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池田成彬と国家総動員法

2013-09-08 12:14:47 | 大東亜戦争
 前回の記事で、風見章(1886-1961)の回想録『近衛内閣』(中公文庫、1982、親本は1951)における国家総動員法の発動をめぐる次の記述

総動員法は、「今次事変には適用せず」と内閣としては、議会において公約したのであった。ところが、のちに内閣は、この公約を勝手に破棄して、それを適用することのよぎなきにいたったのである。このことは、内閣の権威をきずつけるところ甚大であったのだが、ここにいたらしめたのは、軍部の圧力によるのであった。はじめ内閣はこの公約無視をがえんじなかったのである。
 いったい、この総動員法を、一九三八年春の議会にかけて成立させておこうとは、内閣一致の考えではあったが、しかし、それだからとて、その実施については、細心の注意をはらって、情勢を見きわめた上のことにするのは、もちろん、議会にはからねばならぬことと、たれもが諒解しあっていたのである。
 議会においての「公約」を無視するとあっては、内閣において、ひどい黒星となることなので、同法実施要求の声が軍部方面からあがりかかっても、内閣としては、その要求を無視していたのであった。ところが、とつぜん、陸軍は内閣とはなんのうちあわせもなしに、同法発動の必要を強調した長文の情報部長談を発表したのである。つまり内閣を威圧して、いやおうなしに、その発動をやらせてみせるぞという態度に出たのである。これには近衛氏はもちろん、同法にもっとも関係深い立場にある蔵商相の池田氏のごときは、内心、ひどく憤慨したのであった。池田氏は、それを発動しなくとも、じゅうぶんやっていけるとし、発動しないほうがいいのだと、確信していたのも、たしかである。しかし、事態がこうなったので、閣議はこれを発動するかどうかを議題にする必要にせまられたのであったが、関係各省の官僚が、軍部と歩調をあわせて、それを発動しないことには、やってゆけぬというのであったから、各省大臣もそれにおされて、ついに同法の発動を決定するのよぎなきにいたったのである。(p.152-153)


に非常な不信感を抱いたと書いたが、ここで挙げられている池田成彬蔵相兼商工相については、第11条の発動に反対したという事実があったことを後で知った。

 中公文庫版『日本の歴史』シリーズの第25巻、林茂『太平洋戦争』〔註〕(中公文庫、1974、2006改版、単行本は1967)に次のような記述がある。

 国家総動員法とならんで第七三議会で成立した重要法律に「電力管理法」「日本発送電株式会社法」などの電力国家管理関係法があった。これは各電力会社から一定規模以上の発電・送電施設を現物出資させて、日本発送電株式会社を設立し、それを国家の管理下に置おこうというものであった。会社所有は民間資本にまかせるが、経営は国家が行なうというこの法律は、企業経営の自由、ひいては資本主義そのものを否定するものとして財界・実業家たちをおそれさせた。電力統制は、一六年には配電部門までに及び、国家総動員法にもとづく「配電統制令」によって、地域別に統合された九配電会社の設立命令が出されるのである。
 国家総動員法自体、このような私的資本の自由な競争、自由な経営を否定するものであったから、財界人の総動員法発動にたいするおそれはすでに潜在的に存在していた。これがはっきりと表面にあらわれたのは、同法第十一条の発動をめぐってであった。
 十三年十一月、戦争が新たな段階にはいるに及んで、総動員法の全面発動が日程にのぼってきた。陸軍省佐藤(賢了)情報部長は「……すでに『東亜新秩序建設』という大理想を宣言し、かつ現下内外の情勢に鑑みる時は、なるべく速かに重要な条項は全部、ついには全条項が洩れなく発動されて有機的戦時態勢を完成するは刻下の急務である」として、資金統制・会社利益金処分関係を規定した第十一条の発動をほのめかす談話を発表した。
 これにたいして池田成彬蔵相兼商工相は、財界の立場にたって「今産業界は戦時経済体制下のいろいろの統制を受け、増税の圧力下にもある。唯一の残された活路は配当の自由……だと思う。もし配当制限をすればけっきょく経済界は萎縮し、ひいては生産力拡充という重要な目標を阻害してしまうだろう」と語り、第十一条の発動に反対の態度を示した。
 かくして第十一条発動を主張する軍部、末次内務・木戸厚生両相と、これに反対する池田蔵相兼商工相および財界はまっこうから対立した。事態の成行きに驚いた近衛首相は内々に折衝をかさね、けっきょく、発動はするが財界を刺激しないよう慎重にこれを行なうという「政治的」解決にこぎつけた。
 国家総動員法は、このようにして十三年末までに全面的に発動されることになった。(p.103-104)


