帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(1)年の内に春はきにけり

2016-08-25 18:50:28 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                              ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 今の世に蔓延る和歌の国文学的解釈は、平安時代の歌論と言語観を全く無視したものである。「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に、歌論と言語観を学んで紐解き直す。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上(1)

  

   ふる年に春立ちける日よめる            在原元方

年の内に春はきにけりひととせを  こぞとやいはむことしとやいはん 

(年内に、立春の日が来たことよ、過ごしたこの・一年を、去年と言おうか、今年と言おうか……早くも、心に身にも・春がきたことよ、ひととせを・女と男の夜を、来るなと言おうか、来い早くと言おうか)

 

 

紀貫之のいう「言の心」を心得る。藤原俊成のいう「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ている」ことを知る。

 「とし…年…疾し…早い」「春…季節の春…暦の春…人の青春…春情…張る」「ひととせ…一年…人と背…おとなの女と男」「ひと…人…おとなの女」「せ…背…おとなの男」「こぞ…去年…こそ…来るなかれ」「そ…禁止の意を表す…(来る)なよ」「ことし…今年…来疾し…来い早く」。

 

歌の「清げな姿」は、暦(こよみ)の立春の日が十二月中にきたことに対する少年らしい理屈である。

歌の「心におかしきところ」は、少年がおとなの男になる年齢を迎えた立春の日、思春期の、とまどいと、はやる心である。

 

歌を上のように聞けば「この歌、まことに理つよく、またをかしくも聞こえて、あり難く詠める歌なり」という、藤原俊成の「古来風躰抄」での批評が正当に理解できる。

早春の日の、人の青春の歌であるから、春歌上の最初に置かれてある。春を季節の春や、暦の春とばかり聞いて疑わない国文学的解釈は、歌の「清げな姿」しか見えていないのである。その上で加えられるこの歌に付いての、憶見・意見・批評・批判は全て空しい。

契沖の「古今余材抄」、賀茂真淵の「古今和歌集打聴」、本居宣長の「古今和歌集遠鏡」、香川景樹の「古今和歌集正義」の、この歌に付いての解釈を見れば、「春」を人の心の春と聞く人は誰も居ない。この偉人たちは、平安時代の歌の関する言説を全て無視したのである。そして、独自の解釈方法を構築した。この国学や歌学の解釈を、明治の国文学は継承した。明治の国文学者金子元臣の「古今和歌集評釈」も、近世の評釈を一歩も出ていない。現在の国文学的解釈も同じである。歌は、序詞、掛詞、縁語と名付けるべき修辞で成り立っているという。原点の平安時代の歌論と言語観とは、遠くかけ離れたところに入ってしまった。 

 

古今集仮名序の冒頭の文を読んでみよう。

「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける。世中に在る人、こと、わざ、繁きものなれば、心に思う事を、見る物、聞くものに付けて、言ひ出せるなり」とある。「こと…言…事…出来事…行うべき事など」「わざ…業…人のごう…善悪いずれかの報いをひきおこす行為」。歌は、心に思うことを、ものに仮託して表現する。歌の主旨や趣旨は人の心のおかしさにある。自然の景色などではない。

同じ仮名序の結びには、歌を正当に聞くために、どうすればいいか記されてある。「歌のさまを知り、言の心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」。歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、古今集の歌を、仰ぎ見るように恋しがるだろうという。歌の様(表現様式)は、藤原公任が捉えているので、それに従う。「新撰髄脳」に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりというべし」とある。歌は、一つの歌言葉によって、複数の意味が表現されてある。従って「ことの心」とは、「事の心」ではなくて「言の心」で、この文脈で通用していた言葉の意味である。それを心得る人になることが必要である。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)