕廃棄された。したがって、それは党ではなく、党の一部分が行ったあやまちである、といって片づけている。しかし、その当時の「党の一部」の活動家の多くは、いまの党の中に残っているわけだ。そういう人々は、いまでは黙っているが(野坂君も含めて)、宮本君が、あれは党の一部分が行った誤りだといういい方をすれば、その野坂君まで含めて黙っていることによって、それを承認するなり、支持していることになる。
 〔中略〕共産党というものは、暴力的なものだと思わせるようなことをした責任は、単に徳田君個人にあるのではない。党の「一部」といわれている――野坂君も含めて、実は多数派だった――者だけでなく、それに反対した者も含めて、全党員が負わなければならない共通の責任だと思う(もちろん、個人の責任も明らかにすべきだが)。
 〔中略〕
 いまの共産党国会議員の大部分、地方議員の大部分は、当時、いわゆる徳田派に属した人だ。すなわち、いまの宮本君の観点からいえば、当然、批判されるべきで、宮本君のいう真の意味では党に属さない「部分」、あるいは党の責任がない「部分」に属した人々である。彼らの大部分は、その時期に、党員として犠牲を払い、苦労を重ねてきた人たちだ。その時点においても、「武装闘争」への協力だけでなく、まじめに、小さな要求を含めて、地域の大衆活動をしていた実績のつみ重ねがあるからこそ、いま、地方議員もふえているし、国会議員もふえているのだ。当時誤りもあったが、大衆に奉仕する実際活動をしてきたから、いまの発展の土台をつくったという側面もあったのである。
 (神山茂夫『日本共産党とは何であるか』自由国民社、1972、p.140-141)


 現在の日本共産党が、かつて武装闘争を行った勢力をも含めたものである以上、破防法の調査対象とされるのは当然のことではないだろうか。

 思えば、私が最初に日本共産党に不信感を抱くきっかけとなったのが、この「党が分裂した時期の一方の側の行動」という論法だった。
 まだ年少の頃、無知な私は、共産主義に対する警戒心を持ち合わせておらず、正論を唱える善良な人々だと素朴に信じていた。歴史が好きだったので、左派の歴史観の影響を受けていたのだと思う。
 その後知識を深めるにしたがって、ソ連や中共、北朝鮮といった現実の共産圏で何が行われてきたか、また日本共産党の戦前の陰惨な歴史や戦後の党内闘争史を知るようになり、共産主義に批判的な立場に変わった。それでも、現在の日本共産党は議会主義に転換したとの説明は信じており、それほど危険な集団ではなくなったのだろうと思っていた。
 そんな私が、日本共産党の体質は何ら変わっていないと思い直すきっかけとなったのが、伊藤律事件を知ったことだった。
 伊藤律(1913-1989)とは、上記のしんぶん赤旗の記事に言うところの「徳田・野坂派」の幹部で、徳田の茶坊主とも評された。戦後の党において徳田書記長の下で権勢を振るい、徳田や野坂同様北京に亡命した。しかし徳田が病に倒れると軟禁され、スパイであったとして1953年に除名された。伊藤はその後も北京で拘禁され続け(中国からは、日本共産党の依頼によるものだと聞かされていた)、日本では生死不明とされていたが、1980年に至ってその存在を中国が公表し、同年日本に帰国した。
 この時日本共産党は、上記のしんぶん赤旗記事の武装闘争路線への評価と同様、党が分裂した時期の一方の側の行動であるから、現在のわが党は関知しないとの立場をとった。伊藤の軟禁に関与している野坂が党中央委員会議長であったにもかかわらず。
 伊藤は帰国後、スパイについては無実だと主張した。しかしそれに党は何ら耳を貸さなかった。
  
 伊藤が帰国した時、私はまだ年少でこの報道を知らなかった。しかし、その後私がこの事件について知った時、伊藤はまだ存命だった。私の衝撃は大きかった。
 スパイであろうがなかろうが、一人の人間を裁判にかけるわけでもなく二十数年間拘禁する、そしてそれが公表された後も「一方の側」がしたことだと何ら責任を認めない。
 こんなことがまかりとおっていいのか。彼らはいったい何者なのか。私と同じ血の通った人間なのか。あまりにも冷酷に過ぎるのではないか。
 と非常な不信感を抱いたことを、今回のしんぶん赤旗の記事を読んで思い出した。