 この国家総動員法第11条の条文は次のとおり(中野文庫による)。

第十一条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ会社ノ設立、資本ノ増加、合併、目的変更、社債ノ募集若ハ第二回以後ノ株金ノ払込ニ付制限若ハ禁止ヲ為シ、会社ノ利益金ノ処分、償却其ノ他経理ニ関シ必要ナル命令ヲ為シ又ハ銀行、信託会社、保険会社其ノ他勅令ヲ以テ指定スル者ニ対シ資金ノ運用、債務ノ引受若ハ債務ノ保証ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得


 風見の記述は、一応はこうした事実に基づいているのだろう。

 しかし、『太平洋戦争』には「第十一条発動を主張する軍部、末次内務・木戸厚生両相と、これに反対する池田蔵相兼商工相および財界はまっこうから対立した。事態の成行きに驚いた近衛首相は内々に折衝をかさね」とあるのだから、風見が言うように、内閣が一致してその発動に慎重であったわけではないのではないだろうか。

 そして、第11条の発動を、法全体の発動であるかのように語る風見の記述にはやはり疑問が残る。前回述べたように、国家総動員法の一部は施行と同時に発動し、その他の条文にもこの第11条より前に発動しているものはあったのだから。

 ちなみに、末次内相とは海軍大将の末次信正(1880-1944)。ロンドン海軍軍縮条約問題における艦隊派(条約反対派)の中心人物であり、連合艦隊司令長官などを経て予備役入り。右翼団体とのつながりが深く、支那事変に対しては強硬論を主張し、近衛首相をして「内閣の癌」と言わしめた。
 木戸厚相とは木戸幸一(1889-1977)。木戸孝允の孫であり、近衛文麿の友人。農商務省勤務などを経て、第1次近衛内閣に文相として入閣、1938年に新設された厚相も兼任。後に天皇の側近である内大臣を務め、東條英機を首相に推し、また終戦工作に尽力した。

 余談だが、『近衛内閣』で風見が述べる、国家総動員法の発動を唱えた陸軍の情報部長とは、『太平洋戦争』によれば、前々回取り上げた「黙れ」事件の佐藤賢了であることがわかるが、前回の記事で取り上げたとおり『近衛内閣』は「黙れ」事件に触れているにもかかわらず、情報部長談話の箇所では何故か風見はその名を挙げていない。
 また、前々回の記事で取り上げた『佐藤賢了の証言』は、この情報部長談話に触れていない。

 さらに余談だが、池田成彬の「成彬」は「しげあき」と読むのだと思っていたが、『太平洋戦争』は「せいひん」とルビをふっている。
 調べてみると、コトバンクで出てくるデジタル版日本人名大辞典や世界大百科事典など多くは「しげあき」としているが、池田が総裁を務めた日本銀行のサイトや、出身地である山形県の県立図書館のサイトでは「せいひん」としている。

 三井財閥の後身である三井グループの三井広報委員会のサイトでは、「しげあき」としているが、

三井銀行、三井合名の重職を担った池田だが、身辺は質素で、「成彬」(せいひん)ではなく「清貧」とも呼ばれ、引退後は所蔵する書画骨董を売って生計を立てていたほどだった。


との記述がある。

註 林茂『太平洋戦争』
 2006年の改版に際して付された巻末の佐々木隆・聖心女子大学教授による解説には、「東京大学社会科学研究所教授の林茂氏の単著とされているが、実際には大半は同研究所周辺の中堅・若手研究者が分担執筆したもので林氏が監修したものと伝えられる」とある。 


風見章と「黙れ」事件と国家総動員法――近衛内閣は国家総動員法の支那事変への不適用を公約したか

2013-09-01 23:29:01 | 大東亜戦争
 前回前々回の記事を書いていて、そういえば「黙れ」事件当時の第1次近衛内閣で内閣書記官長(現在の内閣官房長官に相当、ただし国務大臣ではない)を務めた風見章(1886-1961)の回想録『近衛内閣』(中公文庫、1982、親本は1951)を持っていたことを思い出し、どのように書かれているか確かめてみた。
 すると、「内閣ゆきづまりへ」という章の最初の節「政党の意気地なさ」で、次のように述べられていた。

 満洲事変以来、政権の実質的把握者は陸軍であった。そのころから、政党は落ちめの一途をたどっていた。軍部の政党ぎらいもまた、はなはだしかった。〔中略〕政党のほうは、意気地なくも、軍部ににくまれまいとするだけで、ただ、軍部の一びん一笑にじたばたするという、なさけないありさまであった。
 一九三八年(昭和十三年)の春の議会で、佐藤(賢了)軍務課員が、政府委員として、ある委員会に出席したが、一議員に応答の際、「だまれッ!」と大声にののしって、問題になったことがある。ところが、大臣のちょっとした失言も、すぐに不信任案などとさわぎだすのを習いとしていた議員たちが、ただ陸軍大臣の陳謝というだけのことで、この問題をかたづけ、当の佐藤軍務課員が、いぜん意気揚々と議事堂の廊下を濶歩するのを、見すごさなければならなかったほど、相手が軍部だとなると、ちぢこまっていたものである。(p.138-139)


 私はこれを読んで違和感を覚えた。
 前々回の記事で述べたように、佐藤は政府委員ではなく説明員にすぎないし、議員への応答の際に「だまれッ!」とののしったのではなく、説明を妨げるヤジに対して怒鳴ったのである。
 そして、佐藤は「爾後、登院を自発的に遠慮した」と語っており、事実、会議録を確認してみてもその後の国家総動員法案審議の出席者に佐藤の名はないので、「いぜん意気揚々と議事堂の廊下を濶歩するのを、見すごさなければならなかった」という記述も疑わしい。

 そもそも、この委員会に風見は近衛内閣の政府委員として出席しているのである。この委員会は政府が提出した国家総動員法案を審議するための委員会である。にもかかわらずこの人ごと感はどうしたことだろうか。
 また、国家総動員法については、後述のようにこの後の箇所で触れているにもかかわらず、佐藤が出席したのを「ある委員会」とぼかしているのは、責任回避のためではないのだろうか。

 さらに読み進めると、国家総動員法についての記述があった。

総動員法は、「今次事変には適用せず」と内閣としては、議会において公約したのであった。ところが、のちに内閣は、この公約を勝手に破棄して、それを適用することのよぎなきにいたったのである。このことは、内閣の権威をきずつけるところ甚大であったのだが、ここにいたらしめたのは、軍部の圧力によるのであった。はじめ内閣はこの公約無視をがえんじなかったのである。
 いったい、この総動員法を、一九三八年春の議会にかけて成立させておこうとは、内閣一致の考えではあったが、しかし、それだからとて、その実施については、細心の注意をはらって、情勢を見きわめた上のことにするのは、もちろん、議会にはからねばならぬことと、たれもが諒解しあっていたのである。
 議会においての「公約」を無視するとあっては、内閣において、ひどい黒星となることなので、同法実施要求の声が軍部方面からあがりかかっても、内閣としては、その要求を無視していたのであった。ところが、とつぜん、陸軍は内閣とはなんのうちあわせもなしに、同法発動の必要を強調した長文の情報部長談を発表したのである。つまり内閣を威圧して、いやおうなしに、その発動をやらせてみせるぞという態度に出たのである。これには近衛氏はもちろん、同法にもっとも関係深い立場にある蔵商相の池田氏のごときは、内心、ひどく憤慨したのであった。池田氏は、それを発動しなくとも、じゅうぶんやっていけるとし、発動しないほうがいいのだと、確信していたのも、たしかである。しかし、事態がこうなったので、閣議はこれを発動するかどうかを議題にする必要にせまられたのであったが、関係各省の官僚が、軍部と歩調をあわせて、それを発動しないことには、やってゆけぬというのであったから、各省大臣もそれにおされて、ついに同法の発動を決定するのよぎなきにいたったのである。(p.152-153)