 余談だが、伊藤のスパイ説を流布した『日本の黒い霧』の「革命を売る男・伊藤律」を書いた松本清張(1909-1992)や、同じく『生きているユダ』を書いた尾崎秀樹(1928-1999)もまた、伊藤の帰国後、彼を取材したり自著を再検討したりしたとは聞かない。私は彼らにも同様の不信感を抱いた。
 ゾルゲ事件の発覚の端緒が伊藤であり、伊藤がその後特高のスパイとなって検挙に協力したとの通説は、伊藤の死後、渡部富哉や加藤哲郎の研究によって否定され、その後も版を重ねた『日本の黒い霧』には2013年になってようやくその旨の注釈が付された。

続く
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領土問題をめぐる議論のウソ(5) 日ソ中立条約違反ではないというウソ

2016-04-02 23:04:21 | 領土問題
承前) 

 BLOGOSの記事「大前研一「日本人が知らない日本の歴史」について、話をしよう【前編】」という記事に含まれるウソの指摘を続ける。

 大前氏の記事にはこうある(太字は引用者による。以下同じ)。

日本人の多くは、日ソ中立条約があったにもかかわらず、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏した後にソ連軍が侵攻を続け、北方領土を不法に占拠し、以来、実効支配しているのだ、と思い込んでいる。しかし史実は異なる。

連合国側で戦後の対日政策が最初に話し合われたのは、第二次大戦中の1943年に開かれたカイロ会談で、出席したのはルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、そして蒋介石中国国民政府主席の3首脳。日本の無条件降伏、日本軍が占領した太平洋の島々の剥奪、満州、台湾、澎湖島の中国返還、朝鮮独立などを盛り込んだカイロ宣言が発せられて、これが後のポツダム宣言につながっていく。

その後、1945年2月のヤルタ会談において戦後処理問題が本格的に話し合われることになるのだが、ドイツの分割統治やポーランドの国境策定などテーマの中心はヨーロッパの戦後処理だった。対日政策については、ヤルタ会談に先立ってルーズベルト米大統領、スターリンソ連共産党書記長、チャーチル英首相の間で秘密協定が交わされている。それがヤルタ会談で「ヤルタ協定」として取りまとめられた。

スターリンが主張したのは南樺太の返還と千島列島の領有で、ルーズベルトはこれを認める見返りとしてスターリンに日ソ中立条約の破棄と対日参戦を求めた。実は、ルーズベルトは日米開戦当初から何度もソ連に対日参戦を要請してきた。スターリンは日ソ中立条約を表面上は守ってきたのだが、ヤルタ協定でドイツ降伏後2カ月ないしは3カ月というソ連の対日参戦のタイミングが決まった。

ドイツが無条件降伏したのは1945年5月。その3カ月後の8月8日にソ連は日本に宣戦布告(日ソ中立条約は4月5日に不延長を通告)して、ソ連軍は満州、南樺太、朝鮮半島に進攻。千島列島に到達したのは日本がポツダム宣言を受諾した8月14日以降。

したがって、ソ連が日ソ中立条約を破って南千島を不当占拠したという日本政府の言い分は当たらない。戦争はすでに終わっていて、日本は「無条件」降伏をしていたのだ。満州および南樺太、千島列島に対するソ連の出兵がアメリカの強い要請によることは明白だし、北方四島を含む千島列島を「戦利品」としてソ連が得ることをアメリカは認めていた。日本固有の領土、というなら、ロシアに対して主張するのではなく、アメリカに対して“取り消し”を迫らなくてはならない。


 これを読んでも、何故
「ソ連が日ソ中立条約を破って南千島を不当占拠したという日本政府の言い分は当たらない」
となるのか、私にはわからない。

 どうも、「戦争はすでに終わっていて、日本は「無条件」降伏をしていた」し、「アメリカの強い要請」もあったから、「ポツダム宣言を受諾した8月14日以降」に南千島を占拠したのは不当ではないと言いたいように読み取れる。
 「戦争がすでに終わってい」るのなら(言うまでもなく、降伏文書に調印したのは9月2日だから、それまでは戦争は終わっていないのだが)、何故侵攻を続け、他国の領土を併合することが認められるのか、私には不思議なのだが、大前氏には不思議ではないらしい。