 一読して非常な不信感を抱いた。
 国家総動員法とは、戦争遂行のために、政府に広範な命令権を認めた法律である。議会による法律制定によらずに国民の権利を制限するものであり、法案の審議では憲法違反の疑いが指摘された。その実施を「議会にはからねばならぬことと、〔閣僚の〕たれもが諒解しあっていた」とは本当だろうか。それでは何のための法律だかわからないではないか。
 もしそうした「諒解」があったのなら、その発動に当たっては議会の承認を必要とするとの条文を組み込んでおけばよいはずである。しかし、国家総動員法にそんな条文はない。

 帝国議会会議録を確認してみると、法案が提出された2月25日の衆議院本会議で、陸軍大臣の杉山元が

此〔この〕法令が出来ましたから、直ちに是の全部を実施発令致しまするとか、或は又苛酷な実行をすると云ふやうなことはないのであります……今日の時局に於て、長期の作戦を遂行するに当りまして、国際的関係上、将来に於きまして如何なる重大なる事態が発生するやも測り知り得ませぬので、此際に於て此総動員法の制定を為し、之に対する計画準備を致すことに依りまして、初めて円滑に急に応ずる所の変に処することが出来るのであります


と答弁している。しかしこれは「直ちに是の全部を実施発令」することはないと述べているだけで、支那事変に対して全く適用しないとは述べていない。
 そして、3月2日の衆議院国家総動員法案特別委員会で、板野友造委員(政友会)が質問の中でこの答弁を引いて、

陸軍大臣の言明する所に依れば、今日の支那事変に対しては今の法律で宜〔よろし〕い、将来に備へる為めであると言って居る


と述べたのに対して、政府委員である青木一男・企画院次長(のち蔵相、大東亜相。戦後自民党参議院議員)は

只今の御質問の中に、本法は今次の事変には適用しないと云ふことを、政府当局から言明したと云ふ御話がありましたが、左様ではないのでありまして、今次事変と雖も今後の発展如何に依っては、本法に依って適当なる措置を必要とする場合があるのであります


と答弁している。

 さらに、法案が衆議院を通過した後、3月19日の貴族院の国家総動員法案特別委員会での審議で、支那事変における適用の有無が衆議院の議事では甚だわからないとする山岡萬之助議員(法学博士、日本大学総長)の質問に対して、近衛首相は、

此の支那事変との関係でありますが、支那事変は比の本法の第一条の「戦争に準ずべき事変」と云ふことに当るのでありまして、従って本法が制定せられ、施行せられることになりますれば、本法は固〔もと〕より此の度の事変にも之を発動し得るのであります、併し之が実際の運用に付きましては政府は大体次のやうな方針を執る積りであります、第一には現に軍需工業動員法に依って工場の管理等を実施して居るのでありますが、此の部分は本法の施行と同時に発動するのであります、第二には支那事変関係の臨時諸法律今後事態の著しき変化なき限り其の儘〔まま〕に施行致しまして、本法に於ける当該部分は之を発動せしめない、次に前述以外の部分の発動は一に今後の事態の推移如何に係るので、必要を生ずる場合には之を発動せしめまして適宜の措置を講ずる積りであります、それから第二の御尋〔おたずね〕の本法では不十分である場合にはどうするかと云ふ御尋でありまするが、政府は此の法律を以て大体時局に対処し得ると確信致して居ります


と、まず軍需工業動員法に代わる部分については即時発動するとし、支那事変関係の臨時諸法律に係る部分は「事態の著しき変化なき限り」は発動せず、それら以外の部分は「必要を生ずる場合には之を発動」すると明言している。