 わが国が受諾したポツダム宣言には

八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ


とある。
 カイロ宣言の主な内容は大前氏が挙げているとおりだが、その中には次のような一文がある。

三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス


 このカイロ宣言にはソ連は加わっていないが、ポツダム宣言の日本の領土についての条項はカイロ宣言の履行を前提としたものなのだから、一度もロシアまたはソ連領となったことのない北方4島を併合するのは領土拡張以外の何物でもなく、やはり不当なのではないだろうか。

 そうしたことを抜きにしても、何故ソ連の対日参戦が日ソ中立条約違反とならないのか、理解できない。
 米ソ間でどんな取り決めがなされようが、それは米ソの問題であって、わが国が関知するところではない。
 日ソ中立条約には

第二条 締約国ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ


とあり、さらに

第一条 両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス


ともあるのだから、対日参戦がこれに違反することは疑いようがない。

 また、大前氏は

(日ソ中立条約は4月5日に不延長を通告)

とさりげなく挿入して、不延長を通告済みであるからもはや無効であるかのような印象を作り出しているが、同条約には

第三条 本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ期間効力ヲ有スヘシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルヘシ


とあり、同条約が締結されたのは1941年4月であるから、不延長を通告したとしても1946年4月までは有効だったことは広く知られている事実である。
 大前氏が領土問題におけるわが国の方針を批判するのは氏の自由だが、見えすいたウソはやめていただきたいものだと思う。

 なお、ソ連の中立条約違反については、日本も独ソ開戦(1941年6月)を受けてソ連侵攻を計画し、1941年7月にはそのために関特演(関東軍特種演習)と称して北方への兵力の動員を行ったのだから、ソ連を非難する資格はないという主張があるが、計画は計画、演習は演習でしかなく、実際にわが国がソ連に侵攻することはなかったのだから、これは強弁でしかない。
 米国が対日戦を想定しており、ハル・ノートが苛酷な内容であったとしても、わが国から米国に開戦した事実に変わりはないのと同じことである。

(続く)
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繰り返す。A級戦犯と集団的自衛権に何の関係があるのか

2016-03-27 23:02:27 | 日本国憲法
 3月16日付朝日新聞朝刊の「声」欄に、岡山県の僧侶(60)による「A級戦犯発言知り 護憲誓う」と題する投稿が載っていた。紙面の右上という、一番目立つ位置である。

 安倍晋三首相が、在任中に憲法改正をと明言した。憲法9条の改憲が最大目標なのは明らかだ。
 実は私自身、去年までは迷っていた。今の国際情勢を考えれば、集団的自衛権行使容認を明文化した憲法に変えた方が戦争の抑止力になるかもしれないと。それが改憲に絶対反対と意思を固めたのは、A級戦犯の発言を読んだのがきっかけだ。
 A級戦犯4人の発言をラジオ局が1956年に録音放送し、その後、新聞記事になったものだ。元陸軍大将の荒木貞夫氏は「負けたとは私は言わん。まだやって勝つか負けるかわからん」と言い、「敗戦」ではなく「終戦」と発言していた。彼は終身刑の判決を受けたが、仮釈放されて生きた。しかし、軍の命令で戦い命を落とした人、終戦後にB・C級戦犯として処刑された人も多くいるというのに……。
 仏教では「一切衆生悉有仏性」という教えがあり、皆に平等に素晴らしい命があると説く。これに真っ向から反するのが、命の価値に上下をつける戦争だ。私の迷いは消えた。戦争の放棄を宣言した日本国憲法を守り抜かなければならない。


 このA級戦犯のラジオ放送での発言の記事というのは、朝日新聞が2014年6月20日に社会面で報じた「いま聞く A級戦犯の声」だろうか。

 私はこの記事を読んで、当ブログに

  朝日新聞記事「いま聞く A級戦犯の声」を読んで

  個別的自衛権なら戦争への「歯止め」になるのか(上)

という2つの記事を書いた。
 その2つめの記事でも述べたことだが、この僧侶の投稿を読んで、繰り返さざるを得ない。
 集団的自衛権の行使とA級戦犯の発言に何の関係があるというのか。