 風見の如く「今次事変には適用せず」と内閣が議会において公約したとは言えないのではないか。

 インターネットで検索して出てきた、神戸大学附属図書館の新聞記事文庫で当時の新聞報道を確認してもそう思える。

 東京日日新聞は1938年3月28日から4月15日にかけて、この第73回帝国議会における「成立案の解説」という記事を連載しているが、この中で国家総動員法については、

総動員法とこれらの既存の統制法規との関係はどうかといえば、本法施行と共に軍需工業動員法並に昭和十二年法律第八十八号(軍需工業動員法の一部を支那事変に適用する件)は廃止されることになっている。然るに現在はこの二法律及びこれに基いて昨年九月に公布された工場事業場管理令(勅令)によって一部の軍需品工場の管理を実施しているが、この点を支障なく継続実施する根拠として国家総動員法第十三条即ち
 政府は戦時に際し国家総動員上必要あるときは勅令の定むる所により総動員業務たる事業に属する工場、事業場、船舶その他の施設またはこれに転用することを得る施設の全部又は一部を管理、使用又は収用することを得
という条項を発動することになっているこの他の条項は何時から具体的に発動するかは今後の情勢に応じて定められるのであって今から確定的に予測することができない。即ち現下の支那事変は本法第一条に所謂「戦争に準ずべき事変」に該当し本法の施行期日の勅令が制定公布されると本法全部が施行されることになるから、法律的には待機の状態にあるわけで、今後の事変の発展に応じて必要があれば各本条の委任勅令が制定公布されてどの条項でも発動できるのである。しかし現実の問題としては政府が今議会で言明した通り、今日のところでは既存の各種統制立法の運用によって対処し(但し前記の第十三条の例外あり)直ちに本法の戦時規定を発動するようなことはないとしている。
この点―本法の適用と支那事変との関係―は議会でいろんな角度から究明されたが、結局は今後の客観情勢の変化如何がその鍵を握っているのである。


と、今後の事変の進展に応じて発動は可能だと解説している。

 同年5月5日の国家総動員法の施行と工場事業場管理規定の発動を伝える東京朝日新聞の5月7日付けの記事は、

之で本法は何時でも発動の条件が整い次第発動し得られる状態に置かれているのである、支那事変が今後如何に千変万化しようが、戦争が何時如何なる処に突発しようが、国家総動員の態勢は立ち所に整う、「矢でも鉄砲でも来い」という構えの姿勢だ
元来国家総動員法には公布、施行、発動という三段構えになっている所が普通の法律と異っている普通の法律ならば公布施行さえすれば直に全条文に亙って発動し得るが、本法は
第一条の定義規定、第二条第一号乃至第八号の総動員物資の定義規定、第三条第一号乃至第八号の総動員業務の定義規定、第二十五条の試験研究の規定、第三十二条乃至第四十九条の罰則規定を除き
他の平戦時に適用される国家総動員の実體規定は尽く「勅令の定むる所により」となって居り勅令を公布しなければ発動し得ない状態にある(但し第三十一条報告検査の規定は命令)本法が実施せられた以後に於ては各条項の発動に際してはその以前に勅令(法規命令)を発布する必要があり、そのため準備期間を要するが、政府が本法中何時如何なる場合に如何なる条文を発動せしむるかは全く政府の自由な運用に任されているのである、その勅令が公布せられない間は本法は静かに眠っているのである
然し
第十三条の軍需工業動員法関係規定のうち工場事業場管理規定の発動は本法が胎内にあった時から約束されていた
即ち本法の附則により軍需工業動員法及び同法の支那事変適用に関する法律は本法施行と共に廃止せられる運命にあるが、現にこの法律に基いて軍需工場の一部管理が実施されているので、総動員法中この工場管理の条項だけは直に発動しなければならぬ、元来軍需工業動員法は本総動員法の中に包括されているので本法施行と同時に軍需工業動員法を廃するは当然だが、それと同時に本法十三条の一部を発動せしめる必要がある、そこで本法十三条に基く勅令として「工場事業場管理令」が同様五月三日附公布、五日より施行せられた、之と同時に軍需工業動員法第二条に依る「工場事業場管理令」は勿論廃止されるが、その内容は殆ど大差なく総動員法に基く損失補償規定と、同じく報告検査に関する規定が新に加えられているにすぎない
従ってこの総動員法最初の委任勅令が施行せられるに当っては同法第二十九条による総動員補償委員会を設置する必要があるので右官制案を六日の閣議に附議決定の上速やかに設置の手続をとる筈である
同様
五日より施行される事になった勅令の第二は総動員法第五十条に基く国家総動員審議会の官制である、この審議会の構成如何は衆議院で最も喧しかった問題だが、結局委員会の席上近衛首相より五十名以内の委員の中貴衆両院議員を過半数任命するとの言明をなして納まった因縁附のものだ
政府の諮問機関たる本審議会には勅令そのものをかけるのではないが、勅令の内容たるべき重要事項を審議する事となっているので、その過半数を議員が占める事によって広汎な委任立法権の濫用を防がうというのだ、両院議員の数は三十名で貴衆両院十五名宛、政府は目下人選の手続を進めている、近く審議会は成立を見るだろう、そして今後順次制定せらるべき勅令の内容はこの審議会の議を経て決定されてゆく段取である
かくの如く戦時規定の一として十三条の発動を見たが、之は何等新しい措置ではない、又他の戦時規定も、現に昨年以来実施されている輸出入品臨時措置法、臨時資金調整法、臨時船舶管理法等々多数の臨時応急立法によって十分目的を達している状態にあるので、目下の情勢ではこれ以上戦時規定の発動を必要としない、平時規定に属する国民登録の第二十一条、技能者養成の第二十三条等については目下関係各省に於て着々準備を進めている状態である