 荒木貞夫の発言は、こちらの高知新聞の2013年の記事でも読むことができる。

  A級戦犯 ラジオ番組で語る 57年前の音源発見 「敗戦 我々の責任でない」

「(米軍が戦争に)勝ったと僕は言わせないです。まだやって勝つか、負けるか、分からんですよ。あの時に(米軍が日本本土に)上陸してごらんなさい…彼らは(日本上陸作戦の)計画を発表しているもんね。九州、とにかくやったならば、血は流したかもしれんけど、惨たんたる光景を、敵軍が私は受けたと思いますね。そういうことでもって、終戦になったんでしょう」
 「だから、敗戦とは言ってないよ。終戦と言っとる。それを文士やら何やらがやせ我慢をして終戦なんと言わんで、『敗戦じゃないか』『負けたんじゃないか』と言っとる。そりゃ戦を知らない者の言ですよ。簡単な言葉で言やあ、負けたと思うときに初めて負ける。負けたと思わなけりゃ、負けるもんじゃないということを歴戦の士は教えているものね」


 確かに、愚劣な発言だと思う。
 しかし、それで何故、集団的自衛権の行使を認める改憲に絶対反対となるのか。
 荒木は、わが国は集団的自衛権を行使すべきだと説いたのだろうか。
 わが国は、集団的自衛権を行使して、先の戦争を始めたのだろうか。
 違う。
 わが国が保有していた南満州鉄道の爆破を自作自演して満洲事変を起こし、中国に駐屯していたわが軍に対する攻撃をきっかけに支那事変(日中戦争)を起こし、経済制裁に対して「自存自衛の為」と称して対米英蘭戦(太平洋戦争)を起こしたのである。
 いずれも、個別的自衛権に基づいて戦争を起こしたのである。集団的自衛権は関係ない。

 そもそもこの投稿者は、荒木が何をした人物なのかわかっているのだろうか。
 荒木貞夫(1877-1966)は、真崎甚三郎と並んでいわゆる皇道派の中心人物だった。帝国陸軍を「皇軍」と呼び出したのは荒木だという。青年将校からウケが良く、十月事件では、クーデター後の新内閣の首相と目されていた。1931年に犬養内閣で陸相に就任。参謀次長には真崎を迎え、陸軍は皇道派の全盛期を迎えた。続く斎藤内閣でも陸相に留任したが、軍の統制を不安視され、病気を理由に林銑十郎と交代した。1936年の二・二六事件後の粛軍で現役を退いた。1938年、第1次近衛内閣で文相に起用され(皇道派は近衛と近かった)、「皇道」教育を推進した。続く平沼内閣でも留任したが、その後は表舞台に立つことはなかった。
 端的に言えば、わが国の軍国主義化に一定の役割を果たしたということになるのだろう。
 しかし、満洲事変を起こしたわけでもなく、日中戦争や対米英蘭戦を指導したわけでもない彼が、果たしてA級戦犯すなわち「平和に対する罪」を問われ、終身刑に処されるにふさわしい人物だったのだろうか。
 
 そして、安倍首相は荒木のように自衛隊を「皇軍」と呼び、「皇道」教育を進めているだろうか。
 自衛隊の制服組と親しく交わっているだろうか。

 また、敗戦を「終戦」と称してきたのは荒木に限らず、わが国で一般的に行われてきたことではないのか。「終戦記念日」と言ってきたのではないのか。

 投稿者は、
「戦争の放棄を宣言した日本国憲法を守り抜かなければならない」
とも言うが、2012年に作成された自民党の憲法改正案では、9条は

(平和主義)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。


とされており、「戦争の放棄」を宣言していることには変わりない。

 現憲法の9条は、

国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


としているから、「国際紛争を解決する手段」ではない「国権の発動たる戦争」は放棄していないわけで、「戦争の放棄」については改正案の方が現憲法より徹底していると見ることもできるというのに。

 たかだか元A級戦犯の一発言で改憲絶対反対と意思を固めるようでは、集団的自衛権の行使容認の迷いとやらも、どこまで真面目に考えた上でのことだったのか、怪しいものだと思う。

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