と、総動員法第50条に基づき、貴衆両院議員が過半数を占める国家総動員審議会の設置が進められていること、戦時規定ではなく平時規定に属する国民登録、技能者養成等については発動の準備が着々と進められていることを報じている。

 そして、私の手元の『昭和14年 朝日年鑑』(奥付には昭和13年10月10日発行と記載)の国家総動員法に関連する記事には、

第六条及び第二十一条の規定は、八月十日に至り、一部適用する旨、審議会初総会で可決され、医療関係従事者の登録と学校卒業者の使用認可制が、近く施行される運びとなったのである。
 

とあり、百瀬孝『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』(吉川弘文館、1990)に当たってみると、同年内にこの医療関係従事者の登録と学校卒業者の使用認可制の勅令が出されており、さらに翌年以降に出された数多くの勅令が列挙されている。

 風見は陸軍情報部長の談話一つで内閣の方針が転換させられたかのように説くが、国家総動員法の内容からも、上記の東京朝日新聞の記事にあるように貴衆両院議員が加わった国家総動員審議会が設けられていたことからも、その発動が「細心の注意をはらって、情勢を見きわめた上のことにするのは、もちろん、議会にはからねばならぬことと、〔閣僚の〕たれもが諒解しあっていた」とは考えがたい。

 風見が挙げる、蔵相兼商工相の池田成彬が憤慨していたというエピソードは事実かもしれない。池田は長年三井銀行、三井財閥で活躍し、1937年には日本銀行総裁を務めた人物であり、戦時体制の下での経済統制に容易に同調したとは考えがたいからだ。だとしてもそれは、彼の所管事項における反対であって、総動員法の発動それ自体に対する反対ではなかったのではないだろうか。
 なお、池田は、この風見の『近衛内閣』が刊行される前年の1950年10月に亡くなっている。

 この『近衛内閣』の「まえがき」には、

今となっては、かんじんの近衛氏はすでにこの世の人でなく、資料とても、疎開さわぎや、なにやかやで、すべて失ってしまい、わたしには手のつけようもない。そうは思うものの、わたしが直接に関係したことで、おぼえているだけは、今のうちに書きしるしておこうと考え、思いつくままにペンを走らせてみた。したがって、これは、「歴史のかけら」のよせあつめであり、気軽なおぼえがきともいうべきものにすぎぬ。


とあるので、資料的な厳密さを要求するのは酷かもしれない。
 それにしても、実に自らに都合良く「おぼえている」ものだと思った。

(引用文中の〔〕内は引用者による註、太字は引用者による強調である)